葱生城(なぎじょう)
葱生城の基本情報
通称・別名
- 荒生城
所在地
- 大阪府大阪市旭区生江(常宣寺)
旧国名
- 摂津国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 顕如
築城年
- 16世紀後期
主な改修者
- -
主な城主
- 本願寺衆
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
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葱生城の解説文
葱生城の口コミ情報
2023年04月25日 駒王コジ丸雅楽助
葱生城
福島区にある野田城もそうですが、お城があったのではないか?と言われている周辺には、よく似た造りの本願寺のお寺があります。お城の雰囲気も出ているお寺です。
淀川の洪水も多く地形もずいぶん変わっていて、住宅地となっており淀川も川筋が変わっているし…🤔ただ城北という地名は、葱生城の北だから、ということらしいです。
近くには城北公園があります。そこで当時代はどんなだったのかな?と想像力掻き立てられました🧐
いくつもの淀川の支流があったようなので、天然の要塞となっていたのかも…なんて思いました。建物もなく地形も改変されていても、ここには砦やお城があったんだーと思うと感慨深いものがありました。淀川の河川敷からは中世の土器や瓦が出ているそうです✨
2022年06月13日 尼崎城駿河守一口城主
葱生城
5月21日、毛馬城から進軍していくと指月山常宣寺というお寺に辿り着きました。こちらのお寺では説明板を発見できました。お寺の北側には観音様がいらっしゃいました。また城北公園がありました。下城後、榎並城を目指しました。
2019年06月15日 ポリタンク大和守
葱生城
葱生城の位置は、地名から大阪市旭区大宮とする説もあります。大宮幼稚園の南側の一画に字「殿屋敷」、出典は『日本城郭全集』(人物往来社)です。
2018年12月10日 織田上総介晃司
葱生城
城跡には常宣寺があり、寺の駐車場に数台停めれます(リア攻めだけならあまり長居はできないと思います)
葱生城築城が本願寺顕如。石山本願寺の支城の役割を持ち、
常宣寺が本願寺派の寺院ならば現状のつじつまは合う。
2017年01月14日 橘若狭守次郎吉
葱生城
現在、城跡と云われている場所には常宣寺という寺がありました。常宣寺へは大阪市営交通バス「生江」バス停から徒歩5分程です。遺構は残っていませんでした。しかし、常宣寺の建造物がどこか城郭風で風情がありました。
常宣寺の山門横に大阪市が設置した説明パネルがあります。正面の門ではなくて、左のマンション側にある山門横ですのでご注意を!
葱生城跡の近辺には毛馬城跡もあります。此方も遺構は残っていませんが、毛馬町二丁目の善福寺の山門横に大阪市が設置した説明パネルがあります。併せて訪城してみてはいかがでしょうか。
遺構
淀川南岸、城北公園の東側にあったとされるが、淀川の氾濫による度重なる洪水や宅地化により現在はその遺構を確認することはできない。かつて大字「荒生(なぎ)」の東方に古城があったと伝承され、同地に建つ常宣寺(じょうせんじ、大阪市旭区生江3-27-18)には大阪市顕彰史跡第209号として、門前に史跡パネルが設置されている。
歴史
『信長公記』によると、元亀元年(1570)から天正8年(1580)までおよそ10年間をかけて行われた石山本願寺と織田信長との「石山合戦」で、本願寺方が石山本願寺を中心に51に及ぶ出城を構築したとされ、葱生城もその中の1つであるという。推定地とされる常宣寺の創建は応永4年(1397)に遡り、室町時代中期には蓮如(本願寺第8世)が立ち寄り近郷に教化伝道したと伝えられることから、同地が石山合戦以前から本願寺と強い結びつきを持っていたことが窺われる。
交通
・大阪市交通局大阪市営バス34号系統生江バス停から徒歩で約3分参考文献
・『大阪市顕彰史跡パネル 第209号』大阪市教育委員会、2014年3月。・『日本城郭大系 第12巻』新人物往来社、1980年。
・常宣寺公式サイト(http://osaka-jyousenji.net/)。