徳島城(とくしまじょう)
徳島城の基本情報
通称・別名
- 渭山城、渭津城
所在地
- 徳島県徳島市徳島町城内
旧国名
- 阿波国
分類・構造
- 梯郭式平山城
天守構造
- 型式不明[階層不明/1588年築/破却]、東二の丸御三階櫓[3重3階/1615年頃築/破却(廃城令)]
築城主
- 蜂須賀家政
築城年
- 天正13年(1585)
主な改修者
- -
主な城主
- 蜂須賀氏
廃城年
- 明治2年(1869)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(水堀)、庭園
指定文化財
- 国史跡(徳島城跡)、国の名勝(表御殿庭園)
再建造物
- 鷲の門、石碑、説明板
周辺の城
-
今切城(徳島県徳島市)[3.0km]
津田城(徳島県徳島市)[3.1km]
鈴江城(徳島県徳島市)[3.3km]
夷山城(徳島県徳島市)[3.6km]
蔵本城(徳島県徳島市)[3.6km]
片志城(徳島県徳島市)[6.4km]
勝瑞城(徳島県板野郡)[7.0km]
矢野城(徳島県徳島市)[8.1km]
芝原城(徳島県徳島市)[8.7km]
一宮城(徳島県徳島市)[9.6km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
徳島城の解説文
[引用元:Wikipedia「徳島城」の項目]
徳島城(とくしまじょう)は、徳島県徳島市徳島町にあった日本の城。城跡は国指定の史跡、名勝(表御殿庭園)になっている。
概要
徳島城はJR徳島駅の北側にあり、徳島市の中心部に位置する。
吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城である。
歴史・沿革
渭山城・寺島城
この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。室町時代の1385年(至徳2年)に細川頼之が四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。頼之は助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付けた。
『城跡記』は徳島城築城について「渭山寺島両城を合して一城となす」と記す。寺島城は平地にあった城で、文献は寺島の西端(現 郷土文化会館付近)とするが、発掘調査ではのちの花畑(現 市立体育館付近)の可能性が示唆される。
徳島城
戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。1582年(天正10年)には土佐国の長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。
1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、1年半後の1586年(天正14年)完成した。以後、大坂の陣の戦功等により淡路7万1千石の加増がされ、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万7千石の居城となり、明治維新を迎える。
廃城後
1873年(明治6年)に発布された廃城令により存城処分となり、1875年(明治8年)には鷲之門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去された。1905年(明治38年)の日露戦争の戦勝を記念して、城跡の大半が1906年徳島公園(現 徳島中央公園)として開設され、1910年一般に開放された。
ただし、旧御花畠は幕末に練兵場、1889年より徳島監獄署(現 徳島刑務所)が置かれ、公園からは除かれた。その後、公園の範囲は多少変動し、現在はかつての城内のうち御花畠の西半分(現 合同庁舎・民有地)、西の丸の大半(現 内町小学校)、三木郭の南部(現 文化センター)が公園に含まれない。
1941年(昭和16年)には表御殿庭園が国の名勝に指定された。明治以降の城地は石垣と堀、庭園、鷲之門のみが残った。
1945年(昭和20年)7月4日の徳島大空襲により、城跡内のほとんどの建物と共に唯一現存していた鷲之門も焼失した。
1989年(平成元年)、鷲之門が復元された。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(76番)に選定された。
構造
石垣
石垣の石には、眉山の三波川変成岩(結晶片石)が使われている。岩石の種類としては、青石(緑簾石‐アクチノ閃石片岩・緑簾石‐藍閃石片岩)・紅簾片石・石英片岩である[1]。なお、表御殿庭園の庭石には、眉山の石のほか、鳴門・淡路の海岸から舟で運ばれた石も使われている。これを含め、運送の難から、内陸で採れる石材は使われていない。
山城の石垣はほとんどが現存するが、三の丸跡の一部(現 城山配水池)などが失われている。平城の石垣も現存するものが多いが、寺島川沿い(現存する河岸の石垣ではなくその内側にあった居城の曲輪の石垣)、西の丸の石垣の大半(西の石垣の外側のみ現存する)などが失われている。
堀
吉野川から分流する、助任川・福島川・新町川・寺島川(現 JR徳島駅と牟岐線)を外堀とし、さらに内側に堀川・瓢箪堀(現 東出来島町東部)があった。なお、寺島川の大半と瓢箪堀は、堆積や埋め立てにより現存しない。
山城
徳島城の山城は連郭式であり、いくつかの曲輪が段差を持って連続していた。西から順に、三の丸・西二の丸・本丸・東二の丸である。
天守
創建当時の天守は元和年間(1615年–1624年)に取り壊されたといわれており[2]、まもなく、城山の中腹にある東二の丸に天守代用の御三階櫓が構えられた。
東二の丸天守は、天守破却後に天守の代用として建てられた、当時は御三階櫓と呼ばれていたものである。なぜ、二の丸に建てられたのかは定かではなく、景観バランスを整えるためであるとか城の防備上の都合によるものなどが考えられている[3]。1873年(明治6年)の廃城令の発布により撤去された。
3重3階建てで、櫓台はなく初重平面形は正方形である。下から7間四方・5間四方3間四方といった具合の層塔型の特徴である一定の逓減率があるが、外観は望楼型といういわゆる復古型などと呼ばれるものである。外観意匠は、全面下見板張で破風は3重目の入母屋破風のほかに1重目の向唐破風と大入母屋破風が付けられていた。天守の木造復元計画は議論されたが決まっていない。
城山
城山西方には西の丸、そのさらに西には御花畠(おはなばたけ)があった。
西の丸
現在の内町小学校・ライオンの森・徳島市民庭球場西の丸コートにかけて存在していた。城山と接する東を除く三方を石垣で囲まれていた。内町小学校の西の塀の外側として残存する。
もともとは西からの防衛拠点だったが、太平の世になるとその意義を失い、藩祖家政が隠居してからは、隠居した元藩主の屋敷となった。
御花畠
現在の地方合同庁舎・武道館・市立体育館にかけてあった。以前は瓢箪島(ひょうたんじま)と呼ばれた、助任川・寺島川・人工の瓢箪堀に三方を囲まれた半島である。
御殿と庭園があり、御殿は歴代藩主の子供の養育の場として使われた。庭園は海内無双の大庭園とされ、岡山の後楽園に匹敵したと言われる[4]。しかし幕末には取り壊され練兵場となった。
城山の南
城山南方に徳島城の主要な殿舎が並び、当時は単に「御城」「御屋敷」などと呼ばれていた。ここでは「居城」とする[5]。そのさらに南には三木郭があった。
太鼓櫓と月見櫓
三木郭から下乗橋で堀川を越え、居城に入る大手口の両脇に構えられた櫓である。東に月見櫓、西に太鼓櫓があった。特に太鼓櫓は、望楼型の3重4階であり、天守のような造りをした大型の櫓であった。どちらも最上階に外廻縁高欄があり、物見の目的と娯楽の目的を持っていた。
いずれも櫓台石垣が現存するが、太鼓櫓の左端は通路確保のために削られている。削った跡に、石垣がきれいに積まれており境を見つけることは難しい。又、月見櫓は木造復元の運動はあるが、予算の関係で進んでいない。
三木郭と鷲の門
現在の鷲の門広場から文化センターにかけて建てられた曲輪で、東には鷲の門があった。
5代藩主蜂須賀光隆 (在職 1652年–1666年) が三木という人物に命じて作らせたと言われる。しかし、1989年の発掘調査でも文禄慶長期 (1592年–1615年) と推定される滴水瓦が出土しており、『阿淡年表秘録』の記述では1603年(慶長8年)に鷲の門に関する記述があるため、1603年にはすでにあった可能性が指摘されている[6]。
城下町
徳島と寺島、つまり、現在の内町地区のうち出来島・旧花畑(および近代の埋立地)以外が内郭とされた。この外の福島・住吉島・常三島・出来島・瓢箪島(以上に徳島・寺島を加え阿波の七島と呼ぶ)・助任・大岡・佐古・富田が外郭である。合わせて御城下(ごじょうか)・御山下(ごさんげ)と呼んだ。
現状
鷲の門の復元
江戸時代に徳島城を建築した際に蜂須賀氏が正門として建てた。廃城令により徳島城が廃城となった後も、鷲の門だけは残されていたが、1945年(昭和20年)の徳島大空襲によって焼失した。
1989年9月27日に徳島市制100周年を記念して復元された[7]。門前にある道路の関係から門の規模と位置は当時とは少し異っている。
城山
徳島城の山城部分は、標高61.7メートル[8]の城山に建っていた。
北面には助任川が流れており、山内の城山原生林は徳島市天然記念物に指定されている。
山麓では1922年(大正11年)、鳥居龍蔵により城山の貝塚が発見され調査された。現在、山腹にアオサギが繁殖し糞害で周辺の樹木が枯れる等の問題が起こっている。
夏になると阿波踊りの練習をするために有名連がここで練習する風景が目立つ。また、付近の幼稚園や小中学校の遠足としてよく利用されている。
城跡の主な施設
北西から南東の順。(埋)は、江戸時代には河道だった近代の埋立地に一部が建つ施設である。(移)は、城跡外に移転した施設である。
- 徳島地方合同庁舎
- 徳島県立中央武道館 (埋)
- 徳島市立体育館
- 徳島市立内町小学校
- 徳島市民庭球場 (埋)
- 徳島縣護國神社 (移)
- 徳島県立図書館 (移)
- 徳島市立徳島城博物館
- 旧徳島城表御殿庭園
- 徳島市立文化センター (埋)
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徳島城の口コミ情報
2024年03月28日 Hiro3104左近衛大将
徳島城
公園の駐車場に停めたので搦手側からの登城となりました。雨上がりだったので滑り易く…。想像していた以上に石垣が迫力ありまして、また美しくて登ったり降りたりで疲れたので徳島ラーメンで締めました。
2024年01月28日 あしこし宮内大輔よし
徳島城
徳島駅よりすぐの所にあります。城公園駐車場に車を停めました(310円)。管理されている方が、とても親切に案内してくださりました。
緑色片岩の石垣が独特で、素晴らしかったです。
天守が無くとも、とても楽しめました。
弁天池裏から登りましたが、階段がなかなか厳しかったです。
2023年12月30日 ハナちゃん
徳島城
石垣が独特だった。晴れていたこともあり石の色が一際に綺麗に見えた。
堀にはボラが整列して泳いでいた。
なかなか面白い城でまた訪れたい。
お城の駐車場は橋の架け替え工事のため利用不可であった。しばらくは使えなさそう。今回は近隣のコインパーキングを利用。
100名城スタンプについては市役所休日時間外窓口(当直室)にて対応。年末で閉館しているところも多い中、対応してもらえてありがたかった。
2023年10月23日 にこちゃん大王
徳島城
徳島駅から近く攻略もお手頃でした。月曜日は博物館は休館でしたが、石垣は充分に見る価値があると思います。
2023年05月16日 RED副将軍
徳島城
阿波特有の緑色片岩で築かれた石垣が美しい蜂須賀氏の居城🏯
日本100名城
1385年に阿波国守護の細川頼之によって築かれたのが始まりとされ、当時は渭津城と称されていました。その後、四国の統一を目指した長宗我部元親の所領となりましたが、1585年に羽柴秀吉による四国征伐により落城。その後、戦功のあった秀吉家臣の蜂須賀家政に阿波の大半が与えられ徳島城を築きました。1600年の関ヶ原合戦では、蜂須賀家政の嫡男である蜂須賀至鎮は徳川家康に従って会津討伐に従軍し、そのまま東軍として戦功を挙げたことにより、阿波一国が与えられ徳島藩主となりました。以降も蜂須賀氏が代々続いて明治に至りました。
見所
吉野川河口の中州にある標高61.7mの渭山に築かれています。海沿いであり、北側の助任川、南側の寺島川はともに吉野川の支流で天然の堀として利用されています。天守などの建物は取り壊されていますが、壮大な高石垣群は残存しており「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩で築かれた石垣は全国屈指の美しさです。特に本丸西桝形虎口弓櫓の石垣にある美しい鏡石に注目ください。
2023年02月25日 尼崎城駿河守一口城主
徳島城
[山城編]1月4日、蜂須賀家政公(藩祖)銅像前から東坂口経由でプチ登山開始。(写真①②)※説明板を読むと家政公の銅像のあるところは戦前は蜂須賀小六正勝公像が立っていたとありました。
道中、東二の丸跡(写真③)や見事な石垣がありました(写真④)。山頂の本丸部は広いスペースがあり広大さを撮ってみたいところでしたが暗闇だったので断念😢眉山方面の夜景を撮ってみました(写真⑤)。本丸散策中に小さな祠があったのでお参り。暗闇で説明文が見えなかったのでダメ元で撮ってみたところちゃんと文字が写っていました(写真⑥)。説明板によると徳島城築城前に当地にいらっしゃった清玄坊さんを供養する石碑ということでした。
本丸を一周した後に下山しようと往路のルートで戻ったつもりが違うルートになってしまいテニスコート前に下りて来てしまいました(写真⑦)。妙な感想ですが、なぜだか徳島城の仕掛けに引かかった実体験が出来てよかったです😅遠回りして徳島駅に戻ることになりましたが、徳島城の堀の役目を果たしていたと思われる助任川(写真⑧)も撮ることが出来ました。
2023年02月25日 尼崎城駿河守一口城主
徳島城
[平地編]1月4日、徳島駅から南方面に進み線路の高架橋を渡って入城。入城してすぐのところにあった太鼓櫓跡にまず登ってみました。1年で最も日が短い冬至から間もない日に登城したので17:40頃にはもう写真①のような暗さでした。太鼓櫓から下りて一旦、鷲の門から入り直しました(写真②③)。門松🎍の所では今年は卯年ということもあって🐇うさちゃんがお出迎えしてくれていました(写真④)。徳島城は以前100名城巡りで訪れたことがあったのですが当時は城山の存在を知らずに徳島城博物館だけ行って下城していました。この日はもう暗くなっていたものの山城に登ろうと山城方面を目指し、東坂口に辿り着きました(写真⑤)。道中、お月様がきれいだったので徳島城史跡とお月様の写真を撮ってみました(写真⑥⑦⑧)
2023年02月05日 tracer_azu
徳島城
阿波や紀伊特有の緑色片岩の石垣は圧巻でした。その中にもちらほらとマンガンを含む紅れん石片岩の石もあり見つけるのも楽しかったです。本丸周辺の石垣は麓と積み方が異なり近世の始まりの石垣という感じがしました。とても見事で感動です、
2023年01月09日 蒲生左京進氏郷
徳島城
石垣の石の色が青いのが特徴なのでしょうか?大手門から登らず搦手から登ると、当然ながらややハードですが、ある意味お城登りの醍醐味だと思いながら登りました。本丸からの景色もよく堪能できました。
2022年08月19日 摂政丸
天守跡[徳島城 碑・説明板]
徳島城の天守は本丸ではなく東二の丸にあったそうです。また天守台はなかったそうです。そういえば高知城も天守台がなく違和感を感じましたが珍しいのでしょうね。
2022年07月31日 竹中播磨守じゅん兵衛
徳島城
徳島中央公園東駐車場(310円)から入場、徳島城博物館入口にスタンプありました。入館料は300円ですがJAFカード提示で2割引お得&表御殿庭園も入場できます。蜂須賀家名宝展示してます。扇面流貼付屏風が素晴らしい。青みがかった石垣が美しいです、石(岩)がとびでた箇所を発見、デベソのようでした。
2022年07月03日 毘沙門天摂津守
徳島城
天守台よりも本丸が上部にありますが、その本丸はかなりの広さがあり、とても大きなものだったと感じ取れました。
2022年06月09日 左兵衛督ストリーム
徳島城博物館受付カウンター[徳島城 スタンプ]
博物館に入場しなくても建物玄関にてスタンプ押せます。御城印は館内ミュージアムショップにて販売。
2022年06月07日 香川五郎左衛門尉芳梅@赤鯉
徳島城
蜂須賀氏が一宮城から本拠地を移し、本拠地とした城。城山全体を見ても「石の博物館」として楽しめる場所です。本丸石垣が横目地の通った野面積で、やや古風な造りの印象です。麓には縄文時代に使用された貝塚跡もあり、歴史好きは必見です。
2022年01月13日 はりねずみ但馬守ぽん
徳島城
徳島城の城山の貝塚は、天然の石でとっても大きいです!まさしく天然要害の石です。見て必見。
2020年12月04日 稲田阿波守植元
清玄坊[徳島城 関連施設]
むかしむかし、その昔。徳島城などと云うけったいな侍の城ができる前、渭山(徳島城城山)に清玄坊という静かに暮らす修験の者がおりました。
巷の戦もにわかに収まった頃、国替とかで他国からこの地に蜂須賀(家政)というお殿様がやって来ました。殿様はこの地に城を築くために付近の住民や社寺の者達に立ち退きを命じました。ところが清玄坊だけは立ち退きに応じません。怒りと苛立ちを覚えた殿様は一計を謀り、懐柔策を用い清玄坊を城下に連れ出し弓で射殺しました。やれやれと思った築城の際、蜂須賀一族に次々と変事が起きます。これは清玄坊の祟りと思い本丸に供養の碑を建てます。以降変事はピタリと収まりました。それ以降それなりに大変ですが明治まで本領安堵を遂げた阿波徳島藩だとさ。めでたしめでたし。
イヤイヤイヤイヤ、めでたい裏に色々と犠牲が…。
2020年11月16日 super中納言すぎっち
徳島城
元は城のエリアだった徳島駅に隣接する石垣が良く残っている公園
2020年09月05日 小太郎左衛門督南海道22國守
徳島城
徳島城跡は、公園となっており、北寄りに城山が位置しています。藩祖家政公銅像北側から右手側、左手側からそれぞれ登り口となっています。(城山北側にも登り口あり)で、10分ほどで本丸跡な到着します。建物等ありませんが、曲輪、石垣等見ごたえはあり、景色も絶景です。自然林も大切に保存されています。
2019年06月01日 KAZ右大臣正勝
舌石[徳島城 遺構・復元物]
屏風折塀の支え石で、全国的に珍しいらしいです。先に博物館の城模型を見ておくのがイイかも!
2019年06月01日 KAZ右大臣正勝
蜂須賀正勝公 墓所[徳島城 碑・説明板]
大阪の天王寺から第19代のご子孫さまが、移転されたらしいです。ゆかりの大阪城を、かなたに望まれていらっしゃいます。
2019年03月31日 馬秀のすけ
徳島城
博物館前の広場が、花見客や宴会で満員。ちょうど花見の最盛期。今回の遠征は花見しにきたようなもの。
ま、これはこれで良かった。庭園の入場料、50円だなんてびっくりポン!我が近江県では絶対にあり得ない。
2019年03月29日 越前守せんとくん
徳島城
徳島市立徳島城博物館の受付の百名城スタンプを押しましたが、スタンプ台のインクを着けて押すタイプです。
2017年06月15日 織田上総介晃司
徳島城
徳島中央公園東側駐車場に停車。
堀端を歩きまず数寄屋橋へ。そのまま唯一の建物、鷲の門へ。その後本丸の石垣へ。
徳島城へ訪れるならやはり8/12~15の阿波おどりの頃です。
阿波おどりに染められて徳島市内が一番盛り上がります。
そして徳島ラーメンを食べるのをお薦めします。
私は「いのたに」で食べました。
私の徳島ルートは瀬戸大橋から香川県を通って徳島入りするので、昼は讃岐うどん、夜は徳島ラーメンと麺づくしになってしまいますが…
2017年05月16日 ダース兵衛太兵部卿
徳島城
徳島城跡には天主も櫓も無いものの珍しいものも残っています。それは『庭』。
今も残っている全国的に有名なお庭は、城の御屋敷から離れた場所で整備されていた庭ですが、徳島城博物館の敷地にある『表御殿庭園』はお殿様の生活していた屋敷に隣接していた庭。つまり、殿様が毎日寝起きしていた時に眺めていた景色を見ることが出来るんです。
巨大な青石の橋や子孫繁栄の蘇鉄など見応えもあります。しかも庭だけなら50円という破格値の入園料!!
逆に安すぎるから「大したこと無いだろう…」と思われているような気がしますが、実はすごい庭ですよ。
2017年03月20日 橘若狭守次郎吉
徳島城
城山の「阿波の青石」を用いた石垣の数々は、他の城跡ではあまり見られない珍しい石垣です。徳島城跡を訪れた際には是非、城山を登ってみてください!整備されているので登りやすいです。オススメです♪
2016年05月30日 まるき〜陸中守
徳島城
公園化されているので見学、探索は容易です、駐車場料金は先払い、その時にパンフも貰えます。
堀には海が近い為か海水魚が泳いでいて少し違和感を感じますが…
この地特有の青石が積まれた石垣は切り口の表面が平らではないので独特な立体感を感じます
緑がかっていて他の城趾とは違う雰囲気が楽しめます。
また、本丸付近の石垣の積み方が下とは違い野面積みになっていて何とも荒々しく草木と一体になっている部分もあり時の流れを感じたりと不思議な気分にさせてくれます。
100名城スタンプは徳島城博物館内で、入館しなくてもスタンプは押せます。
その他、北側にはちょっとした遊具、南側登り口近くには機関車の展示があったり小さなお子様でも楽しめるかと…
徳島城東駐車場を利用
駐車料金310円
入城は無料
徳島城博物館は300円
庭園のみの観覧は50円
2015年09月21日 青コアラ美濃守
徳島城
徳島城博物館は月曜休館ですが、100名城スタンプは公園東側駐車場の料金所で押せます。
徳島城には建物は残っていませんが、阿波の青石で積まれた石垣は必見です。山城に登れば高石垣も見られます。
2013年08月13日 ばしこん
徳島城
阿波踊りのついでに来てみたが、百名城スタンプ狙いなら16時半前に来なきゃ駄目だぜ!
2011年08月12日 摂政M三郎
徳島城
徳島城は、蜂須賀氏により、城山山頂に本丸を置き北を巡る助任川、南側の埋立られJRの軌道敷となった寺島川を天然の要害として東西の2方向へ階段状に郭を配置するとともに、山麓部を堀で区画し城域に取り込んだ平山城です。東の堀際には、目が強くて平たく割れ、加工し難い青石などを丹念に積んだ独特な石垣が残ります。また、城内奥、南麓には美しい不定形切込の石垣もあります。春からお盆に掛けての宵には、城址一帯でも阿波おどりの練習が行われます。ピヒャラヒャラヒで始まる『よしこの』の調べにドップリ浸ってみませんか
徳島城の周辺スポット情報
舌石(遺構・復元物)
東二の丸跡(遺構・復元物)
本丸跡(遺構・復元物)
弓櫓跡(遺構・復元物)
帳櫓跡(遺構・復元物)
西三の丸跡(遺構・復元物)
鷲の門(遺構・復元物)
隅櫓跡(遺構・復元物)
屏風櫓跡(遺構・復元物)
月見櫓跡(遺構・復元物)
太鼓櫓跡(遺構・復元物)
旗櫓跡(遺構・復元物)
数寄屋橋(遺構・復元物)
大手門(遺構・復元物)
下乗橋(遺構・復元物)
旧徳島城表御殿庭園(遺構・復元物)
西の丸(遺構・復元物)
西二の丸(遺構・復元物)
弁天池(遺構・復元物)
蜂須賀家政公 立像(碑・説明板)
蜂須賀正勝公 墓所(碑・説明板)
天守跡(碑・説明板)
徳島城博物館受付カウンター(スタンプ)
徳島市教育委員会社会教育課カウンター(スタンプ)
徳島中央公園東側駐車場入口事務所(スタンプ)
お手洗い(トイレ)
お手洗い(トイレ)
お手洗い(トイレ)
トイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
清玄坊(関連施設)
徳島中央公園(関連施設)