十河城(そごうじょう)

十河城の基本情報

通称・別名

十川城、西尾城

所在地

香川県高松市十川東町

旧国名

讃岐国

分類・構造

平城

天守構造

なし

築城主

十河吉保?

築城年

南北朝時代

主な改修者

十河存保

主な城主

十河氏、長宗我部氏

廃城年

天正14年(1586)頃

遺構

曲輪、横堀(空堀)、堀切

指定文化財

市史跡(十河城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

由良山城(香川県高松市)[3.6km]
前田城(香川県高松市)[4.7km]
向城(香川県高松市)[7.0km]
由佐城(香川県高松市)[8.1km]
喜岡城(香川県高松市)[8.3km]

十河城の解説文

十河城(そごうじょう)は香川県高松市十川東町にあった平城。

概要
十河城は高松市の南部に位置し、春日川上流より南側にいくつもの丘陵があり、十河城もその丘陵上に築城された。現在の城跡は称念寺という十河氏ゆかりの寺となっており、称念寺一帯が本丸と考えられている。大正初期の整地で、城の遺構の大半が失われてしまった。

沿革
代々の城主であった十河氏とは、讃岐国山田郡を支配していた、植田氏の支族で1362年に細川清氏の陣に最初に馳せ参じたのが、十河吉保でこの時の様子を『南海通期』によると、

清氏の曰く、十河は庶子なれども惣領の挙動也とて、十河を以て惣領す

とあり十河吉保がこの地の惣領となった。これにより南北朝時代に十河氏によって築かれたと考えられている。以後8代目の十河景滋には子供がおらず、三好元長の子、三好長慶の末弟十河一存を養子に迎え入れる。十河一存は「讃岐守鬼十河」と言われた勇猛な武将であったが、この時はまだ幼少であったため三好存保を迎え入れ十河城の城主となった。

しかし、1561年に十河一存が急死(前年の有馬温泉での落馬が原因と言われる)、1562年には三好義賢が久米田の戦いで討死、その翌年には長慶の嫡男の三好義興が病死。有力な一族が次々に死亡する不幸に見舞われた三好長慶は、実弟である安宅冬康を無実の罪で誅殺するなど往年の覇気を失い、その後間もなく死去した。長慶の死後、三好政権の実権は松永久秀と三好三人衆が握るが、永禄の変や家中分裂によって畿内が混乱に陥る中で東からは織田信長が足利義昭を奉じて上洛、西からは長宗我部元親が阿波へ侵攻し、三好氏は急速に弱体化していく。

第一次十河城の戦い

長宗我部元親、香川親和連合軍は、兵をあげ讃岐国に侵攻してきた。天正10年(1582年)8月6日、香西佳清が立て篭もる藤尾城に攻め入ったが香川之景の仲介の基、香川親和軍に降伏した。香西佳清隊1千兵を味方に加えた香川親和軍は、同月11日に讃岐国分寺を1万1千兵で出軍、十河城を取り囲んだ。当時十河存保は勝瑞城におり、十河存之が城代として城を守っていたが、1万の大軍との報が入ると、長期戦を覚悟し城兵を1千兵迄絞り込み、兵糧三ヶ月分を積んで、籠城戦の準備を整えた。

香川親和軍は平木周辺に着陣し、十河城周辺の麦薙、苗代返しを行った。この時の様子を

敵兵万余人、山田郡ニ入テ秋毛ヲ刈リ菽栗ヲヒキ抜テハ馬ノ食ヲ足シム程幾日モナク野ヲ清ミ、凡民ノ寄ルベキ便モナク、四方ニ惑ヒ行クコト疎マキコト也。...

十河城の口コミ情報

まー宮内卿様[2015年10月11日]
十河歴史資料館は御子孫の方が管理していますが資料館とは言い難い建物でわかりづらいです。昭和おもひで館にいる方に資料館のことを尋ねて下さい。その方こそ御子孫の方です。

十河城の周辺観光情報

塩江温泉郷

塩江温泉郷は約1300年前の奈良時代に僧行基によって発見され、弘法大師空海が湯治の地として伝えたという由緒正しき温泉エリアの総称。県内最古の温泉郷で「高松の奥座敷」として親しまれている。

詳細はこちら

情報提供:高松市観光交流課
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