天保山台場(てんぽうざんだいば)
天保山台場の基本情報
通称・別名
- 安治川台場
所在地
- 大阪府大阪市港区築港3
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 台場
天守構造
- なし
築城主
- 徳川幕府
築城年
- 元治元年(1864)
主な改修者
- -
主な城主
- 徳川幕府
廃城年
- -
遺構
- 移築大砲(大阪城小天守台)
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
木津川台場(大阪府大阪市)[4.4km]
博労淵砦(大阪府大阪市)[5.3km]
野田城(大阪府大阪市)[5.5km]
大和田城(大阪府大阪市)[5.6km]
木津城(大阪府大阪市)[5.7km]
尼崎城(兵庫県尼崎市)[6.4km]
三津寺砦(大阪府大阪市)[6.4km]
茶臼山陣城(大阪府大阪市)[7.2km]
天王寺城(大阪府大阪市)[7.4km]
大坂西町奉行所(大阪府大阪市)[7.9km]
天保山台場の解説文
天保山台場の口コミ情報
2025年11月06日 romikun
常吉新田台場[天保山台場 周辺城郭]
大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。1861年、岡山藩による築造。常吉新田は1834年、西成郡南方村の住人・常吉庄左衛門によって開発された新田。詳しい位置は不明だが、大阪鉛錫精錬所酉島事業所の敷地北西付近で道路が僅かに盛り上っており、その周辺にあったと思われる。付近には常吉新田の開墾主である常吉庄左衛門の墓が建つ。
(滋賀県の城https://masakishibata.wordpress.com)サイトより転記
池田家岡山藩の古地図からおおよその位置に訪れた、マップより東側にあたる場所であったと思われる、現在は工場に取り込まれていて往時の姿を想像することすらできない。今昔MAPで確認すると、明治42年測図の地図に8.5mと3mのの高まりが確認できるが、その場所が台場跡か否かはわからない。
2025年11月02日 romikun
島屋新田台場[天保山台場 周辺城郭]
大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。1861年、岡山藩による築造。島屋新田は宝暦年間、島屋市兵衛(浅田市兵衛)によって開発された新田。詳しい位置は不明だが、島屋市兵衛が勧請した産土神社の南西に広がる工場地帯にあったと思われる
(滋賀県の城https://masakishibata.wordpress.com)サイトより転記
池田家岡山藩の古地図からマップの位置から南に1キロほどの日本製鉄構内の西端辺りでは無いかと思われるおおよその位置に訪れた、現在は工場に取り込まれていて往時の姿を想像することすらできない。今昔マップの明治42年測図から台場があったと思われる付近に4.9mと3.4mの高まりが確認できるがそこが台場の跡なのか否かは確かな事ではない。
2025年11月02日 romikun
矢倉新田台場[天保山台場 周辺城郭]
大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。1861年、岡山藩による築造。矢倉新田は1776年、京都下立売の鍵屋・矢倉九右衛門によって開発された新田。詳しい位置は不明だが、当時の絵図との比較で合同製鐵大阪製造所の敷地西側付近と考えられる。同地は度重なる高波の被害を受けており、1896年の淀川改修工事で大部分が河川敷となった。
(滋賀県の城https://masakishibata.wordpress.com)サイトより転記
池田家文庫絵図展「開国と岡山藩」から八十斤加農砲を備えていた様子。池田家岡山藩の古地図から今昔マップであたりを付けておおよその位置に訪れた、現在は工場に取り込まれていて往時の姿を想像することすらできない。明治期の地図の高まりからマップと掲載する画像の位置から内陸側1k位東側辺りにあったのではないかと思われるが確かな事ではない。
2025年11月02日 romikun
布屋新田台場[天保山台場 周辺城郭]
大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。1861年、岡山藩による築造。布屋新田は1853年、高瀬甚九郎(布屋甚九郎)によって開発された新田。1861年に岡山藩が台場を築造し、15拇砲6門を配備した。日清戦争では由良要塞築造までの臨時施設として運用され、28糎榴弾砲4門と野砲4門が設置されたことが確認できる。日清戦争講和後の1896年より施設の売却が進み、1900年頃には武装解除されたものと思われる。詳しい位置は不明だが、当時の絵図との比較で西淀川区中島地区の中島公園付近と考えられる。同地を校区とする大阪市立川北小学校が1963年に刊行した自校史には、「砲台跡に行って旗採りをした」「台場で運動会をした」と記述されている。
(滋賀県の城(https://masakishibata.wordpress.com)サイトより転記
岡山大学附属図書館と岡山シティミュージアムが持つ資料:池田家文庫絵図展「開国と岡山藩」に関する図録を見ると当時の新田開発地の先端部に布屋新田台場・矢倉新田台場・常吉新田台場・島屋新田台場の記載があるので、今昔マップでおおよその位置に訪れた、マップでは、東西2ヵ所が表示されているが、西側の位置が近いと思われる、現在は工場に取り込まれていて往時の姿を想像することすらできない。明治期の地図の高まりからこの辺りにあったのではないかと思われるが確かな事ではない。
2025年10月04日 romikun
北島台場[天保山台場 周辺城郭]
大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。1861年、江戸幕府による築造。北島新田は大和川河口の北岸にあり、1746年に桜井甚兵衛(加賀屋甚兵衛)によって開発された新田。1861年、その西側先端部に方形の砲台と観測所が設けられる。日清戦争では由良要塞築造までの臨時施設として運用され、28糎榴弾砲8門と野砲4門が設置された。日清戦争講和後の1896年より施設の売却が進み、1909年に取り壊される。1910年、跡地には大阪砲兵工廠北島新田火薬庫が新設された。詳しい位置は不明だが、位置および西側の道路の形状が当時の絵図の海岸線と合致する新北島南公園付近にあったと思われる。
(滋賀県の城http://masakishibata.wordpress.com)サイトより転記
引用サイト以外に北島台場の存在を確認できませんでしたが、時代的背景と当時この辺り(西北島新田)が大和川の河口部で木津川台場とともに大阪湾を紀伊水道から侵入北上してくる艦船に睨みをきかせられる場所であることから存在したとしてもおかしくはない、「大正14年3月25日印刷 大正14年4月1日發行」の日下伊兵衛(大阪、著作印刷兼発行者)、和楽路屋(大阪、発行所)大阪市大地圖を見ると現在の平林小学校付近に北島火薬庫の記載があり戦時中の航空写真には当地付近が黒塗になっていることから軍事施設と思われ明治期に台場跡が軍事施設に転用された事が多く散見されるので引用サイトにある「新北島南公園付近」からさらに西の平林小学校付近に台場があったのではないかと想像する。
2025年04月06日 幸運兎式部卿
天保山台場
マーケットプレイスや海遊館近くにあります。頂上にはベンチがあり、お弁当食べるのも良さそうです。
2024年09月24日 京都産中納言かんばん
天保山台場
天保山マーケットプレースの駐車場に車を止めて攻めました。30分までなら250円です。石碑がありました。天保山は「日本一低い山」(妻談)らしいですが、説明とかは何もありませんでした。
2024年05月13日 武尊大膳亮瑞葉蒼海
天保山台場
天保山渡船の桜島側から船に乗って、天保山船着場で下船すればすぐに天保山公園です。そこは標高⒋5mの日本一低い山といわれている場所です
2023年11月01日 修理亮まさ
天保山台場
海遊館のある、天保山マーケットプレイスから少し外れたところにある小さな公園の、50段ぐらいの階段を登ったところです。
海が見えて見晴らしいいところです。
2023年08月19日 大納言Z甲斐守369
西村拾三翁像[天保山台場 碑・説明板]
西村捨三郎は、大阪港初代築港事務所長として大阪港の繁栄に貢献された方とのことです。
写真には、銅像の頭に鳩🐦️が止まっています。
2023年02月28日 吉継中務大輔
天保山台場
かつて天下の台所を支えた大阪港があり、幕末には坂本龍馬もここから新婚旅行に出ています。更に台場を築いて防御した石垣の一部を観る事ができます。
2022年07月13日 尼崎城尾張守一口城主
天保山台場
6月17日、尼崎からママチャリにて進軍。進軍中、安治川や境川、朝潮橋など大相撲が思い起こされる地名があり、大相撲ファンでもあるので、なぜだか嬉しくなって自転車🚲を漕いでいました。川や海が見える所はサイクリングをしていて気持ちが良いものでした。
天保山公園に到着して園内を散策しました🥾天保山は、龍馬とお龍さんの新婚旅行出帆の地でもあるようでした。日本一低い山・天保山の三角点も見てきました。明治天皇観艦之所の石碑や西村拾三翁像を見学しました。下城後に、木津川台場を目指しました。
2022年02月13日 BUZZ
天保山台場
小高い丘があるのみですが、歴史は感じられます。寺田屋事件後の坂本龍馬は、おりょうとここから薩摩に向かったそうです。
2021年11月15日 萌魏副将軍叡声
天保山台場
地下鉄中央線大阪港駅から天保山公園に行くと、公園内にそこそこでかい髭はやした偉そうな座像がある。誰かと思うと名は、西村捨三とある。知らん、こんな奴と思ったが、近くに説明板もない。よくある覚える価値のない地元の成金名士かと思ったが、一応調べてみると、幕末彦根藩士で近藤勇の捕縛に立ち会い大阪府知事を務め大阪築港に貢献した人であった。
何十年後に大河ドラマの主人公になるかも...
2019年04月29日 ポリタンク但馬守
天保山台場
天保山台場の案内板は、渡船場の天保山側(安治川左岸)にあります。
天保山は二等三角点のある山としては日本一低いですが、無条件で一番低いのは、東日本大震災の津波で削られた日和山(宮城県)です。お城関係と山の標高を絡められるものですと、堺南台場内にある蘇鉄山は、一等三角点のある山としては日本一低いです。
2017年01月14日 橘若狭守次郎吉
天保山台場
台場跡は現在、日本一低い山 天保山で有名な天保山公園になっています。切岸か土塁跡ではないかな?と思えるようなものはありましたが、果たしてどうなのだろうか。天保山山頂付近の階段横の壁には江戸時代に天保山を描いた浮世絵を拡大したものが飾られていました。
大坂城天守閣入り口横の大砲(通称:ドン)は天保山台場より移築したものと云われています。
2016年03月30日 まるき〜出羽守
天保山台場
城取りはかなりの広範囲でポチって引っかかります
現地に遺構っぽい物は無い…つーかわからん(;^_^A
小高い山があるだけの公園です
近所には海遊館、天保山マーケットプレイス、大観覧車、赤レンガ倉庫内にジーライオンミュージアム(クラシックカー等の博物館)があるので寄ってみるのも良いかも。
近くの海底トンネル(無料)を通ると大阪南港やUSJへの近道
昼間はコンテナを積んだトレーラーが多いです。










安政元年(1854)にロシアの軍艦、ディアナ号が大坂湾に入り錨をおろすなどしたことで大坂・京都の沿岸防備の必要性を実感した江戸幕府が築造した。
現在、天保山公園となっている場所が台場跡にあたるが、特に遺構などは残っていない。