淀古城(よどこじょう)
淀古城の基本情報
通称・別名
- 藤岡城、淀城
所在地
- 京都府京都市伏見区納所北城堀(妙教寺)
旧国名
- 山城国
分類・構造
- 平城
天守構造
- 不明
築城主
- 畠山政長
築城年
- 室町時代中期
主な改修者
- 明智光秀、羽柴秀長
主な城主
- 薬師寺氏、細川氏、三好氏、金子氏、木村氏
廃城年
- 文禄3年(1594)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
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淀古城の解説文
[引用元:Wikipedia「淀古城」の項目]淀古城(よど こじょう)は、京都府京都市伏見区納所(のうそ)北城堀にあった日本の城。納所は木津・桂・宇治の三川が合流するポイントの北岸にあたりに築城され、3面を川に囲まれた天然の要害で、古くからの商業地「淀」の中核都市であった。
【沿革】
この城の文献上初見は『東院年中行事』の文明10年(1478年)8月1日に
“山城守護代遊佐弾正の代(中略)神保与三佐衛門淀へ入部す”—東院年中行事
とあり山城の守護所として記されている。守護畠山政長が応仁の乱に西軍の畠山義就に備えるため、守護所を勝竜寺城から当城に移したのではないかと思われている。その後明応2年(1493年)以降に細川氏が山城を掌握すると守護代級の被官によって守衛され、摂津と河内の抑えの城として使用されてきた。
〜第一次淀古城の戦い〜
1504年(永正元年)に入ると赤沢朝経と細川政元が対立するようになる。政元は同年3月9日に摂津守護代の薬師寺元一に槇島城に攻城するように命じたが、赤沢軍は600–700兵を従えて城から撤兵したようである。それを知った畠山尚順軍は槇島城と並び交通、軍事の要所であった淀古城を攻城してきた。細川軍は神保与三佐衛門を城主としていたようだが、薬師寺元一、薬師寺長忠兄弟、香西元長、内藤軍も入城させ、畠山軍からの攻城戦に備えた。
このとき別の局面が展開される。細川軍に属していた薬師寺元一が、政元の養子細川澄元を擁立し、政元に謀反を仕掛けた。これに呼応した山城国人衆と、槇島城から赤沢軍が、援軍として淀古城に籠もった。しかし、元一の弟長忠は、細川軍に属したまま兄と袂を分かち、香西元長と共に淀古城を攻城、淀古城は細川軍の手に落ちた。淀古城に籠もっていた四宮長能は自害、元一は捕えられ同年9月20日京で自害、赤沢朝経は大和へ敗走した。
この戦いが契機となり畠山氏と細川氏との対立が本格化、山城、河内、和泉、摂津、大和に戦線が拡大していく。この戦いでは細川軍に属した薬師寺長忠、香西元長であったが、3年後の1507年(永正4年)で永正の錯乱で政元を暗殺、政元のもう1人の養子細川澄之を擁立したが、すぐに澄元一派に反撃され、澄之と共に戦死した。
その後細川氏の被官が代々淀古城を治めていたが、細川政権から三好政権に移っていき、1559年(永禄2年)には三好長慶が畿内を統一すると淀古城も細川氏綱が城主となったが、1564年(永禄7年)に氏綱が死去すると、長慶の甥に当たる三好義継が城主となり、ついで松永久秀方の武将が城主となったようである。しかし、1566年(永禄9年)7月に勝竜寺城と共に三好三人衆軍に攻城されると、三好長逸方の金子某が城主となったようである。1568年(永禄11年)に織田信長が上洛を果たすと、淀古城も織田軍の焼き討ちにあい、落城してしまった。
〜第二次淀古城の戦い〜
1573年(元亀4年)2月に、信長と対立していた15代将軍足利義昭は反信長を決意し、二条城で自ら兵をあげた。しかし、信長の動きも素早く岐阜城を出立、二条城を攻囲した。この時は正親町天皇の勧告により二条城を信長に明け渡したが、同年7月に槇島城に籠もり再び信長討伐の兵を挙げた。義昭の要請に応じたのが三好三人衆の1人岩成友通で、淀古城に立て篭もったが、槇島城が織田軍に攻城され(槇島城の戦い)、義昭は2人の質子を入れ降伏し河内に逃亡した。
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淀古城の口コミ情報
2017年06月06日 橘若狭守次郎吉
淀古城
妙教寺境内に石碑があるのみで、遺構は残っていません。淀城跡をリア攻めの際についでにどうぞ!
2012年03月18日 てっちゃん掃部頭50
淀古城
【 古淀城薬師堂址石碑 解説文:京都市HPより
】
納所にあった城を豊臣秀吉が淀君のために修築したのが古淀城である。文禄3年 (1594)に廃城となった。現在の淀城址は元和9年(1623)に古淀城の南西に築城された。 この石標は文禄3年に廃された古淀城内の薬師堂を示すものである。