榎並城(えなみじょう)
榎並城の基本情報
通称・別名
- 江波城、十七箇所城
所在地
- 大阪府大阪市城東区野江4-1-28(榎並小学校前)
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 三好政長
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- 不明
主な城主
- 三好政勝
廃城年
- 天文18年(1549)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑(榎並城跡伝承地)、説明板
周辺の城
-
今福砦(大阪府大阪市)[1.5km]
鴫野砦(大阪府大阪市)[2.2km]
葱生城(大阪府大阪市)[2.2km]
毛馬城(大阪府大阪市)[2.3km]
大坂城(大阪府大阪市)[2.7km]
大坂東町奉行所(大阪府大阪市)[2.9km]
楼ノ岸砦(大阪府大阪市)[3.2km]
柴島城(大阪府大阪市)[3.2km]
大坂西町奉行所(大阪府大阪市)[3.7km]
真田丸出城(大阪府大阪市)[4.1km]
榎並城の解説文
[引用元:Wikipedia「榎並城」の項目]
榎並城(えなみじょう)は、摂津国東生郡榎並荘、現在の大阪府大阪市城東区野江付近にあった日本の城。ここの東側に存在した室町幕府料所河内十七箇所に因み、別名を十七箇所城(じゅうななかしょじょう)とも言った。
概要
榎並城は江口の戦いで8ヵ月間籠城した堅城であるのにもかかわらず、城郭については不明な点が多い。
この地は茨田堤築造によって陸地化した場所で、平安時代に榎並荘という荘園が成立した。地域の南側は旧大和川と旧淀川の合流地点で、周囲は氾濫原・低湿地であり、野江水神社付近のわずかな高台に築かれたのではないかと思われる。しかし、その城跡も元禄17年(1704年)2月27日から始まった大和川の付け替え工事に伴って、現在と大きく地形が変化し場所の特定など困難になってしまっている。
「此城は元来も宗三が館なれば、究竟(きゅうきょう)の要害を拵(こさ)へ、日来は子息衛門大夫政勝を籠置たり」(『万松院殿穴太記』)との記載が見受けられる。宗三は三好政長の事で衛門大夫政勝は政長の息子三好政勝(宗渭)の事を指し、強固な城郭を築いたのではないかと推察されている。
沿革
城史については大きく3つに分けられる。
楠木時代
榎並の地の初見は南北朝の争乱の時で、北朝に寝返った楠木正儀が応安2年(1369年)3月、天王寺から榎並に退いて陣をしいたという記録がある(『花宮三代記』)。この時の陣所はどこか定かではないが、『日本城郭大系』によると、地勢からいって野江水神社周辺であったと解説している[1]。ただ、この時の陣所が後の強固な城郭に繋がっていたのかは定かではない。
三好時代
城として明確に記述されているのが天文17年(1548年)10月28日、この時三好長慶方が榎並城を攻め、後に摂津各地で放火されるが(『細川両家記』)、この時が城としての文献上の初見である。江口の戦いの始まりが、この10月28日の記述ではないかと思われている。その後三好政長は江口城で討死、三好政勝も父の死をきっかけに瓦林城に逃げ去って行った。廃城については記録がないので解らないが、その後文献から姿を消したことから、この時に廃城になったと思われる。
石山本願寺時代
榎並城が廃城になった後、この城跡を石山本願寺が再利用したと推定されている。石山合戦の時に51の支城が作られたが、によるとその51の支城の中に「野江」という名前が見受けられる(『陰徳太平記』)。これにより「野江城、野江砦は榎並城跡を再利用し、その位置は野江水神社付近が最も有力である」と指摘されている。
野江水神社
この地は度々大きな水害に悩まされていたが、榎並城を築城している最中にも水害にあい、それを鎮めるために三好政長が守護神として城内に社を建てたのが野江水神社の始まりと言われている。この時の社の位置が現在の社殿の位置と言われているので、おそらくこの野江水神社を含めた部分が城郭であったと推察されている。また豊臣秀吉も大坂城を築城する際には、社殿を修築し国家泰平を祈願したとの伝承が残っている。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- Osaka Metro谷町線「野江内代駅」 - 徒歩約5分
- 車でのアクセス
- 阪神高速12号守口線「城北出口」
- 近隣に駐車場無し(野江水神社に参拝者用の駐車場が1,2台あり)
参考文献
- 「大和川の付替え(http://www.yamato300.jp/tukekae/tukekae2.html)」 大和川付替え300周年。
- 【書籍】「日本城郭大系 第12巻 大阪・兵庫」
- 【書籍】「榎並城残影。 野江水神社 」
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榎並城の口コミ情報
2022年06月13日 尼崎城駿河守一口城主
榎並城
5月21日、葱生城下城後に進軍していくと地下鉄谷町線野江内代駅に辿り着きました。史跡付近に到着したもののどちらに行けばいいのか右往左往してしまいました😅
先人方の口コミを読んで野江水神社⛩にまずは行けばいいことが分かり神社に参拝。神社東側の鳥居を出て左折(北進)すると城跡の石碑がありました。下城後、今福砦を目指しました。
2021年09月05日 大納言Z周防守369
榎並城
野江水神社と隣接する榎並小学校が、城跡のようです。
野江水神社は、水火除難の守護神である水波女大神が祀られており、その昔、洪水が発生して周辺が水海となっても、この神社の周辺は被害を免れた他、1945年の大阪大空襲でも隣町の内代では被害を受けたが、この神社の周辺では被害を免れたそうです
2020年09月15日 源山城守@ポンコ2…㉔㉕
榎並城
地下鉄野江内代駅の出口後ろに、凸マークのある榎並小学校があります。
フォトの定番の石碑は小学校東門脇にあるため、大通りの都島通をりそな銀行やバーミヤンがある方向に向かい、りそな銀行手前の路地前に「水神社参道」という小さな石碑があり、そこを進んで神社を出て、路地を北に進むと、東門脇の石碑に到着します。
石碑を囲む小学校塀は、20年前は黒かったですが今は白く、塀に説明板まで設置されており、消滅した城址ではありがたい存在です。
石碑付近の小学校敷地は周囲より30㌢ほど高く、築城当時から所在が変わらないと言われる南の野江水神社はさらに数10㌢高い地盤にあります。
このあたりに城址の名残があります。
沖積層という掘削しやすい地質や、当時の川付替え前や水害多発などを考慮すると、もしかしたら在りし日は、小学校付近も神社くらいの盛土の地盤だったのかなと勝手に推察してしまいました。
野江水神社は、約200年前の水害でも境内が無事だった記録があり、水に弱い地ながら水攻めさえされなければ足場悪い堅城だったのかもしれません。
なお、榎並城の北側に「城北(しろきた)公園」や「城北川」「城北小学校」などの名称がありますが、これは大坂城の北ではなく、榎並城の北が由来だそうです(Wikipedia調べ)。
2016年10月09日 橘若狭守次郎吉
榎並城
榎並城は大阪市営地下鉄 野江内代駅から徒歩5分程のところにある“野江水神社”付近にあったと推定されています。実際に神社は周りの土地よりも少しだけ高台になっています。
遺構は特に残っていません。野江水神社の《御由緒》の説明板に榎並城の名が登場しています。
また、榎並小学校正門横に石碑があります。
2015年12月07日 課長大和守Ver.B
榎並城
城跡推定地とされる野江水神社は地下鉄野江内代駅から徒歩5分、城跡碑のある小学校へはそこからすぐです。
遺構はありませんが、周辺より少しだけ高台となっており城跡の根拠となっているようです。