中道子山城(ちゅうどうしさんじょう)
中道子山城の基本情報
通称・別名
- 赤松城、志方の城山
所在地
- 兵庫県加古川市志方町廣尾
旧国名
- 播磨国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 赤松氏範
築城年
- 至徳年間(1384〜1386)
主な改修者
- -
主な城主
- 赤松氏、孝橋氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石積、土塁、堀切、井戸
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑(赤松城址)、説明板
周辺の城
-
志方城(兵庫県加古川市)[3.4km]
神吉城(兵庫県加古川市)[4.7km]
善防山城(兵庫県加西市)[5.7km]
金鑵城(兵庫県小野市)[7.0km]
加古川城(兵庫県加古川市)[7.4km]
野村城(兵庫県加古川市)[7.9km]
横倉城(兵庫県加古川市)[9.0km]
御着城(兵庫県姫路市)[10.6km]
高砂城(兵庫県高砂市)[10.9km]
的形城(兵庫県姫路市)[12.3km]
中道子山城の解説文
中道子山城の口コミ情報
2021年10月13日 琉球守風のこうちゃん播守
中道子山城
登城口(初級コース)から途中休憩しながらで45分で本丸跡迄行けました☝️体力に自身の有る方なら30分で行けるでしょう💨初級コースの途中に旧道コースが現れます😳この分岐点から旧道コースに行くと距離は半分になるそうですがかなりきつそうです。本丸跡迄かなりの蜘蛛の巣が有りますので棒を持って行かれると良いですね☝️初級コースなら足元も良好でした。現地🅿有りですが少々段差が有りますので車高をわざと落としてる方は要注意です☝️本丸跡に旧国鉄時代の駅に有った様な🚾が有ります。
2020年07月31日 越中守松宙右衛門
中道子山城
駐車場
先人様の補足をします。
以前は、中腹まで車で行けたみたいですが、現在は写真①の様にサクがしてあって車は通れません。
サクの手前に写真②の駐車場があるので、車で来られる方はそこから登城です。
駐車場に段差があるので、車高の低い車は要注意です。
駐車場から本丸まで片道歩いて40分ぐらいです。
この時期にしては藪は大した事ないですよ。
2019年06月07日 左近衛中将かめかめ
中道子山城
現地案内板の堀切1より更に北西へ向かうとおよそ自然地形とは思えないところがあります。写真左の横堀(推測)に向かって数条の竪堀(これも推測)が!移動しにくい。
2019年06月06日 左近衛中将かめかめ
中道子山城
現地案内板によるとこれが堀切1。全体を見渡したくて南側斜面をおりていって、気付いたら・・・。後悔しました。
2018年04月22日 【しばぴー】iggy摂政
中道子山城
《城道等》
旧道(山道)で登城しましたが、城域まで歩きやすい新道?が付いていますので、夏場でも登城できます。
《遺構》
本城は、発掘調査で土塁等の下層に焼土層、さらにその下部に石積み遺構が確認されたとのことで、戦国前期に石の城が成立、その焼失後に土の城として規模を広げて再築されたようです。
通常とは逆の過程をたどった珍しい山城と言えるでしょう。
1郭東に位置する土塁に囲まれた「伝米倉跡」については、発掘調査で礎石建物が建てられていたことが確認されており、なんらかの建物が建てられていたようです。
比較的多くの焼き米が出土したみたいですが、本城他所からも出土していることから米倉であったと決定付ける根拠は薄いそうです。
北西尾根を断つ二重(少し離れてます)の岩盤掘削堀切は見応えあります。
少々藪漕ぎが必要となる6郭北側の土塁付竪堀は経年のためか甘いです。
《参考》
公園整備化されたようですが残念ながら荒れてきており、また、城域内の鉄塔や頂部の電線等に萎えますが、遺構は素晴らしいです。
2017年05月08日 あさ内匠頭けん
中道子山城
今回は麓の城山公園駐車場まで。
県道の城山への標識はすぐに分かりますが、その先、市道から駐車場に入る所の看板は小さいので見落としに注意。バス停を目印に
歴史
築城年代は定かではない。南北朝時代に赤松氏範、または15世紀前半に赤松(孝橋)繁広が築いたと伝わる。赤松氏は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で没落。しかし繁広の子の繁景が城主に復帰し、天文年間(1532~1555)は中道子山城を居城とした。孝橋氏が浅瀬山城に居城を移すと、以後は城代が在城した。
発掘調査では焼土層とさらにその下に崩された石積みが見つかっている。享禄年間(1528~1532)の焼失と推定され、孝橋氏が近隣の浦上氏や尼子氏と対戦したと記す文献の記述と時期が一致する。
天正年間(1573~1592)に羽柴秀吉に攻められ落城したと伝わるが、この時期の遺物は見つかっていない。
遺構
加古川市街地の北方にそびえる標高271.3mの城山山頂に位置し、現在は城山公園として整備されている。中道寺という山岳寺院を山麓に移して築かれたようだ。「Y」字型のような3方向に広がる構造だ。Y字の北東端が山頂で、土塁で囲まれた主郭が配され、その南西側に「伝米蔵跡」とされる方形の小曲輪を置く。小曲輪は三方が土塁で囲まれ、主郭を独立させる空間とみられる。発掘調査によれば前面には礎石建物の存在が推定され、石積みも残る。礎石建物と石積みの存在から織豊系城郭への改修が指摘されるが、2か所の虎口はいずれも平虎口で、横矢を掛ける張り出しもない。よって、現況からは改修を断言できない。
南尾根の曲輪群と主郭のある北西尾根とは、東側の腰曲輪を迂回する形で結ばれている。途中にある2つの虎口は、いずれも側面を石で固めた平虎口。張り出しを設けて集中攻撃をするのではなく、長い進入路を確保してじわじわと迎撃する意図が読み取れる。南端の曲輪は南側を土塁で囲み、尾根続きからの侵入に備えている。
Y字の中心部に置かれた曲輪から北西尾根に展開する曲輪群も、前面となる城外側に土塁を設けた曲輪が2つ並び、下段の曲輪北側の虎口もやはり平虎口となっている。しかし大きく異なるのは、その腰曲輪に内部を石積みで固めた枡形虎口が発掘調査で見つかっていることだ。この城の注目点といえる。
北西尾根と北東尾根の間の谷は用水源とみられ、井戸や窪地を守るように土塁で囲まれた曲輪が階段状に並ぶ。井戸の下にある腰曲輪が防御の要で、尾根続きからの侵入に備えていたようだ。前述の枡形虎口もこの区域を俯瞰できる位置にある。
北西尾根の先は、岩盤を削った二重の堀切で遮断されている。とくに外側の堀切は南西側が竪堀となって斜面へと落ち、南西側斜面の移動を阻止している。
交通
・加古川バイパス加古川西ランプから車で約10分、山陽自動車道加古川北ICから車で約8分参考文献
・『図解 近畿の城Ⅱ』戎光祥出版、2015年。