脇城(わきじょう)

脇城の基本情報

通称・別名

虎伏城

所在地

徳島県美馬市脇町大字脇町

旧国名

阿波国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

三好長慶

築城年

天文2年(1533)

主な改修者

主な城主

三河守兼則(三好氏家臣)、長宗我部氏、稲田稙元(蜂須賀氏家臣)

廃城年

寛永15年(1638)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、井戸、土橋

指定文化財

再建造物

周辺の城

岩倉城(徳島県美馬市)[1.0km]
久千田城(徳島県阿波市)[9.5km]
内場城(香川県高松市)[12.0km]
重清城(徳島県美馬市)[12.2km]
昼寝城(香川県さぬき市)[14.9km]
秋月城(徳島県阿波市)[16.0km]
川島城(徳島県吉野川市)[16.2km]
上桜城(徳島県吉野川市)[16.6km]
森遠城(徳島県美馬市)[18.0km]
十河城(香川県高松市)[21.0km]

脇城の解説文

脇城は古くは藤原仲房の居城とされ、後に三好長慶が改修し、家臣の三河守兼則に守らせたとされる(『阿波志』)。戦国期には武田上野亮信頼が在城した(『古将記』・『三好記』)。

天正7年(1579)に長宗我部氏の美馬郡制圧とともに武田氏も長宗我部氏に降り(『元親記』)、同年の脇城外の合戦では、三好徳太郎や三橋丹後守と共に土佐方に与し、森飛弾守、矢野駿河守など三好方の主力を壊滅させている『三好記』・『阿州古』。天正10年(1580)信頼は織田軍の先鋒となった三好笑岩の勧めに応じ、再び三好方となるが、長宗我部方の攻撃で脇城は落城、信頼は讃岐へ逃亡し、子の信定は自害したという。阿波を制圧した長宗我部氏は脇城に長宗我部親吉を入れて支城とする『古将記』)が、天正13年(1585)年の羽柴秀吉による四国攻めにより開城した。長宗我部親吉は土佐への帰途一宇山において南氏に討ち取られたという(『城跡記』)。羽柴軍の四国攻めでは、脇城と岩倉城を秀次勢が攻撃した(7月21日「羽柴秀次書状」『小早川家文書』)。

また、秀吉から秀長への指令書(「羽柴秀吉書状」『藤堂家文書』)には、四国攻めの最終目標に一宮城、脇城の二城の名が挙がっており、脇城が戦略的に重要な存在として意識されていたことが窺える。同年、秀吉より阿波を拝領した蜂須賀家政は、領国内に九つの支城(阿波九城)を配した。

脇城も阿波九城の一つとされ、「上郡表の惣押さえ」(『蜂須賀治世紀』)として筆頭家老の稲田植元が兵500(300とも)とともに守備に当たった『阿波志』・『年秘録』)。元和元年(1615)大坂夏の陣の功により、蜂須賀至鎮は淡路一国を加増されることとなった。寛永8年(1631)には二代の稲田示植が淡路城代となって脇町を去り、脇城は寛永15年(1638)一国一城令により廃城となった(『年秘録』・『賀島氏系譜』)。脇町は、脇城廃城後も在郷町として発展を続けることとなる。

山城跡 

脇城は、吉野川左岸の標高110mの河岸段丘上に位置する。城の谷川や山根谷川等の開析谷によって形成された南西方向に突き出した、高さ60mに及ぶ舌状台地の先端を利用し、南東後方の台地続きを大規模な堀切で二重三重に遮断して築城される。

台地先端の主郭は、南北80m、東西60mの規模で、現状は山林であり、保存状態は良好である。南東以外の外周には土塁が巡り、中央やや北西寄りに径約2.6mの石組みの井戸が残る。北側斜面には「小堀」と呼ばれる空堀が配され、小堀の東側にも小規模な段が配される。いずれも防御上の弱点となる緩斜面に切岸を作出するための工夫とみられる。

主郭の南西に延びる尾根にも一段の小曲輪を配する。主郭の東は「大堀」と呼ばれる幅20mの堀切で遮断し、北側斜面も竪堀で遮断している。堀切には南北2箇所の土橋が設けられるが、南側の土橋が郭外から主郭に至る通路となる。土橋南面には石垣が部分的に残存する。主郭の虎口は内枡形虎口となっていたが、近年破壊を受け現存しない。

周辺には石材や瓦が散乱し、往時は石垣造りの枡形で、瓦葺きの門を備えていたと考えられる。採集された瓦は内面にコビキの痕跡が認められる。瓦は曲輪のあちこちに散布しており、瓦葺建物の存在が想定される。

主郭東側の曲輪は、南北120m、東西80m程の広さをもつ。北辺に土塁状の高まりが確認できるが、全体が耕作地となり保存状態は良くない。従来、脇城跡と認識されてきた部分が大堀と主郭を中心とするものなので(『脇町誌』など)、破壊が進んだのだろうか。

北斜面と南斜面の竪堀は良好に残っている。曲輪の東は、幅30mに及ぶ堀切で遮断される。徳島県下でも最大級の堀切であるが、山麓の秋葉神社から登る破壊道はこの堀切に到達し、堀底が道路として利用されるため、破壊が著しい。また、北側は宅地の造成により、堀が埋められている。堀切の東に広がる段丘は、水田や畑が広がり、ほぼ自然の地形をとどめる。本田昇は、南側の山根谷川から北に向かい低い城郭の外郭線のような段差が認められ、北端が竪堀となっていることから、脇城の防衛線であると考える(『事典』・『脇町史』)。現状では南の山根谷川は土砂で埋まり、北側の竪堀も確認できない。本田の調査から実に40年の歳月が流れている。なお、後述するように、山根谷川は山下の居館部分で想定される外郭線と一致することから、本田が考えるように山城部分でも外郭線となっていた可能性が高い。

現在見られる山城の大規模な堀切や竪堀、石垣などは、稲田氏の阿波九城の段階の改修によるものとされ(『脇町史』・『事典』)、外郭線も稲田氏時代のものと考えられる。武田氏時代の脇城は、県内の中世城郭の規模からすると主郭を中心とする程度であったと思われる。

居館跡 

脇城の居館は、山城南麓の旧字「大屋敷」一帯にあったとされる。現状は一部の水田を除き、宅地が密集する状況である。後年の開発により旧状は留めないが、濠跡とされる水路や土塁の残欠が現在も確認できる。『脇町分間絵図』(文政元年(1818)・美馬市蔵)では山城部分に「城山」、居館部分に「古城跡」の表記が見られる。また田所眉東の『阿波新田氏』には、今は現存しない『美馬郡村誌』の脇城の項が書き抜かれており、これによると脇城居館周辺には「奥丸・大屋敷・株木門・薬研堀・大堀」等の地称があったとされる。これらの位置については、『城山藪周辺地積図』(天保年間・個人蔵)にも記載があり、その位置が確認できる。

濠は現状の地割と地籍図から幅6~8m程あったと推定される。貞真寺脇の湧水を水源とし、約200m南下して東から流れる山根谷川と合流し、西の脇人神社に向かい屈曲し、脇人神社の傍らを通り撫養街道に至る。脇人神社境内北東部には、土塁の残欠とみられる高まりが残る。居館の西側は城の谷川を濠として内側に土塁を巡らせる構造となる。土塁跡は地籍図では竹林となっており、幅10m余りに復元できる。

現状でも川縁は一段高い宅地となっている。以上のことから、北に山城を背負い、前面の三方を濠や土塁で囲んだ東西220m、南北200mのほぼ正方形の区画が大屋敷、つまり稲田氏の居館部分に相当するものと考えられる。なお、稲田氏は武田氏時代の居館を踏襲したものと考えられるが、武田氏の居館の規模等は現状の遺構や資料からは推定できない。

『脇町分間絵図』には、脇人神社から北に向かう直線的な薮の表記があり、地籍図でもその地割が確認できる。幅15m、長さ120m程に復元でき、居館中央を土塁が南北に貫く特異な形態となる。土塁の突き当たりには薮に囲まれた一角が描かれる。地籍図では、東西90m、南北60mの区画で、現状では宅地となっており、不明瞭であるが周囲より1m程高くなっている。『城山藪周辺地積図』で「奥丸」と記載される当該箇所は稲田氏居館の中核部分に相当する可能性が高い。居館から山城へは、現在は秋葉神社の横から破壊道を登るが、かつては奥丸あたりから直線的に本丸に至る道が存在したという(『脇町誌』)。

ところで、居館西端の城の谷川は直線的に南下し、撫養街道(現県道12号)に突き当たり東に直角に折れるが、この地点に「大堀」の地名が残る。また、山城の東の谷から南流する山根谷川は貞真寺の東を通り、直角に西に折れて東濠に合流する。

この大屋敷と貞真寺を囲い込む、城の谷川―大堀―山根谷川に囲まれた範囲は、東西300m、南北300mとなり、稲田氏時代の脇城居館の外郭線であった可能性が高い。また、概ねこの範囲が中世の遺物散布地(『遺跡地図』)に重複する。

現在、居館跡の南端に鎮座する脇人神社は稲田氏が武田信頼・信定父子を祀るために慶長年間に開いた神社である(『阿波志』)。鳥居横の凝灰岩製の狛犬は風化が著しいが、かなり古い作とみられる。山麓の貞真寺は稲田植元が母の貞真尼の菩提を弔うために建立した寺院とされ、後に稲田家の菩提寺となった。稲田墓所(美馬市史跡)には稲田植元とその室、父貞祐とその室、兄景元と景継が葬られている。本堂は昭和30年の火災により焼失したが、唐門(美馬市有形文化財)が現存する。

文献 

・古城諸将記
・城跡記
・異本阿波志
・阿波志
・三好記
・みよしき
・昔阿波物語
・南海通記
・阿州古戦記
・美馬郡村誌
・新編美馬郡郷土誌
・脇町誌
・脇町史
・阿波の城
・日本城郭大系
・図説中世城郭事典
・阿波の中世城郭
・阿波新田氏
・甦る古城郡

情報提供:美馬市教育委員会文化・スポーツ課


脇城の口コミ情報

2022年09月03日 やまてつ伊予守
脇城



阿波九城の一つです。大変道が狭く、車で行くのは避けた方がよいです。万一、車で行かれたら、方向転換する場所はソーラーパネルの有る所です。何度も切り返すか、バックで戻るかしかないです。

2022年05月06日 ギア右近衛大将
駐車場[脇城  駐車場]

二通りのルートがありますが、秋葉公園のルートは避けた方が良いです。急な坂とカーブさらに狭い道になっています。案内標識はありませんが、反対側の高校の脇の道の方が広くてしっかりしているので行きやすいです。

2022年03月08日 RED副将軍
脇城



笹ヤブと倒竹に覆われた激ヤブ城🌿
空堀に土橋が二ヶ所架かります✨
阿波九城のひとつ

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1533年に三好長慶により築城。家臣の三河守兼則が入城し、岩倉城と共に西方の守備として機能しました。
その後、武田信玄の異母弟とも言われ、三好氏の家臣となっていた武田信顕が入城しました。
しかし、1579年に長宗我部元親が攻め寄せた際には、岩倉城の三好好俊と共に武田信顕は長宗我部元親に寝返り。三好方の軍勢をおびき出し全滅させますが、その後は再び三好氏に付きます。
1583年に再度、長宗我部元親が攻め寄せて落城。今度は武田信顕は討死してしまいます。
その後は長宗我部氏の支配となり、長宗我部親吉が入城するも、1586年に羽柴秀吉の四国攻めに際して、羽柴秀次が攻め寄せて降伏、開城。
秀吉家臣の蜂須賀家政が阿波国に入封し、その家老を務める稲田植元が入城。
阿波九城のひとつとして整備され、阿波西部の中心地として城下は繁栄しました。
しかし、一国一城令により1638年に廃城。

見所
舌状台地の先端に主郭を置き、主郭と二郭は大空堀で区画され、南北に土橋が二ヶ所架かります。土橋の側面は石積みで補強されています。
かなり藪の密度は高いが確りと残っています。
ちなみに写真は2月のものですが、このヤブです。
二郭、三郭は大きく改変されています。石垣があるも後世のもの。

⚠️主郭のヤブの中に井戸が柵も無くあります。かなりの深さ(5mくらい)で、かなり危険なので注意して下さい。

⁡写真
①主郭と二郭を繋ぐ北側の土橋
②③主郭と二郭を繋ぐ南側の土橋
④主郭と二郭を隔てる空堀
⑤⑥主郭内部は激ヤブ。土塁があります。
⑦登城路

2021年02月18日 稲田阿波守植元
デ・レイケ公園[脇城  その他]



明治の面影が残る徳島県美馬市脇町。脇城の東麓、脇町の中心を南北に流れる大谷川にデ・レイケ公園というのがあります。

明治中期、吉野川の支流、阿波の片田舎の河川、大谷川にオランダの治水技術者ヨハネス・デレイケの指導による砂防ダム、堰堤が築かれます。日本の城郭の遺構ではありませんが明治期の西洋の治水技術による石垣、堤をを見るのもなかなか面白いかと。

川の堤防なので山城巡り等、自然の脅威を心得ておられるめぐらーさんには言うまでも無いと思いますが訪問の際、雨天による増水にはくれぐれもご注意下さい。


2021年01月18日 稲田阿波守植元
脇人神社[脇城  寺社・史跡]



脇城の麓にある脇人神社。ここはかつて城主の居館があった曲輪の一部のようで今でも古い絵図に沿っての水壕や土塁の痕跡があります。

長宗我部氏の侵攻による攻防、秀吉の四国攻めにおいても脇城を最終目標の1つとして狙いを定めていたようで四国でも要衝の地であった脇城。蜂須賀氏の阿波入国後、家臣の稲田氏が城主となり1万石を領し平地の「居館跡」の規模も中々のものだったとうかがえます。脇城の山城部分とうだつの脇町のほぼ中間にあるのでセットで訪れては如何でしょうか。



2021年01月02日 ノボッタ大炊頭
脇城



結構な幅の堀切や鋭角に掘られた横堀など主郭周りに見所があります。しかし基本は笹、倒竹に覆われた藪に覆われ、その他の郭も畑や資材置場のようでかなりぞんざいに扱われてしまっているようです。主郭にある井戸は笹藪の中にポッカリとありめちゃめちゃ危険なので気をつけて下さい!

2020年12月17日 稲田阿波守植元
脇城



これ何だと思います?目の肥えた方が見ると分かるかもですが本丸(仮称)にある井戸です。以前見つけて、今回も「井戸はどこだっけ?」と探しながら標識も柵も無くいきなり藪から出て来たような感じで…。

遺構としては大変素晴らしいですが探索中は目印等は何も無く深さは5m程の空井戸でここに落ちた時点でただではすまないと…。
町内でも寂れた場所にあるので人が来ることはまず無いと思います。訪問の際はくれぐれもお気をつけて下さい。

2020年11月23日 稲田阿波守植元
うだつの町並み[脇城  関連施設]



かつて司馬遼太郎も訪れた徳島県美馬市脇町。脇城下、いわゆる「うだつの町並み」。

うだつとは時の城主稲田氏が城下の火災時、延焼を防ぐための対策として推奨した防火壁の事ですが…。何せこれを造るのに結構な費用がかかるため自分の家に経済的にこれを造れない者を「うだつが上がらない」と言ったもので。

公園部分には川舟からの荷を運搬するための川湊の石垣等の遺構が残ってます。

江戸時代にタイムスリップした気分になってうだつの城下町、しわりっと歩いてみんで?

2020年09月14日 稲田阿波守植元
貞真寺 山門、墓所[脇城  寺社・史跡]



秀吉の四国征伐による蜂須賀入国の際、脇城に入城した重臣(客分?)の稲田植元(僕のHNの由来でもありますが…)。以降脇城麓の稲田氏所縁の貞真寺には小さいながら山門、お堂、墓所が残っています。
遺構が少ない脇城ですが戦国には長宗我部侵攻による攻防、明治の庚午事変と歴史の舞台の一部を担い歴史的になかなか面白い地域かと。こんな阿波の片田舎で歴史に思いを馳せてみては?

2020年08月20日 稲田阿波守植元
吉野川 渡し[脇城  碑・説明板]



かつて藍染等の交易で栄えた吉野川流域。明治初期からですが吉野川周辺には渡しがあったと記される石碑がいくつかあります。

川湊の遺構はありませんが当時を偲ばせる風光明媚な阿波の山河を堪能されてはいかがでしょうか?


2017年08月16日 カーネル
脇城

岩倉城から住宅街を右左折しながら東へ
途中の健祥会というケアハウスが、ちょっとだけ城を意識した建物でした

さらに住宅街を東に進み、市有形文化財の貞真寺の山門を見に100mほど北上します
山門の先には秋葉神社の鳥居と階段で、階段を登っても、その先のクネクネ道の舗装路を進んでも秋葉神社前を通過します

そのまま舗装路を登り続けると脇城の看板があるので、左折して林道を進みます
土橋っぽい狭い道を進むと井戸があり、覗くとかなりの深さがありました

さらに奥に進むと、深い堀がありました

帰りは南に下り、うだつの町並みを超え、県道199号をさらに南下すると舞中島潜水橋で吉野川を超えます

川を渡ったら、左折して土手沿いに東に向かい、国道192号に合流し、その先が穴吹駅です

小島駅-岩倉城-脇城-穴吹駅で3時間弱でした

2014年11月06日 太田宮内丞三楽斎
脇城

現在は残念ながら遺構は全くといっていい程に残っていません…
しかし、うだつの町並みと呼ばれる江戸時代の町並み残っておりそのうちの1つの商家(吉田家往宅)は中を有料ですが見学することができます!
大人400円、小・中学生250円(団体割引もあり)


脇城の周辺スポット情報

 井戸跡(遺構・復元物)

 吉野川 渡し(碑・説明板)

 稲田家墓所(寺社・史跡)

 貞真寺 山門、墓所(寺社・史跡)

 脇人神社(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 うだつの町並み(関連施設)

 デ・レイケ公園(その他)

 道の駅 藍ランドうだつ(その他)

 登城口(その他)

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