乳井城(にゅういじょう)
乳井城の基本情報
通称・別名
- 大隅館、大館
所在地
- 青森県弘前市薬師堂舘ノ平
旧国名
- 陸奥国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 乳井氏
築城年
- 室町時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 乳井氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
高畑城(青森県平川市)[1.3km]
石川城(青森県弘前市)[2.4km]
大光寺城(青森県平川市)[3.8km]
堀越城(青森県弘前市)[4.4km]
小栗山館(青森県弘前市)[7.7km]
浅瀬石城(青森県黒石市)[8.1km]
田舎館城(青森県南津軽郡)[8.3km]
和徳城(青森県弘前市)[9.3km]
黒石城(青森県黒石市)[9.8km]
弘前城(青森県弘前市)[10.5km]
乳井城の口コミ情報
2025年06月16日 国府左京大夫城介
乳井古館[乳井城 周辺城郭]
乳井神社の背後に聳える福王寺別当の居城
【歴史】
築城年代は不明だが、福王寺(乳井)玄蕃の居城であった。
福王寺玄蕃は、乳井福王寺(現在の乳井神社)の別当であり、乳井城や乳井古館を中心に武威を振るっており、「沙門大名」とも呼ばれていた。南部氏とも対立していたが、永禄8年(1565)6月5日に、大光寺城主・滝本重行によって暗殺された。
子の乳井建清は若年のため、敵討ちを控えていたが、滝本重行によって高畑城を築かれるなど、劣勢に追い込まれていた。津軽為信が南部氏から独立すると、乳井建清は津軽為信に臣従し、津軽平定に貢献した。
天正7年(1579)に起きた六羽川合戦では、比山勢に攻められ、乳井建清が不在のため、乳井城、乳井茶臼館と共に、落城している。(六羽川合戦について、乳井茶臼館の口コミを参照してください)
別名:ミズノエ館
【遺構】
乳井城の南65omに位置し、乳井神社の背後にある丘陵(標高110m/比高55m)に築かれた。
主郭、二ノ郭、三ノ郭、長郭の四つの郭から構成されている。
主郭は、壬公園(愛宕神社)にあたり、北側の展望台がある部分は若干高くなっており、櫓台の役割をしていたと考えられる。二ノ郭は主郭の南側に、三ノ郭は主郭の東側に位置しており、それぞれ農地となっているため、遺構はほとんど確認できなかった。しかし、主郭と二ノ郭の間には堀切が残っている。長郭は主郭の南西に位置し、こちらも一部農地となっているが、先端には乳井城主の墓塔と伝わる乳井神社の五輪塔(青森県重宝)がある。また、各郭には農地となっているが、帯郭が幾重にも重なっている。
【感想】
乳井神社の背後にあるお城ですが、城の造りとしては乳井茶臼館より古い城のように見受けられました。農地として利用され遺構が破壊された可能性もありますが、自然地形を活かしただけの城でした。基本的に、乳井神社に何かあったときに逃げ込めるようにしたものだと思われます。
訪れた時は雨が降っており、眺望はいまいちでしたが、晴れていれば津軽平野を一望でき、岩木山も望むことが出来る場所です。また、主郭には桜の木が沢山あるので、満開の桜と岩木山を見ることが出来るようです。
【アクセス】
弘南鉄道大鰐線石川プール駅から、徒歩30分。
乳井城のリア攻め地点から、徒歩約12分。
【写真】
①主郭
②主郭下の帯郭
③説明板
④主郭と二ノ郭の間にある堀切
⑤二ノ郭
⑥長郭にある五輪塔(木造物の中にある)
⑦遠景(乳井茶臼館から望む)
⑧麓にある乳井神社
2025年05月22日 国府左京大夫城介
乳井茶臼館[乳井城 周辺城郭]
多段曲輪を有する街道沿いの城
【歴史】
築城年代は不明だが、乳井氏によって築かれた。
天正7年(1579)に、大浦為信と比山六郎ら旧浪岡氏の諸将の連合軍との間で起きた六羽川合戦において、連合軍に占拠され、本陣として利用された。
六羽川合戦とは--
天正7年(1579)に、安東氏の命を受けた比山六郎・七郎兄弟(北信愛の孫?)が津軽地方への侵攻し、大浦為信により城を追われた滝本重行や浪岡顕則らが参陣し、大鰐や碇ヶ関方面の土民の協力もあり、約一千の軍勢となった。そして、連合軍の最初の標的となったのが、乳井建清が城主を務める乳井茶臼館・乳井古館・乳井城であった。しかし、この時城主の乳井建清は不在であったため、瞬く間のうちに陥落した。続けて、沖館城を攻めるが城主の阿部兵庫介の奮戦もあり、撤退した。
阿部兵庫介からの急報を受け、大浦為信自ら出陣した(兵力は不明)。大浦軍は大坊・岩館(現在の平川市で、堀越城から南東1~2km)に、連合軍は占拠した乳井茶臼館に、それぞれ本陣を置いた。そして、六羽川の畔で、両軍は激突し、戦いは夕暮れまで続き、大浦軍は本陣の旗本のほとんどが討ち死にした。田中太郎五郎吉祥は、主君である大浦為信の身代わりとなり討ち死にした。連合軍は為信を討ち取った思い込み油断してしまい、その隙をついた大浦軍の反撃をうけ、総大将の比山六郎が討ち死にし、連合軍は総崩れとなり、大館へ撤退した。
その後、乳井建清は連合軍に奪われた乳井城、乳井古館、乳井茶臼館を取り返した。
【遺構】
乳井城の南約1.2kmに位置する丘陵に築かれている。
城域は県道13号線の東側にある曲輪Ⅰ(標高118m/比高58m)と、西側にある曲輪Ⅱ(標高76m/比高16m)の2つに分かれている。
県道13号線から曲輪Ⅰの北側沿いを通り、乳井古館、乳井城へとつながる道は、中世では奥大道(※)と呼ばれていた。
曲輪Ⅰは、北側には、主郭を中心に数段からなる段曲輪があり、それぞれに虎口が設けられている。また、主郭から南東側に降りた所には堀切がある。
曲輪Ⅱは、2,3段ほどの段曲輪があるが、主郭部を含め農地として利用されている。
※奥大道とは、鎌倉から平泉を経由し陸奥外ヶ浜へと至る重要な街道。奥州街道とも重なる部分はあるが、平泉辺りからは北上川沿いに北上し、現在の花輪線に沿って、鹿角、大館を抜けて津軽平野に入り、藤崎、浪岡を抜けて陸奥湾へと繋がっている。
【感想】
3000城の乳井城は何も遺構が残っていないので、そこだけリア攻めすると、圧倒的に物足りないので、この乳井茶臼館と乳井古館を併せて訪れることを推奨します。この三城で最も南に位置する茶臼館は、奥大道を抑えると共に、大館から津軽平野へ侵攻を企てる安東氏や南部氏に備えた要衝でもあります。
曲輪Ⅱは農地となっていますが、あまり遺構の状況は確認できませんが、段曲輪の配置状態は確認することができます。
曲輪Ⅰは遠くから見ても、主郭を中心に段曲輪が幾重にも巻き付いているのが分かります。見事なバースデーケーキの形をしており、皆川城を小さくしたようなイメージの城だと思っていただければ分かりやすいと思います。
【アクセス】
弘南鉄道大鰐線「石川プール前」駅から、徒歩25分。
【写真】
①遠景(曲輪Ⅰ)
②説明板
③曲輪Ⅰの段曲輪
④曲輪Ⅰの虎口
⑤曲輪Ⅰの主郭
⑥曲輪Ⅰ南東部の堀切
⑦曲輪Ⅱの段曲輪
⑧奥大道
2024年11月03日 城s#sおやじ
乳井城
現地には、何の痕跡もなく、探し回りナビで確定しましたが、複雑な気分でした。
2022年08月04日 まじんB00B00
乳井城
まさかの花壇!?周りは住宅地だし、城跡はここを指してるんだよね〜(^◇^;)
2021年04月14日 tk
乳井城
地元の人はにゅういとは言わず、においに近い発音 大鰐から黒石に行く旧街道沿い