乳井茶臼館

乳井茶臼館([乳井城  周辺城郭])

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乳井茶臼館の口コミ情報

2025年05月22日 国府左京大夫城介


多段曲輪を有する街道沿いの城

【歴史】
築城年代は不明だが、乳井氏によって築かれた。
天正7年(1579)に、大浦為信と比山六郎ら旧浪岡氏の諸将の連合軍との間で起きた六羽川合戦において、連合軍に占拠され、本陣として利用された。

六羽川合戦とは--
天正7年(1579)に、安東氏の命を受けた比山六郎・七郎兄弟(北信愛の孫?)が津軽地方への侵攻し、大浦為信により城を追われた滝本重行や浪岡顕則らが参陣し、大鰐や碇ヶ関方面の土民の協力もあり、約一千の軍勢となった。そして、連合軍の最初の標的となったのが、乳井建清が城主を務める乳井茶臼館・乳井古館・乳井城であった。しかし、この時城主の乳井建清は不在であったため、瞬く間のうちに陥落した。続けて、沖館城を攻めるが城主の阿部兵庫介の奮戦もあり、撤退した。
阿部兵庫介からの急報を受け、大浦為信自ら出陣した(兵力は不明)。大浦軍は大坊・岩館(現在の平川市で、堀越城から南東1~2km)に、連合軍は占拠した乳井茶臼館に、それぞれ本陣を置いた。そして、六羽川の畔で、両軍は激突し、戦いは夕暮れまで続き、大浦軍は本陣の旗本のほとんどが討ち死にした。田中太郎五郎吉祥は、主君である大浦為信の身代わりとなり討ち死にした。連合軍は為信を討ち取った思い込み油断してしまい、その隙をついた大浦軍の反撃をうけ、総大将の比山六郎が討ち死にし、連合軍は総崩れとなり、大館へ撤退した。
その後、乳井建清は連合軍に奪われた乳井城、乳井古館、乳井茶臼館を取り返した。

【遺構】
乳井城の南約1.2kmに位置する丘陵に築かれている。
城域は県道13号線の東側にある曲輪Ⅰ(標高118m/比高58m)と、西側にある曲輪Ⅱ(標高76m/比高16m)の2つに分かれている。
県道13号線から曲輪Ⅰの北側沿いを通り、乳井古館、乳井城へとつながる道は、中世では奥大道(※)と呼ばれていた。
曲輪Ⅰは、北側には、主郭を中心に数段からなる段曲輪があり、それぞれに虎口が設けられている。また、主郭から南東側に降りた所には堀切がある。
曲輪Ⅱは、2,3段ほどの段曲輪があるが、主郭部を含め農地として利用されている。

※奥大道とは、鎌倉から平泉を経由し陸奥外ヶ浜へと至る重要な街道。奥州街道とも重なる部分はあるが、平泉辺りからは北上川沿いに北上し、現在の花輪線に沿って、鹿角、大館を抜けて津軽平野に入り、藤崎、浪岡を抜けて陸奥湾へと繋がっている。

【感想】
3000城の乳井城は何も遺構が残っていないので、そこだけリア攻めすると、圧倒的に物足りないので、この乳井茶臼館と乳井古館を併せて訪れることを推奨します。この三城で最も南に位置する茶臼館は、奥大道を抑えると共に、大館から津軽平野へ侵攻を企てる安東氏や南部氏に備えた要衝でもあります。
曲輪Ⅱは農地となっていますが、あまり遺構の状況は確認できませんが、段曲輪の配置状態は確認することができます。
曲輪Ⅰは遠くから見ても、主郭を中心に段曲輪が幾重にも巻き付いているのが分かります。見事なバースデーケーキの形をしており、皆川城を小さくしたようなイメージの城だと思っていただければ分かりやすいと思います。

【アクセス】
弘南鉄道大鰐線「石川プール前」駅から、徒歩25分。

【写真】
①遠景(曲輪Ⅰ)
②説明板
③曲輪Ⅰの段曲輪
④曲輪Ⅰの虎口
⑤曲輪Ⅰの主郭
⑥曲輪Ⅰ南東部の堀切
⑦曲輪Ⅱの段曲輪
⑧奥大道

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