上桜城(うえざくらじょう)
上桜城の基本情報
通称・別名
- 植桜城、上櫻城、川島南城
所在地
- 徳島県吉野川市川島町桑村
旧国名
- 阿波国
分類・構造
- 山城
天守構造
- 不明
築城主
- 河村小四郎?
築城年
- 南北朝時代前期
主な改修者
- 篠原長房
主な城主
- 篠原氏
廃城年
- 元亀3年(1572)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、櫓台、井戸
指定文化財
- 県史跡(上桜城跡(本丸・西の丸))
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
川島城(徳島県吉野川市)[1.4km]
秋月城(徳島県阿波市)[5.4km]
久千田城(徳島県阿波市)[7.6km]
西条城(徳島県阿波市)[7.7km]
上山城(徳島県名西郡)[9.9km]
一宮城(徳島県徳島市)[13.4km]
矢野城(徳島県徳島市)[13.8km]
芝原城(徳島県徳島市)[13.9km]
板西城(徳島県板野郡)[14.9km]
脇城(徳島県美馬市)[16.6km]
上桜城の解説文
[引用元:Wikipedia「上桜城」の項目]
上桜城(うえざくらじょう)は、徳島県吉野川市川島町桑村にあった日本の城。徳島県指定史跡。
概要
吉野川沿いの徳島平野地帯と四国山脈の北側、標高142mの前山に築かれた山城。旧麻植郡あり川島城から南へ約1kmに位置し、篠原長房の居城であった。城は東西に独立した新城と古城から2つの城から構成されている。城山には大きな桜林があったので城名を植桜と呼ばれたようである。
沿革
南北朝争乱の初期、この地域の土豪河村小四郎なる人物が、平地進出の拠点として、上桜山に砦を築いたという伝承が残るが、詳しい事は不明である。
戦国末期には、上桜城は近江国野洲郡篠原郷より下って三好氏に仕えた篠原氏の末裔・篠原長房の居城となった。
篠原長房は、三好長慶の実弟である三好実休に仕え、その死後は遺児三好長治と十河存保及び阿波細川氏の細川真之を補佐し、阿波・讃岐の軍勢を率いて各地を転戦し、畿内の三好政権を支えた。しかし元亀4年(1573年)6月、三好長治(当時20歳)、十河存保(当時19歳)、細川真之(当時34歳)が長房討伐の兵を挙げ、上桜城を攻めた。
同年7月16日、籠城継続が困難となった篠原勢は、早朝十河存保の本陣である大日寺(非現存)に突入した。篠原長房の長男・篠原長重(当時18歳)は長刀を振りかざし、十河存保がいる本陣に西門から迫ったが、背後から香西氏の家臣植松資久に討ち取られた。長房も奮闘したが敵陣の中で最期を遂げ、上桜城は落城した(上桜城の戦い)。
長房の死後、上桜城は廃され、長房討伐で功績を挙げた川島惟忠が川島城を築城した。
城郭
この城は新城と古城とよばる2か所の遺構からなっている。東側の遺構、古城は尾根上の小突起に築かれ、徳島県下の中世城郭によく見られる占地に無理なく築城されている。一方、西の遺構、新城は南方から北に向かっている尾根に無理に築城されており、南と北を防御するように築かれており、古城の弱点を補完する防御のために後に新たに築城されたと考えられている。山麓には居館があったと思われるが、現在は跡形もなく「馬場屋敷」という地名のみが残っている。
古城
古城は東西の曲輪にとそれに付随する帯曲輪からなる。古城へのルートとしては、手水鉢(石製で当時のものかどうかは不明)から浅い堀切から帯曲輪を通って、虎口から下側曲輪、西の丸にいき折れ曲がるようにして上部曲輪、本丸に達するように作られている。西の丸からは川島町、吉野川が見え、徳島平野が一望できる。上桜城は堅城であるが、本丸の南側に浅い井戸が2つあるだけで、水の手には恵まれていなかった。
新城
新城は南の尾根と西の枝尾根を重点的に守るために築かれ、古城と比べて直線的な部分が多く堀も深く作りが新しい。『図説中世城郭事典』によると「元亀4年に長房が急造したものと考えられる」とし、未完にして落城した可能性を示唆している。新城の櫓台の内側には幅5m、深さ3mの空堀が掘られている。地形的な不利な位置に築城したのは、東にある谷の水源を確保し、古城の西一帯を有利にするためと考えられている。実際このような機能が有効に活用出来るのかは不明である。新城は1974年(昭和49年)の道路工事の為大きく破壊されてしまった。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- JR四国 徳島線 阿波川島駅
- 徒歩 約40分
- 車でのアクセス
- 徳島自動車道 土成IC → 国道318号 → 国道192号 → 徳島県道43号
- 周辺に駐車場無し
参考文献
- 鎌谷嘉喜『阿波古戦場物語』教育出版センター、1998年10月、58-64頁。
- 井上宗和『四国の城と城下町』歴史発見の旅、愛媛新聞社、118頁。
- 鎌谷嘉喜『姿なき阿波古城』原田印刷出版、1985年6月、42-44頁、88-91頁。
- 創史社『日本城郭大系』第15巻 香川・徳島・高知、新人物往来社、1979年12月、222-224頁。
- 徳島県教育委員会『徳島の文化財』徳島県新聞社、2007年3月、333頁。
- 村田修三編著『図説中世城郭事典』第二巻 近畿2・中国・四国・九州、新人物往来社、1987年6月、182-183頁。
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上桜城の口コミ情報
2024年07月28日 小太郎左衛門督南畿道19國守
上桜城
車で訪問。ナビは、近くの公的リサイクルセンターを目標に設定。登城口付近に路肩余地があるが、自己判断。登城口から主郭付近までは数分の距離である。本日訪問。
2022年09月24日 征夷大将軍西大寺信誠
上桜城
先日の台風の影響だと思いますが、登城ルート上を倒木が塞いでいました。
2021年06月08日 ( *¯ ³¯)っ旦
上桜城
車が無い方のリア攻め攻略法
JR阿波川島駅を下車
改札口を出て左手側へ線路沿いに歩くと線路を潜れるので潜る。
直ぐに狭い道との分岐点に出ますが、狭い村の中を歩く道を選びます。
後は道なりにひたすら歩いていると県道43号線チューリップロードに突き当たります。
県道43号線を右手に曲がり道なりにひたすら、ひたすら坂道を登って行きます。
大きな分岐点は右手を選び「幸福の科学」の建物を目指します。
「幸福の科学」より先は家も極端に少なく、急な坂道がくねくねと続きます。
写真1
此処の文は道路補修によって変更がある可能性があります。
ひたすら坂道を登って行きますと谷を挟んだ向いにブルーシートの道が見えます。
その道がお城へ通じる道です。
写真2
ひたすら坂道を登って来ますと
「吉野川市リサイクルセンター」
「峰八方面」(この看板の右下に背面の岩に擬態した木に「上桜城」と読みにくい字で書かれた看板がありますが、歩いていても見逃してしまうほど案内する気のない看板❗️車だと見逃し率100%‼️)
の看板が出てきますので右手側へカックンと下がる道を選びます。
写真3
(これが先程、谷向いに見えた道です・補修が終わっていなければ路肩が崩れていますので注意)
iPhoneからアプリに入ってナビを選ぶと此処は右へ入らず、
道なりになっていますが永遠に着きません。
単に急な坂道を登らされるだけです。
あとは歩いて5分くらいで着きます。
何故か「案内する気が無い」と思うくらいの看板だけなのに、ゴールには見逃しようが無いくらい大きな説明書き看板がある不思議な城です。
2017年12月19日 d.f.t.渡島守
上桜城
マップ上の県道43号と林道の分岐点には、吉野川市リサイクルセンターの看板があります。右へ降りる林道へ進むとすぐに上桜城趾の看板が見えてきます。
駐車場はありません。路肩は広めですが、判断は各自お任せします。
※本丸方面
城趾の看板から真っ直ぐ歩くと本丸方面。途中に石の手水鉢があり、その先、直進で直接本丸へ行けるが当時の道ではないと思われる。右方向への分岐へ行くと本丸下の帯郭へ続く。帯郭の先は薮で進むのは中止しました。
本丸東端が虎口状になって2郭へ降りるようになっています。
※西の丸
城趾看板のある所、林道が大きく北へカーブしている北端の、その北の斜面が西の丸。その北西部に堀切と土橋が確認できます。
手水鉢の所から西へ回り込むか、林道を西へ50mほど進むと山側のコンクリート擁壁が途切れる個所があります。この反対側を見ると道らしきものがあり、そこを進むとたどり着きます。
なお、擁壁が途切れている所を山側によじ登ると見事な堀切があります。
※その他
本丸以外は未整備。特に西の丸は冬でも薮がひどく、まともな道はありません。滑落の危険もあり。充分ご注意を。
2017年08月22日 カーネル
上桜城
徳島線 阿波川島駅
駅から南に直線900mですが、遠回りが必要です
まず駅をでて東に向かい、線路をくぐり生活道路を南下します
正面に見える山の尾根が上桜城(たぶん)
道なりに進むと、山の上神社のところで県道43号線に合流するので、右折して南下する
県道43号は歩道はありませんが、車がこないでの安心です
しばらくすると傾斜がきつくなりカーブが続き、正面の山の上に携帯の基地局が見えるあたりで左に小さな木の看板で「上桜城址徒歩10分」とあり、右下に分岐する林道を右へ。舗装されてます
4-5分で右に上桜城の看板があり、そこから北に向かう幅広の山道を進みます
すぐに小山があって石碑があります。ここまで30分ちょい
カメラで望遠すると川島城が見えます。来た道を戻り、駅を通過して北に行けば川島城です
岩の鼻展望台が川島城の本丸で、駅に戻って1時間45分でした