花沢城(はなざわじょう)
花沢城の基本情報
通称・別名
- 花澤城
所在地
- 静岡県焼津市高崎字城山
旧国名
- 駿河国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 明応・文亀年間
主な改修者
- -
主な城主
- 小原鎮実(今川氏家臣)、武田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
持船城(静岡県静岡市)[4.0km]
田中城(静岡県藤枝市)[5.9km]
丸子城(静岡県静岡市)[5.9km]
花倉城(静岡県藤枝市)[10.1km]
駿府城(静岡県静岡市)[10.3km]
賤機山城(静岡県静岡市)[11.5km]
安倍城(静岡県静岡市)[12.0km]
久能山城(静岡県静岡市)[14.5km]
小山城(静岡県榛原郡)[15.3km]
瀬名館(静岡県静岡市)[15.6km]
花沢城の解説文
[引用元:Wikipedia「花沢城」の項目]
花沢城(はなざわじょう)は、静岡県焼津市高崎にあった日本の城。駿河の守護・今川氏の西の守りとして造られた山城で、1568年(永禄11年)から始まった甲斐の武田信玄による駿河侵攻では、最終盤に激戦地となった[1]。
概要
築城は、1861年(文久元年)に新宮高平が著した地誌『駿河志料』では明応・文亀年間(1492年~1503年)としているが根拠はなく、花倉の乱終結直後の1537年(天文6年)頃ではないかと考えられている[2]。今川氏家臣・関口氏禄が初代城主とされる。
花沢城の戦い
1568年(永禄11年)より駿河侵攻を開始した武田信玄は、1570年(永禄13年)正月、城主・大原資良(小原鎮実)以下今川家臣の立て籠もる花沢城に攻め入った。信玄は高草山中腹に布陣し、武田勝頼・武田信廉・長坂長閑らが攻撃を行った。城兵は14日間に渡り奮戦したが、同月27日に降参し開城、大原資良は遠江に退去したと伝わる[3]。
城跡
城跡は、焼津市北部の高草山から南東に派生した標高150メートルの丘陵に位置する。山頂部に幅29メートル×長さ65メートルの本曲輪と、幅28メートル×長さ66メートルの二ノ曲輪を置き、周囲の稜線にも腰曲輪や堀切を複数設けて南北450メートル規模の城塞を構築している[4]。
2018年(平成30年)から焼津市による「花沢城活用推進事業」が進められており、同年9月~10月には市教育委員会により初の発掘調査が実施され、本曲輪・二ノ曲輪間の大堀切が調査された。また一般市民が訪れて遺構を見やすいよう、遊歩道の敷設や雑木の伐採などの整備も行われている。
参考文献
- 「花沢城」(平井聖ほか編修『日本城郭大系』第9巻(静岡・愛知・岐阜)新人物往来社 、1979年) pp.127
- 「花沢城」(静岡県教育委員会文化課編 『静岡県の中世城館跡(静岡県文化財調査報告書 第23集)』1981年) pp.253
- 水野茂「花沢城」(『静岡県の城跡-中世城郭縄張図集成-』『静岡県の城跡』編纂委員会、2012年) pp.186-187
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花沢城の口コミ情報
2023年05月09日 RED副将軍
花沢城
武田信玄の駿河侵攻により激戦地となった今川氏の城跡🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1537年に今川義元の命で関口氏禄により築城されたと考えられています。
桶狭間の戦いにより今川義元が没すると今川氏の求心力が弱まり、武田信玄は駿河侵攻を開始。
1570年には、小原鎮実が守る花沢城に武田信玄が侵攻。花沢城は天然の要害を利用した堅城であり、守将の小原鎮実は武勇に長けた武将であったため激戦となりましたが、24日後に遂に小原鎮実は開城。武田信玄の支配となりました。
小原鎮実は遠江に退去しましたが、やがて自害したと云われます。
見所
高草山から突出した独立丘陵上に築かれており、西駿河から駿府に至る日本坂の入り口となる交通の要衝です。
山頂に主郭を配し、城域は南北の尾根上に約450mにおよびます。
主郭北側の三郭は一段の腰郭であり土塁が残ります。主郭南側は二郭が連なり堀切で区切られています。
派手な遺構は残っていませんが尾根筋に九つの郭が連なり、主郭東側の切岸はなかなかの鋭さがあります。
行き方は、城域西側麓に登城口があり案内板が立っています。比高は60mほどで整備された登城路を登ると主郭に辿り着きます。
周辺に駐車スペースが見当たらなかったので、かなり離れますが花沢の里観光駐車場に停めて歩きました。
写真
①②主郭と二郭を隔てる堀切
③主郭の切岸 下から見上げる
④主郭の切岸 上から見下ろす
⑤主郭
⑥主郭からの眺望
⑦三郭
⑧案内板
2022年05月01日 在来線男右京進
花沢城
雨で足元が滑りやすいので気をつけて登って下さい。
2022年04月30日 いしとも左近衛中将
花沢城
車で訪ねる場合「六の曲輪」下に四台程の駐車スペースがありますが、道は1台分の幅なので、対向車が来たらバックすることになります。運転に自信の無い方にはオススメできません。花沢の里観光駐車場などを利用してください。
2021年10月19日 安濃津中納言壱午
井伊直孝産湯の井[花沢城 寺社・史跡]
徳川四天王の1人である井伊直政が東海道を通った折に、岡部宿本陣に宿泊した。そこで、直政の身の回りを行った美しい娘をたいそう気に入りました。その後、その娘が男子を産みました。この子が後の井伊直孝です。出産の折、この井戸で産湯を汲んだと伝えられています。
現在は、看板・石碑が建っており、井戸も残存しております。井戸には覆いが被さっており、中は見えません。駐車場が完備されており、アクセス良好です。近隣の花沢城と共に訪れるのはいかがでしょうか。
2021年07月21日 ファン掃部助トム治郎
花沢城
日本坂トンネルの西。城山の南を東名高速、新幹線、東海道線、国道1号、が横切りすぐに海です。歩いてみると地政学的に大切な拠点だということがよくわかります。高草山石脇入口のバス停から歩いて30分くらいか。城山への登山口は2ルートある。行きは急坂、帰りは緩い傾斜ルートを使いましたが、緩いルートは竹やぶが続き薄暗いので夕方までの散策をおすすめします。焼津市さんの監理に感謝です。ありがとう。バス停から攻城し、花沢の里を経由して焼津駅まで徒歩で2時間半くらいです。
2021年04月25日 泉地淡路守ばっかんまん
花沢城
今川義元亡き後、駿河侵攻を始めた武田信玄と、今川方との激戦が行われた城です。花沢の里観光駐車場から、10分程度です。整備も進んでいて、見やすくなっています。
2021年04月22日 ポール駿河守マッカートニー
花沢城
焼津市が力を入れて整備してくれてます。本丸だけでなく曲輪もキレイに樹木や草が伐採されており、幟の設置などで雰囲気があります。
本丸から少し離れた八の曲輪は特に眺望がよく、地形や遺構の形が分かりやすく整備されてます。眼下に東海道新幹線や東名高速道路が走っており、たくさんの幟が城の存在をアピールしています。
まだまだ手つかずの遺構もあるとのこと。これからの整備に期待です!
2020年11月14日 黒法師
花沢城
以前 来たときよりだいぶ整備されていました。本丸からの眺めもよいです。登城道からの本丸直下の眺め圧倒されます。攻め登って来た兵もここでかなり討ち取られることでしょう。
2015年05月25日
花沢城
焼津駅から歩いて45分程かかりました
近隣の花沢の里に駐車場があります。
遺構としては一ノ郭北側の土塁、一ノ郭とニノ郭の間の堀切などが確認できます。ニノ郭から南に伸びる尾根上にいくつか郭がある模様ですが、藪や畑になっており進入できませんでした。
一ノ郭北側の土塁下部には石積みが残っていました。まわりに石が散乱していたので当時は上まで積み上がっていたのかもしれません。
武田氏による改修の跡が見当たらないので、おそらく今川氏が築城した当時の縄張りが遺されていると思われます。
尚、城めぐには登録されていませんが、花沢城麓の西側に伊勢宗瑞(北条早雲)駿河最初の拠点と伝わる石脇城跡があります。こちらも郭が良く残っておりオススメです。