玉造口桝形

玉造口桝形([大坂城  遺構・復元物])

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玉造口桝形の口コミ情報

2024年02月14日 源陸中守@ポンコ2…仕事中


玉造口は、かつては2つの門が備えられ、一の門(城内側)は門の上に櫓門が、二の門(城外側・玉造門)は黒塗りの高麗門と、今も残る大手口と同様の構造でした。

1628年2月に南外濠など二ノ丸南面、大手口、玉造口の桝形と櫓台を普請されました。桝形や多聞櫓は、建材搬入の妨げとなるため、最後に普請・作事となったそうです。ただ、玉造口東側の石垣が崩落したため、1629年 に石垣が普請し直しました。玉造口東側は湿地で地盤も軟弱と、高い石垣だと不安定なため、巽櫓台を東西7間 、南北8間にして、東側石垣を二段に積み上げて腰曲輪が設けられ、1630年11月 に作事が完了しました。

二の門は黒塗りの門だったので黒門と呼ばれ、付近の玉造稲荷神社近くで代々有力町人の高津屋吉右衛門家は、この辺りで白瓜を栽培し、その瓜は玉造黒門越瓜と呼ばれました。市場開設許可を持つ吉右衛門家が開いた白瓜市場は、現在も黒門市場として名を残してます。

1868年の戊辰戦争時の大火で一の門が焼失し、明治新政府により陸軍の管理下に置かれた際に多聞櫓台の西側と北側が撤去され、二の門も移築されました。なお、移築された二の門は黒門と呼ばれてましたが、1945年の空襲で焼失しました。

今は、玉造口の高麗門両脇の石垣と天端石の石狭間、雁木や塀を支えた石柱1本、東側の多聞櫓台と、西側の4分の1が曲線面に改造された櫓台の一部が残っています。石狭間には、松江堀尾家の分銅紋の刻印があるものもあります。もし現存していたら、大手口や京橋口・桜門桝形内のように巨石の見付石があったのかは、調べてもわかりませんでした。

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