御着城(ごちゃくじょう)
御着城の基本情報
通称・別名
- 茶臼山城、天川城
所在地
- 兵庫県姫路市御国野町御着
旧国名
- 播磨国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 小寺政隆
築城年
- 永正16年(1519)
主な改修者
- -
主な城主
- 小寺氏
廃城年
- 天正7年(1579)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
的形城(兵庫県姫路市)[4.4km]
姫路城(兵庫県姫路市)[4.9km]
志方城(兵庫県加古川市)[7.5km]
神吉城(兵庫県加古川市)[8.5km]
英賀城(兵庫県姫路市)[8.7km]
加古川城(兵庫県加古川市)[9.9km]
高砂城(兵庫県高砂市)[10.1km]
坂本城(兵庫県姫路市)[10.1km]
中道子山城(兵庫県加古川市)[10.6km]
善防山城(兵庫県加西市)[10.6km]
御着城の解説文
[引用元:Wikipedia「御着城」の項目]
御着城(ごちゃくじょう)は、播磨国飾磨郡(のち飾東郡)御着[1](現・兵庫県姫路市御国野町御着)にあった日本の城。茶臼山の上に築かれた城なので茶臼山城の別名を持ち、さらに、天川を堀の一部として利用していたことから天川城の別名も持つ。
概略
当時の交通の要衝に立地しており、城内に山陽道や城下町を取り込んだ、惣構えの平城だった。赤松氏の一族小寺氏の居城で、1519年(永正16年)に小寺政隆が築城したと言われる。1579年(天正7年)に羽柴秀吉に攻められて落城し、城割が行われ廃城となった。別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。
歴史
姫路市東方の御国野町御着は、山陽道(国道2号の若干南)が通る交通の要衝として、赤松氏の守護所が設けられていたようである。1519年(永正16年)になって小寺政隆が御着の茶臼山と呼ばれる小丘上に城を築いた。姫路城代であった小寺氏が御着城を築いた理由として
1.主君・赤松義村と浦上村宗の対立、浦上村宗への備え。 2.小寺政隆の隠居城。 3.赤松惣領家からの独立を狙って。
などが考えられている。
1530年(享禄3年)、細川高国と組んで一挙に上洛を狙う村宗の播磨侵攻によって御着城も攻められて落城し、政隆は自害に追い込まれた。しかし翌1531年(享禄4年)に中嶋の戦い、大物崩れで村宗が討取られ、細川高国も自害すると政隆の息子である則職が城主に復した。
則職の頃から御着城を本城、姫路城を支城としていたようで、姫路城には家老の八代道慶や黒田氏を城代として派遣していた。当時の播磨では比較的大規模な城であったらしく、別所氏の治める三木城、三木氏の治める英賀城と並んで播磨3大城郭のひとつに挙げられていた。
1575年(天正5年)、織田氏の中国地方攻略の一環で羽柴秀吉が播磨へと侵攻した。則職の子、政職は家老の小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高(如水))の進言もあり当初は織田氏に通じたが、別所氏や荒木村重の織田氏離反に同調。1579年(天正7年)、秀吉は別所氏の三木城を支援していた播磨の諸城を攻撃、御着城も政職が毛利氏領内の鞆の浦の足利義昭の元へ脱出し、残された別所氏家臣の岡本秀治が降伏し、落城した。秀吉重臣の蜂須賀正勝が一時的に接収した後、廃城となった。
1755年(宝暦5年)に描かれた絵図「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」によると、本丸を囲む内堀があり、北東に隣接する二の丸の外側には3重の堀が巡らされ、南西側は天川を外堀として利用し、山陽道や町屋を取り込んだ総構えだったようである。絵図は後年に描かれた物だが、堀の遺構が残っていることや近年の調査で建物の礎石や瓦、井戸、石垣、土塁、内堀などの一部を発掘したことから、基本的な縄張りは信頼できるのではないかと考えられている。
廃城後、江戸時代には御着本陣が置かれていた。現在、国道2号北側の本丸跡付近は姫路市役所東出張所・御国野公民館・御着城跡公園、南側は民家や小公園などになっている。小公園には小寺氏を祀った祠、小寺明神があり、城址公園西側には黒田孝高の祖父・重隆と母、明石正風娘の廟所がある。重隆らの墓は元は御着城下の佐土にあった心光寺に置かれていたが、1577年(天正5年)に現在の地に移された。その後、1802年(享和2年)に筑前福岡藩10代目藩主、黒田斉清により廟所は再建され、1968年(昭和43年)に再び修復された。毎年、4月29日に黒田氏、小寺氏等の末裔達が集まり、先祖供養を行っている。
歴代城主
- 初代 - 政隆(村職とも)
- 2代 - 則職
- 3代 - 政職
発掘調査
発掘調査は姫路市埋蔵文化財センターによって、1977年から1979年にかけて行われた。この調査で、食器や茶器の他、将棋の駒、碁石などが発見された。御着城は永正時期の築城とされてきたが、この発掘によって15世紀には柵を巡らせた砦規模の建物があり、その後、小寺氏の勢力拡大に伴って規模を拡充させていったと考えられている。
跡地
遺構
イベント
- 御着城跡周辺で例年、「御着城時代まつり」(神戸新聞社など後援)が開催されている[2]。
周辺
- 播磨国分寺跡
- 延命寺
- 法華寺 (姫路市御国野町御着)
- 御着駅
- 壇上山古墳
参考文献
- 『BanCul No49 2003年秋号』、姫路市文化振興財団、2003年、ISBN 4343002535
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御着城の口コミ情報
2024年06月27日 HS兵部大輔
御着城
黒田官兵衛ゆかりの城。遺構は堀跡だけしかのこっていません。
2024年05月20日 図書頭RedKing
御着城
本丸跡地は姫路市東出張所です。公園内で模擬天守閣や二の丸跡地のグラウンドに、お堀だった天川に掛かっていた西国街道の石橋が移設されています。
黒田家廟所があり大河ドラマから黒田官兵衛関連の石碑や展示があります。
2024年03月02日 金森出雲守
御着城
小学生観光ボランティアさんが城跡の説明してくれました。城跡遺構はあまりなくても地元愛を感じました。
2024年02月24日 鈴木剛
御着本陣[御着城 碑・説明板]
御着宿の本陣があった場所です、今は地区の公会堂になっています。
2022年08月18日 尼崎城駿河守一口城主
御着城
7月30日、JR御着駅から徒歩にて進軍🥾道中、道案内の看板もあり迷わず登城できました。現地に到着したところ姫路市東出張所があり、お城を模した建物のようになっていました。駅からお城に向かう途中、お城まであと少しのところの信号🚥で結構待たされました。登城後に気づきましたが、車道を挟んである御着城と小寺大明神を連絡する歩道橋があったので、信号がなかなか変わらない場合はお城方面に進んで歩道橋から登城されるのがおすすめです。
現地には、目薬の木、天川橋、黒田家廟所などがありました。隣のグランドが二の丸跡地のようでした。歩道橋を渡ると小寺大明神や天川城跡の石碑がありました。
2021年10月11日 織田上総介晃司
御着城
御着城跡の姫路市東出張所に駐車場がありますが6台しか停めれないので二の丸北土塁のある公園に車を停めました。
「御着城時代まつり」という看板がありましたが、イベントは行われてませんでした。というか…何年も前から看板はずっとあるみたいです。
2021年02月12日 大学頭イー城☆ライダー
御着城
御城風の姫路市東出張所が在ります。遺構と実感できたのは、二ノ丸跡のグラウンドや本丸跡が微高地に在ること、僅かに残る土塁跡でした。
2020年10月28日 琉球守風のこうちゃん播守
御着城
国道2号線沿いにあります。駐車場は御国野公民館の利用すれば大丈夫だと思います。トイレ有り!
2019年04月23日 ℵ新居泰之進ℵ
二の丸北側土塁[御着城 遺構・復元物]
播磨国御着城 二の丸北側土塁。黒田如水が仕えた小寺氏居城。総構の城で西南は二重・北東は四重堀が囲んだ。
2019年04月23日 ℵ新居泰之進ℵ
御着城
播磨国御着城 二の丸北側土塁。黒田如水が仕えた小寺氏居城。総構の城で西南は二重・北東は四重堀が囲んだ。
2016年06月20日 まるき〜陸中守
御着城
黒田家が使えていた小寺氏の城
国道2号線を北にすぐ…国道に案内の看板があるのでわかりやすいです。
城跡、本丸跡は姫路市の東出張所と公民館、建物は天守をイメージしてあるそうでとても微笑ましいです。駐車スペースは6〜7台分とその先にある二ノ丸跡が公園を兼ねた臨時駐車場になっている。先の大河ドラマの官兵衛ブームで沢山の人が押しかけ現在城のパンフは在庫切れ、代わりと言っては何だが出張所に居たおばちゃんにいろいろと案内していただきました…
見所として建物裏手の堀、天川石橋、黒田重隆、官兵衛の母の墓所、二ノ丸の土塁、天守風建物…小寺大明神(道路向こう側)など、一通り観ても10〜20分でしょうか…
おばちゃん曰く「元々姫路城はここの支城やったんよ」とドヤ顔(´・Д・)」
でもブームが落ち着き訪問する人もかなり減少気味だとかで何だが淋しそうに思えました
「ここは思案のしどころじゃのぉ〜」
今なら人も少ないのでゆっくりまったりとできますよ〜!
トイレの横に姫路城のドラマ館から持ってきたのであろう官兵衛の顔出しパネルがあるが無残にも顔部分だけが破壊されていたし…。そーゆー所は少し残念!
2014年01月05日 上総介あきおう
御着城
本日2014/1/5から4/13まで、姫路市埋蔵文化財センター(四郷町)にて、御着城跡の企画展をやってます。入場無料。
昭和52-55年の御着城跡(二の丸)発掘調査の出土品や現場写真等を展示。小寺氏の足跡や周辺の中世城(置塩、坂本など)のパネル解説もあり。
パネル内容を冊子にしたパンフ500円は必携。
2010年07月26日 徳川内大臣源朝臣康武
御着城
近年、黒田官兵衛碑が建立された。