石山本願寺(いしやまほんがんじ)

石山本願寺の基本情報

通称・別名

石山本願寺城

所在地

大阪府大阪市中央区(修道館前)

旧国名

摂津国

分類・構造

城郭寺院

天守構造

なし

築城主

証如

築城年

天文2年(1533)

主な改修者

主な城主

証如、顕如

廃城年

天正8年(1580)

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

大坂城(大阪府大阪市)[0.3km]
大坂東町奉行所(大阪府大阪市)[0.6km]
楼ノ岸砦(大阪府大阪市)[1.2km]
大坂西町奉行所(大阪府大阪市)[1.2km]
真田丸出城(大阪府大阪市)[1.3km]

石山本願寺の解説文

石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、摂津国東成郡大坂(現在の大阪府大阪市中央区大阪城)にあった浄土真宗の寺院、城郭である。正しくは大坂本願寺という。

概要
天文2年(1533年)に本願寺教団の本山となって以後発展し、戦国の一大勢力となったが、織田信長との抗争(石山合戦)の末、天正8年(1580年)に顕如が明け渡し、その直後に焼亡した。

寺地は上町台地の北端にある小高い丘だった。その北で淀川と旧大和川が合流しており、その付近にあった渡辺津は、淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、また住吉・堺や和泉・紀伊と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地でもあった。台地にそった坂に町が形成されたことから、この地は「小坂」、後に「大坂」と呼ばれたという。同寺建立以前は、古墳であったとも言われ、生国魂神社の境内であったともいわれている。同神社は太古からの神社であるため、この地が太古の磐座であったとの説もある。

石山本願寺は、堀、塀、土居などを設けて要害を強固にし、武装を固め防備力を増していき、次第に城郭化していったと考えられている。そうしていくうち、いつの日からか「摂州第一の名城」と言われるほどになり、石山本願寺城とも呼ばれるようになった。実際、石山合戦では織田信長を相手に、足掛け10年間も戦うことができた。

沿革
石山御坊時代
蓮如は延徳元年(1489年)に法主を実如に譲り、自身は山科本願寺の南殿に隠居した。しかし、布教活動は盛んに行われていたらしく、大坂周辺に年に何回か行き来していた。明応5年(1496年)9月に坊舎の建設が開始された。これが後に石山本願寺となり、これを中心に建設された寺内町が大坂の源流となったと言われている。建設は堺の町衆、北陸、摂津、河内、和泉の門徒衆の援助を得ながら、翌明応6年(1497年)4月に上棟があり、同年11月には総石垣の扉御門が出来、要害の寺院が完成した。蓮如は今までいくつかの坊舎を建設したが、『日本都市史研究』によると、その中でも大坂御坊がもっとも美しいものであったという記録がある、としている。

なぜ大坂御坊が石山御坊とか石山御堂と呼ばれるようになったのか、理由は明確になっていないが、蓮如の孫である顕誓が永禄11年(1568年)に書いた史料によると、
明応第五ノ秋下旬蓮如上人(中略)一宇御建立、其始ヨリ種々ノ奇端不思議等コレアリトナン。マヅ御堂ノ礎ノ石モネカネテ地中ニアツメヲキタルガ如云々
と記されている。これによると、柱礎に適した石が土中に揃っていたという不思議な状況に因んで、大坂を石山と呼称したようになったのであろうとしている。

蓮如の後継者実如は、細川政元と畠山義豊との明応の政変以降の戦いに対して、細川政元から強く参戦を求められていた。永正3年(1506年)に実如は、摂津、河内の門徒衆の反対を押し切り、本願寺として初めて参戦した。
これ以降、本願寺は武装化していき武士勢力との抗争が始まっていく。

天文元年(1532年)6月、木沢長政が立て篭もる飯盛山城に畠山義堯、筒井氏連合軍が攻撃した。法主は実如から証如へ移り、細川晴元より増援軍の要請をうけ、証如は大坂御坊により門徒衆2万兵を率いて飯盛城の戦いとなり勝利した。さらに増強した一向一揆は三好元長を堺に追いつめ自害に追いやった。この時増強された兵数は10万兵まで膨れ上がったと伝わっている。これに危機感を覚えた晴元は、同年8月初旬より本願寺の末寺や大坂御坊に攻撃を仕掛けてきた。更に晴元は法華一揆衆や近江守護六角定頼に援軍を要請、同年8月23日に3万から4万の兵で山科本願寺を包囲、山科本願寺の戦いとなり寺内町共々焼き討ちされて滅亡してしまう。...

石山本願寺の口コミ情報

若狭守次郎吉様[2016年09月21日]
石山本願寺(大坂本願寺)は本願寺衆が築いた城郭寺院だと云われている。

何処にあったかは詳しいことは分かっていないが、大坂城敷地内の何処かにあったと思われている。

現在の有力な推定地は大坂城二ノ丸付近で、修道館と六番櫓の間にひっそりと案内板と石碑がたたずんでいる。普通に歩いていると気づかない。

摂津守@Dr.stop酒様[2016年06月25日]
大坂城二ノ丸にある市立修道館と六番櫓の間に石碑と案内板がひっそりと、玉造口から西へ本丸に向かう途中の林の中に、蓮如上人袈裟がけの松、南無阿弥陀仏の石柱、案内板などがこちらもひっそりとあります。

織田信長に11年間抗戦した摂津第一の名城の石山本願寺は、豊臣時代の大坂城、徳川時代の大坂城と変遷したため遺構はなく、場所に関しても大坂城本丸・二ノ丸付近がその推定地とされています。

石山本願寺の名残としては、大坂城大手門を北側面から防御する千貫櫓の名称の由来です。
織田信長が攻めた時、横矢が効果的に飛んでくる隅櫓がこの近辺にあって苦戦を強いられたため、「あの櫓を落とした者には千貫文の銭を与えても惜しくない」と話したことが由来となり、豊臣時代の大坂城、徳川時代の大坂城でも名称が受け継がれたそうです。

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