物集女城(もずめじょう)
物集女城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 京都府向日市物集女町中条
旧国名
- 山城国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 物集女氏
築城年
- 室町時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 物集女氏
廃城年
- 天正3年(1575)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀
指定文化財
- 国史跡(物集女城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
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物集女城の解説文
物集女城の口コミ情報
2023年08月23日 RED副将軍
物集女城
西岡の有力国人である物集女氏の居城🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。室町時代後期に物集女氏により築かれたと云われます。
物集女氏は、秦氏の一族とされ天竜寺領の物集女荘の荘官であったのが始まりで土着化した有力国人です。
室町将軍家の家臣として西岡被官衆のひとつにも数えられています。
戦国時代末期になると織田信長が三好三人衆を倒して上洛。家臣の細川藤孝が勝龍寺城に入り、周辺を支配しましたが、物集女忠重はこれに反発。
しかし、1575年に勝龍寺城において細川藤孝により謀殺されてしまい物集女城も廃城となりました。
見所
物集女城公園となり案内板が立っています。
宅地化により大半が消失。東側から北側にかけての水堀と土塁が残存している様ですが、現在は私有地により立入禁止となっていました。
2022年10月02日 金森出雲守
物集女城
東側堀周辺は立入禁止のコーンがたっており、以前あった説明板もなくなってます。西側の説明板もなくなってます。代わりに西北にできた物集女城公園に新しい説明板があります。
2020年08月15日 中垣内征夷大将軍瑞賢
物集女城
物集女氏を謀殺した細川藤孝の勝竜寺城とセットでの見学学説お勧めです。
2019年05月10日 ☘️ぷ~太郎
物集女公民館[物集女城 関連施設]
【物集女公民館】
公民館入ってすぐの所に物集女城の模型があります。
あと物集女城のパンフレット、1冊(8ページ)を100円で配布されています。
【利用時間】
月~金曜日:9:00~21:30
土曜日 :9:00~21:30
日曜・祝日:休館
※館内は土足禁止です。
2017年05月12日 橘若狭守次郎吉
物集女城
城跡は個人の農地となっている為、立入り禁止です。櫓台跡と云われている北土塁と東堀が見処です。物集女公民館では物集女城の模型やパンフレットが置いてあります。
2015年08月12日 課長大和守Ver.B
物集女城
城跡は農園になっており、無断立ち入りは不可です。
近隣の物集女公民館にて城跡模型の展示や資料の配布を行なっているようです。また、駐車は公民館前にスペースがあります。
物集女城の周辺スポット情報
水堀(遺構・復元物)
物集女城説明板(碑・説明板)
物集女城公園の説明板(碑・説明板)
物集女公民館(関連施設)
歴史
築城年代は定かではないが、物集女氏の居城として15~16世紀に機能したと考えられる。物集女氏の名は長享元年(1487)の史料に登場する。物集女荘の荘官として勢力を拡大したと推定され、物集女村を本拠として成長。やがて西岡地域の自治体「国」を形成する有力な土豪「年寄衆」のひとりとなった。
天文19年(1550)頃から三好長慶が京都に勢力を伸ばすと、物集女氏はその被官となったようだ。織田信長が室町幕府を滅亡させると、細川藤孝がこの地域一帯の知行を許された。藤孝は信長の権力を背景に西岡地域の土豪に臣従を強要。しかし物集女城主の物集女宗入はこれに反発したため、天正3年(1575)9月に勝龍寺城下で誘殺された。物集女城もこの際、追討軍に攻められ落城したと考えられている。
遺構
周囲は宅地開発されているが、主郭東側の土塁と堀が残る。西岡地域のほかの土豪の城と同じように、周囲を土塁と堀で囲む城館の構えだった。主郭は東西50m×南北40~50mの方形で、東側に高さ2mほどの土塁が約30m残っている。土塁の外側をめぐる水堀は主郭北側と南側にもまわりこみ、「コ」の字型に主郭を囲む。
主郭は畑などになっている。発掘調査が行われていないため、どのような建物があったかはわかっていない。南東部の張り出し部が主郭への虎口と推定される。主郭西側には、小さな堀を隔てて小規模な曲輪があったことが発掘調査で確認されている。さらに西側にも居住空間が広がっていたようだ。
西岡地域は、京都と摂津方面を結ぶ西国街道(播磨大道)と京都と丹波を結ぶ山陰道が貫通する。物集女城は、両街道を結び、嵯峨から山崎へ至る物集女縄手(物集女街道)と伏見道の交点に位置する物集女集落の中心にあった。物集女氏が地域社会の中で台頭できたのも、街道交通の掌握が背景にありそうだ。
また、物集女城は西から東に傾斜する扇状地の端部にあり、主郭北側と南側の堀の西端は傾斜地を上がる。東側に高い土塁と水堀と設けたのは、物集女縄手に対して城がよく見えるよう工夫したものと考えられる。
交通
・阪急電鉄京都線洛西口駅下車、徒歩で約10分参考文献
・『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』吉川弘文館、2015年。・『京都乙訓・西岡の戦国時代と物集女城』文理閣、2005年。
・『図解 近畿の城Ⅰ』戎光祥出版、2014年。
・現地案内板