豊地城(といちじょう)

豊地城の基本情報

通称・別名

拾市城、都市城、依藤城、依藤館、東条城

所在地

兵庫県小野市中谷町字城ノ土井

旧国名

播磨国

分類・構造

平城

天守構造

不明

築城主

不明

築城年

南北朝時代

主な改修者

別所重宗

主な城主

金谷経氏、依藤氏、別所重宗

廃城年

天正8年(1580)

遺構

曲輪、横堀(空堀)、土塁、建物跡

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

三木城(兵庫県三木市)[9.4km]
光明寺城(兵庫県加東市)[9.7km]
金鑵城(兵庫県小野市)[9.8km]
淡河城(兵庫県神戸市)[10.7km]
野村城(兵庫県加古川市)[13.4km]

豊地城の解説文

豊地城(といちじょう)は、兵庫県小野市中谷町にあった平城。

概要
小野市の北東部にあり、加東市に隣接している位置に中谷町がある。吉田新庄の中央に位置し、東条川沿いに街道があり豊地城は街道筋にあたり、三木城にも抜ける事ができる。豊地が拾市とも表記されるため、中世初期に十日市がたっていた要衝と考えられている。

沿革
南北朝時代に、金谷経氏は丹生山城と東条城を拠点に衆徒や南朝方の兵や率いて戦った。延元元年/建武3年(1336年)に北朝方に東条城が焼き払われている。『日本城郭大系』によると「東条城はおそらく豊地城の前進であろう」としている。

赤松満祐が起こした嘉吉の乱の時の城主は不明である。嘉吉の乱の後、赤松氏に代わり播磨守護は山名宗全が任じられたが、東播磨の明石郡、三木郡、加東郡三郡は赤松氏庶流の赤松満政が代官として入った。しかし、満政が赤松氏残党と結託し反乱し滅ぼされると、三郡も宗全の支配下に移った。

依藤則忠は後に豊地城の城主となるが、南朝討ち入りに参画し赤松政則を支える有力武将の1人であった。応仁の乱では東軍に就いた赤松政則が守護に任じられ、応仁の乱後に依藤則忠が豊地城含む東条地域を収めていたと考えられている。

文明15年(1483年)の冬、政則は真弓峠にて山名政豊に大敗した。翌16年(1484年)、浦上則宗は京都から播磨に下向し、東条城に浦上氏、小寺氏、中村氏、明石氏、依藤氏ら赤松家臣団を集結させ、政則を追放した。国人一揆である。

依藤氏は政則に従い、同年中に山名氏と戦いになったが敗れ、東条城を放棄し摂津神呪寺に逃れた。後に政則と家臣団は和睦し、文明17年(1485年)に政則は播磨に帰国し、依藤氏も同年3月に東条城を奪還した。

その後、東播磨においては別所氏が台頭し、依藤氏と抗争するようになった。

依藤城の戦い
享禄3年(1530年)5月15日、堺公方の重鎮である柳本賢治は別所氏の要請を受けて京を出立、小寺氏、別所氏の軍と合流し「依藤城」を攻城した。
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