安威城(あいじょう)

安威城の基本情報

通称・別名

安威館

所在地

大阪府茨木市安威2

旧国名

摂津国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

不明

築城年

永正年間(1504〜1521)

主な改修者

不明

主な城主

安威弥四郎

廃城年

天正14年(1586)

遺構

土塁跡

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

郡山城(大阪府茨木市)[2.2km]
佐保来栖山砦(大阪府茨木市)[2.9km]
茨木城(大阪府茨木市)[3.2km]
普門寺城(大阪府高槻市)[3.3km]
芥川城(大阪府高槻市)[4.0km]
芥川山城(大阪府高槻市)[4.1km]
高槻城(大阪府高槻市)[5.2km]
目垣城(大阪府茨木市)[5.4km]
善福寺原城(大阪府箕面市)[5.7km]
三宅城(大阪府茨木市)[6.3km]

安威城の解説文



安威城(あいじょう)は、大阪府茨木市安威にあった日本の城。

概要 

安威川西岸の丘陵に築かれた山城で、『大阪府全志』によると東西180メートル×南北270メートルの規模があったと思われ、『東摂城址図誌』によると内郭、本丸跡の中心部には「御殿台」という土壇があったとの記載が見受けられるが、現在は宅地化されわずかに北東に土塁跡が見受けられる。

沿革 

古代、この周辺は藍(アイ)の名を擁した中臣藍連の一族がいたようだが、再び歴史にあらわすのは、16世紀初めに摂津国守護細川氏から安威領を安堵された安威右近太夫という人物で、おそらくこの頃に安威弥四郎によって安威城が築城されたという説もある。

また別説として、土豪安威氏とこの地域の結びつきの古さを考えるならば、本格的な城郭ではなかったものの、居館としてもっと早くから存在していたのではないかという説もある。

波多野元清の反乱に端を発した争いは、細川高国と細川晴元の争いまで発展していった。波多野元清は山崎城に襲いかかり、山崎城に詰めていた薬師寺国長は高槻城に逃亡してしまった。この時、細川高国方についていた、安威城をはじめ、芥川山城太田城茨木城福井城三宅城の諸城は次々と陥落していき、その後有名な桂川原の戦いへと発展していく。

桂川原の戦いで細川高国は大敗し、今度は細川晴元についたようであるが、三好長慶の台頭に伴い、安威弥四郎も次第に三好長慶へ属していったようで、江口の戦いでは三好長慶方の武将としてその名が見える。

最後の城主は安威弥四郎の子、安威了佐で豊臣秀吉に仕え信頼も厚かったようで、天正14年(1586年)に中川清秀が茨木城に移り、安威城は廃城となったと思われていたが、1983年(昭和58年)7月に安威氏の系譜が発見され、安威了佐の嫡男、安威勝宗が最後の城主となったようで、中川清秀の嫡男、中川秀成が岡藩に転封された時に、安威勝宗も行動をともにし、安威の地からは姿を消す。

城郭 

安威城の城郭は外郭と内郭(100メートル×70メートル)からなる縄張りと思われている。

安威城はかつて大手門があった場所より進入し、ここから城内の中心部へ進入していく。この大手門の両脇に、農業用の水路が確保されているが、これが外郭と城外を隔てる堀のような役割を果たしていたのではないかと指摘されているが詳細については不明である。

城内は完全に宅地化されており、城跡をしのばされるものは少ないが、北東に150メートルの土塁跡、また南側にも見受けられるが北東の土塁ほど保存状態はよくない。それ以外に南東に円形の城井戸と伝わるものがあり、現在も用水として使用されている。

茨木市立安威小学校は外郭の一部に建ち、西限ではないかと思われている。

「安威城跡」として周知の埋蔵文化財包蔵地になっている範囲では、大阪府や茨木市により2002年(平成14年)以来[1]数回の発掘調査が行われているが、調査範囲では近世や古墳時代の集落遺跡や遺物が多量に検出されているものの、中世城郭に明確に関連する遺構や遺物は発見されていない[2]

城跡へのアクセス 

電車でのアクセス

  • JR:東海道本線茨木駅
  • 阪急電鉄:京都線茨木市駅

バスでのアクセス

  • 阪急バス:1番のりば 安威団地下車

車でのアクセス

  • 名神高速道路:茨木IC → 国道171号 → 府道46号線
  • 近隣に駐車場なし

参考文献 

  • 『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月。
  • 『わがまち茨木』城郭編、茨木市教育委員会、1987年3月。
  • 『わがまち茨木』人物編、茨木市教育委員会、1985年3月。
  • 茨木市教育委員会 2003『大阪府茨木市平成14年度発掘調査概報(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/5106)』茨木市
  • 大阪府教育委員会 2006『安威遺跡・安威城跡発掘調査概要(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/4773)』大阪府
  • 大阪府教育委員会 2007『大阪府埋蔵文化財調査報告2007-1:安威城跡(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/4626)』大阪府
  • 大阪府教育委員会 2010『大阪府埋蔵文化財調査報告2009-8:安威城跡2(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/4577)』大阪府
  • 大阪府教育委員会 2015『大阪府埋蔵文化財調査報告2014-4:安威城跡Ⅲ(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/17736)』大阪府

安威城の口コミ情報

2021年05月03日 中村右衛門尉和夫
安威城



車でかなり狭い道を行きますが、マップを頼ればそんなに苦労はないです。

2016年12月28日 橘若狭守次郎吉
安威城

現在は城域のほとんどが宅地化されてしまい、城跡を偲ばせるものはほとんどない。内郭と外郭の境界線辺りの道路沿いの民家前に説明板と石碑がある。Googleマップで『安威城跡』と検索した時にピンが示す場所がそこである。

石碑のあるところから北東には150M程の土塁が残っている。土塁と土塁の間に細道が通っている。ここの土塁が一番保存状態がいい。

また石碑から南と南東にも竹やぶに覆われた土塁が残っているが、保存状態はそこまで良くない。

更に石碑から南東にある民家の庭先にはかつて城内にあったと伝わっている円形の井戸がある。活動は石積だったらしい。

さて、安威城から北に500M程の所に安威砦という城跡がある。安威砦を築城したのは藤原鎌足とも楠木正成とも云われる。謎の多い城跡である。しかしながら、安威城ととても関連のある城跡であることには相違ないと思われる。一説にはこの一帯を治めた安威氏は安威城を居館として安威砦を詰城としたのではないかと云われている。

安威砦には壮大な堀切からの竪堀など遺構が明瞭に残っている。安威城のリア攻めの際には共に訪れてみてはいかが?



2012年04月25日 加賀美 摂津守遠光
安威城

安威城の北、通称、天神山には、安威城の砦跡、安威砦が有り、土塁が残っており、頂上には、石碑、説明板が有ります。
頂上の配水管が目印です。

安威城の周辺スポット情報

 安威砦(周辺城郭)

 福井城(周辺城郭)

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