一宮城(いちのみやじょう)

一宮城の基本情報

通称・別名

所在地

徳島県徳島市一宮町西丁237

旧国名

阿波国

分類・構造

山城

天守構造

不明

築城主

小笠原長宗

築城年

暦応元年〔北朝〕/延元3年〔南朝〕(1338)

主な改修者

蜂須賀家政

主な城主

小笠原氏、蜂須賀氏、益田氏

廃城年

寛永15年(1638)

遺構

曲輪、石垣、竪堀、横堀(空堀)、堀切、井戸跡、土塁

指定文化財

県史跡(一宮城跡)、とくしま市民遺産

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

矢野城(徳島県徳島市)[2.8km]
芝原城(徳島県徳島市)[6.5km]
夷山城(徳島県徳島市)[6.8km]
蔵本城(徳島県徳島市)[7.1km]
片志城(徳島県徳島市)[8.1km]

一宮城の解説文

一宮城(いちのみやじょう)は、徳島県徳島市一宮町に位置する日本の城。東山渓県立自然公園指定。とくしま市民遺産選定。

概要
一宮城は、南北朝時代に天険を利用した山城で、のちに大幅に改修された。東竜王山の北東に延びた枝尾根の最先端にあり、本丸部分は標高144.3m、麓からの比高は約120mの山嶺に築かれ、石垣下は急傾斜となっている。北は鮎喰川、東は船戸川、園瀬川が天然の濠として、背後には四国山脈がひかえている。一宮城は南城と北城の二城から成り立っている。本丸は北城に属し、明神丸等の曲輪は南城に属し、山麓には居館があったと言われている。一宮城は徳島県内で最大級の山城である。三好氏と長宗我部氏の攻防の舞台にもなった。1954年(昭和29年)8月6日、徳島県指定史跡に指定。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(176番)に選定された。

沿革
築城
阿波国守護である小笠原長房の四男小笠原長宗が、一宮宗成を滅ぼし1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)にこの地に城郭を築いて移り住み、一宮神社の分霊を城内に奉祀した。その後小笠原長宗は一宮氏を称し、一宮城は一宮氏が代々居城とし、神職も兼ねていたようである。

南北朝時代に小笠原長宗は南朝に属し活躍していたが、細川頼春は南朝の切り崩しにかかった。1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)大西城の小笠原義盛、白地城の大西氏を降して、一宮城に集中攻撃をかけてきた。1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)には小笠原長宗は病死し、息子の一宮成宗が城主となっており、細川頼之軍は手始めに夷山城を攻め、野田山城を焼き討ちした。その勢いに乗じて一宮城に攻め入り麓周辺を焼き討ちにした。一宮城が戦場になったのはこの時が初めてである。その後両者は度々合戦となったが、1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)細川頼之軍と戦って破れ、細川頼之との間で和睦を結び、一宮成宗は息子の一宮成行に城主を譲り、自身は重清城に隠居した。一宮成行は北朝に下りその後細川氏の被官となった。永正の錯乱以降、細川家の内乱で度々畿内に出軍した国人衆の中に一宮氏の名前が見られる。

一宮成祐時代
阿波国が細川氏に代わって三好氏が支配すると、一宮氏は三好氏と姻戚関係を結んで、一宮城の12代城主一宮成祐の時には、三好家臣団の中でも重要な地位を占める事になる。しかし三好長治が阿波国の国主となると、三好家臣団の重鎮であった篠原長房が上桜城の戦いで討ち取られ家臣団も分裂状態になる。天正5年(1577年)3月、三好長治は細川真之を討伐するため荒田野の戦いとなったが、細川真之に応じて伊沢頼俊、一宮成祐らが兵を挙げ、三好長治軍の背後を脅かした。そして三好軍が勝瑞城に引き揚げる途中、今切城に入城した三好軍を2千兵で包囲、3日間の攻防戦の上、今切城から脱出した三好長治を追いつめ、同年3月18日朝自害させた。この報を聞いた三好長治方の矢野国村は、勝瑞城で謀をめぐらし同年4月に伊沢頼俊の陣に攻めかけ滅ぼした。一宮成祐は孤立状態となり、香宗我部親泰を頼り長宗我部元親と誼を通じた。

これをうけ同年春頃に長宗我部元親は阿波国に侵攻、大西城を奪取した。威勢に乗った一宮成祐は、同年9月に勝瑞城に向けて一旦進軍したものの、宮城梅雪の言をうけ一宮城に帰城する。その最中、淡路軍が横合いから攻撃してきたが、一宮成祐はこれを破った。篠原自遁はこの状況を打開するため、紀伊国、淡路国の援軍をうけ7千の兵で一宮城を攻城した。この状況を不利と悟った一宮成祐は、一宮城を去り焼山寺に引き籠った。翌天正6年(1578年)正月、十河存保が勝瑞城の城主となったが、翌天正7年(1579年)12月脇城下で十河存保は打撃をうけ敗退、これが切っ掛けとなり一宮成祐は一宮城に帰城した。

天正8年(1580年)正月、一宮成祐は十河存保を忙殺しようとしたが、この事を察知した十河存保は十河城に逃れ、一宮成祐は念願の勝瑞城の城主となった。しかし翌天正9年(1581年)7月織田信長の命で十河存保は、長宗我部元親方の西庄城を攻め落とし、勝ちに乗じて勝瑞城を奪還し一宮城も攻めたが、一宮城は堅く安易には抜けず一宮成祐もよく防いだ。同年9月、長宗我部元親の名代が十河存保と面会し、2万余騎を率いて援軍に駆けつけると聞き、十河存保は囲みを解いて退却した。

翌天正10年(1582年)5月、三好康長は高屋城の戦いで織田信長に帰服し、織田政権の四国進出の先軍として阿波国に入国し、十河存保と共に一宮城と夷山城を収めた。ところが同年6月2日本能寺の変がおきると三好康長は急ぎ京に上がった。この機会を好機ととらえた長宗我部元親は2万3千兵を挙げて阿波国に侵入し、中富川の戦いで十河存保軍を破り阿波国を平定した。...

一宮城の口コミ情報

ダースベイダー弾正少弼様[2017年06月06日]
一宮神社前に登山道の入口があり、向かって右手の案内板にパンフレットも入っている。
年に数回、保存会のメンバーや地元警察署の若手警察官らが草などを刈って整備しているので、非常に登りやすい。

車を駐車するところはほぼ無いが、四国遍路第12番札所の大日寺の駐車場が近くにあるので平日なら止められる。
後でお礼方々、お詣りもしましょう。

尻啖え孫市下総守様[2017年01月08日]
長宗我部軍と羽柴軍の激戦があり、最後まで陥落しなかった堅城。車で行く場合、案内がなくわかりづらいので、山麓の一宮神社を目指して行くと良い。登山道目の前の一宮神社に一台程度の駐車場があり停められる(わずかでも玉串料(御賽銭?)を支払うとご利益ありかも…。)
メインの登山道は整備されていて中学生が部活の練習に使うほどで登りやすいが、裏手の陰滝経由の登山道は足場が悪く、鎖の手すりも設置されているぐらい峻険な場所もある。
本丸はそれほど広くない。中世の山城の山頂に無理やり石垣の天守台をはめ込んだみたいで違和感があったが、保存状態が よく、当日の面影を堪能できる。

尾張守だもんで様[2015年07月19日]
曲輪や竪堀などの案内が豊富なので城郭図なしでも大丈夫です。麓の一宮神社から城郭まで15分ほど。登山道は整備されていますが、石段の間に隙間のあるところが多数あるので注意してください。

常陸入道ねんさい和泉守様[2012年12月31日]
路線バスで行くなら徳島駅から乗車、一宮札所前で降りる。
バス停のすぐそばに一宮城の大きな説明板がある。

さまよえる蒼い美濃守弾丸様[2010年09月19日]
一宮神社から登り口があり、20分ほどで各曲輪や本丸に辿り着くことができました。
本丸には初期織豊系の立派な石垣が有ります。

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