勝瑞城(しょうずいじょう)

勝瑞城の基本情報

通称・別名

阿波屋形、下屋形、勝瑞屋形、勝瑞城館

所在地

徳島県板野郡藍住町勝瑞字東勝地(勝瑞城址公園)

旧国名

阿波国

分類・構造

平城

天守構造

なし

築城主

小笠原長清

築城年

鎌倉時代前期

主な改修者

三好実休

主な城主

小笠原長清、細川氏、三好氏

廃城年

天正10年(1582)

遺構

曲輪、土塁、横堀(水堀)

指定文化財

国史跡(勝瑞城館跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

今切城(徳島県徳島市)[4.5km]
蔵本城(徳島県徳島市)[5.8km]
鈴江城(徳島県徳島市)[5.9km]
木津城(徳島県鳴門市)[6.6km]
板西城(徳島県板野郡)[6.6km]

勝瑞城の解説文

勝瑞城(しょうずいじょう)は、徳島県板野郡藍住町勝瑞(阿波国板野郡勝瑞)にあった日本の城(平城)。平城跡と居館跡が2001年(平成13年)に国の史跡に指定され、その後の発掘で新たに確認された部分が2007年(平成19年)に追加指定された。阿波国の守護所であり、近年の発掘調査でその繁栄の一端をうかがうことができた。現在も断続的に発掘調査が行われている。

概要
勝瑞城は鎌倉時代から安土時代まで、淡路国、讃岐国、阿波国の政治、経済、文化の中心地として、天下の勝瑞として名をなし、日本の中世史上重要な城跡である。旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側には今切川、南側には湿地帯に接している。現在は吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと思われている。海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、紀伊水道を隔てて京畿にも便利な要害の地でもあった。当地域は暴れ川「四国三郎」の分支流の多い場所で、平地の要塞というよりも、守護の居館、政庁としての性格の強い城で、城の構えは広大であった。室町時代の守護所のプランをよく伝える貴重な遺構である。

中世地方都市して他に類例をみないほど城下町が繁栄し、細川氏9代、三好氏3代の約240年の根拠地として歴史の舞台となった。

勝瑞城は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあり、城跡は東西約80m、南北約60mの方形で、周囲は幅14mの水濠が巡り、一部土塁が現存し、細川氏の守護所、三好氏の居館跡であったと思われていた。しかし、近年に行われた発掘調査によると、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、最後の砦として築かれた可能性が指摘されている。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(175番)に選定された。

沿革
鎌倉・南北朝時代
築城年代については諸説あるが、承久の乱の後、阿波守護になった小笠原長清が守護所を設けたのが始まりという説もある。 その後、南北朝時代の1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)1月、室町幕府の管領細川清氏は、讒言によって征夷大将軍足利義詮により追放され、四国に逃れ讃岐国の白峰城に立て篭もり叛乱を起こした。この時阿波の管領細川頼之は秋月城を居城としていたが、幕命によってこれらを討伐し四国を平定した。阿波・讃岐を三分割し、東讃岐は頼之に、西讃岐を弟の細川頼有へ、そして阿波を弟の細川詮春に与えた。もともとこの地は井隈庄と呼ばれていたが、戦勝を記念して地名を勝瑞に改称されたと言われている。1363年(南朝:正平18年、北朝:貞治2年)に秋月城から勝瑞城に移り、その後阿波守護細川氏・三好氏の歴史を綴ることになる。ただし、1340年(南朝:興国3年、北朝:暦応3年)に細川和氏の隠居城として築城されたとする説(『細川三将略伝』)、1338年(南朝:興国元年、北朝:暦応元年)に細川頼春が築城したとする説(『細川岡城記』)などの異説も存在している。

その後頼之は上洛し、征夷大将軍足利義満を補佐し三管領の一人として幕府の実権を握り、天下に号令する事になる。この時京の屋敷を「管領屋形」や「上屋形」と称し、勝瑞城を「阿波居館」や「下屋形」と呼ばれており城下は大変賑わった。特に7代城主の細川成之の活躍は目覚ましく、1462年(寛正3年)に管領代となった頃から中央政府にも積極的にかかわり、応仁の乱では8千兵率いて上洛した。また細川成之は東山文化を代表する文化人であり、公家、僧侶、学者、歌人、連歌師、書家、絵師、芸能人などの交遊があり、城下にはこれの人たちの来遊も多く、京都と直結した文化都市として機能していたと『日本城郭大系』では指摘している。

戦国時代
応仁の乱後、世の中は戦国時代となり下剋上が横行し、京も内紛が起こった。管領細川政元は大きな権力を持っていたが、政元に子が無く養子として関白九条政基の子である細川澄之、阿波守護家から細川澄元、野州家からは細川高国の3人を迎えたが、三者の間で跡目をめぐる争いが起こり、永正4年(1507年)6月に澄之の勢力は政元を暗殺してしまう(永正の錯乱)。政元を殺害した澄之が家督を継いだが、其れを良しとしない澄元は重臣の三好之長と兵を挙げ、京に攻めのぼり澄之を討ち取り家督を継いだ。ところが、周防国に逃れていた前征夷大将軍足利義稙は大内義興、細川高国の助けを借り、大軍を率いて上洛する。両軍は永正6年(1509年)6月京、如意ヶ嶽付近で衝突、合戦(如意ヶ嶽の戦い)となり、澄元は破れ阿波に撤退した。この争いの結果、足利義稙は将軍に返り咲き、細川高国は管領職、大内義興は管領代に据えられた。

その後両軍は深井の合戦、芦屋河原の合戦、船岡山合戦など幾度と合戦となるが、永正16年(1519年)11月の越水城の合戦で澄元は勝利、之長が京都を占拠したが、翌永正17年(1520年)の等持院の戦いで高国の反撃に遭い之長は敗死去、澄元は摂津から播磨国を経由して阿波に逃れたがそのまま病没した。一時期勢いが薄れていた阿波方であったが、勝瑞城の城主は細川持隆となり、之長の孫三好元長が三好氏の党首となると次第に威勢を盛り返し、足利義維、細川晴元(澄元の子)を奉じて再挙を図った。大永6年(1526年)12月堺から上陸、桂川原の戦いとなり細川高国を京から駆逐し、享禄4年(1531年)2月中嶋の戦い、大物崩れとなり尼崎で宿敵細川高国を敗死させ、細川晴元を管領職につけた。永正の錯乱から始まった養子三兄弟の争いは、幕を閉じる事になる。しかし、その三好元長は飯盛城の戦いで細川晴元によって滅ぼされてしまった。三好元長の息子である三好長慶は、江口の戦いで京より細川晴元を追放、13代征夷大将軍に足利義輝を管領職には細川氏綱を就け中央政権を握った。1552年(天文21年)阿波方では、勝瑞城の城主は引き続き細川持隆が取り仕切り、その重臣として三好長慶の弟三好実休が兵権を握っていた。...

勝瑞城の口コミ情報

織田左兵衛督晃司様[2017年09月19日]
今回、車は近くのコンビニに停めました。
城跡に建つ見性寺(三好家の菩提)に停める事ができるらしいですが、基本駐車場は無いと思ってください。

土塁と水堀が遺構として残ってます。

続百名城に指定されて妙な観光地化だけはしてほしくはないです。

民家が写らないように写真を撮るのに苦労しました。

若狭守次郎吉様[2016年07月29日]
JR高徳線 勝瑞駅より徒歩10分程の所にある。

現在、城郭(本丸跡)には見性寺というお寺が建っている。見性寺は勝瑞城城主であった三好氏の菩提寺で、境内には三好氏累代の墓がある。

勝瑞城跡は水堀・土塁・郭が遺構として残っている。特に水堀は見事なもので、城郭(寺の境内)を一周囲んでいる。幅が狭くなっているところもあるが、ほとんどが昔の形を残している。

土塁は一部しか残っていないようだが、立派なものが残っている。

境内から木橋で水堀を渡った所にある、銀閣寺風?の建物がトイレである。

説明板もあるので初心者にも分かりやすい城跡だと思います。

参議一之介様[2016年07月12日]
高徳線勝瑞駅横の踏切を渡り、大通りに突き当たったら左前に緑地が見えてきます。徒歩8分ほどです。お寺(宗教団体?)が敷地内に建っています。
水堀跡がいい状態で残っていますが、夏場は雑草が目立つので、冬場に訪れた方がいいかもしれません。
観光地化されていない城跡には珍しく、トイレが完備されています。

日本史跡研究会様[2016年02月29日]
3/27、発掘調査現地説明会が実施されます。
導入水路などの遺構が確認されたようです。

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