神吉城(かんきじょう)
神吉城の基本情報
通称・別名
- 真名井城、奈幸子城
所在地
- 兵庫県加古川市東神吉町神吉
旧国名
- 播磨国
分類・構造
- 平城
天守構造
- 不明
築城主
- 赤松範次
築城年
- 南北朝時代
主な改修者
- 神吉氏
主な城主
- 神吉(赤松)氏
廃城年
- 天正6年(1578)
遺構
- 土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
志方城(兵庫県加古川市)[2.6km]
加古川城(兵庫県加古川市)[2.9km]
中道子山城(兵庫県加古川市)[4.7km]
横倉城(兵庫県加古川市)[6.0km]
高砂城(兵庫県高砂市)[6.2km]
御着城(兵庫県姫路市)[8.5km]
的形城(兵庫県姫路市)[8.6km]
野村城(兵庫県加古川市)[8.6km]
善防山城(兵庫県加西市)[9.3km]
金鑵城(兵庫県小野市)[11.7km]
神吉城の解説文
[引用元:Wikipedia「神吉城」の項目]
神吉城(かんきじょう)は、播磨国印南郡(兵庫県加古川市)にあった日本の城。平城。別名、真名井城(まないじょう)、奈幸子城(なこしじょう)とも呼ばれる。一部遺構として土塁、空堀が残る。
沿革
赤松氏一族の神吉氏が築城、初代城主は赤松則村(円心)の子孫で播磨明石郡の神出城主赤松範次(神出左衛門範次)が印南郡神吉の庄を領して神吉城を築き、範次の子・元頼が神吉城主となり神吉氏を称した。神吉城は神吉の集落全体が城域で、中の丸・東の丸・西の丸・二の丸の4つの曲輪を持つ縄張りの城で、中の丸には低層ながらも天守閣が建てられていたといわれる。
山名氏清の明徳の乱では幕府方で功績を残したといわれる。
現在、城跡は中の丸が法性山常楽寺、西の丸が真宗寺となっている。なお、常楽寺の本堂裏にある墓地には城主神吉頼定の墓がある。わがまち加古川60選のNo.48である。
秀吉の播磨攻め
天正6年(1578年)2月、加古川城での毛利討伐の軍議で別所氏と羽柴秀吉が決裂し三木合戦が始まった際、城主神吉頼定は同じ赤松氏一族の別所氏についた。このため、神吉城も秀吉と戦うこととなる。周辺の野口城・志方城・高砂城と共に守りを固め、頼定は三木の大村坂で秀吉勢を攻め立て、大勝利を収めた。
しかし、秀吉は周囲から落とす作戦に切り替え、まず4月6日に野口城が落城し、続いて6月23日(グレゴリオ暦7月27日)に神吉合戦が始まった。頼定は兵約2000人で籠城し、対する秀吉勢は織田信忠・明智光秀・佐久間信盛・荒木村重ら約3万人で攻め、秀吉勢は頼定の叔父神吉貞光(藤太夫)を佐久間信盛を通して謀略で味方に引き入れ頼定を暗殺、7月16日(8月19日)に神吉城は落城したとされる。
また、秀吉は神吉城を攻める際に、生石神社に対し陣所に貸与せよと申し出たが、陣所には貸さぬと拒否されたため焼き討ちにしたとされる(時の生石神社宮司は頼定の弟とされる)[1]。
参照文献
- 【書籍】「印南郡誌」
- 【書籍】「黒田如水 臣下百姓の罰恐るべし」
- 【書籍】「加古川市史 第2巻 本編2」
- 【書籍】「戦国合戦大事典 六 京都・兵庫・岡山」
- 【書籍】「戦争の日本史13 信長の天下布武への道」
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神吉城の口コミ情報
2022年09月05日 特にありません
神吉城
現在は常楽寺。住宅地なのにしっかり駐車場完備されていて助かります。しかし、播磨地域は御城印配布場所が多く、しっかりルート組んで行かないと1日じゃ足りません!
2021年04月20日 しろりん
神吉城
志方商店街入口を左折。右手に観音寺がありますが、ココが志方城跡です。
北側の志方小学校とお墓を挟んで隣接しています。
2021年03月09日 あきちい播磨守
生石神社[神吉城 寺社・史跡]
時の宮司(神吉城城主神吉頼定の弟)が豊臣秀吉による神吉城攻めの時に陣所に貸与せよと言われたが断ったため焼き討ちにあったとされる。日本三奇の一つ石の宝殿と言う巨石が御神体として有名です。
2017年12月30日 天道式部卿早雲
神吉城
ナビは常楽寺で検索すると場所が分かりやすかったです。
最後の道は細いですが、お寺の駐車場・トイレ使えて便利です。
2011年11月16日 捨勇伯耆守助右衛門
神吉城
本丸に位置する常楽寺は、神吉の集落の中にあり、周辺の地理のわからない人は、ナビがなかったら場所がわかりにくいかも。
神吉城の周辺スポット情報
生石神社(寺社・史跡)