葱生城(なぎじょう)
葱生城の基本情報
通称・別名
- 荒生城
所在地
- 大阪府大阪市旭区生江(常宣寺)
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 顕如
築城年
- 16世紀後期
主な改修者
- -
主な城主
- 本願寺衆
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
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-
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葱生城の解説文
葱生城の口コミ情報
中納言織田晃司さん[2018年12月10日]
城跡には常宣寺があり、寺の駐車場に数台停めれます(リア攻めだけならあまり長居はできないと思います)
葱生城築城が本願寺顕如。石山本願寺の支城の役割を持ち、
常宣寺が本願寺派の寺院ならば現状のつじつまは合う。
橘若狭守次郎吉さん[2017年01月14日]
現在、城跡と云われている場所には常宣寺という寺がありました。常宣寺へは大阪市営交通バス「生江」バス停から徒歩5分程です。遺構は残っていませんでした。しかし、常宣寺の建造物がどこか城郭風で風情がありました。
常宣寺の山門横に大阪市が設置した説明パネルがあります。正面の門ではなくて、左のマンション側にある山門横ですのでご注意を!
葱生城跡の近辺には毛馬城跡もあります。此方も遺構は残っていませんが、毛馬町二丁目の善福寺の山門横に大阪市が設置した説明パネルがあります。併せて訪城してみてはいかがでしょうか。
【遺構】
淀川南岸、城北公園の東側にあったとされるが、淀川の氾濫による度重なる洪水や宅地化により現在はその遺構を確認することはできない。
かつて大字「荒生(なぎ)」の東方に古城があったと伝承され(『顕パ』)、同地に建つ常宣寺(じょうせんじ、大阪市旭区生江3-27-18)には大阪市顕彰史跡第209号として、門前に史跡パネルが設置されている。
【歴史】
『信長公記』によると、元亀元年(1570)から天正8年(1580)までおよそ10年間をかけて行われた石山本願寺と織田信長との「石山合戦」で、本願寺方が石山本願寺を中心に51に及ぶ出城を構築したとされ、葱生城もその中の1つであるという(『顕パ』)。
推定地とされる常宣寺の創建は応永4年(1397)に遡り、室町時代中期には蓮如(本願寺第8世)が立ち寄り近郷に教化伝道したと伝えられる(『常サ』)ことから、同地が石山合戦以前から本願寺と強い結びつきを持っていたことが窺われる。
【交通】
・大阪市交通局大阪市営バス34号系統生江バス停から徒歩で約3分
【参考文献】
・『顕パ』:『大阪市顕彰史跡パネル 第209号』大阪市教育委員会、2014年3月。
・『大系』:『日本城郭大系 第12巻』新人物往来社、1980年。
・『常サ』:常宣寺公式サイト(http://osaka-jyousenji.net/)。