山崎城(やまざきじょう)

山崎城の基本情報

通称・別名

鳥取尾山城、天王山城、天王山宝寺城、宝寺城、山崎宝寺城、宝積寺城

所在地

京都府乙訓郡大山崎町大山崎古城他

旧国名

山城国

分類・構造

山城

天守構造

型式不明[階層不明/1583年頃築?/破却]

築城主

林直弘

築城年

延元3年〔南朝〕/暦応元年〔北朝〕(1338)以前

主な改修者

細川晴元、豊臣秀吉

主な城主

林氏、薬師寺氏、細川氏、豊臣氏、新庄氏

廃城年

天正12年(1584)

遺構

曲輪、土塁、櫓台、天守台、横堀(空堀)、竪堀、井戸

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

勝龍寺城(京都府長岡京市)[2.9km]
楠葉台場(大阪府枚方市)[3.0km]
淀城(京都府京都市)[3.8km]
淀古城(京都府京都市)[4.0km]
寺戸城(京都府向日市)[5.9km]
物集女城(京都府向日市)[7.0km]
高槻城(大阪府高槻市)[8.2km]
芥川城(大阪府高槻市)[8.2km]
芥川山城(大阪府高槻市)[8.4km]
革嶋城(京都府京都市)[8.5km]

山崎城の解説文



山崎城(やまざきじょう)は、京都府乙訓郡大山崎町字大山崎にあった日本の城(山城)。山崎の戦い後、大坂城を築城するまで豊臣秀吉が本拠地としていた。別名「天王山宝寺城」や「天王山城」とも呼ばれている。

概要 

山崎城がある天王山(標高270.4メートル)は淀川を挟んで男山があり、宇治川、木津川、桂川の合流するところで、山城と摂津の国境にある。山麓には西国街道があり、河川を含め軍事、経済、交通の要所である。

京都への圧力と、防備、外圧を防ぐ両面を持った地で、古来より何度か戦場となっている。

沿革 

山崎城の史料上の初見は林直弘への軍忠状に、「山城の国山崎警固の事(中略)八王子山に馳せ参じ、鳥取尾城五月廿九日より六月廿三日まで用害警固を致し候」(『赤松範資の軍忠状』)とあり、鳥取尾城とは山崎城を指し、当時摂津守護であった赤松範資が南朝方を防衛するため林直弘へ警護を命じた。次に文明2年(1470年)、山城の国人野田泰忠の軍忠状に、「廿四日(中略)山名弾正殿御被官相共に山崎に着陣仕り(中略)城を鳥取尾城に構え在陣致す」(『野田泰忠の軍忠状』)とあり、文明2年12月24日、応仁の乱の時に大内政弘軍が摂津に侵入してきた時に、山名是豊軍が京都を防備するためこの地に陣を構えた。また、文明14年(1482年)には細川政元が入城している。

その次は、 「山崎の陣、薬師寺九郎左衛門尉没落すと云々」(『二水記』) と記されている。この記述は桂川原の戦いの事で、細川高国の打倒を目指す細川晴元軍の波多野元清隊が八上・神尾山両城の戦いで勝利し、薬師寺国長が立て篭もる山崎城を落城させた。国長は高槻城に逃れ、波多野元清は摂津諸城を落城させていった。また天文7年(1538年)3月に晴元自身がこの城に赴き修築を実施している。この時普請人夫を洛中洛外から集めたことが、『親俊日記』『兼右卿記』に記されている。翌天文8年(1539年)に三好長慶が反乱を起こした時も、晴元は京都と芥川山城の繋ぎの城として山崎城を利用している。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変後、中国大返しで中国地方から畿内へ引き返してきた羽柴秀吉、神戸信孝連合軍の侵攻に備えるため、男山城と山崎城に陣取った明智光秀軍であったが、何故か淀古城、勝竜寺城へ一時撤退した。翌日羽柴軍が山崎城に陣取ったため優勢となり、光秀は逃亡、討死する結果となった。

秀吉は大坂城に移るまで、山麓にある宝積寺も含めて城郭として利用したと考えられている。

清洲会議で長浜城を柴田勝家へ譲り、秀吉の城は姫路城のみとなっていた。秀吉は「山城・丹波両国のどこかに城を築きたい」とし、更に「いずれ勝家と雌雄を決するときがくるはず」と考える秀吉にとって、京都に近く、しかも小谷城に匹敵する山城の候補地を物色するうち、天王山の場所に目をつけるようになったものと思われる」と推察されている[1]小谷城は秀吉が元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)に攻め続けた城で、山城の優位性があったためではないかとしている。

秀吉その頃、「山崎宝寺のうへに城をかまへ居給へり、されども、この所思ひ定ざるにや、はかばかしく構にもし給ざりけり」(『豊鑑』)とし、これは竹中重門が著したもので、それほど重要な城郭ではないとしている。それとは別に『イエズス会日本年報』では、「羽柴は甚だ堅固な城を二つ山崎及び都より三レグワの八幡に築いたが、柴田及び三七殿は大いにこの築城を不満とし、人を遣はして、最初の協定においては彼等は対等であったが、その後見るところによれば、彼は自ら天下の絶対の君主とならんとする志を示している。よって直に二城を破壊すべく、もしこれをなさざれば、冬が過ぎて彼を撃滅すると言いはせた。羽柴はこれに答へて、彼等もし来ることを得ば待つべく、何人が天下の君となるか各自の腕によって定めようと言った

一五八四年一月二十日付 パードレ・ルイス・フロイスより
インド管区長 パードレ・アレッサンドロ・バリニヤノに贈りし書翰」(『イエズス会日本年報』)と記している。ここに記している八幡というのは、石清水八幡宮のことで男山頂に築かれた男山城を指している。『豊鑑』の「はかばかしく構にもし給ざりけり」と『イエズス会日本年報』の「甚だ堅固な城」との間にはへだたりがある。清洲会議がどのよう協定だったか日本側の史料には記載がなく、イエズス会日本年報に城郭に関する取り決めらしきものが窺い知れる。

また、秀吉が毛利輝元に出した書状に山崎城に関する記述がある。

「大相国吊いとして御使僧差し上され、青銅万疋贈り、御意を懸けられ候、誠に御念を入れられ示し預り候段、謝し申しがたく候、しかして、畿内の要に就き候、御使僧見及ばる如くに候、山崎において我等普請申し付け候故、吊いの儀、まず延引せしめ候間、彼の仏事執行候刻、仰せをこうむるべく候、御使僧へ申し渡し候、恐惶謹言 七月十七日 秀吉」

大相国とは主君織田信長を指しており、信長の死を悼み、弔意として青銅を送ったことに対する礼状である。文中には山崎城を築城していることも記しており、清洲会議から20日程度たった天正11年(1583年)7月17日には普請が開始されている。

最後は吉田兼見の日記には、「今朝山崎之天守ヲ壊チ取ランガ為、奉公罷リ越ス」天正十二年三月廿五日条(『兼見卿記』)とあり、山崎城には天守があり、廃城日は天正12年(1584年)3月25日となっている。

城郭 

現在の城郭は、最後の城主となった豊臣秀吉時代のものが多くあらわれている。山崎城の最大幅は、東西約250メートル、南北約200メートルで本丸北側には東西35メートル、南北20メートルの小曲輪があり天守台と考えられている。本丸を中心に、東側、南側、南西側に曲輪を配置し、北側は断崖の要害となっている。

縄張りの基本は四角形で築城されており、「倭城の長大な登り石垣と空堀と第一戦に捉えた天守台のパターンに近いものが萌芽しており、織田・豊臣系の築城パターンの中でも、秀吉の個性が強く出たものと考えられる」とし、山崎城の築城パターンはその後の倭城に多く出てきており、豊臣系のものが色濃く出ているとされている[2]。豊臣秀吉が山崎城に在城中は、天王山から宝積寺一帯にかけて布陣していることから、寺を含めて城郭として機能し、寺から山頂にかけての防御はそれほど重要でなく、「山頂のこの城郭は、全体の詰の城といった存在であったと考えられ」、山頂部分の縄張りは最後の砦として機能したといえる[3]。 また山頂の城郭(詰の城)は本丸に向かうまで、虎口、枡形、土塁、堀、土橋と連続した防御システムがある。これについて「山麓の宝積寺より山頂の詰の城を一体とするパターンと、詰の城の細かい防御施設に後の秀吉系の城郭パターンの原型と言える二大要素を持った縄張の城郭である」と指摘されている。

遺構としては、本丸の礎石跡、石垣、井戸、門柱礎石が散見できる。歴史がある山崎城だが、発掘調査は進展していない模様である。

城跡へのアクセス 

  • 電車でのアクセス
    • JR京都線(東海道本線)山崎駅
  • 車でのアクセス
    • 名神高速道路大山崎IC→国道171号
    • 山崎駅周辺に大山崎町立有料駐車場有
  • 徒歩でのアクセス
    • 山崎駅→天王山山頂 徒歩約30分

参考文献 

  • 村田修三編著『図説中世城郭事典』第二巻、新人物往来社、1987年6月、321-323頁。
  • 『日本城郭大系』第11巻 京都・滋賀・福井、新人物往来社、1980年9月、65-66頁。
  • 小和田哲男『城と秀吉-戦う城から見せる城へ-』角川書店、1996年8月、56-69頁。
  • 西ケ谷恭弘『秀吉の城-戦国を制した太閤の城郭-』世界文化社、1996年7月、48-51頁。

山崎城の口コミ情報

2021年10月25日 参議大野✿道犬房
山崎城



ナビでは住所が表示されない為サントリー美術館を目印に設定してJR山崎駅前を通り踏み切りを越えると美術館、そこを左外れて急勾配の坂を終点まで登ると宝積寺。駐車場もあり、この季節ハイキング、家族でのぼられる方多い。往復1時間、麓の社務所で登頂証明書1枚100円で買えます。

2021年01月26日 髙島播磨守
山崎城



お寺からお城まで繋がり、山登りもできるという魅力。光秀と秀吉の思いを馳せながら

2020年11月28日 櫛引 兵部大輔 重兵衛
山崎城



宝積寺の駐車場まで車で行けます。
平日でしたが、ハイキングされている方もおられ、休日なら多くの方が来られるのではないかと思います。
山崎の戦いがあったであろう戦場を眺められる展望台があります。山頂部の天守台でリア攻めしようとしましたが、電波が悪く苦労しました(^-^;
秀吉の道として色々と掲示されてますが、今では疑わしい記述があるので…
本丸付近では遺構も残っており、いろいろと想像させてもらえます!

2020年02月11日 大納言Z越前守369
山崎城

城跡まで駅から1時間近く山登りすることになります。登山道には自販機がありませんので、飲み物を前もって持参する必要がありますので注意してください。

2019年01月24日 京急渡島守ドレミファ♫
山崎城

【アクセス】
JR山崎駅から登城口までは、踏切を渡ってすぐ。
登城口を10数分登った宝積寺に駐車場、トイレ(和式)もあります。

【見所】
大阪方面、京都方面をそれぞれ眺められる展望台からの絶景。
城っぽさを感じる箇所は少ないですが、古戦場としては想像力を掻き立てられます。

【その他】
昨夏の台風による倒木で通行止めになっているルートもありますが、登頂には全く問題ありません。
平日午前の登城でしたが、多くのシニアの方がいらしていました。
こういう場所は我々城好きがどんどん行くことが支援となり、通行止めになっているエリアの復興にも繋がります!

2019年01月24日 三輪左近衛少将直虎
山崎城

登山道の封鎖は解かれていましたが、台風被害の倒木で見学ルートは限定されています。主郭と二の郭以外は足の踏み場もないような有り様でした。まだまだ時間がかかりそうです。

2018年12月16日 民部卿PINKGIN
山崎城

台風の被害で登城口が封鎖されていました(>_<)

2017年05月09日 まるき〜主殿助
山崎城

天王山麓の大山崎町歴史資料館で予習するつもりで入りましたが城に関する資料が少なくあまり意味はありませんでした…

ある程度きちんとした遺構が残っているのかと思いながら登城するもアプリにアップされている古い写真と様子が変わっている部分があったり、最近手を入れて造ったのではないか?と思われる遺構ぽい物があったりと漠然としていてどれが本物でどれが再現?ニセモノ?って感じで全体的にちょっとわかりにくいように思いました。

ここはガイドさんを置いて欲しいところです。

駐車場は隣接のタイムズを使用ですが資料館を利用すると2時間無料の手続きをしてもらえます 入館は200円

城攻めは軽いハイキングで片道小1時間ほどかかりました。

資料館〜宝積寺 秀吉 一夜之塔〜秀吉が軍旗を立てた松〜合戦場を見渡せる展望所〜酒解神社を経由して城の縄張りへ

資料館の後にリアル城攻めする場合は駐車2時間を超えた分だけ追加料金が必要です。

2017年01月05日 橘若狭守次郎吉
山崎城

城跡は天王山山頂付近にあり、登山道はハイキングコースになっているため整備されているので登りやすい。

酒解神社を越えた辺りからが城域となる。本丸跡に行く途中の所々に石垣が残っている。

本丸跡には説明板がある。本丸跡には天守台跡と思われる一段高い場所があり、其処が天王山山頂である。本丸跡と天守台跡の切岸には所々に崩れかけた石垣が一部残っている。かつては石垣が切岸全体を覆っていたのだろう。

本丸跡の西側には井戸曲輪があり、井戸が残っている。本丸跡の西側にある広い曲輪の北西側切岸に石垣が残っている。これは結構オススメ!

あまり知られていないが城域の最北東端には堀切と土橋がある。本丸跡付近には竪土塁もある。

2016年05月21日 橘若狭守次郎吉
山崎城

(→続)
遺構は登山道を20~30分くらい登り〝酒解神社〟手前辺りからあります。酒解神社の手前には石垣があります。
酒解神社にはでっかい休憩するところ(屋根、ベンチあります)があるのでここで少々休んでもいいかもしれません。
そこからも道なりに進んでいけば土塁、虎口、竪堀、曲輪と遺構がたくさんあります。そして、天王山山頂が主郭となります。で、主郭には天守台もあります。主郭の一段へ進むと主郭Ⅱがありその横を一段下がると井戸曲輪と井戸跡があります。
山崎城は複雑な地形を城にしているので、少し分かりづらいとこもあります。
ゆっくり城郭散策したいなら11時から13時くらいは避けてください。特に土日祝日。ハイキングの集団や親子連れがピクニックしてます。
(5月下旬登城)

2016年05月21日 橘若狭守次郎吉
山崎城

阪急大山崎駅から登城しました。大山崎駅から50M程のところに山崎歴史資料館があります(入館料200円)。今回は入館せず受付で「山崎城の縄張り図が欲しい」と言うと、山崎城の説明つきの縄張り図を本からコピーしてくれました。これがカラーで結構役にたつので貰っておくことをおすすめします!JRからだと城跡とは反対方向にありますが…(^^;
山崎城のある天王山はハイキングコースとして有名で、歴史街道にもなっているので登城口がとても分かりやすいです。

(続→)


2010年09月25日 古楽侍従広家
山崎城

天下分け目の天王山として、羽柴秀吉に故意に宣伝された地です。とちゅうにある山崎合戦の碑や真木和泉らの墓が、歴史の転換期に思いを馳せる事ができます。

山崎城の周辺観光情報

山崎合戦古戦場碑

羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀が覇権をかけた山崎の戦い。その天下分け目の合戦の舞台となった天王山は、ここ一番の勝負の代名詞です。

情報提供:大山崎町政策総務課企画観光係

山崎城の周辺スポット情報

 竪土塁(遺構・復元物)

 空堀(遺構・復元物)

 井戸跡(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 大山崎の東黒門跡(碑・説明板)

 宝積寺(寺社・史跡)

 旗立松(寺社・史跡)

 酒解神社(寺社・史跡)

 西黒門跡(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 十七烈士の墓(関連施設)

 大山崎町歴史資料館(関連施設)

 青木葉谷展望広場(その他)

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