算用曲輪(杉山)
算用曲輪(杉山)([大坂城 碑・説明板])
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算用曲輪(杉山)の口コミ情報
2019年09月06日 源山城守@ポンコ2…
南東の玉造口土橋の南側にあって、豊臣期に年貢や金銀を計算する所があったことに由来する算用曲輪。
江戸期は杉山として大坂城見学できる庶民の行楽地でしたが、堀を掘削した残土のうち、本丸や二ノ丸の盛土で余った分がここにも7mほど盛土された事が土壌の成分調査で判明してます。
その後、明治期に東外堀を埋めるのに削り取って使用され、現在に至ります。
東外堀は平成に入り、復元されました。
江戸期の大坂城再築の際、算用曲輪は盛土される前から小山になっていて、そのことを徳川秀忠が気にしていたことが、古文書に残されてます。
藤堂高虎が普請現場の確認した内容を江戸の酒井忠世ら年寄衆に報告した書状が収められる「元和六年案紙」には、
「御城廻各同道仕、見及候慮、御指圃如御輸相
園、迫手の御門・たまつくりの御門・京口の御門
其外土橋の様子、繕固にて御このミのことく
一段可然相見ヘ申候、たま作の御門口は、
むかひ土井、殊外高可有御座と瀦存、江戸
にてハ如何可有御座侠哉と存候慮、地形
見申候而、御このミの段様子一段にて御座候、
土橋の上ハ不及申、下も水まハり候ことくニ
成可申候、左様-一御座候ヘハ、何方もからほりハ
無御座、皆水堀に罷成申候事」とあり、
秀忠(御このミ)が気にしていた各門や土橋は構想通り、玉造口に至っては、南側の算用曲輪(土居)より高い位置にできて、高虎が喜んでいる様子が記されてます。
なお、「元和六年案紙」には大坂城再築普請や秀忠の娘の後水尾天皇入内調整に関する書状のやりとりが主にファイリングされてます。
算用曲輪が今より7m下の地山でも、元々の玉造口の地山はそれより低かったとは、徳川期に壮大な普請が行われたことが伺えます。