菅野城(すがのじょう)
菅野城の基本情報
通称・別名
- 菅野谷城
所在地
- 奈良県宇陀郡御杖村菅野字城坂
旧国名
- 大和国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 菅野氏
築城年
- 室町時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 菅野氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
下山甲斐守城(三重県名張市)[11.1km]
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菅野城の口コミ情報
2025年08月31日 みいちゃん豊後守
中森氏城[菅野城 周辺城郭]
築城年不明。城主は中森数馬之助で、北畠家の家臣として仕えていたと考えられます。家臣帳には伊賀口の加番として記録され、多気に入る街道を抑える役割を担っていたとされています。一族は弓術に長けており弓組に従事する者が多くみられました。多気から伊賀へ抜ける街道と、木津川の上流である名張川が北に流れる立地で、これらを監視する拠点として築かれたと考えられます。
城からは街道や名張川、周辺の村々を眼下に一望できる構造となっています。
中森氏城は南の曲輪と一段下がった北側の大きな曲輪、その北側に堀切、東側は急な斜面で土塁等はなく展望が重視されています。一方西側は緩やかな斜面で、二重の土塁やうねうねの地形が目を引きます。主郭なのか物見台なのか分かりませんが一段上の南側の曲輪には現在愛宕神社の社殿が祀られています。小規模ながら遺構がほど良く残りいい城でした。
津市太郎生出張所に車を停め、ぐるりと城跡南西の登城口まで徒歩10分、城域に張りついてからの散策が40分でした。帰りは西側の登城口から降りてきましたよ。
2025年08月25日 みいちゃん豊後守
菅野城
新登城口より登ることに。ちらほらと雨が降り、公民館の東側より進入する。アスレチック場を作っているのかよくわからないが人の手が入っています。すぐの所に林業用の重機が置いてあり、少し先までは重機の入れる道が作ってあります。これを利用し、重機の道が途絶えた所からは直登りを敢行しました。南側から進入する尾根道は比較的なだらかな感じです。倒木は多々ありますが主郭らしいところまで二足歩行で行けます。最後の腰曲輪から主郭に登るとこで木に捕まらないと上れませんが、、ココまで写真を撮りながら所要時間15分ほどでしょうか?
取り敢えず目的達成しました。帰りも直降りですが登りと違うとこにたどり着くというアルアル。降りたころ、夕立にあい、びしょ濡れでみつえ体験交流館の駐車場に戻りましたが、薄暗い中、灯があって安心しました。
2025年08月25日 みいちゃん豊後守
菅野城
庄谷集会所(公民館)を北へ20mほど行った登城口より入りました。まず右手に土留めの石積みらしきものが出現します。大雨が降ると川になりそうなところから進入していきます。木々に覆われており、16時にもなると陽の光が入らず暗い。うろうろ山を歩いてみたのですが、主郭(城マーク)へどうやって登るのか考えがまとまらない。結局ココから急斜面を登ったとしても降りるのが大変そうなのでこちら側からのアプローチは断念することに。新登城口へ向かう、続く。
2025年01月21日 河内介平八郎
菅野城
先人のフォト投稿の公民館の奥の道は、急斜面直登となり断念。
公民館手前、私設のアスレチック?の右に先人の投稿にはなかった木材運搬用の道が出来ており、終点まで登り、尾根を目指せば南郭に出くわします。
小ぶりですが遺構がよく残っているいい砦です。
2021年03月02日 菊姫
菅野城
交流館、真興寺の西に自治会館があります。その近くの尾根先端から登れます。
2019年06月26日 蔵人頭 毛呂モロ就
菅野城
昭和38年3月20日の地元御杖村の広報の「郷土御杖」に郷土史家の橋本重省氏の記述があった。
南北朝時代、伊勢の国司で南朝方だった北畠氏の本拠地伊勢と南朝の本拠地吉野との連絡途上にこの菅野城(誌上では「菅野谷城」とあった)が有り、北畠氏の配下の菅野谷氏がこの城を領有していた。
北畠具教の時代に織田信長の圧迫を受け、三男の信雄を養子に受け入れ降伏し、後に具教は暗殺されたが、具教の弟の北畠具親は六角氏の援助を受けて抵抗し、それを知った領主の菅野谷氏も連動して、具親に加勢し蜂起、菅野谷城に篭った。しかし衆寡敵せず、織田勢に攻め込まれ落城し、廃城となったよう。