志方城(しかたじょう)
志方城の基本情報
通称・別名
- 観音寺城、船原城、市易城
所在地
- 兵庫県加古川市志方町志方(観音寺)
旧国名
- 播磨国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 櫛橋則伊
築城年
- 明応元年(1492)
主な改修者
- -
主な城主
- 櫛橋氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
神吉城(兵庫県加古川市)[2.6km]
中道子山城(兵庫県加古川市)[3.4km]
加古川城(兵庫県加古川市)[5.5km]
善防山城(兵庫県加西市)[6.8km]
御着城(兵庫県姫路市)[7.5km]
高砂城(兵庫県高砂市)[8.4km]
横倉城(兵庫県加古川市)[8.5km]
的形城(兵庫県姫路市)[8.9km]
野村城(兵庫県加古川市)[9.8km]
金鑵城(兵庫県小野市)[10.3km]
志方城の解説文
[引用元:Wikipedia「志方城」の項目]
志方城(しかたじょう)は、播磨国印南郡(兵庫県加古川市)にあった日本の城(平城)。現在、本丸跡は宝積山観音寺の境内、二の丸跡は加古川市立志方小学校になっている。また西の丸跡は旧志方町役場であった。
構造
内堀で本丸を囲み、さらに二の丸、西の丸が囲んでいた。城郭の遺構は観音寺山門脇の高い石垣の前に僅かに残っている内堀跡を残すのみである。
沿革
明応元年(1492年)、櫛橋則伊により築かれた。その後4代にわたり存続したが、天正6年(1578年)7月、4代城主の櫛橋政伊の時、羽柴秀吉に反旗を翻した三木城主別所長治に呼応した。しかし周辺の野口城・神吉城が羽柴軍に落とされ孤立、秀吉の救援に赴いていた北畠信雄が7,500余騎をもって志方城に迫った。これに対する城兵はわずかに1,000余で、しかも半数以上赤痢のため倒れた。8月10日(グレゴリオ暦9月1日)に櫛橋政伊は降伏。妹婿に当たる黒田孝高の助言もあり、後に櫛橋一族の多くは黒田家臣となった。
志方城落城後の天正15年(1587年)、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために城の本丸跡に観音寺を建立し現在に至る。
交通アクセス
- JR宝殿駅北口から神姫バス西牧行きで約10分、志方西口で下車。バス停から北東へ約350メートル。
参照文献
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志方城の口コミ情報
2024年09月26日 RED副将軍
志方城
赤松氏重臣である櫛橋氏の居城🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
1492年に櫛橋則伊により築かれたと云われます。櫛橋氏は藤原鎌足の系譜とされ、藤原北家の摂関家、世尊寺家、櫛橋氏と続いたとされる名族。
櫛橋伊朝が祖とされ、南北朝時代には播磨守護職である赤松氏に属し、東播磨の目代を務めるなど代々が赤松氏重臣として活躍しました。
天神山城を居城としていましたが、永禄年間(1558年〜1570年)に櫛橋秀則は水不足を理由に船原城へ居城を移したと記録が残り、船原城が志方城と考えられています。
1578年に四代当主の櫛橋政伊は三木城の別所長治と結んで織田信長家臣の羽柴秀吉に反旗を翻します。しかし周辺の城郭は落城し、志方城内は赤痢が蔓延していたところ、織田信雄の攻略により志方城も落城し降伏したとされます。その後、櫛橋氏は黒田孝高の家臣になったとされ、志方城跡には1587年に城主の墓碑を守るために観音寺が建立され現在に至ります。
見所
現在も主郭跡には観音寺が鎮座し、北側の志方小学校を含む広大な城郭であったとされます。
しかし市街化により城郭遺構は消失。観音寺境内は周辺より高い地形であることに城跡が偲ばれる程度です。
観音寺の境内に城跡碑と案内板が建っています。
2024年02月14日 てら
志方城
JR宝殿駅でレンタサイクルが利用できます。
2023年05月13日 高取弾正忠城
志方城
兵庫県加古川市周辺攻略しました。城が神社になっております。ゆっくり見学もしたかったな~~ぁ
2020年11月11日 播磨守風のこうちゃん播守
志方城
志方小学校の南側にある観音寺を目掛けて行って下さい。車で行かれる方、観音寺の駐車場が利用出来ます。
2020年10月20日 芦屋能登守虎吉
志方城
観音寺の境内が本丸跡、隣の小学校が二の丸跡のようです。本丸跡はやや高台になっており、切岸らしい遺構もあります。二の丸跡との間は一部低くなっていることから、堀跡なのだと思われます。
大河ドラマ・軍師官兵衛で、官兵衛の義兄・櫛橋左京進が「我らは播磨武士!意地を貫け!」と言って散った城で、三木城包囲戦の際に秀吉に潰された城です。近隣には神吉城、野口城など同様に毛利方についたのに誰も助けに来なかった城が点在していますので、合わせてどうぞ。
2020年10月18日 芦屋能登守虎吉
駐車場[志方城 駐車場]
観音寺駐車場に数台停めることができます。
2016年06月25日 まるき〜陸中守
志方城
黒田官兵衛の正室、光(てる)の出生の地、現在は観音寺と言うお寺になっていてボーっとしていると見過ごしてしまいそうな少し奥まった場所にあります
寺のある所は周りと比べると土塁で盛り上げたのか丘を切り取ったのか?少〜しだけ高い位置にあるのがわかります。
この段差が堀?なのか、そこに紫陽花が植えられていて綺麗でした。
駐車スペースが寺の下に5〜6台、境内にも置け…るのかな?
人が居なさそうなのでコッソリかつ大胆に見学したきました
墓地の横の門はすごく古そうで当時からあるのかも…と思えるほど朽ちていて良い感じ
境内の隅に城案内板と
トイレがあり反対側の門に行くと石垣っぽいのがあるが…当時のものかどうかは判断できない、
門の屋根には鯱鉾がありカッコいいです。
そこに(おそらく正規の)城の案内板があるのですが草が茂って看板を覆っていて…
「これじゃあ全く読めないでしょう!」
っと言っておこう(^◇^;)
(写真アップしておきます…)
2011年11月16日 捨勇伯耆守助右衛門
志方城
観音寺の境内が志方城の本丸で、正門を入ったところに案内看板や標識がありますが、植木の陰で見つけにくいです。
2011年09月01日 竪堀堀切通氏播磨守
志方城
黒田官兵衛孝高正室光(てる)姫の生家です。
志方城の周辺スポット情報
駐車場(駐車場)