江尻城(えじりじょう)
江尻城の基本情報
通称・別名
- 小芝城、於芝城
所在地
- 静岡県静岡市清水区江尻町
旧国名
- 駿河国
分類・構造
- 輪郭式平城
天守構造
- -
築城主
- 馬場信春
築城年
- 永禄13年(1570)
主な改修者
- -
主な城主
- 山県氏(武田氏家臣)、穴山氏(武田氏家臣)、徳川氏
廃城年
- 慶長6年(1601)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
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江尻城の解説文
[引用元:Wikipedia「江尻城」の項目]
江尻城(えじりじょう)は、駿河国庵原郡江尻(静岡県静岡市清水区江尻町)にあった日本の城。
概要
永禄13年(1570年)、甲斐国の武田氏により築城された。
巴川を背後に控えた微高地上に立地し、本丸を中心に三方を囲う輪郭式城郭の平城である。永禄11年(1568年)の武田氏の駿河侵攻により顕在化した三河徳川氏との前線に位置する城であったほか、折戸湾の西に位置するため武田水軍や水運とも関係のある城であると考えられている。
近世の絵図によれば、甲州流築城術の特徴のひとつである丸馬出しが3箇所設けられ、また堀も巴川の水が引き入れられた水堀であった様である。東西400m・南北260m程の近世城郭にも匹敵する規模を持つ。
永禄11年(1568年)末、武田氏による今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始される。『甲陽軍鑑』品34に拠れば、築城は同時期で、武田家臣・馬場信春(美濃守)による縄張りが行われたという。武田氏の駿河経営の拠点となり、当初の城代は山県昌景。武田氏の駿河侵攻においては当初、徳川氏と同盟を結んでおり、山県は徳川氏との取次を務めている。山県は永禄12年(1569年)12月6日に攻略した駿河蒲原城(静岡市清水区)に入城しており、後に江尻城へ入城する。山県は江尻城において奥三河の山家三方衆をはじめ、遠江・三河における軍事を統轄した。『軍鑑』品36に拠れば、永禄13年(1570年)にも駿河先方衆による普請が続けられている。山県は信玄晩年の「西上作戦」にも参加し、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死した。
山県の死後、天正3年5月頃までに江尻城代は甲斐河内領主である穴山信君が務める。『甲陽軍鑑』品36によれば、信君は駿河侵攻においては横山城普請を務めたという(「永禄12年4月19日付穴山信君宛武田信玄掟書」)。天正7年からは信君の子息である勝千代の発給文書が見られ、同年末に信君は出家し「梅雪斎不白」を称していることから、信君はこの時期に勝千代に家督を譲っていたと考えられている。
信君は江尻城に家臣を配置し、城の改修を行った。信君は織田・徳川氏に内通し、天正10年(1582年)2月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際しては城を開城し、降伏している。武田氏滅亡後は徳川氏の勢力下になり、徳川氏の庇護を受けた穴山勝千代(信治)が城代となるが、勝千代の夭折により慶長6年(1601年)に廃城になった。
現在は市街地化により、当時の姿を偲ばせるものは無いが、本丸跡は清水江尻小学校の敷地となっている。周囲には、大手町、二の丸町なの地名が残っている。
参考文献
- 柴辻俊六「穴山信君の文書と支配領域」『戦国大名武田氏領の支配と構造』(名著出版、1991年)
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江尻城の口コミ情報
2024年11月18日 noble権中納言弥勒菩薩
江尻城
巴川に面した平城です。清水江尻小学校辺りが中心域だったらしいです。地表面で残る遺構は何もなく、僅かに「二の丸町」という名称に往時を偲ぶのみ。巴川の流路もだいぶ変わっているようで、かつてはもっとうねうねしていた模様。
小学校フェンスに取り付けられた説明板と縄張図がありますので、それを見て夢想しましょう。
2024年11月12日 国府左京大夫城介
清水袋城[江尻城 周辺城郭]
武田水軍と徳川水軍の拠点となった城
【歴史】
永禄12年(1569)に、武田信玄によって武田水軍の拠点として築かれた。
縄張りは馬場美濃守信房と今福和泉守昌常が行ったという。
武田氏が滅びると、徳川氏の支配下となり、徳川水軍の拠点として用いられた。
その後、家康が駿府に隠居すると、水軍拠点としての価値がなくなり、慶長19年(1614)に廃城となった。
別名:清水城、袋城、浜清水袋城
【遺構】
江尻城の南東1.5kmに位置し、巴川河口に築かれた海城であったが、現在遺構は消滅している。「旧袋城の石」が上総稲荷神社の所に置いてある。
[日本古城絵図]東海道之部(3)に描かれた図によると、巴川を埋め立て築いた城のようで、南北に船溜まりを2か所設けている。また、陸地との接点は西側にしかなく、角馬出を設けている。
【感想】
武田水軍の拠点とのことですが、現在は築城時に使われた石を除き、遺構は全く残っていません。
「旧袋城の石」と記された石も、現在ではほとんど薄れており、一瞬それだと思わなかった。上総稲荷神社の由来が書かれている説明板の下に無造作に置かれている。あまりにも無造作に置いてあるので、なくなっても気付かなそう気がします。
残っている絵図からも、長崎の出島を想起する形となっています。しかし、武田信玄も初めて海に接する場所に城を築くことになったはずですが、いきなり海を埋め立てるという発想に驚きを感じえません。
また、江尻城とは巴川で繋がっているため、往時は舟を使って行き来したと思われます。
【アクセス】
①入江岡駅または新清水駅から、徒歩で15分程度。
②駿河湾フェリー乗り場から、徒歩で10分。
【写真】
①反対側の岸からの遠景
②上総稲荷神社
③旧袋城の石
2024年09月23日 でぇすけ駿河守
江尻城
静岡市立清水江尻小学校になってます。城の面影はほぼ見られませんが、付近には二の丸という交差点もあります。
2024年03月10日 マグロ常陸介祐平
江浄寺[江尻城 寺社・史跡]
江尻城から500m程東に江浄寺があります。久能城代で元松平(徳川)信康の家臣榊原清政(康政の兄)は、このお寺に信康の遺髪を祀り供養塔を建立しています。家康の墓と案外近くに供養されており感慨深いです。清政の子孫は、その後久能山の管理を任され交代寄合になっています。
このお寺にはもう一つ、恋塚と名付けられた供養塔があります。平戸藩主松浦隆信の弟の松浦成清のもので、成清はここ江浄寺で切腹しています。切腹の経緯は、兄の隆信が許嫁の春姫を側室にすると聞き、参勤交代の兄を追いかけ江尻宿で追いついたものの、無断で江戸を抜け出した責任をとらされたということです。成清が「この寺に墓を建て、願を掛けたものは成就させる」と遺言したことで恋塚と名付けられたようです。
2022年12月25日 マグロ常陸介祐平
江尻城
穴山梅雪の居城として有名なお城ですが、清水の市街地にある為、遺構は消滅しています。小学校が本丸跡に建っており、正門は本丸門と命名されています。
2020年04月10日 ペスカトーレ
江尻城
武田信玄が、駿河侵攻後建てた城
巴川を利用して堀を作っていたようです。
現在は小学校になっていて、遺構は全く残ってなく説明看板が有るのみ
2018年02月25日
江尻城
本丸跡には、江尻小学校があり、
本丸門があります。
江尻小学校の南側には、魚町稲荷神社があり、
穴山梅雪が、城の鎮護として建てたそうです。
神社には、大きなサッカーボールのモニュメントがありました。
サッカーの町清水の清水エスパルスの人達が、
必勝祈願をする神社だそうです。
江尻城の遺構はありませんが、
名残は、いろんな形で残っていました。