物集女城(もずめじょう)

物集女城の基本情報

通称・別名

所在地

京都府向日市物集女町中条

旧国名

山城国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

物集女氏

築城年

室町時代後期

主な改修者

主な城主

物集女氏

廃城年

天正3年(1575)

遺構

曲輪、土塁、横堀

指定文化財

国史跡(物集女城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

寺戸城(京都府向日市)[1.3km]
革嶋城(京都府京都市)[1.5km]
吉祥院城(京都府京都市)[3.9km]
勝龍寺城(京都府長岡京市)[5.0km]
小泉城(京都府京都市)[5.4km]
嵐山城(京都府京都市)[5.7km]
淀古城(京都府京都市)[6.3km]
淀城(京都府京都市)[6.8km]
山崎城(京都府乙訓郡)[7.0km]
本能寺(京都府京都市)[7.2km]

物集女城の解説文

物集女城(もずめじょう)は、京都府向日市物集女町にある平城。

歴史 

築城年代は定かではないが、物集女氏の居城として15~16世紀に機能したと考えられる。

物集女氏の名は長享元年(1487)の史料に登場する。物集女荘の荘官として勢力を拡大したと推定され、物集女村を本拠として成長。やがて西岡地域の自治体「国」を形成する有力な土豪「年寄衆」のひとりとなった。

天文19年(1550)頃から三好長慶が京都に勢力を伸ばすと、物集女氏はその被官となったようだ。織田信長が室町幕府を滅亡させると、細川藤孝がこの地域一帯の知行を許された。藤孝は信長の権力を背景に西岡地域の土豪に臣従を強要。しかし物集女城主の物集女宗入はこれに反発したため、天正3年(1575)9月に勝龍寺城下で誘殺された。物集女城もこの際、追討軍に攻められ落城したと考えられている。

遺構 

周囲は宅地開発されているが、主郭東側の土塁と堀が残る。

西岡地域のほかの土豪の城と同じように、周囲を土塁と堀で囲む城館の構えだった。主郭は東西50m×南北40~50mの方形で、東側に高さ2mほどの土塁が約30m残っている。土塁の外側をめぐる水堀は主郭北側と南側にもまわりこみ、「コ」の字型に主郭を囲む。

主郭は畑などになっている。発掘調査が行われていないため、どのような建物があったかはわかっていない。南東部の張り出し部が主郭への虎口と推定される。主郭西側には、小さな堀を隔てて小規模な曲輪があったことが発掘調査で確認されている。さらに西側にも居住空間が広がっていたようだ。

西岡地域は、京都と摂津方面を結ぶ西国街道(播磨大道)と京都と丹波を結ぶ山陰道が貫通する。物集女城は、両街道を結び、嵯峨から山崎へ至る物集女縄手(物集女街道)と伏見道の交点に位置する物集女集落の中心にあった。物集女氏が地域社会の中で台頭できたのも、街道交通の掌握が背景にありそうだ。

また、物集女城は西から東に傾斜する扇状地の端部にあり、主郭北側と南側の堀の西端は傾斜地を上がる。東側に高い土塁と水堀と設けたのは、物集女縄手に対して城がよく見えるよう工夫したものと考えられる。

交通 

・阪急電鉄京都線洛西口駅下車、徒歩で約10分

参考文献 

・『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』吉川弘文館、2015年。
・『京都乙訓・西岡の戦国時代と物集女城』文理閣、2005年。
・『図解 近畿の城Ⅰ』戎光祥出版、2014年。
・現地案内板

文:萩原さちこ


物集女城の口コミ情報

2025年12月30日 摂津守大和繩
石見館[物集女城  周辺城郭]



【土豪・地侍】
15C後半〜小野氏

【写真】
①甕(入口右)
②応仁・文明の乱の焼土跡

【東西両軍】
西岡は応仁・文明の乱の頃、東西両軍による補給路の争奪地となり、やがて合戦へと至ります。
まず、応仁元年八月(1467)に大船団を率いて上陸する西軍の大内・河野氏に対し、東軍は迎撃のため尼崎や野田(大阪市福島区)など大阪湾岸の各所に細河・赤松氏の軍勢を配備します。
大物浦船戦図(複製)
(尼崎市立歴史博物館)

【写真①】
推測ですが甕付近の下に溝が通っていて途中で止まっています。西部の張り出しにあった堀とは無関係です。

【写真②史料】
そのように伺ったのですが、部分的であり疑問です。しかし史料と一致するという前提で話を進めます。
真如堂縁起絵巻
(真正極楽寺真如堂)

刀・槍の傷跡
(大報恩寺千本釈迦堂)

天龍寺旧境内出土焼瓦片
(京都市考古資料館)

史料上の初見は長岡京市奥海印寺の寂照院仁王像胎内納入結縁交名になります。
康永三年十月(1334)
石見里68名・上里44名

(野田泰忠軍忠状)
寺戸の武士で文正二年正月(1467)から文明三年七月(1471)にいたる軍忠を33ヵ条に纏めた文書。
紙の継ぎ目の裏に細河氏の奉公人である飯尾氏の花押があり正式な手続きにより確認されたことを示している。
(文明二年)
同四月十四日、於勝龍寺搦手北之口合戦仕、
安富又次郎相供、焼落馬場并古市、
御感状在之

同十六日、山名弾正殿御勢者、被取向勝龍寺、
西岡中脈之輩者、安富又次郎 四宮四郎右衛門尉相供、打出西岡御敵之在所、
上里・石見・井内館令放火
於向日河原合戦仕
御感状在之

右 所々忠節 大概注進
如件
文明六年三月 

一見了

同四月十四日勝龍寺搦手北之口に於いて合戦仕る。
安富又次郎と共に馬場并びに古市を焼け落ちき。
御感状之あり。

同十六日山名弾正殿の御勢は勝龍寺に向ひて取らる。
西岡中脈之ともがらは安富又次郎・四宮四郎右衛門尉と共に西岡御敵之在所に打ち出でて、
上里・石見・井内館を放火せしむ。
向日河原に於いて合戦仕る。
御感状之あり。

(訳)
勝龍寺の搦手北之口に於いて合戦仕る。
安富又次郎と共に馬場并びに古市を焼き払った。
戦功を証する文書を賜る。

山名弾正殿のお味方は勝龍寺に出陣し奪取した。
西岡中脈之軍勢は安富又次郎・四宮四郎右衛門尉と共に西岡の御敵之在所に打って出て上里・石見・井内館を放火した。
向日河原に於いて合戦仕る。
戦功を証する文書を賜る。

右の内容は各所での忠節
おおよその内容を関係筋に御報告申し上げます。
以上のとおりです。

承認しました。

(解説)
御敵とは親征を意味しますが地侍を相手に公方様の敵と訳すわけにはいかない、普通、敵と訳される。中脈とは桂川流域を指し西岡と同じ意味を持つ。

◯例外◯
天文日記
天文六年十二月九日条
将軍家へ献金せよとの義晴の命令に本願寺は財政難を理由に拒否。御敵に指定されそうになった一件。

(神足友春等連署状)
長亨元年十一月三日
(1487)国宝
東寺百合文書
郷々出銭・惣國の大義への対応として東寺領上久世庄の荘官である寒河家光に宛てた6名の連署書状で小野太郎左衛門尉の花押がある。
この前後の時期に小野性を名のる地侍が石見と上植野におり、どちらかとみられる。

(久我家文書第一巻)
永正年間
(1504〜1521)
一石三斗 文明三年ヨリ
石見小野押領

公家の久我家の所領を許可なく20年以上支配。

2025年12月27日 摂津守大和繩
石見館[物集女城  周辺城郭]



【土豪・地侍】
15C後半〜小野氏

【写真】
①入口右側にある区画
②石敷き・土坑
③入口付近
④南側の溝

【にしのおか西岡】
西岡は平安時代に呼称されていた西の方の岡のある土地、に由来します。向日丘陵を挟み特に東側の桂川流域は西岡十一ヵ郷用水の歴史を持ち広域地名として広く知られる。

◯謎解き◯
【写真①】
横の長さ10m
縦の長さ12m
奥に溝が見え区画している。以前の石見城の写真投稿では右側に溝が見え同じ長さと推測する。
東側で堀が発掘。

【写真②石敷・土坑】
(排水施設)
烏丸御池遺跡
2013年2月〜5月
拳大の川原石と常滑甕の破片だけが詰まっていた。土坑17と同様、地下に水を浸透させる排水施設と考えている。
22〜23/96頁

土坑17
南北0.5m東西1.4m
深さ0.3m
拳大の川原石と信楽焼擂鉢など破片が詰まっていた。地下に水を浸透させる排水施設である。

(地下式貯蔵庫)石室・穴蔵
親長卿記
文明十年(1478)
12月25日
具足等収納穴蔵畢
調度などを穴蔵に収納した。

高倉宮曇華院跡第4次調査
石室1便槽の可能性
南北1.2m東西0.8m
深さ0.4m
石室2地下式貯蔵庫の可能性
南北1.1m東西2m
深さ0.6m
鎌倉時代から室町時代の遺構で南部は石室1により破壊されている。

(祭祀遺構)
萩原城01年度報告書(墓)
第1・3・5次
SX05石室・一石五輪塔
16C中期〜後半
南北3.0m東西4.2m
深さ0.5m
62/151頁
SX06
南北1.9m東西4.5m
集石遺構
64/151頁
SK18
一石五輪塔(16C前半)
58/151頁

明智城跡現地説明会資料
06年11月〜1月中旬
(集石遺構)社・祠・墓
(銅銭・和釘・水晶)
出土遺物から17世紀と考えられ中頃まで利用。

(屋敷墓)
11C頃から始まる散村での慣行で13C中頃から衰退していく現象。
建物群をA型〜D型に類型し、さらに各型の階層性を見いだしている。

◯2つの主張◯
(小曽根遺跡)
定住が可能で、ある程度の安定した農業経営を実現することが、可能であった主体で簡単に書くと農業など様々な職業で成功して安定した暮らしができる人々と定義している。

(川除遺跡)
この時期の家産観念の形成は在地領主層に限られ(中略)したがって屋敷墓の主体は在地領主層に限られてくる。

※城郭の研究者でこの用語を頻繁に使用する方がおられますが、元々は石母田氏が提唱した説で概念に一致する居館は1例しかないそうで、普遍的な概念とするには源俊方という架空の人物の研究が必須である。

佐山遺跡
京都府遺跡調査報告書
第33冊2003年
屋敷墓SK108
長軸長0.93m以上
短軸長0.85m
屋敷墓SK416
上縁幅0.5m〜0.7m
長さ1.5m〜1.6m
11C末〜12C初頭でともに北東(艮)方向に位置する。
濠SD5-平安時代後期に掘削したとみられる。
京都府埋蔵文化財情報82号
3/68頁

(地業)
基礎工事・地盤改良
福山城二重太鼓櫓基壇
1996年3月
掘り込み地業
47/73頁

津山城だよりNo.26
掘り込み地業

花巻城本丸跡
坪地業

尼崎城本丸御殿の調査
(43次調査)
坪地業


【写真③】
入口(西)
南からの溝が下を通っていて未発掘。

【写真④】
南側にある溝
幅1.5m〜1.8m深さ0.4m

2025年12月24日 摂津守大和繩
石見館[物集女城  周辺城郭]



【土豪・地侍】
15C後半〜小野氏

【写真】
①22年度調査地付近
②横矢内部

(主郭)
南北50m
東西35m
内土塁幅5m〜8m
横矢の長さ10m
(シンポジウム資料)

【位置】
当該地の石見館(城)は向日丘陵の西側にあり現在でも間道の丹波道が上羽城と住宅地の間を通り確認できます。
丹波道とは長岡京市にある調子八角の西国街道〜京都市西京区にある沓掛の山陰道へと至る間道の事です。
(物集女城城郭地図)

【写真①】22年度調査地付近から東を臨む

(居住域)2004年度には都市計画道路中山石見線に伴う先行調査が実施され、それにより12C〜16Cの建物跡が多数発見されます。その成果により5か年の範囲確認調査が計画され本年の4月〜5月の調査で終了となりました。
(21年度調査地)
溝11(堀)新
最大幅4.0m
最大深度1.15m
土師器(16C遺物)
信楽焼鉢
鉄刀等
溝12(堀)旧
最大幅5.0m
最大深度1.3m
溝11と重なり中央付近で小さく屈曲し、やや主軸を変えて北東方向へ続く。

(鬼門封じの例)
ちんしゅ柳の御所
洛中洛外図屏風・歴博甲本

(22年度調査地)
溝211(堀)新
最大幅6.5m
最大深度2.2m
溝201(溝)旧
最大幅0.4m
最大深度0.1m

(23年度調査地)
よしみね川(13Cに埋没)旧善峰川の河原で人頭大の石を並べた石塁を発見し遺跡の西半分では13C〜15Cの柱列や溝跡を複数確認。
その成果により2004年度と22年度に報告された居住域がさらに東へ広がる事が判明しました。

(24年度調査地)
本稿と続稿

(25年度調査地)
溝5411
最大幅3.8m
最大深度1.5m
5-4(4区まで)

【横矢内部の写真②】
14C後半〜15C前半の遺構で明徳の乱から南北朝合一の緊迫した時代に影響を受けて造設した遺構と私は判断しています。
というのは横矢は千田氏によれば永禄から天正初年に出現するとされており、それ以前の遺構は明らかだからです。
そして先入観で石礫かと判断したのですが冷静に考えると🤔地業のように思います。
つまり当初から存在するのではなく南から真っ直ぐ伸びる土塁と堀を埋め立てて西方に張り出していた事が判明しています。

(横矢の例)
今里城跡(長岡京市)
木橋の橋脚は堀SD02が東へ張り出した部分に架けられており、
勝竜寺城(長岡京市)
西側土塁の南への張り出し

※ここは私有地です。見学希望の方は京都市文化財保護課へ御相談下さいませ。

2025年09月14日 丹波守炒飯数の子大盛
物集女城



阪急京都本線の洛西口駅から、府道201号線を西方向です。お城があったとされる場所は私有地につき、2025/09時点では入ることが出来ません。近くに物集女城公園という小さな公園があり、そちらに説明板があります

2024年12月03日 城社まにゃ越後守?龍○毘
物集女城



2024.11.24攻城
ネット記事で国史跡認定とかあったので立ち入り禁止解除を期待してましたが残念まだ解除してないです。

2023年08月23日 ᴿᴱᴰ副将軍
物集女城



西岡の有力国人である物集女氏の居城🏯

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。室町時代後期に物集女氏により築かれたと云われます。
物集女氏は、秦氏の一族とされ天竜寺領の物集女荘の荘官であったのが始まりで土着化した有力国人です。
室町将軍家の家臣として西岡被官衆のひとつにも数えられています。
戦国時代末期になると織田信長が三好三人衆を倒して上洛。家臣の細川藤孝が勝龍寺城に入り、周辺を支配しましたが、物集女忠重はこれに反発。
しかし、1575年に勝龍寺城において細川藤孝により謀殺されてしまい物集女城も廃城となりました。

見所
物集女城公園となり案内板が立っています。
宅地化により大半が消失。東側から北側にかけての水堀と土塁が残存している様ですが、現在は私有地により立入禁止となっていました。

2022年10月02日 金森出雲守
物集女城

東側堀周辺は立入禁止のコーンがたっており、以前あった説明板もなくなってます。西側の説明板もなくなってます。代わりに西北にできた物集女城公園に新しい説明板があります。

2020年08月15日 中垣内征夷大将軍瑞賢
物集女城



物集女氏を謀殺した細川藤孝の勝竜寺城とセットでの見学学説お勧めです。

2019年05月10日 ☘️ぷ~太郎
物集女公民館[物集女城  関連施設]



【物集女公民館】
公民館入ってすぐの所に物集女城の模型があります。
あと物集女城のパンフレット、1冊(8ページ)を100円で配布されています。

【利用時間】
月~金曜日:9:00~21:30
土曜日 :9:00~21:30
日曜・祝日:休館

※館内は土足禁止です。



2017年05月12日 橘若狭守次郎吉
物集女城

城跡は個人の農地となっている為、立入り禁止です。櫓台跡と云われている北土塁と東堀が見処です。物集女公民館では物集女城の模型やパンフレットが置いてあります。

2015年08月12日 課長大和守Ver.B
物集女城

城跡は農園になっており、無断立ち入りは不可です。
近隣の物集女公民館にて城跡模型の展示や資料の配布を行なっているようです。また、駐車は公民館前にスペースがあります。

物集女城の周辺スポット情報

 水堀(遺構・復元物)

 物集女城説明板(碑・説明板)

 物集女城公園の説明板(碑・説明板)

 向日市民会館(碑・説明板)

 石見城(周辺城郭)

 石見館(周辺城郭)

 石見館(周辺城郭)

 石見館(周辺城郭)

 昌運寺(寺社・史跡)

 物集女城公園トイレ(トイレ)

 物集女公民館(関連施設)

 物集女町北ノ口の常夜燈(その他)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore