三木城(みきじょう)

三木城の基本情報

通称・別名

釜山城、別所城

所在地

兵庫県三木市上の丸町

旧国名

播磨国

分類・構造

平山城

天守構造

不明

築城主

別所則治

築城年

長享2年(1488)頃

主な改修者

前野長康、中川秀政

主な城主

別所氏、中川氏、伊木氏(池田氏家臣)

廃城年

元和元年(1615)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸、天守台

指定文化財

国史跡(三木城跡及び付城跡・土塁)

再建造物

模擬城壁、石碑、説明板

周辺の城

野村城(兵庫県加古川市)[6.0km]
豊地城(兵庫県小野市)[9.4km]
端谷城(兵庫県神戸市)[9.9km]
淡河城(兵庫県神戸市)[10.0km]
金鑵城(兵庫県小野市)[11.4km]
横倉城(兵庫県加古川市)[12.1km]
中道子山城(兵庫県加古川市)[12.6km]
神吉城(兵庫県加古川市)[14.5km]
枝吉城(兵庫県神戸市)[14.7km]
加古川城(兵庫県加古川市)[14.8km]

三木城の解説文



三木城(みきじょう)は、播磨国美嚢郡三木[1](現・兵庫県三木市上の丸町)にあった日本の城。平山城。釜山城や別所城とも呼ばれる。小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。

概要 

城跡は美嚢川の南岸の台地にあり、明石の北約19km、姫路の東約31kmの地にあり、それほど肥沃の土地ではなかったが、京都-有馬は古くから整備された交通の要所(湯山街道)に築城された。

天正6年(1578年)から2年(20ヵ月)に渡って、織田方の羽柴秀吉と別所長治との間で兵糧攻め、三木合戦(三木の干殺し)を含めて、激しい攻城戦が繰り広げられたことで知られている。この三木合戦の際には神吉城(印南郡)、志方城(印南郡)、淡河城(美嚢郡)、高砂城(加古郡)、端谷城(明石郡)など東播磨各地の城が支城として別所方に従った。

本来の城郭は現在の三木市街地部分も含むものであったが、本丸周辺だけが上の丸公園として残っている。公園内には長治の辞世「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」の歌碑や、城外への抜け穴があったと伝えられる「かんかん井戸」、そして近年立てられた長治の像がある。公園に隣接してみき歴史資料館(旧三木市立図書館)、城郭跡の下には滑原(なめら)商店街がある。

毎年5月5日には長冶を偲び、「別所公春まつり」が開催されている。

沿革 

三木城の築城時期に関しては諸説あってはっきりしない。そもそも君ヶ峰城が三木城の初見で、後に現在の地に移築されたのではないか、という説もある。三木戦史「明応元年(1492年)九月三木ノ釜山城ヲ築キテ之二拠リ」とあるので、この地に三木城が築かれたのは、この明応元年前後ではないかと推定される。

この地に城を築いたのは別所則治で、突然歴史上に登場する。文明15年(1483年)冬、播磨守護赤松政則が山名政豊に大敗し堺に逃亡した。翌文明16年(1484年)2月に政則が家臣団により家督を廃されたが、別所則治は政則を擁して上京し、室町幕府大御所足利義政の助力を得て家督を復活させた。それ以来則治は数々の武功を挙げ政則より8郡が与えられ、その地域に三木城を築城し、別所氏は赤松氏家臣団の中で浦上氏に次ぐ実力者となったようである。

則治の孫・別所就治の時代になると、三木城も戦場の地となる。就治と浦上村宗が内紛状態となり、享禄3年(1530年)夏に就治は柳本賢治に援軍を要請、依藤城を攻城していたが、柳本賢治が就寝中に暗殺されてしまった。それを皮切りに細川高国・村宗連合軍が三木城をはじめ御着城、有田城に攻撃を開始、落城させた。この戦いが三木城の攻城戦の初見ではないかと推定される。就治は一旦国外に脱出したようだが、翌享禄4年(1531年)の中嶋の戦い・大物崩れで村宗が討取られ、高国も自害すると就治も三木城に戻ったようで、東播磨で大きく勢力を伸ばしていった。

その後天文7年・8年(1538年・1539年)の2度に渡って尼子詮久(後の晴久)が三木城を攻撃してきた。この時赤松氏の国人衆はほとんどが尼子軍に下り、三木城のみが東播磨の拠点となった。しかし赤松晴政は2回も国外に脱出したため、守護としての地位が落ちていったが、代わりに就治の東播磨での地位は上がり、赤松氏から細川晴元派へ与していく。

しかし、晴元を京都から追放した三好長慶に目をつけられ、有馬重則と対立していたことを口実に三好軍の攻撃を受ける事態になり、天文23年(1554年)9月、長慶の同族・三好長逸に三木城の支城7つを落城させられてしまった。ついで同年11月に、長慶は援軍として弟の三好実休を送りこみ枝吉城を攻囲、翌天文24年(1555年)に明石氏は三好軍と和議を結び、就治も支えきれず和議を結んだ。ここから就治は三好三人衆軍に組み入れられ大和まで出陣したようである(東大寺大仏殿の戦い)。その後永禄2年(1559年)には宿敵であった依藤氏を滅ぼした。

別所安治に代わった永禄11年(1568年)には三人衆を見限り織田信長方についた。翌永禄12年(1569年)に安治は織田軍として西播磨へ攻め込んだが、逆に三人衆軍として浦上宗景が三木城に来襲してきた。しかし、翌永禄13年(1570年)に再び西播磨に攻め込む。また、当主が別所長治に変わり、北播磨の在田氏も滅ぼすと戦国大名化していった。

天正6年(1578年)3月7日、毛利氏攻めの先鋒を務めると信長に約した長治は突如三木城に立て籠もり、羽柴秀吉に叛旗を翻した。加古川会談で意見対立したのが原因と思われているが、『日本城郭大系』ではその前に毛利輝元と筋書きが整っていたとし、輝元の外交上の勝利であると解説している。

当初織田軍は戸惑ったようであるが、三木城の城下町を焼き払い、監視する番城のみを置き、別所長治軍に与している城を一つ一つ攻め落としていった。翌天正7年(1579年)5月末には完全に三木城を攻囲し兵糧を断つ戦術に出た。羽柴秀吉隊は出る杭を打つというような戦術で自ら討って出ることはなく、同年2月と9月に別所長治軍は合戦を挑んできたが、いずれも敗北している。翌8年(1580年)1月6日から本格的に攻城を開始し、同1月15日に開城を勧告し、長治もこれに応じ一族ともに自害した。長期戦となったものの、三木城への攻城戦は半月で決着がついた。

この時の詳しい合戦の様子は三木合戦も参照。
その後秀吉は姫路城を居城とし、三木城には城代を入れた。天正13年(1585年)8月に中川秀政が入城するが、文禄元年(1592年)に秀政が朝鮮出兵で戦死すると弟の中川秀成が跡を継ぎ、文禄3年(1594年)に豊後へ移封された。その後は豊臣氏の直轄地となり城番が入った。城番には賀須屋内膳、福原七郎左衛門、福原右馬助、朝日右衛門大夫、青木将監、杉原伯耆守の名が歴代として伝わるが、実態ははっきりしない。ただ、豊岡城主である杉原が三木城番を兼ねていたことは文書が残っている[2]

関ヶ原の戦いの結果、池田輝政が播磨52万石の大名となり、姫路城主となると、三木城も6つの支城の一つとなり、宿老の伊木忠次が3万石を知行し三木城の城主となった。その後伊木忠繁が継ぐが元和元年(1615年)、一国一城令によって破却された。

伊木忠繁は国替えにより退出し、明石城の築城の際に三木城の古材も使用したと言われているが、それを裏付ける証拠は現在まで発見されていない。

略年表

和暦 西暦 主な出来事
明応元年 1492年 別所則治によって築城。
享禄3年 1530年 浦上村宗により落城。城主の別所就治は落ち延びる。
享禄4年 1531年 大物崩れで浦上村宗の死に伴い就治が三木城を奪還。
天正6年 1578年 羽柴秀吉による三木合戦が始まる。
天正8年 1580年 羽柴秀吉の「三木の干し殺し」により落城。
天正年間 1581年-
1592年
天守が増築される。
元和3年 1617年 一国一城令により廃城となる。
元和5年 1619年 三木城の遺材も用いられた明石城が完成。

歴代城主

歴代12代城主
何代城主 初代城主 2代城主 3代城主 4代城主 5代城主 6代城主
城主名 別所則治 別所則定 別所就治 別所安治 別所長治 杉原家次
何代城主 7代城主 8代城主 9代城主 10代城主 11代城主 12代城主
城主名 前野長康 中川秀政 中川秀成 杉原長房
豊岡城城主が領有
伊木忠次
池田輝政の家老
伊木忠繁

城郭 

三木城は堅城であるが、三木合戦以前にも幾度か落城の憂き目にあっており、その都度拡張し防備が強化され、日本有数の堅城になったと思われている。現在の三木城跡には当時をしのばせる物は非常に少ない。別所長治公400年を記念してコンクリートの塀が築かれたが、これは近世城郭の塀で、少なくても別所長治時代の塀は土塁と塀を連携したようなものであったと思われている。また本丸の西側の崖には腰曲輪のようなものがあったがコンクリートで固めてしまっている。

本丸

本丸の標高58.2m、比高は約20mの切崖に囲まれ、南側と北側に空堀が設けられている。ここには稲荷神社、三木市立金物資料館、保育所があり、井戸が数か所見つかっている。また本丸北側にはかんかん井戸と呼ばれている本丸井戸があり直径は3.6m、深さ25mあり、昭和初めに掘りなおされた。この井戸より別所氏が使用したと伝承されている鐙が出土し雲竜寺に保存されている。また本丸には天守台と言われる場所があるが、『三木城復元図』によるとこの場所は「矢倉」と記載されている。またこの『三木城復元図』によると、ちょうど保育園がある場所が「御殿」との記載があり、保育所建設時に礎石とみられる石列と多量の炭が出土しており、御殿跡が推察されている。またこの『三木城復元図』には御殿の横に天守と呼ばれる曲輪がある。しかしその場所は『大攻城戦』によると、少なくとも別所長治時代までは「天守は築かれていなかった」と記載している。

西の丸(二の丸)

この場所には三木高校があったが、今はみき歴史資料館(旧三木市立図書館)と堀光美術館が建設されている。標高は57mで江戸時代迄には本丸に面した場所に櫓が建っており、高さが2間(約3.5m)の土塁があり、三方に空堀があったと思われている。三木市立図書館や堀光美術館が建設される前の発掘調査では、三木城の倉庫跡と思われる場所から21個の備前焼の大甕が発掘された。これに炭化した麦粒がついていたことから、食糧貯蔵用に使用されていたのでは考えられている。この大甕の復元品は三木市立図書館で展示されている。この発掘調査では、門、建物、内堀、外堀跡等の遺構と土器、軒丸瓦、銅銭、獣骨等の遺物も出土した。

新城

新城曲輪は、その名が示すとおり比較的後世(三木合戦以後ではないかと思われている)になって築かれたものと思われている。昭和35年(1960年)迄にはほぼ原形を留めていたが、堀を埋め土塁を崩し道路とし宅地化された。土塁の高さは2間で東側と南側に築き、その周りには空堀をめぐらしている。特に南側の土塁は鷹の尾曲輪を意識し、堀底から土塁の最長部は9mあったようである。虎口は南西にあり土塁が切れる場所には「蔀土居」が設けられていた。

雲龍寺

雲龍寺は三木城の城郭の一部だったと思われている。三木合戦で開城の際には別所長治が雲龍寺の和尚に後事を託し、日ごろ愛用していた品々を贈り、それが現在も寺宝として残されている。また、この寺の南側には別所長治と照子夫人の首塚が残されている。別所長治は当時の慣わしに従い、照子夫人と3歳になるわが子を刺殺し、その後切腹の場にのぞんだと伝わっている。

その他曲輪

鷹の尾曲輪
この曲輪は別名「鷹尾城(鷹尾山城)」とも呼ばれており、東西細長い丘陵にあり新城曲輪より比高18mと高い場所にあり、本丸、西の丸、新城曲輪をよく見通すことができる。東側には土塁と空堀があるが、西側の丘陵は崩され現在は三木市役所が建設されている。
八幡山曲輪
この曲輪は別名「宮ノ上要害」とも呼ばれており、雲龍寺から南に250mのところに八幡山曲輪があった。鷹の尾曲輪との比高は15mで、羽柴秀吉がここに陣取り三木城を見下ろしたと言われている。現在は三木市の浄水場があり遺構は全く残っていない。

平山丸曲輪
この曲輪は三木城の北東隅にあり、当主・別所長治の次弟である治定の居館跡と伝わる。慶長6(1601)年に伊木忠次が城主となると、先君・池田恒興(勝入斎)追善のためにこの地に護国山勝入寺(現・護国山正入寺)を建立した。
最近の調査では羽柴秀吉が築いた付城群が30ヵ所、土塁線が10kmと次々と新しい発見がなされており、国の史跡に指定されている。

城跡へのアクセス 

  • 電車でのアクセス
    • 神戸電鉄 粟生線 三木上の丸駅 → 徒歩約5分
  • 車でのアクセス
    • 山陽自動車道 三木小野インターチェンジ → 国道175号 → 兵庫県道20号
    • 上の丸公園内に駐車場有り

周辺情報 

  • 三木市立堀光美術館
  • 三木市立図書館
  • 三木市立金物資料館

関連文献 

  • 「雑賀の舟鉄砲」(小説、短編集「軍師二人」、「言い触らし団右衛門」に収録。司馬遼太郎著)
  • 「武門の意地」(小説、短編集「西国城主」に収録。野中信二著)

参考文献 

  • 『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、387頁-389頁。
  • 兵庫県民俗芸能調査会『ひょうごの城紀行』下、神戸新聞総合出版センター、1998年12月、86頁-93頁。
  • 安部龍太郎『戦国の山城をゆく』集英社新書、2004年4月、170頁-185頁。
  • 兵庫県教育委員会『日本の中世城館調査報告書集成 第15巻』 東洋書林、2003年4月、117頁-119頁。
  • 『戦国大攻城戦』双葉社、2008年5月、22頁-25頁。
  • たつの市立埋蔵文化センター『再現播磨の中世城郭』たつの市立埋蔵文化センター、2007年6月、20頁-21頁。
  • 下田勉側図『三木城復元図』

三木城の口コミ情報

2022年05月10日 平右近衛少将八郎正勝
三木城



ちょっと細い道を上がると広場があって車止められます。

2022年05月01日 YUKITUN
三木城



駐車場から歴史資料館へ入ってすぐ正面受付で御城印を購入出来ます。そのまま中の展示物が無料で見学出来ます。写真マーカーの順に歩くのが近道です。保育園の建物は解体され何もありません。

2022年01月26日 四間飛車内蔵助とみー
三木城



活動の振り返り!
ぶらり西国遠征、
明石駅から神姫バスに揺られること、約1時間、三木本町のバス停から徒歩で約10分の距離です。
道中、別所長治のお墓もあります。そこで手を合わせてから向かいました。その他にも、みき歴史資料館や金物神社などがあり、寄り道しながら行くのも一興です。加古川支流の美嚢川のすぐ側の丘城の遺構が小ぶりながら残っています。近年建立された別所長治の像もあり、なかなかの見応えです。

2022年01月03日 かつつ
三木城



古い保育所の隣にあります。こじんまりとした城跡です。

2021年10月11日 織田上総介晃司
三木城

道は狭いですが本丸まで車で行くことができます。

三木城の遺構は少ないけど三木城をぐるりと取り囲む羽柴秀吉軍の陣跡を含めると見ごたえありかと。

「三木の干し殺し」と呼ばれる三木城攻撃中に竹中半兵衛が没した地。お墓もあります。

2021年06月01日 金兵衛
三木城



三木上の丸駅の真南ですが、少し回り道しないと行けません。まあ、すぐそこです。

2021年05月23日 やしち尾張守
三木城



秀吉の三木の干し殺し
自分の首と引き換えに領民を救った、別所長治公の銅像があり、市民に尊敬されているのがよくわかります。
車で行かれる方は、途中の道が狭いのですれ違いに注意して下さい。

2021年02月03日 相模守こうちゃん播磨の守♡
三木城



三木市立みき歴史資料館に駐車場が有ります☝️ここから本丸跡迄徒歩3分☝️ここに残る「カンカン井戸」カンカン聞こえました😳

2020年10月17日 治部大輔おこごろう
三木城



駅からほどよい距離。階段を登った城跡からは三木の町が一望できます。今はシャッター通りになっている商店街を通った方が、車が来ないので安全です。

2020年09月23日 藤岡木工助但馬
三木城



二の丸跡に三木歴史資料館があり、こちらで御城印を販売しています。本丸はかなり高い位置にあり当時はもっと見晴らしが良かったのではないかと思います。逆に申せば秀吉軍の布陣も一望に見渡せるだけに、日に日に絶望の淵に追いやられていく感じが想像できました。天守台にある長治公の辞世の句とその想像が重なり、自分なりに心痛く感じました。一方で周囲にはたくさんの秀吉軍の付城も確認でき、秀吉軍の必死さもうかがい知ることができる、戦国時代を実感できる良い城でした。

2020年08月17日 RED副将軍
朝日ヶ丘土塁[三木城  遺構・復元物]



法界寺山ノ上付城と高木大塚城の間を結ぶ土塁。
総延長約300m、基底部幅1.8~5m、高さ0.2~1.1mの長大な遺構。
土塁線は6本に分かれ馬道西側は2重、東側は4重になっている。
現在は風化が進んでいるが、規模の大きさは十分伝わってきます。

2020年08月17日 対馬守Neco
歴史資料館[三木城  関連施設]



三木城の城郭情報には書かれていませんが、みき歴史資料館(入館無料/月曜日休館/9時-17時)で御城印(¥200)を発売しています。

2020年08月16日 RED副将軍
這田村法界寺山ノ上付城[三木城  周辺城郭]



オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

天正6年(1578)から天正8年(1580)まで行われた、織田信長と三木城主、別所長治との三木合戦に関わる城跡。織田軍、宮部継潤の陣城であったと伝えられ、第二期に築かれた陣城群の一つ。

法界寺の南背後にある標高80m程の山に築かれ、現在は「三木城跡及び付城跡・土塁」として国指定史跡となっている。

主郭と副郭が東西に並び、共に方形で土塁が巡る。東が主郭で南に虎口があり、虎口の先が馬出状になっているのが特徴。この馬出状の遺構は主郭と土橋で繋がり、横堀を配す。

主郭部から北側には無数の帯曲輪が段状に並び、多数の兵士が布陣していたことを伺わせる。全体的に風化が進み、土塁も堀も甘めです。

写真
①馬出し状の虎口。横堀に土橋が付く。
②主郭を巡る横堀
③副郭を巡る土塁
④案内板
⑤主郭内部

2020年08月16日 #91摂津守
三木城



電車で車で、兎に角、訪れやすいお城です。私はバイクで行きました。城跡には保育園があります。城跡で幼少期を過ごせる園児達が、とても羨ましいです。

2020年08月15日 RED副将軍
高木大塚城[三木城  周辺城郭]



オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

天正6年(1578)から天正8年(1580)まで行われた、織田信長と三木城主、別所長治との三木合戦に関わる城跡。織田信忠の軍勢が築いた6ヶ所の付城の一つとされるが、城主は不明。

周囲は宅地開発が進み、一部は消滅するも複雑な土塁が良好に残存。ウネウネの土塁が見事です。高木古墳群の中で最も大きな古墳を城の中心として櫓台に利用。その周囲を十字状の土塁を巡らせている。三木城跡よりも残存状態が良好であり、付城巡りがむしろメインとなると思います。

写真
①案内板
②虎口
③⑤主郭を巡る土塁
④⑥土塁越しの櫓台(古墳)

2020年03月08日 さっきー
竹中半兵衛の墓[三木城  碑・説明板]



墓前に駐車場は無し。
約300m手前の平井公民館に止めるか、
秀吉本陣に止めて、歩いて下さい。
トイレは公民館に有り、外から入れます。

2020年03月01日 さっきー
三木城

近くの三木市立みき歴史資料館にも、
是非お立ち寄り下さい。
入館無料ですので。

2019年06月25日 さっきー
別所長治公首塚[三木城  寺社・史跡]

道路が少し狭めで、対向車とすれ違いは、左の白線踏むぐらいで、安心です。

2019年06月25日 さっきー
別所長治公墓[三木城  碑・説明板]

駐車場があり、階段前に3台ほど、道路挟んで10台以上可能です。

2019年06月25日 さっきー
平井山ノ上付城[三木城  周辺城郭]



駐車場があり、止め放題。
仮設ですが、トイレ有。
ここから歩いて、
竹中半兵衛の墓に行くもよし。

2018年08月25日 三木肥前守上の丸
三木城

城跡北側の崖から三木合戦時の秀吉の陣跡の平井山が見えます。
逆に平井山から、三木城が見えます。(三木小学校が見えるのでその奥、木々が生える台地の右端)

2015年12月06日 GAGA大納言百万石
三木城

本丸跡には「今はただ、うらみもあらじ、諸人の、いのちに代わる、我が身とおもへば」と言う別所長治公の辞世の彫ってある
石碑があります。

2011年04月16日 中務大輔播磨の将軍
三木城

三木市役所から坂道を下って行くと三木の空堀が残っています!



2010年07月26日 徳川内大臣源朝臣康武
三木城

[武将像]別所長治像
本丸天守台横に鎮座。

三木城の周辺スポット情報

 朝日ヶ丘土塁(遺構・復元物)

 (遺構・復元物)

 櫓台状の土盛り(遺構・復元物)

 竹中半兵衛の墓(碑・説明板)

 別所長治公墓(碑・説明板)

 本町滑原遺跡出土石列遺構(碑・説明板)

 東絛街道と舟着場跡(碑・説明板)

 大手口方面案内板(碑・説明板)

 大手口(推定)(碑・説明板)

 (伝)太閤道(碑・説明板)

 段状の平坦地群(碑・説明板)

 段状の平坦地群(碑・説明板)

 副郭(碑・説明板)

 主郭(碑・説明板)

 馬出状の虎口(碑・説明板)

 平田大村加佐合戦(碑・説明板)

 平井山ノ上付城(周辺城郭)

 伝・竹中半兵衛陣所(平井村付城)(周辺城郭)

 高木大塚城(周辺城郭)

 這田村法界寺山ノ上付城(周辺城郭)

 鷹尾山城(周辺城郭)

 高木大山付城(周辺城郭)

 シクノ谷峯構付城(周辺城郭)

 明石道峯構付城(周辺城郭)

 小林八幡神社付城(周辺城郭)

 和田村四合村ノ口付城(周辺城郭)

 別所長治公首塚(寺社・史跡)

 金物神社(寺社・史跡)

 栄運寺の竹中半兵衛墓(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 歴史資料館(関連施設)

 金物資料館(関連施設)

 みき歴史資料館(関連施設)

 堀光美術館(関連施設)

 三木上の丸駅(その他)

 三木城鷹尾山城遺跡入り口(その他)

 主郭近道・大手口分岐路(その他)

 分岐路(その他)

 朝日ケ丘土塁入口(その他)

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