勝瑞城(しょうずいじょう)

勝瑞城の基本情報

通称・別名

阿波屋形、下屋形、勝瑞屋形、勝瑞城館

所在地

徳島県板野郡藍住町勝瑞字東勝地(勝瑞城址公園)

旧国名

阿波国

分類・構造

平城

天守構造

なし

築城主

小笠原長清

築城年

鎌倉時代前期

主な改修者

三好実休

主な城主

小笠原長清、細川氏、三好氏

廃城年

天正10年(1582)

遺構

曲輪、土塁、横堀(水堀)

指定文化財

国史跡(勝瑞城館跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

今切城(徳島県徳島市)[4.5km]
蔵本城(徳島県徳島市)[5.8km]
鈴江城(徳島県徳島市)[5.9km]
木津城(徳島県鳴門市)[6.6km]
板西城(徳島県板野郡)[6.6km]
芝原城(徳島県徳島市)[7.0km]
徳島城(徳島県徳島市)[7.0km]
夷山城(徳島県徳島市)[9.4km]
矢野城(徳島県徳島市)[9.5km]
津田城(徳島県徳島市)[10.1km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)175 勝瑞城

設置場所

勝瑞発掘現場事務所(平日のみ)[地図
武田石油(土日のみ)[地図

勝瑞城の解説文



勝瑞城(しょうずいじょう)は、徳島県板野郡藍住町勝瑞(阿波国板野郡勝瑞)にあった日本の城(平城)。平城跡と居館跡が2001年(平成13年)に国の史跡に指定され、その後の発掘で新たに確認された部分が2007年(平成19年)に追加指定された[1][2][3]。阿波国の守護所であり、近年の発掘調査でその繁栄の一端をうかがうことができた。現在も断続的に発掘調査が行われている[4]

概要 

勝瑞城は鎌倉時代から安土時代まで、淡路国、讃岐国、阿波国の政治、経済、文化の中心地として、天下の勝瑞として名をなし、日本の中世史上重要な城跡である。旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側には今切川、南側には湿地帯に接している。現在は吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと思われる。海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、紀伊水道を隔ててはいるが、京畿への往来も容易であった。当地域は暴れ川「四国三郎」の分支流の多い場所で、平地の要塞というよりも、守護の居館、政庁としての性格の強い城で、城の構えは広大であった。室町時代の守護所の様態をよく伝える貴重な遺構である。

中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄し、細川氏9代、三好氏3代の約240年の根拠地として歴史の舞台となった。

勝瑞城は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあり、城跡は東西約80m、南北約60mの方形で、周囲は幅14mの水濠が巡り、一部土塁が現存し、細川氏の守護所、三好氏の居館跡であったと思われていた。しかし、近年に行われた発掘調査によると、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、最後の砦として築かれた可能性が指摘されている。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(175番)に選定された。

沿革 

鎌倉・南北朝時代

築城年代については諸説あるが、最も早くは承久の乱の後、阿波守護になった小笠原長清が守護所を設けたという説がある。

その後、南北朝時代の1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)1月、室町幕府の管領細川清氏は、征夷大将軍足利義詮により追放され、四国に逃れ讃岐国の白峰城に立て篭もり叛乱を起こした。この時阿波の管領細川頼之は秋月城を居城としていたが、幕命によってこれらを討伐し四国を平定した。阿波・讃岐を三分割し、東讃岐は頼之に、西讃岐を弟の細川頼有へ、そして阿波を弟の細川詮春に与えた。もともとこの地は井隈庄と呼ばれていたが、戦勝を記念して地名を勝瑞に改称したと言われる。頼之は翌1363年(南朝:正平18年、北朝:貞治2年)に秋月城から勝瑞城に移り、その後阿波守護細川氏・三好氏の歴史を綴ることになる。ただし、1340年(南朝:興国3年、北朝:暦応3年)に細川和氏の隠居城として築城されたとする説(『細川三将略伝』)、1338年(南朝:興国元年、北朝:暦応元年)に細川頼春が築城したとする説(『細川岡城記』)などの異説も存在する。

その後頼之は上洛し、征夷大将軍足利義満を補佐し三管領の一人として幕府の実権を握り、天下に号令する事になる。このころ京の屋敷を「管領屋形」や「上屋形」と称したのに対し勝瑞城は「阿波居館」や「下屋形」と呼ばれ、その城下は賑わったと言われる。特に7代城主の細川成之の活躍は目覚ましく、1462年(寛正3年)に管領代となった頃から中央政府にも積極的にかかわり、応仁の乱では兵8千を率いて上洛したという。また細川成之は東山文化を代表する文化人であり、公家、僧侶、学者、歌人、連歌師、書家、絵師、芸能人などの交遊があり、城下にはこれの人たちの来遊も多く、京都と直結した文化都市として機能していたと『日本城郭大系』は指摘する。

戦国時代

応仁の乱後の日本は戦国時代となった。管領細川政元は大きな権力を持っていたが、政元に子が無く養子として関白九条政基の子である細川澄之、阿波守護家から細川澄元、野州家からは細川高国の3人を迎えたが、三者の間で跡目をめぐる争いが起こり、永正4年(1507年)6月に澄之の勢力は政元を暗殺してしまう(永正の錯乱)。政元を殺害した澄之が家督を継いだが、其れを良しとしない澄元は重臣の三好之長と兵を挙げ、京に攻めのぼり澄之を討ち取り家督を継いだ。ところが、周防国に逃れていた前征夷大将軍足利義稙は大内義興、細川高国の助けを借り、大軍を率いて上洛する。両軍は永正6年(1509年)6月京、如意ヶ嶽付近で衝突、合戦(如意ヶ嶽の戦い)となり、澄元は破れ阿波に撤退した。この争いの結果、足利義稙は将軍に返り咲き、細川高国は管領職、大内義興は管領代に据えられた。

その後両軍は深井の合戦、芦屋河原の合戦、船岡山合戦など幾度と合戦となるが、永正16年(1519年)11月の越水城の合戦で澄元は勝利、之長が京都を占拠したが、翌永正17年(1520年)の等持院の戦いで高国の反撃に遭い之長は敗死去、澄元は摂津から播磨国を経由して阿波に逃れたがそのまま病没した。一時期勢いが薄れていた阿波方であったが、勝瑞城の城主は細川持隆となり、之長の孫三好元長が三好氏の党首となると次第に威勢を盛り返し、足利義維、細川晴元(澄元の子)を奉じて再挙を図った。大永6年(1526年)12月堺から上陸、桂川原の戦いとなり細川高国を京から駆逐し、享禄4年(1531年)2月中嶋の戦い、大物崩れとなり尼崎で宿敵細川高国を敗死させ、細川晴元を管領職につけた。永正の錯乱から始まった養子三兄弟の争いは、幕を閉じる事になる。しかし、その三好元長は飯盛城の戦いで細川晴元によって滅ぼされてしまった。三好元長の息子である三好長慶は、江口の戦いで京より細川晴元を追放、13代征夷大将軍に足利義輝を管領職には細川氏綱を就け中央政権を握った。1552年(天文21年)阿波方では、勝瑞城の城主は引き続き細川持隆が取り仕切り、その重臣として三好長慶の弟三好実休が兵権を握っていた。 ここに小少将という人物がいる。『三好記』によると小少将は絶世の美女と評されている。細川持隆は小少将におぼれ、防備を怠り酒池肉林の生活を続けていた。小少将が産んだ細川真之めぐるお家騒動もあり、天文21年(1552年)8月、三好実休は謀反をおこし、細川持隆を自害させ勝瑞城を奪取した。ここに阿波方細川氏は滅亡した。その後小少将は三好実休の夫人となり、以降「大形殿」と名を改めた。その三好実休は1562年(永禄5年)和泉国に出軍し、久米田の戦いとなったが戦死してしまい、その子三好長治が勝瑞城の城主となった。

安土時代

三好実休が亡き後、大形殿はますます妖艶さ磨きがかかり、三好氏の家臣木津城城主篠原自遁と通じ、人目をはばからぬ乱倫ぶりであったと伝わっている。これに憤慨した上桜城城主篠原長房が自遁を戒めたが、反感をかい三好長治の讒言により、上桜城の戦いとなり攻め滅ぼされてしまった。奸臣にまどわされ、忠臣だった篠原長房を討ち取った三好長治は日夜酒宴にふけり政治も混沌としていた。

三好氏が織田信長の出現によって徐々に畿内より遠ざかっていき、勝瑞城でも三好長治の信望が衰えていくと、重臣たちも離れていき、1576年(天正4年)細川真之が突如勝瑞城を出奔して自立を図ると、1577年(天正5年)に三好長治は細川真之を奉じる小笠原成助らの軍勢に勝瑞城を追われ、同年3月に長原の地で自害して果てた。しかしこれが長宗我部氏を阿波国に誘因する結果となり、1582年(天正10年)長宗我部元親の侵攻を受け、中富川の戦いとなり長治の弟・十河存保は讃岐国に敗走し、城は同年9月21日廃城となった。廃城に伴って勝瑞城を防備してきた板西城、姫田城、西条城等の支城も運命を共にした。

その後の戦いの様子は、十河城の戦い及び羽柴と長宗我部の対立を参照。
長宗我部軍によって破却された勝瑞城は徳島城築城の際に石塁や遺構の多くが持ち運ばれたという伝承が残っている。阿波国の国侍は、堺や兵庫に上陸して戦い、戦いに疲れ阿波国に帰国し傷を癒して、また海を渡る拠点となっていた勝瑞城であったが、その約240年に渡り続いた歴史に終止符がうたれた。

城郭 

城域は、行政区画である字東勝地と字西勝地を合わせた部分とほぼ一致している。その形は付近の自然堤防と一致しており、中世都市を思わせる地割が残り、北から西にかけて土塁をめぐらし、この土塁は防御施設だけではなく旧吉野川の洪水にも備えていた。南側はと自然堤防と背後湿地の境に沿って堀があり南限を区切っているが、更に一定の距離を隔てて「南千間堀」と呼ばれる堀跡が残っている。現在の堀は農業用、排水路として残しているものの狭くなり、土塁も大部分は削られている。また勝瑞城は、中世の城郭ながら、かなりの規模の城下町が形成していたと思われ、東西約2km、南北1.5kmに達していた。大門跡から矢上西の西町には数多くの社寺があり、城下全体では27ヵ寺があったとされ、寺町を形成し、北方には市場があり物資が集散し、その東側には馬詰めがあり軍馬を養っていた。城下には武家屋敷や町屋、職人町もあった。「勝瑞城跡」の北側には小字名で「渡り」という地名が残っている。渡り七軒と言われていた7軒の家のうち数軒が400年以上経った現在でも残っている。ここは、堤防が湾曲して入り込んでおり、北側の墓地へ繋がる道が当時の土手になっており、周辺は簡易な湾岸施設が想定されている。

本丸

城域の中央部に水濠で囲まれた、三好氏の菩提寺、見性寺が残っている。長方形で一般的には「本丸」と呼ばれている。平城としては保存状態はよく、南北約60m、東西約84mで、濠の幅は埋められて狭くなっている部分もあるが16mという部分もある。濠の盛土は土塁や本丸の盛られたようで、周りの土地に比べて2-3m高くなっている。見性寺は江戸時代中期に三好氏歴代の墓を一か所に移転してきたものである。

勝瑞城跡は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地となっていた。1994年(平成6年)に行われた発掘調査で、城は16世紀末に造られ、短期間のうちに廃城となったことが明確になり、中富川の戦いの時に急造された詰めの城として築かれた。

居館

史料等に鎌倉時代から残されている勝瑞城を明確にするため、地名の再検討、伝承の検討、明治時代初頭の地籍図、1945年(昭和20年)の米軍航空写真を使い、地割の復元をした結果、現在の本丸跡から南へ150mの地点に、東西約120m、南北約150mの方形区画が見つかった。その確認調査として藍住町教育委員会と徳島県教育委員会により1997年(平成9年) - 2000年(平成12年)まで発掘調査が行われ、濠幅約12mに囲まれた東西約120m、南北約150mであることが明確となった。この居館の構造、出土遺物の質、量から三好実休の居館跡と推定されている。本丸と呼ばれる「勝瑞城跡」と三好実休の居館跡は「勝瑞城館跡」として国の史跡に指定されている(2001年1月29日指定)。勝瑞城跡8568.38m2、勝瑞城館跡33246.96m2が指定範囲となった。また2004年(平成16年) - 2005年(平成17年)の発掘調査で、この居館から南方向に東西40m以上、南北30mの池跡が発掘された。発掘庭園としては、日本国内最大級の池庭となる。中央には岬があることから、池全体は「つ」の字のような形をしている。小さな石が州浜に敷き詰めてあり、護岸には石積みがされ、景色に演出がなされていた。

2000年(平成12年) - 2001年(平成13年)では勝瑞城館跡の東側を発掘調査行い、大規模な礎石建物跡が見つかり、館跡はこれより東側に広がる可能性が出てきた。2004年(平成16年)からは「室町ロマン勝瑞再生プロジェクト」が開始され、規模を拡大して発掘調査が行われることになった。2007年(平成19年)2月7日、館跡の東側部分8800m2が国の史跡に追加指定された。大規模な濠で区分けされた複数の曲輪からなる複郭式の館跡であると推定されている。

枯山水庭園

1999年(平成11年)に行われた発掘調査では、曲輪の一つから枯山水庭園が発掘された。景石は12石で50cm - 1mの小ぶりの石で、組み合わせず単独で配置されていた。この12個のうち9個は緑色片岩で、吉野川南岸の四国山地に多く見られる。また、この北側にはこの庭園を観賞するための会所の建物跡が発見された。規模は桁行七間、梁観四間半で、柱間寸法は1m97cmを測る。その会所はテラスのような施設が想定され、景石まで約3mに位置し、景勝するのに最適に位置する。この庭園の造営年代はかわらけなどの出土物より16世紀後半と考えられている。また廃絶の時期は会所と同時と考えられ、会所の礎石の周辺からは大量の炭化物、焼けた壁土を含んだ層が覆われ、礎石や景石の一部に熱を受けた痕跡が認められている。このことから枯山水庭園や会所は火災によって廃絶したと考えられている。この年代では、1582年(天正10年)長宗我部元親の侵攻を受けたが、この時に火災によって庭園及び会所は廃絶した可能性が高いと考えられている。

その他遺構・遺物

それ以外の遺構としては、瓦組井戸が2つ出土した。このような形式の井戸は15世紀後半堺で始まり、大阪で普及したようである。土器の検出例から16世紀後半以前に、掘られたものである事が明確になった。徳島県内では江戸時代以降に瓦組井戸の出土例があり、勝瑞城には早い時期からこのような技術が入っており、堺との繋がりが考えられる。

また濠から永禄7年(1564年)の紀年銘が入った卒塔婆が発掘された。その他羽子板や漆碗や和歌が彫られた硯など多数の遺物が出土している。

支城

勝瑞城にはいくつかの支城、出城が備わっていた。

城跡へのアクセス 

  • 電車でのアクセス
    • JR 高徳線勝瑞駅 西へ600m程(徒歩約10分)
  • バスでのアクセス
    • 徳島バス 鍛冶屋原線(住吉経由便)・北島藍住線 勝瑞西バス停 西へ100m程(徒歩約2分)
  • 車でのアクセス
    • 神戸淡路鳴門道 鳴門IC → 国道11号 → 県道14号線
    • 高松道 板野IC・徳島道 藍住IC → 県道1号線 → 県道14号線
    • 勝瑞城前に無料駐車場有り(10台程度駐車可)

参考文献 

  • 創史社『日本城郭大系』第15巻 香川・徳島・高知、新人物往来社、1979年12月、192-194頁。
  • 村田修三編著『図説中世城郭事典』第三巻、新人物往来社、1987年7月、174-176頁。
  • 井上宗和『四国の城と城下町』歴史発見の旅、愛媛新聞社、112-114頁。
  • 相賀徹夫編著『四国の城』深訪ブックス[城8]、小学館、1981年7月、291-293頁。
  • 『長宗我部元親』歴史群像シリーズ特別編集、学研パブリッシング、2009年11月、28-29頁。
  • 藍住町実行委員会『戦国浪漫・勝瑞探訪』よみがえる三好氏の文化、藍住町実行委員会。
  • 藍住町教育委員会『ようこそ 勝瑞城館跡へ』藍住町教育委員会。
  • 藍住町教育委員会社会教育課『国史跡「勝瑞城館跡」』枯山水庭園、藍住町教育委員会社会教育課、2008年9月。
  • 藍住町教育委員会社会教育課『発掘だより』vol.3勝瑞館跡第15次発掘調査、藍住町教育委員会社会教育課、2008年11月。
  • 若松和三郎『阿波細川氏の研究』戎光祥出版、2013年6月(原著:『中世阿波細川氏考』私家版、2000年)

勝瑞城の口コミ情報

2022年09月04日 やまてつ伊予守
勝瑞城



城跡には見性寺があります。土塁や堀がありますが、復元されたものです。近くのガソリンスタンドで、御城印も販売されてます。

2022年07月23日 小太郎修理大夫南海道15國守
武田石油[勝瑞城  御城印]



武田石油さんで限定御城印購入しました。一枚1500円で、天下人三好長慶のものと阿波国主三好実休名入のものがそれぞれあります。本年7月23日現在情報。

2022年06月08日 小太郎修理大夫南海道15國守
武田石油[勝瑞城  御城印]



勝瑞城御城印。勝瑞城城館跡北西に位置する武田石油さんで、購入できます。阿波和紙を藍染にし、地元書道家により、金色文字、末広がりの形に縁起よく作成されています。一枚600円で、近々限定御城印も登場予定とのことです。

2021年11月05日 数珠丸恒次左近衛大将ヒロティー
勝瑞城

こぢんまりとした城跡です。近くに館跡資料館もあります。

2021年07月27日 スイトピー❁ 伊予守
勝瑞城



勝瑞城跡へはJR勝瑞駅から徒歩約10分ほど。室町時代から戦国時代に阿波の中心として栄えた勝瑞。点在するいくつもの史跡は周辺地図を片手にゆっくり時間をかけて巡るのがオススメ。また、平成13年に国指定史跡となった勝瑞館跡とセット見学必須です。
城下町を形成していたと思われる勝瑞城は周囲には堀をめぐらし、東西南北の一区画をなしてここに本丸とし、その周りに重臣居宅や商家が軒を並べていたという。三好家の菩提寺である見性寺の境内には、歴代の墓とされる4基の五輪塔や勝瑞義冢碑がある。

その南側に位置する勝瑞城館跡は現在も発掘調査が行われてるそう。長宗我部氏の勝瑞侵攻に備えて築いた防御施設だと考えられている曲輪で、土塁の一部と濠を見ることが出来ます。発掘調査により大規模な濠に囲まれた区画、庭園、建物跡などが検出されかなりの見応えあります。濠の幅は10m以上、深さ3〜3.5m。
阿波の中世城館の特徴の一つに防御機能があまり発達しないことが挙げられますが、その後の天正期に入ると長宗我部氏の阿波侵攻が始まり地域を巻き込む大規模戦争が起き、防御機能を充実させるため徐々に移り変わりをみせます。その姿も社会情勢の変化が反映され…掘られた濠は治水のためのものと考えられていた時代から、城の防御のためにという様に…その当時に思いを馳せると楽しく見学出来ます。

「勝瑞城未来へつなげ隊」が知名度アップと登城記念になればと御城印を作製。阿波和紙を伝統的な藍で染めた古来からの技法で藍住町の書道家さんによる直筆の末広がり形の金文字仕上がり。とても縁起良い御城印となっているので興味のある方は必見。一枚600円。
藍住町教育委員会社会教育課話より参考。

2021年06月27日 KAZ大宰帥正勝
枯山水庭園跡[勝瑞城  遺構・復元物]



景石として、阿波ならではの緑色片岩とその他、砂岩とチャートが配置されてたようです
(^-^)

2021年06月27日 KAZ大宰帥正勝
勝瑞城館跡展示室[勝瑞城  関連施設]



勝瑞城事務所で2階が展示室になってました
無料です(^-^)
続100名城スタンプもこちらに有りました
駐車場もありますが、道が狭いっす

2021年05月23日 太田資正
勝瑞城

勝瑞城のすぐ近くに勝瑞館跡がありますが、その片隅に展示室があります。無料ですので、興味のある方は是非ともこちらも見てください。

2021年04月27日 kan美濃守
勝瑞城



続百名城スタンプは史跡勝瑞城館跡展示室にも置いてあります。

2021年04月11日 土佐香美真乃佐
勝瑞城



来てみたら、城跡らしき場所があるだけで、実感がわかないけど、御殿跡は広く当時の繁栄さが創造できた。もう少し見られる資料館みたいな場所があるといいですね⁉️

2020年11月17日 super大蔵卿
勝瑞城

元は鉄工所で、今は更地。
スタンプは、すぐ横のガソリンスタンドではなく少し離れたシエル石油にありました

2020年11月05日 稲田「蟄居」植元
見姓寺[勝瑞城  寺社・史跡]



徳島県では珍しい中世城郭の平城、勝瑞城。今では三好家の菩提寺、「臨済宗妙心寺派、竜音山見姓寺」の境内となっています。かつては勝瑞城の西にあったのですが江戸中期に現在の場所に移ったそうです。

お堂はコンクリートのガラス張り。人の気配がありません…。境内(城内)には三好家、三好一族の墓が三好ファンの方には垂涎の場(?)ではないかと。

道路を挟んだ南には居館跡「勝瑞城館跡」があります。セットで見学されては如何でしょうか。無論良くお調べの上、自己責任でお楽しみ下さい😉

2020年08月29日 小太郎修理大夫南海道15國守
勝瑞城



本丸跡は、臨済宗で三好家菩提寺見性寺の一部境内に所在し、土塁や勝瑞義家碑も残っている。勝瑞城館跡は、同跡の交差点を挟んだ南西側直近に位置し、町の事務所もあり、見学は容易である。

2019年04月28日 稲田「蟄居」植元
トイレ[勝瑞城  トイレ]



駐車場そばにある櫓風のトイレ。すぐそばにコンビニもあるので不便は無いかと。

2019年04月28日 稲田「蟄居」植元
勝瑞「城」北側の駐車場[勝瑞城  駐車場]



勝瑞城の北側には10台程とめられる駐車場があります。

2019年04月28日 稲田「蟄居」植元
勝瑞城



城内には矢を作るための矢竹が今も残る。勝瑞「城」は戦闘、籠城を意識した城だというのがわかる。

2019年04月28日 稲田「蟄居」植元
勝瑞城



見性寺には三好氏歴代の墓が。左から長治、実休、元長、之長。だそうだ。一番右は……ヒミツ(笑)

2019年04月28日 稲田「蟄居」植元
勝瑞城



こちらは勝瑞城跡。ひと口に勝瑞城と言っても居館、庭園があった「勝瑞館跡」と堀、土塁が築かれ戦闘時に本丸として使用された「勝瑞城跡」がある。それをまとめて「勝瑞城館跡」と呼ぶそうだ。ちっとややこしいけんど…
こらえてつかい。

2019年04月28日 稲田「蟄居」植元
勝瑞城



これは濠ではなく溝跡。庭園、会所があるハレの空間と日常生活のケの空間をこれで仕切っていたそうだ。
ん~なんか貴族的な考え。なかなか面白いでおじゃる。

2019年04月28日 稲田「蟄居」植元
勝瑞城



南西にある礎石建物跡の復元。側に庭園跡も。説明板によるとここはサロン的な役割で「会所」という事になっている。

2019年03月31日 馬秀のすけ
勝瑞城

すぐ隣にガソリンスタンドあるが、違ってた。少し離れた信号の所のシェルのGSでした。次の列車に間に合うか心配になった。

2018年07月29日 征夷大将軍もんたろう
勝瑞城

第5日曜に武田石油にスタンプを押しに来ました。7:00から営業と書いてあったので8:15くらいに到着しましたが、閉まっていたので途方にくれていたら、数分して店の人が到着。今日は遅くなってしまって、、、と言ってました。
あまり朝早く行くのはやめた方がいいかもしれません。

2018年05月26日 cinelli2
勝瑞城

見性寺の裏手に休憩所と駐車場がありました。復元された土塁とそれを囲む水堀があります。

2018年04月21日 関西魂征夷大将軍☆青い流星☆彡
勝瑞城

続100名城のスタンプですが、土日は武田石油さんで押せますが、第2・第4日曜日は定休日で押せません。
その時は、武田石油さんのお隣のシューズショップタケダ藍住店で押せるそうです。

2017年09月19日 織田上総介晃司
勝瑞城

今回、車は近くのコンビニに停めました。
城跡に建つ見性寺(三好家の菩提)に停める事ができるらしいですが、基本駐車場は無いと思ってください。

土塁と水堀が遺構として残ってます。

続百名城に指定されて妙な観光地化だけはしてほしくはないです。

民家が写らないように写真を撮るのに苦労しました。


2016年07月29日 橘若狭守次郎吉
勝瑞城

JR高徳線 勝瑞駅より徒歩10分程の所にある。

現在、城郭(本丸跡)には見性寺というお寺が建っている。見性寺は勝瑞城城主であった三好氏の菩提寺で、境内には三好氏累代の墓がある。

勝瑞城跡は水堀・土塁・郭が遺構として残っている。特に水堀は見事なもので、城郭(寺の境内)を一周囲んでいる。幅が狭くなっているところもあるが、ほとんどが昔の形を残している。

土塁は一部しか残っていないようだが、立派なものが残っている。

境内から木橋で水堀を渡った所にある、銀閣寺風?の建物がトイレである。

説明板もあるので初心者にも分かりやすい城跡だと思います。


2016年07月12日 中務卿一之介
勝瑞城

高徳線勝瑞駅横の踏切を渡り、大通りに突き当たったら左前に緑地が見えてきます。徒歩8分ほどです。お寺(宗教団体?)が敷地内に建っています。
水堀跡がいい状態で残っていますが、夏場は雑草が目立つので、冬場に訪れた方がいいかもしれません。
観光地化されていない城跡には珍しく、トイレが完備されています。

2016年02月29日 日本史跡研究会
勝瑞城

3/27、発掘調査現地説明会が実施されます。
導入水路などの遺構が確認されたようです。

勝瑞城の周辺スポット情報

 土塁(遺構・復元物)

 枯山水庭園跡(遺構・復元物)

 勝瑞義家碑(碑・説明板)

 勝瑞城館(周辺城郭)

 見姓寺(寺社・史跡)

 三好一族の墓(寺社・史跡)

 武田石油(御城印)

  勝瑞発掘現場事務所(スタンプ)

 武田石油(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 勝瑞「城」北側の駐車場(駐車場)

 見性寺内駐車場(駐車場)

 勝瑞発掘現場事務所駐車場(駐車場)

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