一宮城(いちのみやじょう)

一宮城の基本情報

通称・別名

所在地

徳島県徳島市一宮町西丁237

旧国名

阿波国

分類・構造

山城

天守構造

不明

築城主

小笠原長宗

築城年

延元3年〔南朝〕/暦応元年〔北朝〕(1338)

主な改修者

蜂須賀家政

主な城主

小笠原氏、蜂須賀氏、益田氏

廃城年

寛永15年(1638)

遺構

曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀、井戸跡

指定文化財

県史跡(一宮城跡)、とくしま市民遺産

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

矢野城(徳島県徳島市)[2.8km]
芝原城(徳島県徳島市)[6.5km]
夷山城(徳島県徳島市)[6.8km]
蔵本城(徳島県徳島市)[7.1km]
片志城(徳島県徳島市)[8.1km]
今切城(徳島県徳島市)[8.9km]
徳島城(徳島県徳島市)[9.6km]
西条城(徳島県阿波市)[10.3km]
津田城(徳島県徳島市)[10.5km]
板西城(徳島県板野郡)[11.0km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)176 一宮城

設置場所

一宮城登山口説明板横[地図

一宮城の解説文



一宮城(いちのみやじょう)は、徳島県徳島市一宮町にあった日本の城。徳島県指定史跡。東山渓県立自然公園指定。とくしま市民遺産選定。

概要 

一宮城は、南北朝時代に天険を利用した山城で、のちに大幅に改修された。東竜王山の北東に延びた枝尾根の最先端にあり、本丸部分は標高144.3m、麓からの比高は約120mの山嶺に築かれ、石垣下は急傾斜となっている。北は鮎喰川、東は船戸川、園瀬川が天然の濠として、背後には四国山脈がひかえている。一宮城は南城と北城の二城から成り立っている。本丸は北城に属し、明神丸等の曲輪は南城に属し、山麓には居館があったと言われている。一宮城は徳島県内で最大級の山城である。三好氏と長宗我部氏の攻防の舞台にもなった。1954年(昭和29年)8月6日、徳島県指定史跡に指定。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(176番)に選定された。

沿革 

築城

阿波国守護である小笠原長房の四男小笠原長宗が、一宮宗成を滅ぼし1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)にこの地に城郭を築いて移り住み、一宮神社の分霊を城内に奉祀した。その後小笠原長宗は一宮氏を称し、一宮城は一宮氏が代々居城とし、神職も兼ねていたようである。 南北朝時代に小笠原長宗は南朝に属し活躍していたが、細川頼春は南朝の切り崩しにかかった。1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)大西城の小笠原義盛、白地城の大西氏を降して、一宮城に集中攻撃をかけてきた。1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)には小笠原長宗は病死し、息子の一宮成宗が城主となっており、細川頼之軍は手始めに夷山城を攻め、野田山城を焼き討ちした。その勢いに乗じて一宮城に攻め入り麓周辺を焼き討ちにした。一宮城が戦場になったのはこの時が初めてである。その後両者は度々合戦となったが、1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)細川頼之軍と戦って破れ、細川頼之との間で和睦を結び、一宮成宗は息子の一宮成行に城主を譲り、自身は重清城に隠居した。一宮成行は北朝に下りその後細川氏の被官となった。永正の錯乱以降、細川家の内乱で度々畿内に出軍した国人衆の中に一宮氏の名前が見られる。

一宮成祐時代

阿波国が細川氏に代わって三好氏が支配すると、一宮氏は三好氏と姻戚関係を結んで、一宮城の12代城主一宮成祐(小笠原成助)の時には、三好家臣団の中でも重要な地位を占める事になる。しかし三好長治が阿波国の国主となると、三好家臣団の重鎮であった篠原長房が上桜城の戦いで討ち取られ家臣団も分裂状態になる。天正5年(1577年)3月、三好長治は細川真之を討伐するため荒田野の戦いとなったが、細川真之に応じて伊沢頼俊、一宮成祐らが兵を挙げ、三好長治軍の背後を脅かした。そして三好軍が勝瑞城に引き揚げる途中、今切城に入城した三好軍を2千兵で包囲、3日間の攻防戦の上、今切城から脱出した三好長治を追いつめ、同年3月18日朝自害させた。この報を聞いた三好長治方の矢野国村は、勝瑞城で謀をめぐらし同年4月に伊沢頼俊の陣に攻めかけ滅ぼした。一宮成祐は孤立状態となり、香宗我部親泰を頼り長宗我部元親と誼を通じた。

これをうけ同年春頃に長宗我部元親は阿波国に侵攻、大西城を奪取した。威勢に乗った一宮成祐は、同年9月に勝瑞城に向けて一旦進軍したものの、宮城梅雪の言をうけ一宮城に帰城する。その最中、淡路軍が横合いから攻撃してきたが、一宮成祐はこれを破った。篠原自遁はこの状況を打開するため、紀伊国、淡路国の援軍をうけ7千の兵で一宮城を攻城した。この状況を不利と悟った一宮成祐は、一宮城を去り焼山寺に引き籠った。翌天正6年(1578年)正月、十河存保が勝瑞城の城主となったが、翌天正7年(1579年)12月脇城下で十河存保は打撃をうけ敗退、これが切っ掛けとなり一宮成祐は一宮城に帰城した。

天正8年(1580年)正月、一宮成祐は十河存保を忙殺しようとしたが、この事を察知した十河存保は十河城に逃れ、一宮成祐は念願の勝瑞城の城主となった。しかし翌天正9年(1581年)7月織田信長の命で十河存保は、長宗我部元親方の西庄城を攻め落とし、勝ちに乗じて勝瑞城を奪還し一宮城も攻めたが、一宮城は堅く安易には抜けず一宮成祐もよく防いだ。同年9月、長宗我部元親の名代が十河存保と面会し、2万余騎を率いて援軍に駆けつけると聞き、十河存保は囲みを解いて退却した。

翌天正10年(1582年)5月、三好康長は高屋城の戦いで織田信長に帰服し、織田政権の四国進出の先軍として阿波国に入国し、十河存保と共に一宮城と夷山城を収めた。ところが同年6月2日本能寺の変がおきると三好康長は急ぎ京に上がった。この機会を好機ととらえた長宗我部元親は2万3千兵を挙げて阿波国に侵入し、中富川の戦いで十河存保軍を破り阿波国を平定した。

一宮成祐は中富川の戦いで土佐勢の先鋒として活躍したが、長宗我部元親のもとに三好康長と一宮成祐が通じていたことが耳に入った。同年11月7日に恩賞の打ち合わせと偽って一宮成祐を夷山城に招いた。一宮成祐は数名の部下を引き連れて夷山城に向ったが、その途中長宗我部元親の家臣畑弥助の隊が一宮成祐を襲った。一旦は逃げたが次第に追い詰められ自害した。長宗我部元親は後の憂いを無くすため新開道善、細川真之など阿波国に招き入れた武将をことごとく殺害していった。

廃城

その後、長宗我部元親は一宮城に南城を新たに増築した。家臣である谷忠澄に南城、江村親俊に旧城であるが北城の城代とし多数の守備兵を配置した。天正13年(1585年)5月、羽柴秀吉の四国攻めでは主戦場の一つとなった。豊臣秀長が4万兵で攻城し一宮城は1万兵でよく守ったが、同年7月下旬開城した。

長宗我部元親が羽柴秀吉に降伏すると、同年9月羽柴秀吉は蜂須賀家政に阿波国を与え、家政は一宮城を居城とした。石垣を巡らした現在の遺構はこの時に大幅改修した。翌1586年(天正14年)に徳島城を築くとそちらに移り、家臣である益田持正が城代となった。阿波九城の一つとして徳島城の重要な支城に位置づけられていたが、一国一城令によって1638年(寛永15年)に一宮城は廃城となった。この時石材の一部は徳島城に運ばれ、修築に使われたという伝承がある。

歴代城主

歴代15代城主
何代城主 初代城主 2代城主 3代城主 4代城主 5代城主 6代城主 7代城主 8代城主
城主名 小笠原長宗
(一宮長宗)
一宮成宗 一宮義雄 一宮成行 一宮成良 一宮成賢 一宮成春 一宮久成
何代城主 9代城主 10代城主 11代城主 12代城主 13代城主 14代城主 15代城主
城主名 一宮成光 一宮成永 一宮成考 一宮成祐 谷忠澄
江村親俊
蜂須賀家政 益田持正

城郭 

一宮城は本丸を中心に、東西800m、南北500mの範囲で才蔵丸や明神丸、小倉丸などの曲輪が配置されている他、倉庫跡、畑跡、貯水池跡や、尾根筋には堀切、横堀、竪堀、小曲輪を配し、強固な防御としている。蜂須賀家政時代と思われる本丸部分の石垣は、徳島には産出例が多い結晶片岩の野面積みで、角石には立石を用いるなど近世城郭の初期時代と思われる。これらの石垣は、徳島県下では、池田城と同規模で、徳島城に次ぐ大規模なものとなっている。1817年(文化14年)に編纂された『一宮城古城跡書』によると、主要曲輪は6ヵ所、小規模なものを含めると13ヵ所の丸と呼ばれる曲輪があったと記載されている。

本丸

本丸は最高所に位置している。本丸だけは周囲に石垣が組まれており、廃城後は若宮八幡宮と呼ばれていた。石垣に沿っての本丸の大きさは、東北では36m、西北では23mある。本丸には天守台がないので、天守が建っていたかは不明だが、当時の一般的な情勢や、本丸の南側に礎石跡があることから、天守か天守に相当する建築物が建っていた可能性は高い。また本丸の東側には一ヵ所だけ虎口が設けられており、そこには櫓門になっていた。この部分は少しだけ低くなっており珍しい構造となっている。本丸の石垣の高さはまちまちだが東側は5mに達する。本丸のほとんどは急斜面になっている。1986年(昭和61年)春に本丸部分の石垣を徳島市が修復している。本丸の西側に一段下がった場所に釜床曲輪がある。本丸の虎口にある石段、本丸の礎石、そして釜床の石組は同世代の遺構と考えられている。

小倉丸

小倉丸の南側にあり、標高は123.4mに位置する。本丸の南側を防御するように作られた細長い曲輪で、曲輪の西南には高さ2mの土塁を巡らしている。本丸を背にする方向には土塁は無い。虎口は中央部に一か所あり、土塁の長さは内側で58mある。土塁は直線的なものではなく、地形に応じて少しずつ湾曲している。また土塁の北西に突出している櫓台になっている。現在の櫓台は崩壊しているが、以前は角のある方形の櫓台であったと考えられる。土塁の盛り土は風化があるためか、崩壊があり傾斜も緩い。また土塁の更に外側には空堀が巡らされている。この空堀は横移動が可能な通路としても利用されていたようで、西南の虎口と連結している。小倉丸は空堀、土塁、そして櫓台から横矢をかける仕組みとなっており、一宮城の南方防御の重要な拠点となっていた。

これ以外の北城部分としては、椎丸と水ノ手丸がある。双方とも貯水池を守るように配しており、土塁や竪堀、堀切で防御している。椎丸は主要6曲輪の中で最も小さく東西、南北20mになる。双方とも本丸方向にそれぞれ虎口が開けている。

一宮城の特徴は様々あるが、貯水池と陰滝も大きな特徴の一つとなっている。水を貯めていた土手も切られているが、当時は大きな貯水池があった。この貯水池があったらからこそ、豊臣秀長の猛攻に耐える事が出来たと考えられている。この貯水池を馬蹄形に囲むように、小倉丸、椎丸、水ノ手丸が配されており、またそれらの曲輪を連結するような小さい曲輪もあり防御施設が作られていた。

才蔵丸

才蔵丸は一宮神社から登城口から最初に到達する主要曲輪で、三の丸とも呼ばれている。標高は129.2mで、曲輪の形態は自然地形に沿って不整形で東西に細長く、曲輪内は平坦ではなく東方向にやや傾斜している。虎口は西端の一ヵ所あり、堀切に面している。才蔵丸の東の端には一段下がって曲輪を配し、そこから更に北側の稜線上には堀切があり、稜線上からの侵入者を防御している。

明神丸

明神丸の標高は140.9m、本丸との高低差は3.4mで、本丸より明神丸が東北にあることから眺望がよい。二の丸とも呼ばれている。明神丸の周囲にはほぼ一周する細い帯曲輪が取り巻いている。また、北側の尾根からの侵入を防ぐための空堀と階段状の曲輪が配置され、北西方向にも二重の空堀が設けられている。またこの曲輪には「剣山遙拝所」があったという伝承があり、南西部分には礎石と基段が残っている。その形より拝殿、本殿の形成が整った建物があったと推定されている。また本丸と明神丸の間を繋げていた長さ64m、幅13mの削平した帯曲輪がある。本丸を防御の意味からも重要な曲輪であった。この南側に一ヵ所、帯曲輪への虎口がありそこは石段になっている。

これ以外の南城部分としては、倉庫曲輪があり標高89.7mに位置し、この曲輪は必ず平坦ではなく自然の尾根に少し手を加えた平地にした程度で、ここから炭化した穀物が出土している。また一宮城には数多い水に関する史料が見受けられる。『伊藤文章』、『森古伝記』、『太閤記』、『異本阿波志』などには、羽柴秀吉の四国攻めで「水の手」にからむ攻防戦が行われたとの記載がある。貯水池以外にも、本丸下に空井戸跡があり、また才蔵丸周辺に湧水跡がある。この湧水跡が当時の物かは不明だが、小さな水源は数多くあったと考えられている。

御殿居(里城)

本丸から東北方向に約500mの地点に、「御殿居」と呼ばれている居館がある。正確な面積は不明だが、南北約140m、東西約130mと考えられている。この付近の標高は18mで内部には寄神社がある。御殿居の名称の由来は、土塁囲みの城、館からきており、日本各地には領主屋敷のとして地名が残っている例があり、一宮城の居館も堀と土塁で巡らしていたと思われているが、現在はそのような遺構は無く水田となっている。この居館は『三好記』にも、

とある。これは三好実休が阿波国守護である細川持隆を殺害したことに激怒し、久米義広が三好実休の妹婿であった一宮成祐がいる一宮城を攻城した部分である。ここにある下屋敷というのは居館、里城のことで、「要害きびしく」というのは、堀、土塁を巡らした居館を指すと思われている。

防備

現在の山道も一宮城への登城の一つとして使われた可能性はあるが、この城の大手は現在の山道とは違う場所にあったと考えられている。大手は天満谷筋に作られ谷の入り口、北町には家臣団屋敷のような平地が階段状に配され現在も住宅地となっている。谷筋を登っていくと保存状態の良い場所では道幅2mにもなり、現在の山道より広い。そこから更に登っていくと分岐点があり、西と東の倉庫曲輪に繋がっている。物資の搬入路としても使われたと考えられている。搦め手は、大手と反対側の南方の尾根続きであったと『名東郡史』に記されている。これ以外にも出撃や撤収に使われた道が数多くあったと堀切などによって推察できるが、道に関しては曲輪と違い大規模な工事を必要としないため、埋没しやすく廃城後の道とも区別がつきにくく、現在の山道は整備されているが、推定の大手、搦め手共整備されていない。

一宮城の主要6曲輪の虎口は平入りで、枡形や喰違のような虎口は見当たらない。枡形は近世城郭になって急速に発展するので、一宮城はそれより年代がさかのぼることになる。また一宮城からは瓦は出土されていない。これにより城内に建っていた建物はすべて板葺きの建設物の可能性がある。

一宮城には横面攻撃の工夫がある。才蔵丸と明神丸を区切る堀切から堀底道を通り、帯曲輪への門へ繋がっているが、ここは一段高い才蔵丸や明神丸の帯曲輪から側面攻撃をうける構造となっている。この堀底道には一ヵ所竪堀があり、あえて堀底道を狭くし進入速度を遅らす工夫がある。明神丸の虎口に向かう途中にも一段高い明神丸から側面攻撃をうけるなど、このような側面攻撃ができる場所は多数存在しており、防備に工夫が見受けられる。

城跡へのアクセス 

  • 車でのアクセス
    • 徳島自動車道 徳島IC → 国道11号 → 国道192号 → 徳島県道207号 → 徳島県道21号
    • 一宮神社に参拝者用無料駐車場有り
  • 徒歩でのアクセス
    • 登山口 → 本丸跡 徒歩約30分

参考文献 

  • 徳島県教育委員会『徳島の文化財』徳島県新聞社、2007年3月、317頁。
  • 村田修三編『図説中世城郭事典』第二巻 近畿2・中国・四国・九州、新人物往来社、1987年6月、177-179頁。
  • 山田竹系『四国の城』四国毎日広告社、1974年11月、111頁。
  • 相賀徹夫編著『四国の城』深訪ブックス[城8]、小学館、1981年7月、278-289頁。
  • 創史社『日本城郭大系』第15巻 香川・徳島・高知、新人物往来社、1979年12月、233-235頁。
  • 「阿波一宮城」編集委員会編『阿波一宮城』徳島市立図書館、1993年3月、61-143頁。

一宮城の口コミ情報

2024年01月25日 主税助ぶん
一宮城

本丸から、さらに進みました。難所ありの道を選択しましたら、鎖を持って降りる場所に行きつきました。道なき道もあり、1人ではかなり心細くなるような感じです。案内板がたくさんあり、素人では見逃すようなところもわかりやすかったです。

2024年01月05日 薊伍壱土佐守
一宮城



なんかラピュタみたいな石垣でカッコいいです。スタンプと御城印は登り口の場所に無人で設置されてますので、御城印を購入する人は百円玉が必要ですね。

2023年12月28日 RED副将軍
一宮城



緑色片岩の野面積みが美しい一宮氏の居城🏯

続日本100名城

1338年に小笠原長宗により築城。
小笠原長宗は、清和源氏の系譜で三代阿波国守護である小笠原長房の子の小笠原長久の四男であり、一宮国造であった一宮宗成を滅ぼした後に一宮城を築いて代々の居城とし、一宮氏を称しました。
ちなみに父の小笠原長久は、紀伊国牟婁郡安宅荘に入り、安宅長久を名乗り安宅氏の祖となった人物です。
南北朝時代には、一宮氏は南朝方に付きましたが、1362年に一宮長宗は北朝方である細川氏に降伏。その後、阿波国守護職となった細川氏に服従し重臣となりました。
戦国期になると、細川氏に代わって被官であった三好氏が勢力を拡大し実権を握ると、一宮成助は三好氏に従い、三好長慶の妹を妻に迎えて姻戚関係を結び、三好義賢の重臣となりました。
1562年に久米田の戦いで三好義賢が没して三好長治が家督を継ぐと、三好長治の失政もあり三好氏は弱体化。
1577年に細川真之と三好長治が対立すると、一宮成助は伊沢城の伊沢頼俊とともに細川真之に応じて挙兵。今切城の三好長治を攻め寄せて自刃に追い込みました。しかし伊沢頼俊は三好氏の旧臣により討たれ、一宮成助は孤立したため長宗我部元親と同盟を結び、三好氏の旧領である勝瑞城を巡って十河存保と争いました。
1582年に織田信長が本能寺で没すると、混乱に乗じて長宗我部元親は阿波へ侵攻し、中富川の戦いで十河氏を敗り阿波を平定。一宮成助も中富川の戦いでは先陣を切って奮戦し勝利に貢献したとされます。
しかし、一宮成助は夷山城に長宗我部元親に恩賞のことで呼び出されたところ、三好康長に通じたとの理由で謀殺され、一宮氏は没落しました。
一宮城には、長宗我部元親は北城に谷忠澄、南城に江村親俊を守将として置きましたが、1585年に豊臣秀吉による四国征伐において豊臣秀長の4万の大軍により包囲されると開城しました。
その後、阿波に入部した蜂須賀家政は一宮城を居城としましたが、徳島城を新たに築いて居城を移したため、阿波九城の一つとして徳島城の支城となり、城番として益田宮内を置きました。
1638年、一国一城令により廃城。

見所
鮎喰川南岸の四国山地から伸びる標高144mの尾根上に築かれています。
最高所の本丸を中心として東西約800m、南北500mにおよび才蔵丸・明神丸・小倉丸・椎丸・水ノ手丸などの曲輪群で構成された県内最大規模の山城です。
本丸は阿波特有の緑色片岩が美しい野面積みの石垣造りで東側に虎口が開口し石段が付いています。
本丸の東に明神丸があり、南側に石段が付いた虎口が開口しています。明神丸の東に堀切を挟んで財蔵丸があり、北側の尾根先に米倉と続いています。
本丸の西下には釜床跡があり、更に降りると堀切で区画された曲輪群が南尾根に連なり小倉丸に辿り着きます。小倉丸は西側に高土塁、北西に櫓台が付設され横堀状の通路が巡ります。
小倉丸から北へ尾根を進むと椎の丸、水の手丸、貯水池跡と続き、その下に陰滝があり麓に降りることができます。

行き方は、一宮神社を目標に設定し駐車場を利用させて頂きました。大日寺の向かいに登城口があり整備された登城路が付きます。
比高は120mほどで大したことはありませんが、城域は広く、小倉丸や椎の丸までは結構距離があるので時間に余裕があった方が良いです。

2023年04月19日 チュウ太
一宮城



登山口にスタンプ、御城印が置いてあります。四季バージョンで、今は春バージョンです。車でやって来て、そこで記念撮影だけして帰ってた人がいた。

2023年01月10日 尼崎城大膳大夫一口城主
一宮城



[後編:(下山編)本丸〜小倉丸〜貯水池〜陰滝]1月3日、上記のように本丸から下山。本丸から下っていくと投石用の石(写真①)がありました。弓や鉄砲に加えて石も飛び道具の一つだったんだなと実感できました。試しに持ってみましたがずっしりと重みがありこんな石が上から飛んできたら城攻めの兵達にかなりの衝撃を与えそうだな😱と感じられました。さらに下っていくと本丸〜才蔵丸に続く分岐点に堀切(写真②)があり、後でパンフレットを確認すると城内最大規模の堀切のようでした。さらに進んで小倉丸に上がってみると櫓台(跡:写真③)がありました。写真の通り周りの木々で景色はやや見えづらい現状ですが櫓が建っていれば戦時は西側の状況も良く確認出来たのではないかと思われます。椎(しいの)丸(写真④)、水の手丸(写真⑤)も見学してどんどん下っていくと<貯水池と堤跡>(写真⑥)がありました。籠城になっても備えは十分だったようです💧最後に陰滝(写真⑦)を見て下山。
下山後、四国の歩き遍路を再開しましたが一宮城から離れた一宮橋を北側に渡ったところに<一宮町、西丁の史跡図>(写真⑧※至る大日寺と書かれている方面に一宮城あり)があり眺めてみるとこちらのエリアにも史跡が数多くあるようでした。

2023年01月10日 尼崎城大膳大夫一口城主
一宮城



[前編:登山口〜倉庫跡〜才蔵丸〜本丸]1月3日、四国13番札所及び一宮神社前の登山口より倉庫跡、才蔵丸経由で登城。一宮城は続100名城に選ばれているお城でスタンプや御城印は案内板(写真①)のところにありました。御城印は無人販売でお釣りが出ないので百円玉を多めに用意したほうが良いかと思います。登山口の案内板付近にイノシシ🐗出没注意の貼紙がしてあったので登山前に一宮神社(写真②)で安全祈願をしてきました。進軍を開始すると道中倉庫跡(写真③)があり、立ち寄ってみたところ景色の良い所でした。説明板に以前は戦いのときに焼かれた「ヤケムギ」という炭化物が出ていたとありました。倉庫跡の出入口付近には竪堀があり撮影(写真④)。一宮城は縄張り名称を示す案内板🪧を数多く設置して下さっているので見落としそうになる縄張りを確認でき保存会の方々に感謝です😆
本丸まで200m地点(写真⑤)ですが上を見上げるとかなりの高低差のある才蔵丸があり戦いではかなりの効果を発揮しそうな曲輪だなぁと思い眺めていました。あとから縄張り図を確認すると才蔵丸に気を取られていると背後の明神丸からも攻撃されそうな挟み撃ち地点のようでした😱(堀切:写真⑥)才蔵丸に上がってみたところ東方面への視界が良好でした。(写真⑦)その後、本丸に向かい本丸上部に上がってみたところ思っていたよりも広いスペース(写真⑧)となっていました。下山時は、往路とは異なる陰滝を経由するルートを選んでみました。

2023年01月08日 蒲生左京進氏郷
一宮城



登りはタイトですが、石の階段は綺麗に整備されてます。本丸からの眺めはとても良いです。写真の添付を考えましたが、実際に登って観るのが良いと思いますので、眺め以外を添付します。

2022年07月31日 竹中摂津守じゅん兵衛
一宮城



大日寺のすぐ近くに大きな看板あり登城口は分かりやすい。スタンプ&御城印(300円)も入口備付けのポストにあります。今日は緑バージョンでした。山頂まで600m、道はバッチリ整備されてるので歩きやすいです。本丸跡は立派な石垣が目を見張ります、さすが続100名城認定の城跡です。

2022年07月04日 毘沙門天摂津守
一宮城



登城口前に車3台駐車できるスペースがあります。そこから本丸までは600m位ですが、けっこう勾配がきついです。しかし登りきった所の石垣はとてもいいです。是非登城をお勧めします。

2022年06月03日 右近衛大将ひらけん
一宮城



皆様書かれている通り良く整備されています。続100名城のスタンプは登城口の案内板の横のポストにありました。

2021年12月18日 やまてつ伊予守
一宮城



駐車場は大日寺を利用すると便利です。地域の方が階段を整備してくれています。所々、階段の間の土が流れているようなので、少し注意が必要です。

2021年03月30日 稲田阿波守植元
一宮城



登城口の所に御城印があります。四季に応じて4色あり3月末現在では黄色です。登城口に設置されている引き出しにあり一枚300円との事ですが貴方の善意次第で……w
なお、この御城印は薄い紙と薄いビニールで包まれただけでペラペラなので笑、入手してすぐに痛まないよう保存が必要かと。



2021年02月16日 織田上総介晃司
一宮城

登城口前の一宮神社参拝者用駐車場(有料)がありますが、軽かコンパクトカーがよくて2台といった感じ。道も狭いので無難に大日寺(第13番札所)の駐車場に停めたほうがいいです。今回大日寺の駐車場に停めさせていただきました。

地元の方が整備されているうえ、説明板もいたる所にあるので見落としもなく散策する事ができます。

リア攻めした日(2021/2/14)に小倉丸の発掘調査の現地説明会がありました。今後さらに解明されていくことでしょう。

地元に愛されている城だと実感しました。

2020年11月16日 マール
一宮城



徳島駅1番乗場から天が原行き6時25分発のバスで一の宮札所に6時54分に到着。ゆっくり色々と見ながら登城して、7時45分くらいに本丸跡へ。本丸跡の奥から陰滝側に行けますが、9時前には府中駅に着きたかったので合えなく断念。下山したらちょうど8時10分くらいでした。
本丸の石垣は味があって良いですね❗️

2020年09月29日 新田下野守信太郎
一宮城

登城口から本丸までは整備されていて、比較的登り易いです。しかし、周囲の林の中にスズメバチが巣を作っているらしく、登城中何度も姿を見かけました。今後登城を予定されている皆様、十分ご注意下さい。

2020年09月27日 おっさ琉球守
一宮城登山口説明板横[一宮城  スタンプ]



お城印は春夏秋冬異なるデザインで、写真は秋バージョン。登り口の続百名城スタンプと同じ所にあります。

2019年10月14日 澯鶏備後守❮❯
一宮城

続100名城のスタンプは、登山案内板の右側の赤いポストにありました。

2019年04月26日 西市正紫雲
秀長陣跡[一宮城  遺構・復元物]



辰ヶ山山頂には、阿波青石で組まれた立派なオカマゴと石柱があります。

2019年04月23日 稲田阿波守植元
曲輪[一宮城  遺構・復元物]



花畑と言う曲輪跡。名前と違い草木で覆われどういう遺構か全く分からない。確か徳島城にも同じ名前の曲輪があったような…

2019年04月23日 稲田阿波守植元
投石用の石[一宮城  遺構・復元物]



本丸をさらに進むと敵に投げつけるための石が用意されている。かなり原始的だが往時は切実な考えで準備されたのかも知れない。

2019年04月23日 稲田阿波守植元
明神丸の腰曲輪[一宮城  遺構・復元物]



明神丸の下にある腰曲輪。綺麗に刈られて分かりやすくなっています。

2019年04月23日 稲田阿波守植元
明神丸の礎石?[一宮城  遺構・復元物]



明神丸にある謎の石の台。コンクリートで作られているので明らかに往時のモノではないようだ。少しガッカリ。

2019年04月23日 稲田阿波守植元
一宮城登城口説明板[一宮城  碑・説明板]



登城口の説明板。一宮城は南北朝時代、小笠原(一宮)長宗が築城したのが始まりとされる。戦国時代、長宗我部侵攻により谷忠澄、江村親俊が城代になる。秀吉の四国征伐では主戦場となり羽柴軍4万が押し寄せ、長宗我部軍は1万で対峙するがついに降伏。以降、蜂須賀家家臣、益田氏が城代となるが、一国一城令により廃城となる。

2019年03月31日 馬秀のすけ
一宮城

直前に草刈りされたようで、小倉丸→椎丸→水の手丸への通路及び郭内が綺麗になってました。

刈り取られた草が山のようになっていて、土塁や櫓台のように見えた。水の手への道は多少危険な場所もあるが大したことない。蔭滝付近の岩場には危険なので鎖があった。雨が降りだしたが、大丈夫でした。すべての郭を回ったら二時間かかった。

2018年10月06日 
一宮城

台風24,25号の影響か、倒木や枝折れがあちこちで見てとれます。足元はかなり悪く、貯水池付近の登山道は川と化していました。軽装備で陰滝、貯水池方面へ向かうのは危険です。小倉丸付近の空堀を見学したら引き返すのが無難かと。

2018年09月12日 たつ征夷大将軍
一宮城

現在一宮神社前の登山口は大雨の影響で立入禁止になっています。
行こうとしている方は事前にチェックを!
せっかく行ったのにスタンプだけになってしまいました。。。
駐車場は登山口の前の一宮神社のところのスペースにコンパクトカーなら二台程度置けますがとても狭いです。
また満車の場合は通り過ぎてUターンは考えずにバックで県道に出た方が良いと思います。
交通量がそれなりに多いのでそれも危ないですが。
駐車場先の道路はかなり狭いので3ナンバーの車だとハマる可能性があります。

無難に大日寺の駐車場をお借りするのが良いかと思います。

2018年01月28日 木下近江守湖一郎
一宮城

麓からのアクセスもよく、遺構の保存状態も良い見に行きやすい、見応えのある城跡だと思います。
なにより、阿波青石の石垣はかっこよすぎて、山上のあの石垣を見るためにだけに行っても損はないでしょう。
なお、登城路にある畑跡辺りは戦後に改変を受けているとこのこと。畑跡周辺の石積みは、城跡周辺の畑の石積みと同じ積み方で、後世のものと想像できます。今年から発掘調査がスタートするとのことで結果が楽しみです。
登城中に地元の方、2人から「来てくれてありがとう」との声をかけていただきました。地元の方に愛される素晴らしい城跡でした。
最後に、、、登城後は徳島銘菓マンマローザで疲労回復を図ってください( ^∀^)

2017年06月06日 ダース兵衛太兵部卿
一宮城

一宮神社前に登山道の入口があり、向かって右手の案内板にパンフレットも入っている。
年に数回、保存会のメンバーや地元警察署の若手警察官らが草などを刈って整備しているので、非常に登りやすい。

車を駐車するところはほぼ無いが、四国遍路第12番札所の大日寺の駐車場が近くにあるので平日なら止められる。
後でお礼方々、お詣りもしましょう。

2017年01月08日 尻啖え孫市弾正尹
一宮城

長宗我部軍と羽柴軍の激戦があり、最後まで陥落しなかった堅城。車で行く場合、案内がなくわかりづらいので、山麓の一宮神社を目指して行くと良い。登山道目の前の一宮神社に一台程度の駐車場があり停められる(わずかでも玉串料(御賽銭?)を支払うとご利益ありかも…。)
メインの登山道は整備されていて中学生が部活の練習に使うほどで登りやすいが、裏手の陰滝経由の登山道は足場が悪く、鎖の手すりも設置されているぐらい峻険な場所もある。
本丸はそれほど広くない。中世の山城の山頂に無理やり石垣の天守台をはめ込んだみたいで違和感があったが、保存状態が よく、当日の面影を堪能できる。

2012年12月31日 【隠者】史学会帰新参
一宮城

路線バスで行くなら徳島駅から乗車、一宮札所前で降りる。バス停のすぐそばに一宮城の大きな説明板がある。

2010年09月19日 さまよえる蒼い信濃守弾丸
一宮城

一宮神社から登り口があり、20分ほどで各曲輪や本丸に辿り着くことができました。
本丸には初期織豊系の立派な石垣が有ります。

一宮城の周辺スポット情報

 才蔵丸虎口(遺構・復元物)

 明神丸の礎石?(遺構・復元物)

 明神丸の腰曲輪(遺構・復元物)

 本丸の石垣(遺構・復元物)

 投石用の石(遺構・復元物)

 曲輪(遺構・復元物)

 竪堀と横堀(遺構・復元物)

 椎丸(遺構・復元物)

 水ノ手丸(遺構・復元物)

 西丸台(遺構・復元物)

 秀長陣跡(遺構・復元物)

 一宮城登城口説明板(碑・説明板)

 正通寺跡(寺社・史跡)

 登山口 無人販売(御城印)

 一宮城登山口説明板横(スタンプ)

 一宮神社駐車場(駐車場)

 大日寺駐車場(駐車場)

 一宮城跡駐車場(駐車場)

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