駿府城(すんぷじょう)
駿府城の基本情報
通称・別名
- 府中城、静岡城
所在地
- 静岡県静岡市葵区駿府城公園
旧国名
- 駿河国
分類・構造
- 輪郭式平城
天守構造
- 型式不明[階層不明/1589年頃築/焼失(失火)]、不明[階層不明/1608年再/焼失(火災)]、層塔型?[7階/1610年再/破却]
築城主
- 徳川家康
築城年
- 天正13年(1585)
主な改修者
- 徳川家康
主な城主
- 徳川氏、中村氏、内藤氏(松平氏)
廃城年
- 明治2年(1869)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(水堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 櫓、門、石碑、説明板
周辺の城
-
賤機山城(静岡県静岡市)[1.8km]
安倍城(静岡県静岡市)[4.9km]
瀬名館(静岡県静岡市)[5.5km]
丸子城(静岡県静岡市)[5.9km]
持船城(静岡県静岡市)[6.5km]
久能山城(静岡県静岡市)[7.9km]
江尻城(静岡県静岡市)[10.0km]
花沢城(静岡県焼津市)[10.3km]
庵原山城(静岡県静岡市)[12.3km]
田中城(静岡県藤枝市)[15.5km]
駿府城の解説文
[引用元:Wikipedia「駿府城」の項目]
駿府城(すんぷじょう)は、静岡県静岡市葵区にあった日本の城。現在城址公園として整備されている。別名は、府中城(ふちゅうじょう)、駿河府中城(するがふちゅうじょう)、静岡城(しずおかじょう)など。江戸時代には駿府藩や駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。江戸初期には大御所政治(駿府政権)の中心地となった。
現在では、本丸と二の丸の城跡が都市公園「駿府城公園」として整備されている。
概要
今川館時代
14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。
文明8年(1476年)、今川義忠が戦死すると、後継者の龍王丸(後の今川氏親)の後見人である伊勢盛時(北条早雲)と一門の小鹿範満が対立、11年後の文明19年(1487年)、盛時は今川館の範満を襲って龍王丸を当主に据えた。
天文5年(1536年)、花蔵の乱にて氏親の子である今川義元が今川館の主となる。今川氏は隣接する甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び領国支配を行ったが、桶狭間の戦いで義元が戦死すると甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消された。
永禄11年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻にて、今川氏真の今川館は焼失。
ただし、今川館が現在の駿府城と同じ場所であったことを示す史料は無く、むしろ1982年に行われた駿府城の二ノ丸跡の発掘調査によって見つかった戦国時代の遺構はその規模から今川氏の重臣の邸宅跡と考えられたことなどから、後世の駿府城よりも西側の地域に今川館があったとする推測が強くなっているが、具体的な位置については現時点では不明である[1]。
安土桃山時代
今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。
天正13年(1585年)から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し直された。この時に初めて天守が築造されたという。そして翌天正14年(1586年)に家康が、自身が17年過ごした遠江国浜松城から駿府城に移った。その後天正18年(1590年)、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城。一氏は関ヶ原の戦いの直前に死去する前、徳川方の東軍につくことを決め、戦いの後に嫡子の中村一忠が伯耆に転封されたため、駿府は内藤信成が治めた。
江戸時代
江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、駿府藩を治めていた内藤信成に代わって駿府に隠居した(それにより駿府藩は一時的に廃藩となった)。政治的影響力を持ち続けた家康は大御所と呼ばれた。このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成した。1607年(慶長12年)に、城内からの失火により、完成して間もない本丸御殿を焼失したが、その後直ちに再建工事が開始され、1610年(慶長15年)完成した。天守台は、石垣上端で約55m×48mという城郭史上最大級の規模であった。天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。
駿府城の築城に当たっては伊豆石という伊豆半島産の石材も使用されたようである。沼津市井田の井田高田四郎家文書、宝暦・明和・文化年間の井田村「村差出帳」に、水戸徳川家の石丁場と、江戸・駿府城の為に石を切り出した公儀の石丁場が所在した記録が残っている。また、細田家史料には、「駿河様御丁場」の記載がある。沼津市重寺村付近の、地元の室伏家文書には、天和年間に江戸の町人請負、寛永六年頃に駿河徳川家、寛永十二年頃に越前最小、享保十四年「村差出し」などから駿府城・久能山・江戸城の御用石を商人請負で切り出していたことがわかっている[2]。
1609年(慶長14年)に家康の十男・徳川頼宣が50万石で入封し駿府藩が復活したが、1633年(寛永10年)以降は明治維新まで幕府の直轄地となり駿府城代が置かれた。
現在
三ノ丸には官庁や学校などの公共施設が立地し市街地化しているが、二ノ丸・本丸は「駿府城公園」として市民に開放されている。三重の堀のうち外堀の三分の一は埋め立てられて現存しない。中堀は現存するが一部の石垣は過去の地震によって崩落したままになっており土塁のようになっている。また、内堀は明治時代に陸軍歩兵第34連隊が駐屯中に埋められたが、部分的に発掘され保存されている。
1989年に市制100周年の記念事業として二ノ丸南東の巽櫓(たつみやぐら)が、1996年には東御門(櫓門)と続多聞櫓が伝統的工法によって復元された。内部は資料館となっており見学することができる。また、2014年(平成26年)3月末には二ノ丸南西角に坤櫓(ひつじさるやぐら)も復元された。「駿府城二之丸東御門」が、平成9年度手づくり郷土賞受賞(https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/tedukuri/pdf/Part12_h9/12-20.pdf)。
2016年(平成28年)8月より天守台の発掘調査が始まった。調査は2020年2月まで行われ、石垣の状態確認や学術データの採取が実施される[3]。
歴史
安土桃山時代
- 1585年(天正13年) 駿河国を支配した徳川家康が築城開始。
- 1586年(天正14年) 駿府城本丸御殿が完成。家康、17年間過ごした遠江国浜松城から本拠地を駿府城に移す。。
- 1588年(天正16年) 駿府城天守の工事開始。
- 1589年(天正17年) 駿府城天守・城郭が完成。
- 1590年(天正18年) 小田原征伐後、江戸に移封となった徳川家康に代わり、中村一氏が大名として入城。
江戸時代
大御所政治時代
- 1601年(慶長6年) 家康の異母弟ともいわれる内藤信成が駿府城主に任ぜられる。
- 1606年(慶長11年) 内藤信成が長浜城主に移封される。
- 1607年(慶長12年)
- 2月 駿府城拡張工事開始。
- 3月 家康、入る。
- 12月 失火により御殿・天守など本丸の全てを焼失。直ちに再建にかかる。
- 1608年(慶長13年) 本丸御殿・天守等完成。家康、18年ぶりに駿府城へ移る。
- 1609年(慶長14年) 家康の第十子・徳川頼宣が駿府城主となる。
- 1610年(慶長15年) 天守完成。
- 1614年(慶長19年) 家康、二条城に移る。
- 1616年(元和2年) 家康、駿府城で死去(75歳)。
家康没後の江戸時代
- 1619年(元和5年) 頼宣が和歌山城主に移封。
- 1624年(寛永元年) 徳川秀忠の第二子・徳川忠長が駿府城主となる。
- 1631年(寛永8年) 忠長が乱心、兄である徳川家光に改易と蟄居を命じられる。
- 1632年(寛永9年) 忠長が高崎城で自刃。以後、駿府は公儀御料(江戸幕府直轄領)となり、駿府城代・駿府定番(副城代に相当)が置かれる。
- 1635年(寛永12年) 城下の火災が城に延焼し、大半を焼失。
- 1638年(寛永15年) 御殿・櫓・城門等が再建されるも、城主がいないため、天守は再建されず。
- 1707年(宝永4年)宝永地震により駿府城石垣等が大破し、建物も1/3焼失。
- 1708年(宝永5年)駿府城修復。
- 1854年(安政元年)安政の大地震により駿府城内外の建物、石垣などほぼ全壊する。
- 1857年(安政4年)修復工事の着手。
- 1858年(安政5年)修復工事の完了。
近現代
。
- 1868年(慶応4年) 江戸城開城に伴い徳川慶喜は退隠。養嗣子田安亀之助 (徳川家達) が駿府藩主となり駿府城に移る。
- 1869年(明治2年) 江戸が東京に、駿府が静岡に改名される。廃藩置県により、静岡藩(駿府藩から改称)知県事徳川家達が東京に移る。以降城内の建物が破却され、南側が県庁敷地、それ以外は茶畑に転用される。
- 1891年(明治24年) 静岡市に払い下げられ、公園(中央公園)となる[4]。
- 1896年(明治29年) 歩兵第34連隊の誘致に伴い、本丸堀(内堀)は埋められ、城郭施設はすべて取り壊される。
- 1897年(明治30年) 三ノ丸に城代橋設置。
- 1906年(明治39年) 凱旋橋の開設。
- 1949年(昭和24年) 大蔵省より静岡市に再度払い下げ、公園として整備。
- 1951年(昭和26年) 公園の名称を公募により駿府公園と命名。
- 1989年(平成元年) 巽櫓復元、資料館として公開。
- 1996年(平成8年) 東御門復元、資料館として公開。
- 2006年(平成18年) 日本100名城(41番)に選定。
- 2009年(平成21年) 8月11日午前5時7分、駿河湾沖を震源とする駿河湾地震(M6.5)により、中堀や外堀など複数個所で石垣の一部が崩壊。
- 2012年(平成24年) 4月1日、駿府公園を駿府城公園に改称。
- 2014年(平成26年) 4月2日、二ノ丸坤櫓復元、資料館として公開[5]
- 2015年(平成27年)9月18日 - 9月27日:徳川家康の400回忌を記念した「駿府天下泰平まつり」が開催された。
- 2016年(平成28年)8月 天守台発掘調査開始。
- 2018年(平成30年)10月 慶長期以前の天守台や金箔瓦などが発見された。静岡市は当初、これらは天正期天守と慶長1期天守との間に存在した天守で豊臣秀吉が中村一氏に築かせたこれまで存在を裏付ける証拠が見つかっていない、幻の城とした。
- 2020年(令和2年)1月 先述した慶長期以前の天守台に橋台で接続する形で小天守台が新たに確認された。小天守は『家忠日記』で確認される上、豊臣家の天守に小天守があった例は無く、天正期に家康が築城した跡と見解が修正された。一方で当時としては大きな石材を用いた石垣や金箔瓦のデザインから、豊臣家の関与がどれだけあったかについては、築城当時における豊臣・徳川の関係、徳川の築城技術を論点として様々な意見が主張されている。
縄張
駿府城は北にある賤機山と東にある谷津山の稜線を延長した線が交わる位置にある。西には安倍川と藁科川があるが、城下まで流れていた前者を、慶長期にいわゆる薩摩土手により流路を変更させ合流することで、城下町の治水と西への防備とした。北西には淺畑沼が広がるが近世以降は徐々に耕地化された。沼からの流れは巴川として清水湊に繋がり、水運として活用された。
慶長期以前の縄張は不明な点が多いが、発掘調査により天正期天守台は慶長期天守台より一段奥まった位置にあった。また『当代記』には慶長期の二の丸にあった竹腰正信の屋敷は天正期は井伊直政の屋敷として二の丸の外にあったとされ、慶長期と比較して一周り小さい規模だった。
家康の隠居城としての改修は当初は天正期の城より南の河野辺に新規築城する計画だったが、その後に従来の城を南北へ拡張する形に変更された。大改修が行われた駿府城は、輪郭式平城として本丸を中心として二の丸・三の丸が同心円状に巡る縄張で、何れも石垣と水堀が巡りている。ただし三の丸は本丸・二の丸に対して少し傾いている。
本丸は北西に天守台が南に正門として玄関前門、東に台所門、北に天守下門があり、何れも枡形を形成している。この基本構成は同時期築城の名古屋城本丸と全く同一であり、また天守台の位置が不明で土塁造りではあるが高田城本丸とも類似している。両城は共に家康の子(徳川義直・松平忠輝)の居城として築城された。
二の丸は仕切り石垣で複数に区画されており、これは徳川大坂城や寛永度二条城二の丸と同様の構造である。四方に枡形門(南:二ノ丸門(正門)、東:東門、北:北門、西:清水門(跳ね橋))を構え、また本丸と二の丸の水堀を繋ぐ水路があり、二の丸の出口は水門と櫓で厳重に守られていた。二の丸には本多正純や竹腰正信の屋敷、本丸の台所門出口近くには台所や米蔵があり、また南西は西の丸と呼ばれ秀忠が駿府に赴いた際に使用した御殿があった。三の丸は、南に二箇所(東側大手門、西側:四足門)・東に横内門・北に草深門があり、家康の隠居城時代は能楽専用の屋敷があった以外は屋敷地として使用され、幕府直轄期は城代・定番・在番等の屋敷地となった。二の丸と三の丸を繋ぐ水路もあり、西の横内門を通って三の丸の堀と繋がっていた。何れの水路も船の往来は不可能だった。
建築物
1610年(慶長15年)再建時の大工棟梁(大棟梁)は中井大和守正清であった。また、地元の大棟梁華村長左衛門尉正重とその子孫10代が、幕末まで同城の修復を手掛けている。
再建時に中井家の大工が手掛けた建築物とその作事奉行は次のようになる。
- 天守、二ノ丸書院・数寄屋:小堀政一
- 本丸小天守・対面所・書院・小台所・未申櫓:彦坂光正
- 本丸丑寅隅櫓:秋山甚右衛門・青木勘右衛門
- 本丸辰巳櫓・同長屋・おあちや御家・二ノ丸東門:井出正次
- 涼櫓・二の丸遠侍:三浦直正
- 本丸御亀御家:豊島忠次・間宮三郎右衛門
- 二の丸坊主部屋:辰巳藤右衛門
- 本丸天守の南櫓・同御あちや下御末部屋:村上吉正
- 本丸中ノ局おかち御家:三宅岩木老
- 本丸御殿広間:日向政成
- 本丸遠侍:鈴木新五右衛門
- 二ノ丸鎰干蔵:伊奈忠次
- 二ノ丸西門:中坊久三郎
- 二ノ丸上台所:島田直時
慶長2期の本丸は、天守台の上屋以外が記載された指図が残っており[6]、これに従えば天守台以外の櫓は北東・南東・南西・天守南の5つで上記の記録と一致する。全周は名古屋城本丸と同様に多門櫓で囲われていた。
慶長2期本丸御殿は1期の本丸御殿が火事で全焼したため、総瓦葺で家康の御座所のみ白鑞葺だった。指図には主な建物として遠侍(付:玄関)・広間(大広間)・対面所(白書院)・御殿(書院・黒書院)・寝間(御座之間)・書院(涼櫓・数寄屋)が東から西へ雁行しており、また奥には台所や側室や家康の子のための御殿が複数描かれている。なお上記の作事奉行担当一覧と指図と比較すると、家康の寝間と後述する移築・現存するお万の御殿に相当する記述がないが、これは死後罪に問われた大久保長安の担当と考えられる。
天守
駿府城の天守は3度建てられた。まず、天正年間(1573年-1592年間)または天正17年(1589年)に建てられた天正期天守。次が、1607年(慶長12年) の慶長1期天守でこの天守は完成後まもなく焼失した、もしくは建築前に本丸が火災に遭い中止したと見られる。最後は、その翌年から1610年(慶長15年)に再建された慶長2期天守である。1896年(明治29年) まで現存した天守台は、この慶長2期のものである。天守の高さは33.5mだった。
天正期天守に関しては小天守があったという記録のみで、慶長1期天守も資料が少ない。そのため、現在主に研究対象とされているのは、駿府城最後の天守となった慶長2期天守である。大日本報徳社蔵の『駿州府中御城之図』より、淀城の天守と同じく天守台に余裕を持たせて天守をほぼ中央に建て、4隅に二重櫓を建てて多聞櫓を建て廻したという説が最も有力とされている。この説に対して、2階に廻縁高欄があること、家康が富士山の眺望を無視するはずがないことなどから八木清勝は疑問を指摘している。
天守の外観は『慶長日記』や『当代記』などより次の事が判明している(なお、両文献も柱間は7尺間としている)。
- 1階 - 10間×12間、四方に落縁
- 2階 - 同上、四方に欄干
- 3階 - 同上(9間×11間)、腰屋根は瓦
- 4階 - 8間×10間、腰屋根・破風・鬼板は白鑞製、懸魚・鰭・逆輪・釘隠は銀製
- 5階 - 6間×8間、腰屋根・懸魚・鰭・唐破風・鬼板は白鑞製、逆輪・釘隠は銀製
- 6階 - 5間×6間(5間×8間)、屋根・破風・鬼板は白鑞製、懸魚・鰭・逆輪・釘隠は銀製
- 7階 - (4間×5間)、屋根・破風は銅製、軒瓦は鍍金、懸魚・鰭・破風の逆輪・釘隠は銀製、筋・鴟吻・熨斗板・逆輪・鬼板は金製
- ※括弧内の記述は『武徳編年集成』による。
この他、水戸徳川家が相続した家康遺産の目録には、遺産が元々あった駿府城内の場所が記載されている。この中に「御天守 穴蔵 御天守 らんかん(欄干)のひさし(庇) 穴蔵二階」とあり、これに従えば落縁や欄干のある1・2階は穴蔵の体裁となるため、形式的には5重5階地下2階となる。この他に「御天主 とりつき(取付)二階」「穴蔵取次之榔下」とあり、『駿州府中御城之図』にも描かれている天守台外周上の多聞櫓と天守を繋ぐ渡櫓は2階建てになる[7]。
外見は狩野探幽筆『日光東照社縁起』(日光東照宮蔵)や住吉如慶筆『東照宮縁起絵巻』(紀州東照宮蔵)に天守の最上階から下3重目までの外観が描かれている。また駿府築城の様子を描いたものとされる『築城図屏風』(名古屋市博物館所蔵)に三重櫓を伴う重層な天守が描かれているが、近年では、金沢築城の様子であるという説が有力視されている。
なお慶長2期天守の完成後、家康は天守の窓戸から雨のように水が漏れると苦情を漏らし、名古屋城天守も同じ状態にならないことを求めている。
天守の構造について確定的な資料は発見されていない。このため、復元時に採用する構造については様々な立場から複数の案が出されている。静岡市による、天守台の復元計画がある。又、天守台は発掘調査によって江戸城の天守台より大きいことが分かった。
- 天守木造復元の検討
以下に代表的な例を挙げる(全て慶長2期天守の復元案)。
- 内藤昌案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加し、3階上の屋根を白鑞瓦としている。3階上に大入母屋を載せ、6階と7階は同一平面規模(6階は破風部屋)の5重7階、後期望楼式。白漆喰壁(ただし柱型は黒色)で最上階に高欄を設けている。
- 八木清勝案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加し、3階上と5階上に大入母屋を載せた6重7階、後期望楼型。白漆喰壁(ただし3階のみ黒色)で最上階に高欄を設けている。1階の玄関に大きな唐破風があるので、2階の高欄の一部が途切れている。
- 宮上茂隆案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加し、3階上の屋根を白鑞瓦としている。5階上に大入母屋を載せ、6階と7階は同一平面規模(6階は破風部屋)の5重7階、後期望楼式。白漆喰壁。
- 三浦正幸案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加している。6重7階の層塔式、壁面は黒色処理をした銅板張り。
- 西ヶ谷恭弘案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加し、3階上の屋根を白鑞瓦としている。6重7階で白漆喰壁で、最初に後期望楼式をその後に層塔式の案を出す。
- 平井聖案 - 5重7階の層塔式で、壁面は黒色(ただし、6重も考慮している)[8]。
「静岡市駿府城天守閣建設可能性検討委員会」で有識者による検討会が8回にわたって行われた結果、2010年3月に天守復元をはじめとした城跡の公園整備についての提言がまとめられた。
- 静岡市による検討
これによると、公園整備は単なる観光目的ではなく「風格」のあるものとして整備することが望ましいとされている。また、天守など復元建築物については史実に忠実であるべきだが、確定的な資料も発見されておらず最低限必要な資料が揃っていないため現時点での復元は困難としている。一方で天守台については確定的な資料があるため、史実に基づく復元は可能という。
同委員会では、現時点で天守復元についての結論を得ることはできない現状とともに、まずは城跡としての文化財的価値についての理解や国による史跡指定が必要な段階としており、その観点から公園名を「駿府城公園」に変更することを提言した[9]。
遺構
堀・石垣
内堀は、発掘・復元された南東の一部と中堀との間を結ぶ水路、天守台発掘調査で露出した部分を除いて埋立て消滅しているが、中堀と東辺以外の外堀はほぼ江戸期の姿を残している。ただし、歩兵第34連隊が置かれた後に架けられた凱旋橋、城代屋敷跡付近の城代橋、静岡県庁本館前など、江戸期とは異なる位置に架橋されている箇所がある。
中堀・外堀外縁の石垣・土塁は、1854年(嘉永7年)の安政東海地震による崩落や明治以降の改変によって積み直されている箇所が多いが、大手御門の虎口や北御門跡などが往時の姿をよく残している。また、残存する石垣に天下普請を物語る刻印を確認することができる。又、現存する堀は中堀と外堀の一部だけである。
移築建築物
駿府城のお万の居間が移築され、静岡県三島市にある妙法華寺の奥書院として現存している。これが駿府城唯一の現存建築物であり、三島市文化財に指定されている。なお、一般には公開されていない。
駿府城代
駿府城代・定番
1633年(寛永10年) 、江戸幕府は徳川忠長が改易されて直轄領となった駿府に駿府城代を置き、東海道の要衝である当地の押えとした。駿府に駐在して当城警護の総監・大手門の守衛・久能山代拝などを管掌した。将軍直属で譜代大名の職である大坂城代とは異なり、駿府城代は老中支配で大身旗本の職であるが、老中支配の中では最高位の格式を持ち、御役知2000石、伺候席は雁間詰めであった。
また、1649年(慶安2年)に設置された駿府定番は、駿府城代を輔ける副城代に相当し、当城の四足門の守衛を担当した。駿府城代と同様に老中支配で、御役高1000石・御役料1500俵、芙蓉間詰めであった。
駿府在番・勤番
駿府城には、定置の駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として駿府在番が置かれた。江戸時代初期には、幕府の直属兵力である大番が駿府城に派遣されていたが、1639年(寛永16年)には大番に代わって将軍直属の書院番がこれに任じられるようになった。その後約150年間、駿府在番は駿府における主要な軍事力として重きをなすとともに、合力米の市中換金などを通じて駿府城下の経済にも大きな影響を与えたとされる。
しかし1790年(寛政2年)に書院番による駿府在番が廃止され、以降は常駐の駿府勤番組頭・駿府勤番が置かれて幕末まで続いた。この駿府勤番組頭・駿府勤番は駿府城代支配の役で、それぞれ御役高500石・御役料300俵と御役高300俵であった。
駿府城代支配
駿府城代支配の諸役としては、既述の駿府勤番組頭・駿府勤番の他に、駿府城内の武器・弾薬を管理する駿府御武具奉行や交代寄合の榊原氏が世襲で務めた久能山総門番などがある。
駿府城代は、こうした支配の諸役と駿府加番などで構成される駿府における番方(軍事・警備)の要として、駿府の庶政を掌る役方の駿府町奉行とともに直轄地・駿府を幕末まで治めた。
歴代駿府城代
- 渡辺茂 1619年(元和5年) - ?
- 松平重勝 1619年(元和5年) - 1620年(元和6年)
- 松平重忠 1621年(元和7年) - 1624年(寛永元年)
- 松平勝政 1633年(寛永10年)2月9日 - 1633年(寛永10年)2月
- :※松平勝政は大番頭と御城代を兼との記述があり、同じ本[10]に大久保玄蕃頭忠成が「府中御城代の始也」と書かれている。在任中に知行2千石を与えられる、制度としての駿府城代は大久保忠成が最初。
- 大久保忠成 1633年(寛永10年)2月26日 - 1656年(明暦2年)1月12日
- 松平重信 1656年(明暦2年)1月12日 - 1669年(寛文9年)7月23日
- 松平乗真 1669年(寛文9年)7月27日 - 1676年(延宝4年)4月2日
- 松平勝易 1676年(延宝4年)6月3日 - 1680年(延宝8年)5月
- 三枝守俊 1680年(延宝8年)8月12日 - 1695年(元禄8年)12月25日
- 青山幸豊 1696年(元禄9年)1月15日 - 1720年(享保5年)3月4日
- 青山幸能 1720年(享保5年)4月5日 - 1725年(享保10年)3月15日
- 酒井忠隆 1725年(享保10年)3月22日 - 1736年(元文元年)8月
- 板倉勝淳 1736年(元文元年)9月10日 - 1739年(元文4年)9月2日
- 松平康郷 1739年(元文4年)9月6日 - 1751年(寛延4年)3月25日
- 土屋秀直 1751年(寛延4年)3月25日 - 1754年(宝暦4年)8月13日
- 中根正直 1754年(宝暦4年)8月26日 - 1759年(宝暦9年)8月18日
- 久世広寛 1759年(宝暦9年)10月21日 - 1764年(明和元年)6月24日
- 花房職朝 1764年(明和元年)6月28日 - 1765年(明和2年)11月5日
- 菅沼定用 1765年(明和2年)11月15日 - 1768年(明和5年)3月21日
- 武田信村 1768年(明和5年)5月1日 - 1778年(安永7年)8月9日
- 本多忠弘 1778年(安永7年)8月15日 - 1785年(天明5年)7月3日
- 北条氏興 1785年(天明5年)7月12日 - 1796年(寛政8年)5月20日
- 近藤用和 1796年(寛政8年)9月14日 - 1799年(寛政11年)10月29日
- 浅野長致 1799年(寛政11年)11月24日 - 1800年(寛政12年)2月3日
- 杉浦正勝 1800年(寛政12年)4月2日 - 1802年(享和2年)5月19日
- 松平忠明 1802年(享和2年)5月19日 - 1805年(文化2年)2月8日
- 安藤直之 1805年(文化2年)2月29日 - 1805年(文化2年)8月10日
- 内藤正範 1805年(文化2年)8月21日 - 1807年(文化4年)1月29日
- 浅野長富 1807年(文化4年)2月8日 - 1814年(文化11年)7月28日
- 高木守富 1814年(文化11年)8月28日 - 1816年(文化13年)10月12日
- 松平定能 1816年(文化13年)10月24日 - 1819年(文政2年)9月14日
- 戸田忠従 1819年(文政2年)10月15日 - 1825年(文政8年)2月17日
- 松平信弥 1825年(文政8年)2月28日 - 1825年(文政8年)4月15日
- 安藤広栄 1825年(文政8年)4月28日 - 1827年(文政10年)2月27日
- 諏訪頼存 1827年(文政10年)3月28日 - 1829年(文政12年)5月3日
- 松平定謐 1829年(文政12年)5月15日 - 1832年(天保3年)3月8日
- 堀田一知 1832年(天保3年)3月20日 - 1835年(天保6年)5月24日
- 大久保忠侃 1835年(天保6年)5月24日 - 1841年(天保12年)5月27日
- 菅沼定志 1841年(天保12年)6月24日 - 1845年(弘化2年)3月
- 小笠原信名 1845年(弘化2年)7月8日 - 1846年(弘化3年)3月28日
- 本多忠興 1846年(弘化3年)3月28日 - 1852年(嘉永5年)5月14日
- 坪内定保 1852年(嘉永5年)7月8日 - 1857年(安政4年)2月9日
- 室賀正発 1857年(安政4年)2月9日 - 1859年(安政6年)2月24日
- 土岐朝昌 1859年(安政6年)4月22日 - 1862年(文久2年)
- 酒井忠讜 1862年(文久2年)12月28日 - 1864年(元治元年)
- 本多正訥 1864年(元治元年) - 1868年(慶応4年)3月
駿府加番
駿府加番は江戸幕府の職制で、大名1名と寄合旗本2名が交代で務める駿府城外の警護役である。駿府城外堀外縁を囲む3箇所に置かれ、詰所・鉄砲場・馬場他を備える広大な役宅を有した。当初は一加番(町口)・ニ加番(鷹乃森)の2箇所であったが、1651年(慶安4年)の慶安の変で首謀者・由井正雪が駿府城下で自害した事件を機に城外警備の強化が図られ、三加番(草深)が増設された。
現在は各屋敷に勧請されていた稲荷社のみが残存している。
駿府御薬園
駿府城の北側にはかつて駿府御薬園(安東御薬園)と呼ばれる薬園があり、明治期の調査によると薬園の面積は4,200坪に及んだ[11]。薬園は徳川家康が駿府在城時に御樹守五郎左衛門に管理させたことに由来する。寛永年間に一度廃絶していたが享保年間には再び薬草木が栽培され駿府御武具奉行が管理した。1857年(安政4年)まで老中が交代でこの薬園を管轄しており、幕府の採薬使が訪れ薬草を幕府に献上していた。また薬草の一部は江戸の小石川薬園などにも分けられていた。
旧三ノ丸
駿府城三ノ丸跡には、国・県・市の公共施設や国公私立教育施設が多数立地している。
葵区追手町
- 県立葵文庫(1970年、草薙地区(現駿河区谷田)へ移転)
- 旧静岡市立青葉小学校(2007年、城内小学校(現葵小学校)と統合し閉校)
- 静岡市クリエーター支援センター(2016年、葵区七間町へ移転)
- 静岡県警察本部
- 静岡県庁
- 静岡地方検察庁
- 静岡県私学会館
- 静岡地方法務合同庁舎
- 静岡市立静岡病院
- 静岡税務署
- 静岡地方裁判所
- 静岡簡易裁判所
- 静岡雙葉中学校・高等学校
葵区城内町
- 静岡聖母幼稚園
- カトリック静岡教会
- 静岡市中央福祉センター
- 静岡家庭裁判所
- 静岡市立葵小学校
葵区駿府町
- 静岡市中央体育館
- 駿府城ラン・アンド・リフレッシュステーション
- 静岡市民文化会館
- 静岡県総合社会福祉会館
- 静岡大学教育学部附属静岡中学校
- 静岡大学教育学部附属静岡小学校
- 静岡市立城内中学校
- 静岡森林管理署
- 静岡県教育会館
- 静岡中央警察署水落交番
所在地
- 所在地表記(住居表示実施地区):静岡市葵区駿府城公園1番1号。
- 近世における駿河国安倍郡駿河府中(駿府)地内。江戸時代の幕藩体制下における公儀御料駿河府中(駿府)地内。
- 1868年(慶應4年)に諸旗本領を吸収合併して以降の静岡藩安倍郡府中(駿府)地内。
- 1869年(明治2年)に「駿府」を「静岡」と改称して以降の静岡藩安倍郡静岡 地内。
- 1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県断行後における静岡県安倍郡静岡 地内。
- 1873年(明治6年)5月24日の大区小区制施行後における静岡県第4大区5小区静岡追手町。
- 1878年(明治11年)7月22日の郡区町村編制法施行後における静岡県安倍郡静岡追手町。
- 1889年(明治22年)4月1日、市制・町村制度施行に伴い静岡市が発足し静岡市追手町。
- 1966年(昭和41年)6月1日、住居表示実施に伴い旧追手町を追手町、駿府町、城内町、駿府公園の4町に分割。中堀(二ノ丸堀)以内は静岡市駿府公園となる。
- 2003年(平成15年)4月1日、新生静岡市が発足する。(旧静岡市の地域は町名変更なし)
- 2005年(平成17年)4月1日、政令市化に伴い行政区設置。静岡市葵区駿府公園となる。
- 2012年(平成24年)4月1日、公園名を「駿府公園」から「駿府城公園」に改称に伴い町名も変更され、静岡市葵区駿府城公園となる。
交通アクセス
- 公共交通機関
- 静岡空港からアクセスバス(有料)で静岡駅まで約54分。静岡駅から徒歩で約10分。
- 静岡鉄道 静岡清水線 新静岡駅から徒歩で約5分。
- 自家用車等
- 国道1号を西へ走って静岡駅前[12]付近に着けば、北北西の方向に駿府城公園がある。
- 国道362号を東へ走って「安西四丁目」交差点[13]から「昭和通り」(国道362号)に入り、静岡駅がある南西方面へ進む。安西から数えて5つ目の信号がある「本通三丁目」交差点[14]を左折し、2つ目の信号まで進めば目の前(北東方向)に駿府城公園(坤櫓[15])が見える。
参考文献
- 【書籍】「日本200年地図:伊能図から現代図まで全国130都市の歴史をたどる 」
- 【書籍】「名城の「天守」総覧 」
- 【書籍】「写真集 明治大正昭和 静岡 」
- 【書籍】「日本の城 ―透視&断面イラスト
- 【書籍】「よみがえる名城 白亜の巨郭 徳川の城―決定版 」
- 【書籍】「大御所徳川家康と駿府城公園 」
- 【書籍】「駿府城:平成の天守よ甦れ 」
- 【書籍】「復原 名城天守:目で見る天守の構成と実像 」
- 【書籍】「城 4 東海 」
- 【書籍】「安土城―煌めく「五重」の布武の城 」
- 【書籍】「江戸城―四海をしろしめす天下の府城 」
- 【書籍】「よみがえる日本の城 11 」
- 【書籍】「名城物語3 家康の城 」
- 【書籍】「大御所徳川家康の城と町:駿府城関連史料調査報告書 」
- 【書籍】「駿府城二之丸東御門 」
- 【書籍】「駿府城二之丸坤櫓 」
[続きを見る]
駿府城の口コミ情報
2024年11月12日 巨福呂左近衛少将充流
駿府城
ご存じ、家康公の終の住処。現在は、明治初期に崩され埋め立てられた石垣の発掘調査がされており、現場を見物出来るようになっている。石垣の内側、栗石など小さな石で敷き詰められているのがよく分かる。一見の価値あり。
2024年10月16日 山西の無職人千閑斎
義元公、氏輝公、太原雪斎 墓所[駿府城 碑・説明板]
年二回の臨済寺特別公開に行きました。雪斎、義元、氏輝の木像。今川神廟等拝観してまいりました。襖絵なども普通に文化財クラス、書画骨董の類も多く展示されていました。今回は比較的に空いていたので夢想庵(茶室)を見学できました。
2024年10月14日 中務少輔おりー
駿府城
駿府城公園と周辺を散策すると、天守があった当時はどれだけ栄えていたのかと想像するだけでワクワクします。JR静岡駅や静鉄新静岡駅から歩きながら、「呉服町」「銭座町」などの町の名前も楽しめます。
2024年10月07日 海道一の弓取り
駿府城
近年天守台が発掘されて当時の面影が少しづつ現れて来ています。自分の祖祖母はまだ建物があった頃の駿府城に行った事がある様でしたが、出来れば当時の姿を復活させて欲しいです。
2024年05月20日 Alfonso中務卿
駿府城
現在発掘調査が行われています。現場の周りから見渡せるようになっています。
2023年12月25日 キョロ左近衛中将ちゃん
駿府城
駿府城🏯巽櫓手前に「金荼毘具足鎧兜のプラモデル」あります。持って帰りたいですwちなみに鉄製です。
2023年11月05日 ひろみん百万一心
駿府城
駿府城公園南側の県庁別館21階展望台から全体を見るのもおすすめします。
開いている時間 8:30〜18:00
土日祝は10:00〜18:00
111/3〜5は大道芸WORLD CUP開催中で、にぎわってました。
2023年10月15日 まり左京進
駿府城
駿府城公園に入る前に、静岡市歴史博物館を是非ご見学ください。1Fは無料で戦国時代の石垣の遺構が見学できます。
2023年09月03日 今川党山県右兵衛尉ニャン八
小瀬戸石切場跡[駿府城 遺構・復元物]
【静岡SA入口】の看板を左折し、50メートル程すると右手に【小瀬戸石切場入口】の札が見えるのでそこで右折します。その後はひたすら直進します。石橋を渡り、林道の突き当たりまで車を進めると【小瀬戸石切場登山口】の札(写真1)や【小瀬戸石切庵】(写真8)が見えると共に駐車場があります。そこに車を停めます。
❗️リア攻めマップの位置とは若干異なります。
その後は徒歩で、【小瀬戸石切場登山口】を道なりに300メートル程進むと【壱の石】に着きます。(写真6)矢穴などの石を切った後はあまり見られませんでしたが幾つかの大きな岩があります。その後も看板を頼りに100メートル程進むと【石切場】こと大きな岩が密集している場所に着きます。(写真5)よく見れば沢山の矢穴などの石が切られた跡が…。石が切られた景観を楽しみつつ、(写真7)の矢穴が3つ見られる岩を見つけ、その岩を越えると少し道があり、進むと一枚岩に着きます。そこには40近い矢穴が2線程。(写真4)もう少し近づくとド迫力!(写真2)そして安倍城の方まで見れます(写真3)この一枚岩は結局は切れなかったようですが…とてもよく残っていて感動しました。
石切場の近くには川が流れ、ある資料に「浅間神社の前の川より駿府城の石垣となる石を船から受け取り、運んだ」とあるため、この石切場から石を小舟に乗せて駿府へ流したと考えると…興奮しますね!!!
❗️意外と山道を登ります。虻がいたり、蜘蛛がいたり、滑りやすい箇所があったりするので、
【長袖】【長ズボン】【登山靴】【杖】【虫除けスプレー】の持参を心掛けてくださいね!
2023年08月30日 美兎子左衛門尉
今川氏館[駿府城 周辺城郭]
応永十八年(1411)に今川範政によって造営される。以後今川氏の本拠として利用される。現在の静岡市立病院・駿府城四脚御門を中心とした位置にあったと考慮される。
2023年06月07日 RED副将軍
駿府城
徳川家康の隠居城であり大御所政治の舞台
日本100名城
1585年に徳川家康により築城。元々は室町幕府により駿河守護に任じられた今川氏の今川館があった場所であり、今川氏の本拠地でした。しかし桶狭間の戦いで今川義元が討死すると1568年に武田信玄が駿河侵攻し、今川氏真の今川館は焼失しました。1582年に織田信長により武田氏が滅亡すると、1585年に徳川家康は駿府城を築いて浜松城から居城を移しました。1590年に豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏が滅亡すると徳川家康は武蔵国江戸城へ転封。駿府城には秀吉家臣の中村一氏が入封しました。1600年の関ヶ原合戦後に中村一氏は伯耆国米子城へ転封となり、代わって内藤信成が入封するも、1605年に徳川家康が将軍職を徳川秀忠に譲り隠居すると駿府城が隠居城となります。この時に天下普請によって大修築され、三重の堀を持つ巨大な輪郭式平城になりました。隠居をしたものの幕府の実権は握り大御所政治を行ったとされます。1616年に徳川家康が没し、徳川頼宣が駿河藩主として在城しましたが、1633年以降は幕府直轄地となり駿府城代が置かれ、そのまま明治を迎えました。
見所
本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸が周囲を取り囲む輪郭式ですが、本丸堀は埋められてしまっており本丸と二ノ丸が現在は駿府城公園となっています。本丸は北西隅の天守台部分が発掘調査中で公開もされており、慶長期と天正期の大天守台、小天守台がそれぞれ検出されています。二ノ丸は北に北御門、西に清水御門、南に二ノ丸御門、南東に東御門がそれぞれ開口していました。南西隅には坤櫓、南東隅には東御門と巽櫓が復元されています。三ノ丸は東側と南西の一部を除いて堀と石垣が残存しており、北に草深御門、東に横内御門、南西に四足御門、南東に大手御門が開口しており、大手御門は現在でも大規模な桝形虎口が残っています。
大河ドラマ好きならぜひ訪城を
2023年06月06日 なべ
駿府城
駿府城に来たら、是非、発掘場所を見学してください。無料です。
2023年06月04日 ぼん之助刑部卿かず
駿府城
散歩のコースです。季節で変わる廻りの木々や草花は‼️中々の色合いですよ!本日は…紫陽花が綺麗でしたぁ(^-^)/
2023年05月22日 小太郎左衛門督南畿道19國守
駿府城
静岡駅から徒歩10分余りで行軍。現在本丸発掘調査が、進んでおり、神君の城にふさわしい規模が見てとれます。特に今川時代の痕跡も残存しており、興味を掻き立てます。5月21日情報。
2023年05月05日 こうしん
駿府城
発掘現場をみることができて感動しました。案内ボードもわかりやすく、お城初心者ですが興味深く拝見しました。
2023年05月01日 ユキ刑部大輔
駿府城
家康が植えたみかんがきれにせんてしてあり良かったです。また 古い石垣が見れて感動しました。
2023年04月22日 宮内大輔虎太郎
駿府城
家康公ゆかりの地めぐりで、久々に3回目の登城しました。全16箇所制覇し、限定御城印をいただきました。天守台の発掘調査をしており、このあとどうなるのか楽しみです。坤櫓の中に初めて入りましたが、2階や3階は建築基準法の関係でみれないとのこと。残念でした。
2023年04月01日 図書頭RedKing
駿府城
桜散り初めでも、静岡祭り最高!4月2日(日)まで時代絵巻だけでなく、駿府城で大イベントです。
2023年03月26日 たまたま
駿府城
雨だったので空いてましたが、御城印の受け取り所はとても混んでいました。20人くらい待っていました(^_^;)発掘調査のところが見られて嬉しかったです!!
2023年03月21日 くろちゃん右大臣
本丸堀跡[駿府城 遺構・復元物]
石垣の修理が終わったようで一安心しましたね
2023年03月11日 井伊兵部少輔直政
駿府城
本丸跡で発掘されている今川期•豊臣期•徳川期の石垣は見応え十分すぎます。見学は無料です。
2023年03月09日 コナン遠江守
駿府城
令和4年にオープンした静岡市歴史博物館からの駿府城の巽櫓と東御門を上からみることができます。2,3Fは入場料600円必要ですが、歴史も学べておすすめです。
2023年03月06日 源近江守頼光
駿府城
静岡駅から歩いて10分ほどの場所にあります。天守がないのが寂しいですが、現在、発掘調査中で遺構を見学することができます。
2023年02月26日 つっちゃー
駿府城
櫓への入場券購入で、券売機のボタンご分かり難いです。一番左上の350円は、庭園も含まれています。東御門と巽櫓だけで良いなら、200円です。で、東御門と巽櫓で「共通券」と書いてあるので、なおさら分かり難くなっています。また坤櫓は、別途でそちらの入場口で券を購入する必要があります。
2023年02月19日 兵庫のピーちゃん雁
駿府城
駿府城近くJR静岡駅歩いて10分ぐらいのところの、くれたけインプレミアムホテルで駐車宿泊し、駿府城に向かうが、全ての、道路がお城に沿って斜めに斜交いになっていて、お城の東門に到達するのに、相当回り道をして、歩きました。歩きながら相当方向考えて作られたお城🏯だったんだと思いました。😅
2023年02月19日 ぱぱ〜ん伊豆守
駿府城
家康公ゆかりの誰もが知るお城。今川→豊臣→徳川と歴代の猛者が拠点に好んだロケーションに家康公の頃は江戸に匹敵する規模の街だったとか。今は静岡市民の憩いの公園で、行った日はイベントやっててキッチンカーに大行列など大盛況でした。
2023年02月18日 鞍馬佐渡守TENG
紅葉山庭園チケット売り場[駿府城 御城印]
東御門の券売機で御城印のチケットを買ってここで引き換えます。
2023年02月16日 兎虎駿河守すぎ
駿府城
文化会館の駐車場に停めて最後の駿府城を攻略完了しました。ちょっと寒い日でしたので鳩🕊が石垣で風避けか温まった石で暖をとっていました♪
2023年02月16日 弾正忠ひろし
金座稲荷神社[駿府城 寺社・史跡]
1606年(慶長11年)創建 後藤庄三郎光次が徳川家康公の命令で金座を開設 小判の鋳造を始める際金座の守護神として祀る 霊験あらたかなお金の神様です
2023年02月15日 ねこじる武蔵守
駿府城
発掘現場、必見です。発掘情報館きゃっしる、こちらで積んである山盛りの土を聞いたらお堀を埋めていた土砂、積んである石はお堀を埋めていた石垣(石垣を崩して堀に埋めた)ヘリポートとして使われていた時期もあるとか 地元の無念は計り知れないですね 他お城の現存天守のありがたさ痛感です
2023年02月14日 弾正忠ひろし
札の辻[駿府城 碑・説明板]
江戸時代に高札が立てられた十字路です 各地に同様の地名がありますがいずれも人の往来が激しかった場所になります
2023年02月14日 弾正忠ひろし
金座跡地[駿府城 その他]
現在は日本銀行静岡支店になっていますが当時は金座があったようです 日本銀行本店も金座の跡地に建っていますがこちらも同様のようです
2023年02月14日 弾正忠ひろし
駿府城
巽(たつみ)櫓から入り城内を散策 発掘調査現場の係員の方が色々と丁寧に教えてくれます 現存すれば江戸城より大きいことにビックリしました 発掘調査の現場は見学自由で家康が関東に移封される前に建てた石垣と隠居してから拡張して建てた石垣が二重になっているのを観ることが出来ます 奥が野面積み手前が打ち込みハギになっていて違いがよく分かります 坤(ひつじさる)櫓で御城印をもらって二の丸橋より城外に出ます そこから札の辻を通り慶喜公の住居跡 今は日銀静岡支店となっている金座跡など城下町を一通り散策して廻りました
2023年02月12日 今川党山県右兵衛尉ニャン八
駿府城
発掘調査も順調に進んでいるようです。最近は、今川館の遺構が多く出てきていて、とても嬉しいことです。見どころは、巽櫓・未申櫓・天守台でしょう。外堀の石垣も見事ですが、復元された櫓は、やはり綺麗です。櫓は二つとも中に入ることができるので時間があれば入ってください!
2023年02月06日 山西の無職人千閑斎
八幡山城[駿府城 周辺城郭]
今川義忠が塩買い坂で勝間田、横地の残党に討たれると今川家中では文明の内訌が起こります。小鹿範満は太田道灌を関東から呼び一方、義忠の妻北川殿は伊勢宗瑞を京都から呼び家督継承に伴う内紛の調停を依頼します。その時に太田道灌がこの城に陣取ったと今川記に記されています。
2022年11月17日 山城守吉川
駿府城
県庁の中を突っ切ると美しい大きな公園があり、そこが全て城址です。
2022年11月11日 たえちゃん刑部卿こねこ食堂
駿府城
市民の憩いの場になっているようです。桜の木もいっぱいあって春は花見の宴会をするのにピッタリ。(コロナの心配がなくなれば)
2022年08月29日 在来線男右京進
駿府城
駐車場は隣の市民会館の地下ですが、朝8時にならないと入れません。かなり手入れしてある公園になっています。花壇がきれいでした。石垣はしっかりしていて見ごたえたっぷりです。やぐらも大き目でなかなかいいです。発掘調査はお休みで、自由に中には入れました。プレハブに写真などの資料があります。
2022年05月17日 マグロ常陸介祐平
駿府城
天守台発掘調査の見学は4時までですが、所々アクリル板となっていて現場が良く見えますので、出張帰りなど史跡好きな方は日のあるうちは寄ってみる価値があると思います。
2022年05月05日 飛騨守マックイーン
駿府城
駅から徒歩10分くらいで、キッチンカーを入れたイベントが開催されるくらい市民公園化しています。坤櫓から石垣沿いに遊歩道があり、上からお堀見られます。暑い日で公園はあまり日射しを遮るものがなかったので、木陰が気持ちよかったです。数年前から天守台の発掘調査をやっているようで、見学できますのでおすすめです。
2022年05月05日 けいゆう主税頭
駿府城
天守台発掘調査現場が見れるのですが石垣の中が見える状態になってました。多分いまここでしか見れないので大変貴重ですよ!
2022年05月01日 ぼんてんまる
駿府城
公園スタッフの方皆さん丁寧です。無料ガイドもお願いできます。天守台の大きさは圧巻です
2022年01月17日 ばらく~だ
駿府城
本丸天守台跡の発掘調査現場の見学しました。天正期と慶長期の石垣が同時に見ることができ、とても得した気分でした。
2021年10月06日 Luke
駿府城
本丸跡は日々発掘が進んでいます。発掘の様子が伺えるよう、現場を囲むフェンスには透明な窓が設けられています。いつかここに木造天守が聳え立つことを思い浮かべながら、見学してみてください。
2021年10月05日
駿府城
駿府城本丸跡では発掘調査が進み、その現場を無料公開しています。また近くに歴史博物館も開館予定です。
2021年05月08日 がっくん
徳川家康公之像[駿府城 その他]
市内に家康公像が3体もあるのは「珍百景」であると小和田哲男先生が講座でおっしゃっていた中の壮年期の1像です。
静岡駅北口出たすぐ近くに、義元公に見守られる様に立っていて、待ちあわせスポット化している竹千代像に対し、この壮年期像は同じ駅前なのに国道側であまり人が通らない淋しい所に立っています。
駿府城公園本丸跡に立っているあまりにも有名な老年期像は、この壮年期像の作者である堤氏のお父上が作られたものです。
2021年05月04日 おこぜ東市佑
駿府城
葵舟は是非乗ってみてください。
石垣に残された紋を
近くで見ることができます。
あとワサビ漬けの像も必見。
2021年04月04日 八咫烏玄蕃助
駿府城
4/2(金)~4/4(日) 第65回静岡まつり開催中です。4月1日(木)~無くなり次第終了東御門・巽櫓のリニューアルオープンを記念して、限定御城印を2000枚限定で販売してます。
2021年03月09日 数珠丸恒次大納言ヒロティー
駿府城
駿府城の天守発掘調査現場が、無料で見学できるのでお得です。
2021年02月17日 浅間治部少輔太一
駿府城
主だった建物は無いので、建物を見たい方には退屈なのかな?という印象でしたが、周囲の堀や石垣は城の規模を感じられて楽しかったです。
2020年12月13日 jun1安房守
日本100名城スタンプ[駿府城 スタンプ]
2020.12.13時点、紅葉山の入場券売場でスタンプ、御城印ゲット出来ます。
2020年12月04日 いし♪
寿桂尼 墓所[駿府城 碑・説明板]
いずれが寿桂尼なお墓かは定かではないそうてす
この場所に行く道が荒れていた為ご近所さん(?)檀家さん(?)が集まって竹を切り整備して下さったそうです
2020年12月03日 いし♪
お万の方供養塔[駿府城 碑・説明板]
家康の側室で水戸の光圀の祖母にあたる お万の方 の供養塔があります
供養塔の台座は5段程ありますが写真が横転していたためアップの写真のみ投稿
どなたか全体の写真アップお願いします
2020年11月28日 我流尾張守クール
県庁別館21F 富士山展望ロビー[駿府城 その他]
天守台発掘調査現場を俯瞰する良い場所です。360度見渡すことが可能です。
土休日は正面から入れないので、裏側守衛口から入ります。高度計アプリによれば、海抜90m前後かと思います。
採石場の大崩海岸もよく見えます。
利用料金:富士山展望ロビーは無料
休館日:毎月第三土曜日とその翌日の日曜日及び12月29日~1月3日
(毎年元旦は朝6時30分~8時まで特別開放します。)
利用時間:平日:8時30分~18時00分
土・日曜日、休日:10時00分~18時00分
2020年11月20日 ポール駿河守マッカートニー
駿府城
公園内のおでん屋さん、美味しかったです。
2020年09月06日 ナリナリ
駿府城
JR静岡駅から徒歩10分。復元された巽櫓と東御門が連なって建つ様が見事です。天守台の発掘調査も拝見でき、公園内では静岡おでんも食べられます。
2020年08月15日 えるパパ左京大夫
駿府城
今、天守台の発掘調査が行われた所です。慶長時代の石垣が出て来たそうです。
石垣の石が、砂岩が多く使われていてヒビが入った物も多く見られるそうで再建計画も中々難しいみたいです。
2020年06月22日 ペスカトーレ
駿府城
小さい頃から馴染みの深い公園でしたが、今良く見と当時の石垣や門後等しっかと残っていて、綺麗に保全されています。
再建された東御門巽櫓、未申櫓、紅葉山庭園等見所もいっぱい有ります。
天守台後が現在発掘調査中です。
2019年12月16日 まー刑部卿
駿府城
巽櫓と坤櫓に忍者が出現!
今日は年1の大掃除ということです。
親綱を張り安全帯を着用し作業に取り掛かっています。堀の外では指図係(上官のよう)の的確な指示が飛びます。
また天守台発掘調査現場見学のプレハブは静岡県や外国の方は訪れているのに県外の方誰も居ない。というよりシール貼られてない。
ということでこれから発掘調査現場見学です。
2019年08月12日 あおっち図書助
駿府城
昨年11月に行きました。公園として整備されていて子連れでも公園で楽しめたり、家族連れにも優しい城でした。発掘調査中の所は入れないにしてもわかりやすく公開されている箇所もあり、初めて発掘調査現場を見た子供は喜んでいました。紅葉山庭園でお茶をいただきました。まだ紅葉はありませんでしたがとても綺麗な庭園でした(^^)
2019年07月15日 まさある甲斐守⛄
地下駐車場[駿府城 駐車場]
静岡市民文化会館前駐車場。地下です。8:30〜22:00。30分100円。
2019年07月15日 まさある甲斐守⛄
坤櫓[駿府城 遺構・復元物]
開館時間9:00〜16:30。入館料大人100円。休館日月曜日年末年始。
2019年07月15日 まさある甲斐守⛄
日本100名城スタンプ[駿府城 スタンプ]
坤櫓受付。開館時間9:00〜16:30。入館料大人100円。休館日月曜日年末年始。
2019年07月15日 まさある甲斐守⛄
日本100名城スタンプ[駿府城 スタンプ]
巽櫓受付。開館時間9:00〜16:30。入館料大人200円。休館日月曜日年末年始。
2019年05月19日 KAZ左大臣正勝
義元公、氏輝公、太原雪斎 墓所[駿府城 碑・説明板]
義元公氏輝公の墓所は山門をくぐって右手、太原雪斎和尚の墓所は山門を出て右手の墓所の一番上でお寺よりにありました。
2019年05月19日 KAZ左大臣正勝
寿桂尼 墓所[駿府城 碑・説明板]
龍雲寺の左手奥の山道をはいります。案内看板ありです。
後から聞いたのですが、死してもなお
今川を守ろうと、館の鬼門に位置する位置に葬る様に遺言したらしいです。
寿桂尼様!凄すぎっす!(O_O)
2019年05月18日 朝倉侍従永秀
駿府城
駿府城良かったです。公園としても機能しており、子供達で賑わっておりました。緑豊かであり、心休まる空間でした。係の人と話したのも楽しかったです。
静岡駅からも近く、ぜひぶらりと寄ってみることをおすすめします。
2019年04月27日 松之助尾張守
龍穴[駿府城 その他]
城とは関係ないのですが、巽櫓内で龍穴の解説板を見つけました。
私は3ヵ所のうち、ここしか見つけられませんでした…
興味のある方はぜひ他も探して見てください。
2019年04月25日 ago玄蕃頭
日本100名城スタンプ[駿府城 スタンプ]
巽櫓内部が資料館になってます。
チケット売り場にスタンプがあります。
2019年04月04日 小太郎右衛門督
駿府城
夜8時頃に訪れました。夜桜ライトアップがされているはずでしたがまだのようでした。本丸内も暗かったですが多数の方々が夜桜を楽しまれていました。2つの角櫓はライトアップされていました。
2018年10月19日 ああ福島県大膳大夫城弾正
駿府城
話題の駿府城金箔瓦。金箔瓦は金箔瓦でも金箔の位置が従来の豊臣系城郭とは異なり安土城と同一である事が興味深い。
軒丸瓦の内側(凹側)に押されており、豊臣系の外側(凸側)に比べ施工が難しく技巧かってます。駿府城の金箔瓦の品質までは映像では不明ですが、安土城の瓦は品質が良く、秀吉の大坂城をはじめ豊臣系の瓦は品質が劣悪です。これは、秀吉が豊臣の権威を知らしめる為、品質より、手っ取り早く、見せる城を目的に大量に生産した為です。家康への牽制目的の城に他の豊臣系城郭とは異なる金箔瓦が発見された事は非常に興味深いです。
2018年05月17日 織田上総介晃司
駿府城
静岡市内なので100円パーキングを含め駐車場はあります。
目を引くのは巽櫓と東御門。西の丸には坤櫓。
現在天守台の発掘調査が進んでいて、見学もできるそうです。駿府城天守は江戸城天守よりも大きいとか…
徳川家康が隠居の地として選んだのが駿府城。幼少の頃人質として過ごした地(今川氏館)を晩年に選んだのはなぜだろう…
静岡市はガンプラで有名なバンダイがあり、以前お台場にあった実物大RX-78ガンダムがあったそうです。今も有るのかな…もう無いのかな…
2018年04月02日 あいねす駿河守
駿府城
名城スタンプ、月曜は、区役所7階公園整備課から17階歴史文化課に移ったみたいです。
2017年12月30日 そうちゃん
駿府城
年末の100名城スタンプは区役所もお休みのため完全に断られ、無理でした。
2017年05月27日 くりぼーず大膳大夫太郎
駿府城
天守台発掘調査されていました。新たな発見があるのかな。?現場見学ゾーンは9:00~16:30とのこと。
17時過ぎに来てしまったので、本日は入れず残念。!!
2016年08月09日 まるき〜陸中守
駿府城
当時使われていた工法を用いて復元された坤櫓(ひつじさるやぐら)の内部構造が二階の床を抜いたりガラス張りにしたりして見える演出がされており木の組み方や建築方法等に興味がある方向けの展示となっているのかな?
坤櫓の入り口で構造がよりよく理解できる5分ほどのビデオが用意されています。面倒ではあるが…
ガイドさんは、しきりに6億、6億と、この櫓の建築費用を連呼、また妙に徳川贔屓(に感じる)な案内も地元愛?を感じました。東御門、巽櫓内にはパネル展示やジオラマがあり。
県庁別館の21階に行くと無料展望台があり駿府城一帯を一望できます。
櫓内の見学は東御門、巽櫓、坤櫓の共通券を購入、大人360円
静岡文化会館前地下駐車場を利用しました。
先日、坤櫓を巽櫓と勘違いして口コミをあげていましたので訂正して再度アップしています。イイネをつけて下さった方、本当に申し訳ありませんでした。
2016年04月04日 鶴亀仙人
駿府城
ハッピーマンデー以外の月曜日は定休日なので、100名城スタンプは場内では押せません。向かいの静岡市役所の公園整備課に行けば同じスタンプが押せます。
2016年03月05日 maria右京大夫
駿府城
明日、静岡マラソン開催のため、3/5と明日、駿府城周辺はゴチャゴチャします。おクルマでの来静はオススメいたしません。
2016年02月11日 maria右京大夫
駿府城
現在の静岡市立病院とNHKを繋ぐ感じで、かつて木造の橋が架けられていたそうです。いつからいつまであったのか、これから調べてみますが。痕跡は今もあるというので、実地検証に行きます。
2016年01月02日 マスボ右近衛少将マスボ
駿府城
100名城スタンプ、年末年始は巽櫓お休みのため、スタンプを押した紙が配布されてます。あと、葵区役所一階ロビーにスタンプ設置されてます。
2015年05月28日
駿府城
発掘調査の結果、現在のところ今川氏館の所在地は静岡市立病院あたりと推定されています。今川氏館自体は室町時代の守護館(武田氏館等)と大差ないつくりだったと思われます。
しかし少なくとも義元の代には東に愛宕山城、北に賤機山城、西に用宗城・丸子城、南に八幡山城を配し、今川氏館を中心にした城郭防衛網が形成されている事が確認されます。
2015年05月24日 まー刑部卿
駿府城
城内にある土山は昨年オープンした坤櫓で掘った土の山です。係りの人に聞いたら城内で出たものは外にだして処分できないそうです。また天守再建計画が浮上してるそうです。前回訪城した時になかった坤櫓は入場料100円です。また櫓内では今昔スコープ体験が出来ます。500円。日本初の試みでゴーグルをかけ耳にはイヤホンを付けると音声案内がある。中々面白い企画で一度体験するといいでしょう。
2015年05月17日 maria右京大夫
駿府城
公園内のカラー舗装の部分が堀に相当するそうです。
静岡雙葉学園と静岡聖母幼稚園の間にある、凱旋橋は日露戦争後新設されました。これは、明治生まれの亡き祖母から聞いた話。
2015年01月04日 田部朝臣土持安房守
駿府城
年末年始もお休みでした。スタンプは完全に無理
2014年12月09日 伊豆守やっし
駿府城
100名城スタンプについて月曜日はお休みで、市役所7階まで足を運ぶ必要があります。また、年末年始もお休みの可能性があります。
2014年06月10日 刑部少輔緑木
駿府城
街の中心部にあり、公園化していて市民の憩いの場になっております。城内にある東御門や巽櫓、坤櫓の内部は一見の価値あり。江戸幕府を開いた家康が晩年に過ごし、最後の将軍慶喜が明治を生きた地という事で、駿府地区巡りがいのある場所だと思います。
2014年04月17日 みのみの美濃守@流浪人
駿府城
2014(平成26)年4月3日に、坤櫓のオープンセレモニーが開かれ、入館料大人100円(子供半額)にて見学できるようです。巽櫓等の入館料とは別途扱いです。
駿府城周辺には駐車場がなく、市民文化会館有料地下駐車場を利用するしかありません。
2014年03月29日 中務卿一之介
駿府城
写真を撮ろうとすると、周辺の高層建築物が邪魔をするアングルが多いです。非常に残念です。特に静岡県警の建物が。建てるときにもう少しなんとかしてほしかったと思います。
2014年01月04日 宮内卿ピロシキ
駿府城
県庁別館21Fが展望室として開放されています。輪郭式縄張りをご堪能下さい。
2013年09月01日 尾張守ひろっちぃ
駿府城
駿府城公園は東御門と巽櫓が復元されており200円で見学できますまた駿府城公園内にある紅葉山田園とのセット券は300円です。東御門と巽櫓があるほかは再現された建物はなくほぼ普通の公園といって良いぐらいです。天守閣は取り壊され天守台すら残されておらず昔あった跡に説明書きの書かれた案内版があるのみです
2013年01月13日 ぽえぞお弾正少弼黄金旅程
駿府城
駿府城公園で攻略・登城(≧ε≦)スタンプゲト◎20城目…(^_^;)一度来た城に再度、スタンプ押しに来るのは結構哀しいものが…(ノ△T)
2010年10月07日 tomm加賀守
駿府城
市民文化会館の地下駐車場は朝8:30からなので注意して下さい。100名城スタンプはチケット売場の窓口で。昨年末にはカレンダーが頂けましたまた県庁別館(警察署)の21階展望室からは駿府城跡や富士山が一望できます
地震で崩れた石垣のおかげで観光客が増えたらしい(窓口の方・談)ですが、早く直るといいですね〜
2010年07月21日 徳川内大臣源朝臣康武
駿府城
[武将像]徳川家康像
甲冑鷹狩像(大御所期)が本丸跡に鎮座。最近、静岡駅前に竹千代君像(幼年期)と甲冑差配像(駿遠三甲信大名期)ができ、駿府で過ごした三期の像が揃い踏み。
駿府城の周辺スポット情報
東御門(遺構・復元物)
天守台(遺構・復元物)
櫓台(遺構・復元物)
家康公お手植えのミカン(遺構・復元物)
二の丸水路(遺構・復元物)
徳川慶喜公屋敷跡(遺構・復元物)
巽櫓(遺構・復元物)
坤櫓(遺構・復元物)
石垣の石印(遺構・復元物)
天守台石垣発掘現場(遺構・復元物)
本丸堀跡(遺構・復元物)
横内御門跡(遺構・復元物)
四足御門跡(遺構・復元物)
小瀬戸石切場跡(遺構・復元物)
御水門(遺構・復元物)
北御門(遺構・復元物)
草深御門(遺構・復元物)
水堀(遺構・復元物)
乾櫓跡(遺構・復元物)
艮櫓跡(遺構・復元物)
渡櫓門跡(遺構・復元物)
東御門橋(遺構・復元物)
二の丸御門跡(遺構・復元物)
戦国末期の道・石垣遺構展示(遺構・復元物)
二の丸御門跡の説明板(碑・説明板)
大手御門跡の説明板(碑・説明板)
玄関前御門跡(碑・説明板)
馬場先御門跡(碑・説明板)
寿桂尼 墓所(碑・説明板)
義元公、氏輝公、太原雪斎 墓所(碑・説明板)
薩摩土手の碑(碑・説明板)
お万の方供養塔(碑・説明板)
徳川慶喜公屋敷跡(碑・説明板)
札の辻(碑・説明板)
駿府城横内門とその周辺(碑・説明板)
駿府城在番組頭屋敷跡(碑・説明板)
駿府城東喰違御門跡(碑・説明板)
駿府城代邸址(碑・説明板)
駿府町奉行所址(碑・説明板)
清水御門跡(碑・説明板)
駿府城二ノ丸御門跡 説明看板(碑・説明板)
愛宕山城(周辺城郭)
朝比奈元長屋敷(周辺城郭)
朝比奈泰以屋敷(周辺城郭)
八幡山城(周辺城郭)
有東砦(周辺城郭)
狩野山砦(周辺城郭)
長沼古城(周辺城郭)
今川氏館(周辺城郭)
静岡浅間神社(寺社・史跡)
小梳神社(寺社・史跡)
金座稲荷神社(寺社・史跡)
宝台院(寺社・史跡)
一加番稲荷神社(寺社・史跡)
三加番稲荷神社(寺社・史跡)
二加番稲荷神社(寺社・史跡)
登呂遺跡(寺社・史跡)
チケット販売窓口(御城印)
紅葉山庭園チケット売り場(御城印)
日本100名城スタンプ(スタンプ)
日本100名城スタンプ(スタンプ)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
地下駐車場(駐車場)
発掘情報館 きゃっしる(関連施設)
紅葉山庭園(関連施設)
静岡市歴史博物館(関連施設)
城北公園(関連施設)
中堀と弥次喜多像(その他)
龍穴(その他)
徳川家康公像(その他)
徳川家康公之像(その他)
駿府城石垣(その他)
県庁別館21F 富士山展望ロビー(その他)
おでんや おばちゃん 駿府城公園店(その他)
金座跡地(その他)
仕切石垣(復元表示)(その他)
徳川家康公出陣キット(その他)