柴島城(くにじまじょう)
柴島城の基本情報
通称・別名
- 柴嶋城
所在地
- 大阪府大阪市東淀川区柴島2-19-5
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 十河一存
築城年
- 天文18年(1549)以前
主な改修者
- 不明
主な城主
- 十河氏、細川氏、稲葉氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
毛馬城(大阪府大阪市)[0.9km]
葱生城(大阪府大阪市)[2.0km]
新庄城(大阪府大阪市)[2.2km]
堀城(大阪府大阪市)[3.1km]
榎並城(大阪府大阪市)[3.2km]
三津屋城(大阪府大阪市)[3.9km]
吹田城(大阪府吹田市)[3.9km]
江口城(大阪府大阪市)[4.0km]
楼ノ岸砦(大阪府大阪市)[4.4km]
大坂東町奉行所(大阪府大阪市)[4.6km]
柴島城の解説文
[引用元:Wikipedia「柴島城」の項目]
柴島城(くにじまじょう)は、大阪府大阪市東淀川区にあった日本の城。
概要
柴島の地は、神崎川と中津川に囲まれた中州である中島にあり、若干の高地(芝ガ洲)にあったと思われている。この地は近代の淀川改修事業で一部は淀川の河川敷になり、中津川も廃川となってしまい現在その地形は失われている。明治時代初期に作成されたと思われる『東摂城址図誌』(東城兎幾雄編)に柴島城も記載されており、それによると城跡の大きさは二町四方で、周囲より四尺ほど高い畑地があったとしているが、その畑地は現在大阪市立柴島中学校となっている。「数値地図5mメッシュ(標高)京都及大阪」(国土地理院発行)を使って柴島付近を縮尺2500分の1の地図にし、『東摂城趾図誌』(東城兎幾雄編)の柴島城の地図と比べてみると、170メートル×200メートルの長方形の微高地(標高4メートル)がほぼ一致した。
『東摂城址図誌』には城跡の東側に柴島神社(字白妙)が建っていたが、先の淀川改修事業で約600メートル北側の字調布に移築された。また柴島中学校の周辺で「本丸」「城道」「屋敷」「西屋敷」等の字名が残っていることにより城跡であったこと窺えるが、遺構などは全く残っていない。昭和3年(1928年)に建てられた大阪市の石碑は柴島神社との関係から場所を決定したようで、北に約150メートルずれている。柴島神社は現在の場所字調布ではなく、明治以前は外島(字白妙)にあった。
なお、現在の大阪市の解説では石碑付近を城跡とし[1]、大阪府の大阪府の行政地図情報システムによる埋蔵文化財包蔵地範囲の表示でも、碑の付近を「柴島城跡伝承地」として設定している[2]。
対岸には榎並城があり、近隣には堀城があり、これらの城同様、西国からの京への拠点で重要視されていた。
沿革
柴島城は十河一存が築いたのではないかと思われている。この城が史上に現れるのは大きく分けて2つあり、江口の戦いの時と大坂夏の陣の時である。江口の戦いでは三好政長派の細川晴賢がいる柴島城を三好長慶軍が大軍をもって攻め落城させている。
大坂の陣後、稲葉紀通が摂津中島藩4万5000石に封じられ、江口村・大道村・柴嶋村などを治めたが、短期間で福知山藩に移封された。稲葉紀通は柴島城を居城としたとされるが、廃城時期ははっきりしない。
アクセス
- 鉄道
- 柴島駅(阪急千里線)徒歩約10分、または崇禅寺駅(阪急京都本線)徒歩15分
- 車
- 阪神高速道路守口線長柄出入口→淀川通
- 近隣に駐車場なし
参考文献
- 平井聖ほか『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、185-186頁。
- 『東淀川区史』東淀川区史編集委員会、1957年6月、482-483頁。
- 中村博司『よみがえる茨木城』 清文堂出版、2007年1月、194頁。
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柴島城の口コミ情報
2023年01月04日 オッチ〜(旧落武者)
柴島城
難読で有名な柴島城。阪急沿線に住んでいないにも関わらず、「くにじま」と読めたあなたは素晴らしい😄この辺りは今も、西中島など島の付く地名が残っています。淀川・神崎川・中津川などにより中洲が多数形成されていた土地でした。難波八十島の一つという古い土地で、平安時代の文献にも残っています。元は国木島だった、茎(くき)島が訛った、櫟(くぬぎ)島が転語した等諸説あります。すぐ近くにある柴島神社の創建伝説(貞永元年の大洪水の際、柴に乗せられた祠が漂着し、それを祀ると村人が助かった)に出てくる「柴」を上記の音に当てたのでしょう。
摂津国、堀城(淀川区)と榎並城(城東区)の中間にあり、西国から京への戦略的重点拠点として位置付けられていました。淀川を外堀として、三好長慶の弟、十河一存が築城したと聞きました。
歴史に登場するのは「江口の戦い」において。この合戦で三好政長を討った長慶は京を掌握、三好政権を樹立します。しかしながら、細川晴元、足利義晴・義輝を近江に追い落とす結果を生んだこの歴史的大合戦。もしかしたら大阪市東淀川区民以外誰も知らないのでは?という噂もあり、それがホントならば誠にもって残念至極。知らない皆さん、是非覚えてちょうだいね。
さて柴島城の攻防戦ですが、江口合戦の前哨戦として行われました。長慶はまず、政長の息子、三好政勝が籠る榎並城を攻め立てますが、この堅城はなかなか落ちません。そこで目を付けたのが細川晴賢の柴島城。大軍で一気に攻め落とし、ここを前線基地の一つにしたと言う事です。柴島城の記述が少ないな😆
残念ながら、今は地形も変わってしまい、遺構も一切残っていません。なので写真はなし〜。
2022年06月13日 尼崎城駿河守一口城主
柴島城
5月21日、新大阪駅東口より進軍開始🚶♂️行軍中、お寺の横をあるいていると塀の九曜紋の瓦が気になったので寄り道してみると崇禅寺というお寺でした。境内図を見ると室町幕府六代将軍足利義教公の首塚と細川ガラシャ夫人のお墓🪦があるということだったのでお参りしてきました。参拝後、進軍再開しましたが道中、柴島浄水場の空襲による弾痕があり戦時中つらくて悲惨な時代を乗り越えて戦後の復興発展に努力して下さった方々のお陰で今の日本があるのだなと感謝の気持ちで一杯になりました。
阪急千里線を越えた住宅街の中に柴島城の石碑がありました。次に淀川を越え毛馬城を目指しました。
2021年09月10日 しまさこ23
柴島城
残念ながら碑しか残っていない。近所にある崇禅寺の細川ガラシャの墓のお参りのついでに行くくらいでいいかと思う。
2017年01月14日 橘若狭守次郎吉
柴島城
現在、城跡は住宅街となっていて遺構は残っていません。住宅街の一角に石碑だけがあります。
石碑へは阪急「柴島」駅より徒歩4分程。または、大阪市営交通バス「柴島」バス停下車後、徒歩1分程。バスは大阪駅前から出発しており、本数もかなりあります。石碑への道順はバス停からの方が分かりやすいかと思います。
2016年02月21日 お猿さん紀伊守せんとくん
柴島城
石碑があるだけです。
阪急柴島駅から近いですが、道が狭く入り組んでいるので、わかりにくいところにあります。