妻籠城(つまごじょう)
妻籠城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長野県木曽郡南木曽町吾妻218-7
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 木曽氏?
築城年
- 室町時代中期
主な改修者
- -
主な城主
- 遠山氏、山村良勝(木曽氏家臣)
廃城年
- 元和2年(1616)
遺構
- 曲輪、帯曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- 県史跡(妻籠城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
苗木城(岐阜県中津川市)[12.8km]
大博士城(岐阜県中津川市)[19.9km]
駒場城(長野県下伊那郡)[20.5km]
飯田城(長野県飯田市)[23.0km]
松尾城(長野県飯田市)[23.7km]
鈴岡城(長野県飯田市)[23.7km]
岩村城(岐阜県恵那市)[28.2km]
船山城(長野県下伊那郡)[29.1km]
大島城(長野県下伊那郡)[29.1km]
福島城(長野県木曽郡)[31.4km]
妻籠城の解説文
[引用元:Wikipedia「妻籠城」の項目]
妻籠城(つまごじょう)は、長野県木曽郡南木曽町にあった日本の城(山城)。
概要
築城時期は室町時代中期である。標高521mに位置し、戦国時代には木曾義昌が城主であった。本城は東西約30メートル、南北約40メートルで、四周に土塁と帯郭を巡らせた茶臼型の山城である。北東に張り出した屋根に空堀を施し、その先端に郭を築いている。大手は東方鞍部で前面に構えの郭があり、両側断崖の土橋上の小道を経て本城に入る構造となっている。
歴史
16世紀中期に木曾氏は甲斐の武田氏に従っていたが、妻籠城改築の年と伝わる天正10年(1582年)に入って間もなく織田氏に寝返った。
織田信長はこの出来事を好機と見て、木曽、伊那、そして徳川家康の遠江から大軍を武田氏がいる甲斐へと攻め寄せ、滅亡させた。
元和2年(1616年)の一国一城令により、廃城になった。
妻籠城の戦い
天正12年3月(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、木曾義昌は当初、徳川家康に付いていたが、羽柴秀吉に寝返った。
同年9月、木曾義昌は妻籠城に山村良勝を入れて300騎を付けて籠らせた。徳川方の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らが清内路峠を越えて攻めて来た[1]。徳川方は妻籠城の対岸の愛宕山を占拠して攻撃した。
山村良勝は奮戦したが、渡島の者達が徳川方に付いたため、北方との連絡が取れなくなり孤立してしまった。兵糧や弾丸が不足して困った。そのうえ上山口の牧野弥右衛門も徳川方に付き、田立・渡島の者達に水の手を塞がれてしまったので水にも困る事態となった。
そこで竹中小左衛門という者が妻籠城を夜に紛れて抜け出し、搦手である木曽川に降りて、牛ヶ渕を渡って対岸の島田へ渡り、河原を歩いて味方が居る三留野へ辿り着き、そこに居た30人ばかりの髪に玉薬を結び付けさせて木曽川を渡らせて妻籠城へ帰還した。
この時に与川村にあった古典庵の僧が、与川の郷民に紙旗を数十本持たせ、三留野の原久左衛門(神官園原氏の祖)と共に柴山の峰に登り、紙旗を上げて狼煙を上げ、夜は篝火を焚いた。
徳川方は、孤立していた妻籠城は、そろそろ兵糧も武器も尽きたものと思っていたが、三留野から運ばれた弾丸で撃たれたので、秀吉方の美濃金山城主の森忠政が大軍を率いて救援に来たため、渡島や山口の者達が寝返ったと勘違いをした。
また夜の篝火を見て木曽福島からも援軍が来て四方を囲まれたと思い、妻籠城の囲みを解いて逃げ出した。
これを見た山村良勝は、兵を先回りさせて蘭(あららぎ)の山路に伏せ置いて、城門を開けて徳川勢を追尾した。この時、広瀬市右衛門は、菅沼氏の大将の朝日仙助の馬を射ち倒したので、朝日仙助は走って逃げて行ったという。また与川の郷民も坂本与九郎なる者を鉄砲で撃ち倒す手柄をたてた。
このようにして山村良勝が大軍を破って勝利に導き、徳川方を撃退した。
所在地
- 長野県木曽郡南木曽町吾妻
参考文献
- 信濃史学会 編、『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』、1988年
- 南原公平 著、『信州の城と古戦場』、しなのき書房、2009年
- 南木曽町誌 通史編、妻籠城の戦い
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妻籠城の口コミ情報
2024年04月08日 わか
妻籠城
山上の本丸から景色が良く、眼下には妻籠宿が見える。本丸にある石碑などの文字は月日が経って劣化して読めなかった。
2024年04月06日 RED副将軍
馬籠丸山砦[妻籠城 周辺城郭]
小牧長久手の戦いの際に築かれたとされる砦跡
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代等の城史は不詳。
近隣に2つの馬籠丸山が存在しており、馬籠丸山砦のほかに南西に馬籠丸山城(馬籠城)もあるため伝承がどちらを指しているか分からず錯綜している可能性があります。そのため島崎重通が守備していた馬籠城がこの場所であった可能性も有します。
また、1584年の小牧長久手の戦いの際には、馬籠城の木曾義昌は豊臣秀吉方に付いたため、徳川家康方に付いた保科正直・諏訪頼忠の軍勢が馬籠城に対して北方に砦を築いたと云われており、その際の砦であったとも指摘されています。
馬籠丸山砦は馬籠丸山城の北方に位置していることから、そちらの可能性の方がしっくりときました。
見所
馬籠宿から南東の丘稜に築かれています。
丘稜頂部が主郭と思われ、数段の削平された郭地形が認められますが、道路が通り、農地化により大きく改変を受けています。
2023年12月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
越坂の物見[妻籠城 周辺城郭]
越坂の物見は妻籠城の北北東約14.8km、木曽川南岸(左岸)、標高911mの山塊山頂から西方へ伸びる尾根中段、標高約736m地点の平場に立地したと推測される狼煙台か物見台の類いです。北麓の国道19号線からの比高は190m位でしょか。須原と越坂集落を結ぶ乗り越しの舗装道路東側の山尾根を登ると該地に至り、西側の山陵を登ると同じ妻籠城のリア攻めマップにある須原城に至る。両者間の距離は約0.6km、至近で舗装道路を東西に挟んで相対する。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…城域南側直下には林道が東西に伸びており、単純に比高を稼いだ後、この林道から該地へ向けて直登しようとしたけど激藪過ぎて取り付く事が出来ない。結果としては随分と林道を戻って藪の最も薄い場所を選び尾根稜線上までを直登した。薄いと言っても激藪である事に変わり無く、かなりの無理をしてよじ登ったので推奨出来ない。距離はあるけど単純に乗り越しの舗装道路から尾根末端部に取り付いた方が遥かに楽かもしれない。
築城年代は不明、築城者は木曽氏になるんだろうか。大体にして史料、伝承等無く色物物件、推測地である。「信濃の山城と館7、安曇・木曽編」に掲載があるが、著述からは信濃のお城の神が何を根拠として何故この場所を調査したのかもよく解らない。文中の言葉を借りれば、「…旧陸軍でこの山を調査したという話があるがその意図・結果等については不明である。ただ地元に物見があったのではないかという漠然とした想像がある。」て事になる。ここは漠然とした想像のみで調査した神を崇めるべきなんだろうか…それとも信者にのみ与えられる試練なのだろうか…
直登して大量の枯葉をアウターのフードに詰め込んだおいらだったけど、尾根稜線上は意外にもすっきりしていて一安心、乗り越しの道なんかも付いておりごく最近まで人の入るお山ではあったようだ。尾根は所々で土橋状の痩せ尾根を形成していて淡い期待も膨らむ…
…該地に辿り着いてはみたけど、なんじゃこりゃ…尾根稜線上下段にはこの山陵としてはびっくりするぐらいの面積を持つ平場が見られるけど殆ど地山、てか地山だよ。平場は後世の植林場か何かだろうか。これが往時のものなら逃げ込み城ぽくもある。でもまぁ違うやろ…狼煙台か物見台の類いとしても存在理由は希薄、大体にして眺めが悪いのは樹木が生い繁っているせいだけじゃない筈…又、旧軍が中世の城館跡として該地を調査する必要がある訳無い。高射砲陣地や探照灯、防空監視哨を置くような場所(小さな発電所以外に木曽を爆撃する理由も無いだろう。事実、木曽郡は空襲の惨禍から逃れている。)でもないと思うので謎でしかない…ちなみに信濃のお城の神が描いた縄張図はやる気の無さしか感じられない。
…ネガティブな事書きまくり…でも痩せ尾根は楽しかった。もし何かしらの城砦が存在していたとすれば該地から尾根を下った標高約673m地点や標高約641m地点ではないだろうか。ちなみに木曽の城砦で鍛えられたおいらの眼は玉葱と白菜、茄子と人参の違いが判らないぐらいの優しさに成長している(野菜の部分には何を当てはめて頂いても結構です。)。
※戦時中の木曽郡には防空監視哨十三番福島が現在の木曽郡木曽町福島の関山公園下段(福島城のリア攻めマップにある上之段城の位置だろうか。)に設けられていた。米軍航空機が上空を飛行していなかった訳ではない。
※写真①、②は登城中、⑦、⑧は下山中の光景っす。
2023年11月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
和村城(本城)[妻籠城 周辺城郭]
和村城(本城)は妻籠城の北北東約14.9km、木曽川北岸(右岸)、標高約563mの河岸台地上平場に立地する要害です。南麓の木曽川からの比高は35m位でしょか。同川を南北に挟んで同じ妻籠城のリア攻めマップにある須原城が相対する。
行き方はGoogleマップに位置登録されている西方の「関西電力木曽川電力資料館」を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。ちなみに鉄塔マニアの聖地、関西電力須原発電所も該地から直ぐの距離なんで興味のある方は合わせてどうぞ。木曽谷は木曽川に流れ込む大小河川から取水する発電所が近代以降建ち並びその手のマニアが数多く?訪れる。須原発電所を対岸から眺める事は至福の時間でもあるんだそう(インスタフォロワーさんのお話し。)。
築城年代は不明、築城者は木曽氏になるんだろうか。木曽谷南部の城館は木曽川左岸に築かれる事が殆どだが、その点においては貴重、谷筋を縦断する道筋が左岸を選んだ事にその理由があるんだろう。又、和村城の立地は往時、付近に渡し場が存在していた事の裏付けになるのかもしれない。
「大桑村誌」にも記述があるが、「長野県中世城館跡 分布調査報告書」の転載である。気になるのは一時期において木曽氏の本拠地だった須原の木曽川対岸に位置しながら「本城」とも呼ばれる事、単に一族の相当な有力者が居したものとも考えられるが謎である。
お城の現況は…謂わゆる木曽川に面する崖端城だが、周辺台地上は土地の構造改革等によって改変著しい。縄張は単郭で文字通りの鏃形、連続する台地上を堀で断ち切っただけの単純なものと判断するが旧態となると想像が難しい。数段の段郭も見られるが激藪で形状把握が極めて困難、必要な位置でもないので単なる後世の耕作の跡なのかもしれない。遺構としては堀形の残滓が確認出来る程度、井戸なんかも残っていたらしいが見付ける事は出来なかった。該地には「本城」の他、「堀ばた」、「百枚田」の小字、周辺には、「下木戸」、「馬下野」の小字が残っていたんだそう。道押さえの館城であろうか。
纏めに鉄塔マニアのインスタフォロワーさん絡みのお話しを…
他地域ではどうなのか知らんけど、信濃の山城では城域に鉄塔が建っている事が本当に多い。時に保安道はそのまま登城路と化し、鉄塔はそのまま目標となる。正直、鉄塔には何の興味も持たないんだけどマニアからすれば羨ましいらしく、又、山城好きのおいらにとってはその逆も然りである。おいらのインスタフォロワーさんは鉄塔廻りで木曽の城砦5箇所を同時制覇したそうだ。
今秋、実は登城の取り付きに凄く悩んだお城が1件あって、登れるかも知れん等高線の狭い比高560mの尾根筋をガチに直登しよかなとも考えてたんだけど、このフォロワーさんがあっさりと簡単に行ける(それでも楽とは言えないんだけど…)道筋を教えてくれた。色んな繋がりて大切っすね、これからも大事にしていこう。
※写真①は木曽川に架かる満寿太橋から撮影した近景っす。
※写真⑧は木曽川対岸から撮影した須原城の近景っす。
2023年11月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
大屋城[妻籠城 周辺城郭]
大屋城は妻籠城の北北東約13.1km、木曽川東岸(左岸)、標高約647mの兼平山山頂部に立地する要害です。西麓の国道19号線からの比高は110m位でしょか。兼平山は中山と呼ばれる独立小山稜群を構成する一つでもあり、鞍部を挟んだ標高約662mの愛宕山山頂部も城域に含んでいる。兼平山東麓には同じ妻籠城のリア攻めマップにある木曽氏大やしろ館が立地する。
行き方はGoogleマップに位置登録されている東麓の「八幡神社」を目標に設定して下さい。車は手前の大桑村役場に捨てるのがよいでしょう。神社の境内から南方へ抜ける林道が伸びているのでこれを進み、兼平山と愛宕山を隔てる鞍部に入る。道は辛うじて判る程度、昭和の半ば頃までは山越えで集落間を結ぶ間道として重宝されたらしく鞍部の一部は見事な切通しを形成している。切通しに着いたらどちらからでもどうぞ。但し、兼平山山頂へは藪中を直登する事になる。
築城年代は不明、築城者は木曽氏になるんだろうか。位置関係から木曽氏大やしろ館に付随する要害である事は間違い無いんだが…
「大桑村誌」にも記述があるが、「長野県中世城館跡 分布調査報告書」の転載である。近在の方は兼平山を城跡とする認識があり、過去には山頂部を掘った人もいるらしいのだが、かつて耕作されたて事を意味するんだろうか。又、山名の兼平山は義仲四天王の一人、今井四郎兼平を由来とするらしく、それ故に兼平が羅城跡とする伝承がある(「長野県町村誌」)。但し、周辺を流れる今井沢からこじ付けられたものと推測され信ずるには値しない。
お城の現況は…一面の熊笹藪、地形を辛うじて判別出来る程度、単郭に数段の腰郭を持つ縄張だがファジー過ぎてよく判らん…腰郭の位置から判断すると東向き、北向きの要害だが居館地に相対してしまい疑問も抱く。山稜東側斜面の腰郭は後世の改変だろうか。又、登ってから気付いたけど兼平山山頂への道筋は西麓からも付いており、はっきりとした堀底道が今も残っている。下りて行くと山際に地図には記載の無い祭神不明の神社が鎮座していた。過去には山頂部にも何かしらの小社が鎮座していたと思うのだが聞き込みしてもその答えを得られなかった。
鞍部に戻って副郭?とされる愛宕山山頂を目指す。山頂部には山名のとおり愛宕社が鎮座していたそうなので道は埋もれつつもちゃんと付いている。こちらの方は殆ど地山、てか地山だよ。愛宕社の痕跡すら消え去っている。見るべきものは特に無い。
両山の鞍部を抜ける道筋は相当に古い時代から設けられたものなんだろう。大屋城の立地は正にこの関門である。木曽谷の古い道筋は概ねでこうした鞍部(キレット)を選んで通るのが一般的、山越えの高低差を少しでも回避し、且つ、集落間を最短距離で結ぶ。
実は薄い山城だが2度訪ねている。初回訪問時の登山系アプリのログを確認したら愛宕山山頂に辿り着けていない事が判明したからだ。翌日、別の予定があるにも関わらず朝一に駆け足で再訪問、勝手を知っているので山際から山頂までを本当に走って登る。写真撮影も含めて入山からの滞在時間を約15分に短縮、帰りも走って下山、途中派手に転ぶがおいらは止まらない。次の予定が待っているからだ。痛がってる暇なんかないんだぜ〜
※説明が要るのか知らんけど、写真①〜③が兼平山山頂部、写真⑤〜⑦が愛宕山山頂部っす。
※写真④は堀切ではなく切通しっす。
※ 写真⑤の付近に愛宕社の跡が残っている筈だが…
※写真⑧はJR大桑駅下りホームから撮影した遠景(兼平山)、お願いすれば入れてくれる。往時は木曽川に張り出す要害地だったろう。
2023年11月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
木曽氏大やしろ館(木曽家教館)[妻籠城 周辺城郭]
木曽氏大やしろ館(木曽家教館)は妻籠城の北東約13.3km、木曽川東岸(左岸)、標高約580mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。後背、中山の2つの山頂ピークには同じ妻籠城のリア攻めマップにある大屋城が立地する。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「大桑村立大桑中学校」を目標に設定して下さい。車は手前の大桑村役場に捨てるのがよいでしょう。館域がはっきりしないが居館跡と伝わるのはこの中学校南側上段、一般住宅地とその周辺である。又、中学校の位置は「馬場平」、場所の特定は出来なかったが、他にも、「馬下し」、「鍛冶屋場」、「倉屋敷」、「馬場」、「的場」等の小字が残っていたんだそう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは木曽氏です。木曽家教館とも呼ばれる訳だが、再考が必要な物件でもある。「西筑摩郡誌」には「木曽家教館址」として、「長野字大社(おおやしろ)に在り 家教は沼田兵庫介と称す 三留野(古名沼田)より移りて此地に館し 正和五年(西暦1316年)弓矢八幡宮を建つ 長子家村対岸の須原(今の殿)に移り 第二子家定以来原氏世々襲ふて茲に居る」とある。
小木曾荘は「永野、水野、吉野」の三保を荘域としているが、該地の長野はこの内の「永野」に比定される。同荘の地頭職は鎌倉幕府の滅亡前後には真壁氏が補任されており、貞和二年(西暦1346年)三月七日付、左兵衞督源朝臣(足利直義)下知状によれば、地頭職、真壁小太郎政幹が建武四年(西暦1337年)以降の年貢を納めていない(押領である。)と領主である高山寺から幕府に訴えられている。
木曽氏は藤原姓を名乗る木曽谷における有力者であった事は間違い無いが、室町時代後期以前の確かな事跡が不明であり、体系的に歴史を語る事が困難である。藤原姓木曽氏がはっきりした形で世に現れるのは、至徳二年(西暦1385年)、黒沢の御嶽神社若宮の棟札で、「大檀那伊与守藤原家信」とあるのが初見、同名は同年、伊谷の水無神社の再建にも関わり、棟札には、「大願主藤原伊与守家信」とある。しかし不思議な事に「家信」の名は各種木曽氏系図には見られない。
一般的に藤原姓木曽氏が南下した事によって同氏が木曽谷の一円支配を完成させたと考えられているが、この間において郡誌や各町村誌の記述は疑問を呈しながらも多くの史実との矛盾を抱えたまま推移していると言わざるを得ない。史料が極端に少なく、宝永三年(西暦1706年)の成立である「木曽考」等に頼らざるを得ないからだ。更に言えば、「木曽考」には小木曾荘地頭職、真壁氏との争いに関する記述が一つも無い。都合が悪いのだろうか。
藤原姓木曽氏が当地への南下に確かな足跡を残すのは、木曽川対岸に鎮座する白山神社に残された正長元年(西暦1428年)四月八日付の棟札が最初であり、「奉中興白山権現御社…当地頭藤原家友」とある(「家友」の名も各種木曽氏系図には見られない。)。少なくとも家教(六代当主)や家村(七代当主)の代において小木曾荘には地頭職真壁氏が健在であり、「西筑摩郡誌」の「木曽家教館(木曽氏大やしろ館)址」の記述は信ずるには当たらない。
居館の現況は…集落の一角と中学校等となっている。前述のとおり館域が不明なので現況から判断するしかないが、改変著しく旧態は見ない。単なる屋敷ではなくある程度の館城であった事は残された小字からも想像出来る。広めに考えれば現在の大桑村役場の周辺一帯も館域に含まれそうだ。推定館跡の西側には鞍部を挟んで八幡神社が鎮座、大桑村に残る地名、「弓矢」の由来でもある。その西方、「振田(旧田)」の地は、常陸真壁氏と美濃真壁氏が常陸国真壁郡山田郷内の在家二宇と相博(交換)した忍阿弥陀仏給分在家一宇であり、美濃国小木曾庄の下保であった。
調べれば調べるだけ沼に嵌る…笑われるかもしれないが、おいらは藤原姓木曽氏の発祥から興隆までの経緯にかなりの大胆な推測(裏付け出来ない定説を無視している。)を考えるまでに至っている。それは…恥ずかしいんで秘密にしとく。
※木曽川対岸に鎮座する白山神社の麓には今も、「殿」、「殿中」、「殿下」の地名が残る。「西筑摩郡誌」の記述を信ずるならば、家村が居館地を移したとされる「対岸の須原(今の殿)」とは現在の木曽郡大桑村須原ではなく、白山神社南方、河岸段丘台地上の「殿」の事を言っているのではないだろうか。又、「須原」を今の「殿」とするのは誤りであるとも思うのだが…
※写真⑧が八幡神社、地元の方は弓矢八幡様と呼ぶ。
※この口コミ書くのに添削含めて4日を要した。阿保なんでしょか。
2023年11月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
十二兼砦(袖山)[妻籠城 周辺城郭]
十二兼砦(袖山)は妻籠城の北北東約7.6km、木曽川東岸(左岸)、標高897mの袖山山頂から北西へ伸びる尾根端部上、標高約584m地点に立地する砦か狼煙台か物見台の類いです。西麓の国道19号線からの比高は105m位でしょか。木曽川に流れ込む熊の沢と八人石沢に南北を挟まれた山尾根の張り出しを登ると該地だ。
行き方は…びっくりする事にGoogleマップに「熊野権現社跡(十二兼砦跡)」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。お城の東側に巻いて出る林道も通っています。車を大事にしない方なら楽勝、謂わゆる色物物件なんすけど苦労しないのでこれなら許せる筈…
築城年代、築城者は不明、信濃のお城の神は地元郷土史家の提言する推測地を調査したようだ。近在の方も該地に砦が存在したとの認識は無く、各町村誌にも記載が無い。
三留野木曽氏と野尻木曽氏の私戦に伴うものとしているが、どうにもこの郷土史家に振り回されている気がしてならない。十二兼の地名の由来は、「セ(狭)ニ(土地)カ(崖地)ネ(尾根)」が訛ったのを好ましい表記に変えたもの。谷筋の斜面の僅かな狭小な平場に家屋が点在する。集落の存在を窺わせるような地名も特に残っていない事から往時は無人に等しかったろう。ただでさえまともな城砦が少ない木曽谷において私戦に伴って砦を築く事も考え難く、実際にこの山尾根が利用された事実があったとしても軍勢を留めた単なる場所に過ぎないんだろう。
狼煙台、物見台の位置としても不適当だと思う。高度も低く谷筋からは奥まった位置にあり展望は遮られる。唯一、北東後背の「城山」に位置する同じ妻籠城のリア攻めマップにある野尻城(天王洞)を見通せるが、仮に狼煙の中継点としても存在理由が希薄である。
初っ端からネガティブな事書いた砦の現況は…殆ど地山、てか地山だよ。人工の跡は何一つ見出せない。過去には耕作されていた可能性も当然あるが削平されていたとも思えない。縄張図に描かれるランドマーク、八幡社の小祠は見付ける事が出来なかった。信濃のお城の神の著述によれば、古くは熊野権現の小社が鎮座していたとも。又、該地からの南西尾根を下ると見事な古い石積みで土留めされた数段の耕作地跡が確認出来る。正直、こっちの方がよっぽど城跡っぽい。城郭遺構は皆無であり、近所の裏山の一番高い所に登ってみたらこんな感じだった…としか言い様が無い。
該地周辺は木曽川東岸(左岸)の山塊中段を通る律令制下で設けられた東山道支道、「木曽古道(岐蘇山道、もしくは吉蘇路)」が谷筋から最も離れる場所でもある。近世に入ると十二兼砦の西方下段には中山道が通るが、遠回りになるとはいえ三留野宿、野尻宿間は峠越えの迂回路である与川道が好まれている。木曽川沿いを通る「羅天の桟」は中山道最大の難所の一つであり、蛇抜(土石流)や木曽川の氾濫によって流出する事度々であった。木曽谷の中でも街道の恩恵を受ける事が特に少ない地域でもあった。
結構寂しい所なんすけど、木曽川の対岸には柿其渓谷て素敵な場所があるんです。阿寺ブルーで有名な阿寺渓谷には遠く及ばないらしいが、「牛ヶ滝」や「ねじだる」ていう観光名所も抱えていて今回はそっちがメインの旅だった。が、晴天から冷たい雨に天候は急変、残念無念のかずりであった…
※写真⑤の付近に八幡社が鎮座している筈だが…
※写真⑥、⑦は耕作地の跡っす。
※写真⑧は登城中に林道から撮影した色物物件、同じ妻籠城のリア攻めマップにある柿其中山の物見の遠景、この山稜の尾根稜線上に5箇所の推測地がある。縦走探索する事約4時間、口コミは面倒なんで気が向いたら。
2023年11月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
木曽氏定勝寺館[妻籠城 周辺城郭]
さて、おいらの城館写真は全てが記録写真、映える写真は必要無い。桜も紅葉も記録の邪魔になるだけなのであえてアングルから外すようにしている。大体にして上手に撮れないし、アプリで皆様の素敵な写真を見せて頂くだけで十分なのれす。
…おいらにも推し武将がいる訳だけど、それとは別に尊敬する歴史上の人物もいるのれす。そう、その人物とは…己れの覇権を象徴するあの聖帝十字陵(未見)を築き上げた南斗六聖拳最強の男にして将星、聖帝サウザー様なのれすっ!生没年さえはっきりしない人物だがwikiを調べればその生涯を簡潔に知る事が出来る。世紀末時代に南朝方の将として勢力を拡大したが、南朝内の反乱に悩まされ度々これと衝突している。北朝方の将、ケンシロウの天覇活殺の前に敗死した。数々の名言はそのままかずりの座右の銘だ。
①「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ。愛ゆえに人は悲しまねばならぬ。愛ゆえにっ!」
②「聖帝サウザーに逆らった者には降伏すら許さん!」
③「退かぬっ!媚びぬっ!省みぬ〜っ!」
特に③の言葉はかずりに多大な影響を与え続けている。おいらは映える写真を撮って皆に媚びないし、撮った本人も何なのか判らない写真を残しても省みないのだ〜っ!
(;´・д・)…ふぅ、やったよ、やり切ったよ。口コミとかもうどうでもいいや。
※子供達の奉仕の精神で築かれた聖帝十字陵の頂部は聖碑と呼ばれる三角柱の巨石、シュウと呼ばれる人物の血が漆喰となっている。
※ちなみにかずりの心臓の位置は表裏逆、従って秘孔の位置も表裏逆なので倒すのは難しいと思う。向かって来たら天翔十字鳳でぼこぼこにする。
…あ、木曽氏定勝寺館ね、妻籠城の北東約14.9km、木曽川南岸(左岸)、標高約548mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「定勝寺」を目標に設定して下さい。この臨済宗妙心寺派の寺院が該地です。山号は浄戒山、木曽三大寺の一つ、既にお寺さんが有名、本堂、庫裏、山門はびっくりしたけど安土桃山様式のもの(建立年を見ると江戸時代初期のもののようだ。)なんだそう。当然、国指定の重要文化財だ。中に入ると床板が心配になるぐらい音を立てる。開基は嘉慶年間(西暦1387年〜1388年)、木曽右京太夫親豊(十一代当主)によるもの。開山は初屋和尚と伝わる。
定勝寺は当初木曽川の川縁にあったが、洪水によって二度流出、木曽氏居館跡の現在地に移ったのは慶長三年(西暦1598年)の事、即ち、太閤蔵入地代官、石河備前守光吉の肝煎りだ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは木曽氏です。はっきりした事は不明だが、話を纏めると木曽家賢(十四代当主)が該地に居館を築いたて事になる。
居館の現況は立派なお寺さん、館域がはっきりしないが往時のそれは境内よりもやや狭いらしい。境内の南側には東西に舗装路が切通し状に通るが堀形の拡張なんだろうか。又、この舗装路に面する境内南端の土の高まりを土塁の残滓としてもよいように思う。木曽氏の居館は当初現在のJR須原駅下段、木曽川の川縁に占地されたが洪水等で流出したのだろう、家賢は山際の上段に新たな居館地を求めた訳だ。木曽氏が福島に本拠を移す以前の居館地が須原であり、同氏の木曽谷の一円支配が一応の完成を見た時代でもある。
木曽氏は室町時代後期以前の確かな事跡が殆ど不明であり、後世の「木曽考」等や各種木曽氏系図(信憑性に乏しい。)の付伝に頼っている。定勝寺には康正二年(西暦1456年)以降の木曽氏に関連する古文書が八通現存しており歴史の僅かな断片とはいえ貴重である。ネットで見る事が出来るが難読(1mmも読めない。)なので下し文を探してね。
※中に入って見学可能だが金を取られる。
※写真には紅葉が写り込んでしまったものが見られるが、あくまで被写体は城館である。余計な情報に邪魔されないようアングルには気を遣っている。
2023年11月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
越野山物見[妻籠城 周辺城郭]
越野山物見は妻籠城の西北西約2.9km、木曽川北岸(右岸)、標高555.4mの越野山山頂部に立地する物見台です。南麓の岐阜県道・長野県道6号、中津川田立線からの比高は175m位でしょか。信濃のお城の神は越野山山頂から南方へ伸びる尾根端部上、標高約455m地点の平場も城域としており、この平場を縄張図における通称1郭としている。但し、物見台の規模に比して両者の距離は離れ過ぎであり、実際には別の物件として捉えた方がよいのかもしれない。スポット登録は通称2郭と通称3郭が位置する越野山山頂部とした。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南西麓の「南木曽町 福祉施設ヘルパーステーション」を目標に設定して下さい。南側の舗装林道(摺鉢山林道)をそのまま進めば通称1郭と通称3郭を隔てる尾根の切通しにぶつかる。但し、通称1郭は此処から殆ど登る事も無く辿り着くが、腰野山山頂部へとなると崖地をよじ登る覚悟が必要、よって山頂部へはそのまま林道を巻いて進み、越野山の北側鞍部に出たら直登し易い場所を選んで登るのが吉、凄く楽出来ます。又、林道を車で進むかについては御自身の判断で…おいらはヘルパーステーションの少し先で捨てました。
築城年代、築城者は不明です。地元の郷土史家はこの物見台について、「当初、北東からの侵略に対する防御。時代が下って中世の末に田立砦や鉢ヶ峰などからの狼煙の伝達」と言っている。単純に考えれば、遠山氏が築いて木曽氏が二次利用に及んだて事になる。又、木曽川の北岸(右岸)にも越野山の北側鞍部を東西に抜ける山道が存在していたらしく、この道筋を監視する役割をも担っていたんだそう。この先生の推論を正しいものとするならば、標高約455mの尾根端部上平場を狼煙台とし、越野山山頂部を山道監視の砦とする一城別郭と捉えた方がよいのかもしれん。
おいらはこの夏場から新兵器、警笛を携行するようになった。何だか熊鈴だけじゃ不安に感じるのさ〜歩行中に鈴との息がぴったり合うと全く鳴らない時てありません?特に登りで顕著な気がする。今夏は木曽谷の城館を一気に60箇所位リア攻め、熊さんは見なかったと思うけど、山中の城砦の3城に1回の割合で何かしらに遭遇した。殆どがニホンザルかニホンジカだが、この物見台で遭遇したのは、大きなニホンイノシシ、おいらの目の前を2頭が崖下へ向かって走り去って行く。「か、かかってこんか〜いっ!このMATHA◯◯◯◯ER!」と勝負を挑んでみたけど、聞こえないふりをしているらしく完全に後の祭りだった。命拾いしたのぅ…あの晩、田立の五宮神社で牡丹鍋を振る舞う事も出来たろうに…狩猟の神なら諏訪神社が正解だけど…
物見台の現況は…まず、通称1郭は殆ど地山、殆どとしたのは送電線の鉄塔が建っているから。展望はすこぶる良い。狼煙台としても物見台としても適地だろう。但し、狼煙以外に何を覗くのかと考えると甚だ疑問、その対象が存在しないように思う。又、城域に含まれるのか知らんけど摺鉢山林道脇には見事な切通しが残る。周辺の山道は限定的だが縦横に通っていたようだ。越野山山頂部の通称2郭と通称3郭は結構な面積を持つ削平地、後世、植林場だったのかもしれん。往時の田立の衆全てを喫緊時に此処へ掻き集めても手不足に陥るだけだろう。城郭遺構としては堀形が1条確認出来る…本当に堀切だったのかは知らんけど。尾根の乗り越しにも見えるが西側斜面は急崖なので堀切としてもよいと思う。
最後に…木曽谷の農家の方々に聞いた厄介極まりない野生動物ランキングを発表〜
※第4位、ツキノワグマ…基本的に柿しか喰わないらしい。養蜂もやっている農家には脅威らしいが、そうした家は少ないのでこの順位に。夜になると山間部の集落では普通に歩いているんだそう。小学生は熊鈴を付けて通学するが地元の人は目撃しても通報しない。
※第3位、ニホンイノシシ…畑の作物を掘り返すのだが、今のところ山から下りて来る個体数自体が少ないんだそう。意外にも水田には足を踏み入れないらしい。
※第2位、ニホンジカ…兎に角、数が多いんだそう。野菜のみならず水田の新芽まで喰い荒らす。憎しみしか持てない悪魔だって言ってた。一つも可愛くないらしい。
※第1位、ニホンザル…柿と野菜を喰い荒らすらしいが、野菜の収穫時期に合わせて群れで来襲する知能犯にして確信犯、兎に角、むかつくらしい。昼間でも各集落内で度々見掛けた。過去には何回もかずりに牙を剥いて威嚇して来た事もある永遠のライバル、但し、今のところタイマン勝負には至っていない。
…何の口コミだよ…て終わり方…う〜ん、つまりは獣柵ゲートを開けたら必ず閉めてねて感ぢのお願い?
※写真⑧は通称1郭からの展望、妻籠まで見通せる。
2023年10月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
さんこ山物見[妻籠城 周辺城郭]
さんこ山物見は妻籠城の西北西約4.6km、木曽川北岸(右岸)、塚野川(坪川)東岸(左岸)、長谷川西岸(右岸)、標高約419mの河岸段丘台地丘陵上平場に立地する物見台です。南麓の岐阜県道・長野県道6号、中津川田立線からの比高は55m位でしょか。但し、東側の舗装路から巻いて登れば比高は約10m、城域までの道もちゃんと付いている。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…該地までは道も付いていると書いたが、城域の周囲には実に微妙な高さで電流柵が設置されている。股下120cmのJr.アイドルだから余裕で跨げたけど多くの方にとっては一か八かの高さだと思う。股関節とかに軽い痛みと可動に違和感を感じたままのリア攻めとか絶対嫌でしょ。ちなみに今夏、別物件で城友さんとLINEしながら歩いてたら人生初めての電流柵接触を経験した。一瞬だけど物凄く痛いので二度目は勘弁願いたい…
◯んこ山物見…ヾ(・ε・。)…あ、伏せ字にする必要無かった…かずり心配性だからつい…ほら〜もし皆さんがこれを読んでる間に風とか吹いて「さ」がひらりん♪て舞ってくるりん♪と「ち」になったりしたらどうしようかなと…大事件じゃないの…意外にこう見えて気を遣うタイプの人間なのさ。
築城年代、築城者は不明です。開発主体は木曽氏だろうか。名称と立地から西南方、美濃口を覗く物見台みたいに思えるけど、山陰に入ってしまいその方向への展望は広くない。但し、妻籠方向への展望は優れるので狼煙の中継点としての役割は充分に果たせる。東麓直下には同じ妻籠城のリア攻めマップにある原蔵人佐の屋敷が立地する。
物見台の現況は殆ど地山に近いが、城域は改変でなければしっかりと削平されていたようだ。明確な城郭遺構としては主郭北東側山側背後に堀切が1条確認出来る。最初後世の乗り越しかなとも思ったが、必要とされる場所でもないので遺構であると判断する。縄張図にある腰郭はファジー過ぎる地形となっていてよく判らない。又、主郭には秋葉大権現、愛宕大権現、金毘羅大権現の石碑と小社が鎮座、火伏せの神が祀られる場所は狼煙台の跡との推測も成り立つ。役割を終えた火の見櫓も残されているので、後世、田立村の防災担当を担った丘でもあったようだ。
田立に来ると木曽氏が常に東濃を指向していた理由がよく解る。戦国時代には国境となった訳だけど、木曽谷の谷筋から恵那郡に至る地域が一体であった事を改めて実感する。距離はあれど木曽川を下るだけで岐阜に至る。往時、木曽と東濃は経済圏の一つとして結び付きが強かった事は容易に想像出来る。又、「関ヶ原の戦い」において功を挙げた木曽衆が知行地としたのは木曽谷の内ではなく東濃だった。寛永二年(西暦1625年)の久々利(可児郡)九人衆の内には原図書助(八百石)、原藤兵衛貞武(二百石)の両名が見られるが、田立の野中を知行地とした原蔵人佐との関係性は不明だ。
※写真⑦は妻籠方向への展望、手前には原蔵人佐の屋敷が見える。
※写真⑧は要るのか知らんけど原蔵人佐の屋敷から見た近景っす。
2023年10月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
原蔵人佐の屋敷[妻籠城 周辺城郭]
原蔵人佐の屋敷は妻籠城の西北西約4.5km、木曽川北岸(右岸)、塚野川(坪川)東岸(左岸)、長谷川西岸(右岸)、標高約400mの河岸段丘台地上平場に立地したと推測される屋敷です。該地は山際から張り出す狭小な舌状台地でもあり、「丸山」とも呼ばれる小さな高台である。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…
築かれた年代は不明、お住まいに成られていた方は原蔵人佐と推測されている。が、伝承すら無く地元の郷土史家が可能性から勝手にそう推測しているだけの話みたい。怒られるかもしれんけど、おいら木曽郡南木曽町においてはこの郷土史家の業績に振り回されっぱなし…
天文六年(西暦1537年)三月朔日、原蔵人佐宛木曽義勝宛行状には、「田立村之内野中之地下五貫文之分、扶持候者也、仍如件、」とあり、木曽義勝は田立村の内、野中の地、五貫文(木曽氏の内では決して少なくない。)を蔵人佐に宛行っている。義勝(黒川三郎)は木曽氏当主、義在の叔父に当たる人物、幼年で家督を継いだとされる義在の傅としてその後見を務めたとされる。書状の発給年は義在44歳の時だが、義在が壮年に至ってもなお家中に多大な影響力を持っていたて事なんだろうか。
原氏は木曽氏の一族、三尾氏の分流であり、鮎沢氏と同族とされる。天正十二年(西暦1584年)九月の「妻籠城の戦い」における籠城衆の中に、原市右衛門、原平左衛門の名が見られるが関係性は不明だ。
屋敷の現況は耕作地、墓地となっている。屋敷地の西側背後の丘陵上には同じ妻籠城のリア攻めマップにあるさんこ山物見が立地する。原氏の屋敷地と推測されてはいるが狭小に過ぎるとも思うので、むしろ物見台に勤仕する番士の屋敷地とした方がしっくりする。蔵人佐の屋敷地は丸山東側下段の別の場所(屋号「丸山」)に求めた方がよいのかもしれない。墓地は周辺一帯に現住する松川さん一族のものだが原氏との関係性は不明だ。
背後のさんこ山物見からは山陰に入ってしまい見えないが、該地からは谷筋の向こうに岐阜県中津川市山口の集落を眼下によく見通せる。むしろ屋敷地は物見場であり、さんこ山物見が狼煙台の役割を担っていたとも考えられるのだが深掘りしない。大人として日々成長中のかずりは地元郷土史家の顔を立てる事にする。
※写真①は要るのか知らんけど上段から見た近景、背景の山稜が標高797.1mの摺鉢山っす。
2023年10月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
坪川砦[妻籠城 周辺城郭]
坪川砦は妻籠城の西方約4.5km、木曽川北岸(右岸)、塚野川(坪川)東岸(左岸)、標高約342mの河岸段丘台地上平場に立地したと推測される砦です。南麓の木曽川からの比高は25m位でしょか。該地は木曽川河岸段丘の一段目であり、木曽川に流れ込む塚野川(坪川)にも面する台地上の隅地でもある。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…JR中央西線軌道敷の南側に位置し踏切も特に無いので該地へ向かうにはJR田立駅構内の高架橋を渡る必要がある。駅は無人であり特に入場券とかも売っていないので胸を張って堂々と渡ろう。
築城年代、築城者は不明です。中世の頃には東濃の裏木曽の一部、坂下へ抜ける道筋が現在のJR中央西線の軌道敷に沿っていた(現在の花馬街道の道筋だろう。)と伝わり、塚野川の渡り場が周辺の大滝にあったと推測されている。砦の正確な位置は不明だが、こうした事から該地が道押さえの砦として木曽川と塚野川の両川に面する崖地上の要害地を選んで占地されたであろう事は容易に想像出来る。他に比定出来るような場所も周辺では特に見当たらない。
築城主体も不明ではあるが、「岐蘇古今沿革志」には木曽氏が家村の代に田立に砦を普請したとの記述がある。但し、これが坪川砦、もしくは同じ妻籠城のリア攻めマップにある田立砦の事を言っているのかは不明だし、そもそも論で後世の筆(これを田立の地名の初見とする一文をネットで見掛けたが…初見とは普通言わないだろう。)であるので参考程度にしかならない。又、森宗内が妻籠三左衛門と共に田立坪川砦と美濃口の関所を守ったとも伝わるが…
砦の現況は一面の水田、城域の西側は一段高い微高地となっている。水田の形状が郭の形状をそのままトレースしたような雰囲気があって実に気持ちよい。又、信濃のお城の神はJR中央西線の軌道敷の位置が堀跡だったかもしれないと言っているが、むしろ水田脇の舗装農道にそれを求めた方がすっきりする。そんな立派なもん掘ったってしょうもない砦だとも思うけど…あくまで関門としての役割しか持たず、それ以上の役割となるとせいぜい木曽川の川筋を見張るぐらいが関の山だ。あ、忘れてた。そもそも論で此処比定地だった…
…坪川砦リア攻め終了〜田立の城館を9箇所廻ってすっかり腹ぺこ、意識を失いそうなぐらい腹がぺこてなったおいらは何でもよいから胃袋に入れたい欲求が最大に…ところが飲食店が周辺では全く見付からない。途中見掛けた食料品店?には直ぐに食べられる物は売っていなかった。仕方ないので此処で売ってる乾蕎麦を麺つゆに浸して食べようかなとも考えたけど、人としてやってはいけない領域に踏み込むのですんでのところで止めといた。結局帰り際に妻籠を通り越して「道の駅 大桑」で食事を頂く事に…田立の木曽川対岸に素敵な道の駅(「道の駅 賤母」)があった事に気付いたのは丁度この時だった。優雅に木曽牛ステーキ定食に+して豚角煮そばを注文、店員には「お連れの方がいらっしゃるのですか?」と言われたけどほっとけっ!
2023年10月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
太田氏の屋敷[妻籠城 周辺城郭]
太田氏の屋敷は妻籠城の西北西約4.0km、木曽川北岸(右岸)、長谷川東岸(左岸)、標高約413mの河岸段丘台地上平場に立地したと推測される屋敷です。該地は長谷川の蛇行点へ向けて張り出す緩やかに下る狭小な舌状台地でもあり、同じ妻籠城のリア攻めマップにある観音山砦とは長谷川を挟んで相対する。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…
築かれた年代は不明、お住まいに成られていた方は太田氏と推測されている。周辺一帯は「太田垣外」と呼ばれ、該地の東側約50mに位置する「太田垣外遺跡」からは縄文土器、室町時代の住居跡、陶器片等が出土したんだそう。太田氏は太田代官と伝わるが、その時代も誰の代官だったのかも不明、別に観音山砦の南側に建つ曹洞宗の寺院、禅東院を寛永二年(西暦1625年)に開山させた小幡弥兵衛に力添えした太田六郎左衛門の名が伝わる。土豪と呼ぶのも憚れる田立の地侍の一氏なんだろう。
屋敷の現況は耕作放棄地、一般住宅とその敷地等となっている。信濃のお城の神は「館跡と思われる所」として該地を説明している。あくまで「太田垣外」とその周辺(太田の垣の外なのだ。)から選び出した比定地なので屋敷地はこの辺りだったとしか言い様が無いんだろう。長谷川の谷筋を自然の堀としそれなりの要害性は伴っているが…
田立は縄文時代から人の定住のあった地域だった訳だけど、近世以前の歴史については殆ど不明だ。天正五年(西暦1577年)五月廿四日、山村三郎左衛門尉(良利)宛、土屋右衛門尉(昌忠)奉之、武田勝頼朱印状案には、「定 信濃境目田立口出合事、一月六ヶ度定日限可令会合、背法度濫不致出入様、厳重可被申付之由、所被仰出也、仍如件、」とあり、勝頼は信濃口である田立の市を月に六度と定め、法度に背き濫りに出入りを致さぬよう厳重に申付けている。書状からは当時の田立が信濃国の内だとの認識が窺える他、陪臣の立場にある山村良利が武田氏との書状の取次を行える人物であった事が判る。同氏が武田氏から重用されていた事の証左でもあるんだろう。又、書状で述べられている「会合」とは木曽谷で産出される材木の商いの事ではないだろうか。莫大な利益を生み出す木曽ブランドの材木(木曽谷の山々は近世初頭には既に禿山と化していた。)、ひょっとしたらこの時期、木曽における材木の商売が武田氏の専売事業と位置付けられており、山村氏が武田氏にとっての木曽代官の役割を担っていた(形式上、書状は直接山村氏に発給されている。)との推測も成り立つが別に史料が見付からない。
木曽は広大な面積を持つが耕作面積は少なく殆どは山林である。その一方で太閤蔵入地時代には周辺地域も含んで十万石の蔵入地と呼ばれた。太閤検地が行われたのかも定かでない地域だが、江戸時代の正保年間(西暦1644年〜1648年)から作成が命じられた「正保郷帳」によれば、木曽は郷数三十、総石高は僅かに約千六百八十三石でしかない。何故であろうか。
※写真⑤は要るのか知らんけど遠景っす。
※写真⑥は長谷川の流れ、山地から流れ出る水が綺麗だった。
2023年10月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
観音山砦[妻籠城 周辺城郭]
観音山砦は妻籠城の西方約4.1km、木曽川北岸(右岸)、長谷川西岸(右岸)、標高約402mの河岸段丘台地上平場に立地したと推測される砦です。南麓の岐阜県道・長野県道6号、中津川田立線からの比高は30m位でしょか。該地は長谷川の蛇行点へ向けて張り出す舌状台地にして要害地でもある。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「旧田立小学校」を目標に設定して下さい。今は地域の交流センターとして活用されているこの小学校跡が該地となる。
築城年代、築城者は不明です。南方には「寺下」の小字が残っていたそうで、中世の頃には長谷川の渡り場だったんだそう。周辺台地上はこうした事から重要な場所だったと考えられ、地元の郷土史家は此処に田立氏(不詳)の砦が存在したのではないかとの推測、提言をしている。又、該地の南側に建つ曹洞宗の寺院、禅東院の開基は寛永二年(西暦1625年)とされ、和尚となる徳岩全暁を招聘したのは屋号、「津羽沢(ツバンジャ)」を持つ小幡氏であるんだそう。同氏は田立の近世の有力者て事なんだろうけど、田立氏との関係性も含めて詳細は全く不明だ。
…つまりは比定地どころか一郷土史家の脳内で成立した推定地なんす。但し、現地を実際に訪ねてみれば何某かの城館の類いが存在した可能性は充分に感じ取れる。後世、城館の跡地に学校が建つ例は木曽谷では決して珍しくない。纏まった広さを持つ平場が谷筋では貴重だからだ。
砦の現況は学校跡地だが、周辺は大きく改変を受けていて旧態は想像出来ない。台地の東側、北側は急崖、南側は急峻であり、砦としての占地に優れる。グラウンドは大きく掘り下げられているが、往時の堀跡を拡張したものなんだろうか。又、南側斜面直下の洞様地形を堀形と考える事も可能なんだそう。ちなみに木曽谷の城砦で鍛えられたおいらの眼は以前にも増して凄く優しくなっている。
旧南木曽町立田立小学校を調べてみたら、創立は明治七年(西暦1874年)、南宮神社旧地の一部を活用したらしい。て事は該地は神社の跡地でもあった訳だ。学校は惜しくも平成十九年(西暦2007年)三月、統廃合により廃校となったが、校舎や体育館、グラウンド等はそのまま残されて地域の交流センターの役割を果たしているのは前述のとおり。校舎は主要構造部を全木造とした古いもので、この小学校自体が既に歴史遺産だ。
明治の初頭にはこの木曽谷の田立にも学校が建てられた訳だが、明治政府が子弟の教育を国家政策の重要な根幹の一つに位置付けした表れて事なんだろう。現代を生きる人は当たり前のように読み書き出来るが、江戸時代における日本人の識字率は全世界的に見ても異常と思えるぐらいに突出していた。明治維新が在野の志士達の活躍によって大きく動いた事は勿論、維新後に明治政府の通達等が滞りなく全国隅々まで行き渡ったのはこれが故だ。想像してみて下さいな、市井の人達が高札場の文字を読めるんすよ!こんな国、西欧だって当時無かった筈だ。
教育て重要ですよね。今のおいらは時々お洒落眼鏡をクィッて人差し指で直したりもする切れ者風美少年なんすけど、社会人になる以前にまともな勉強したて記憶が一つも無い。高卒だったし当時は結構なコンプレックスで、視力左右2.0なのに馬鹿だと悟られまいとして度の入った眼鏡を時々掛けてたりもした。ちなみに視力は今でも余裕で最高点を叩き出す。思い起こせば会社に入ってまず言われたのが、「お前の書く字は読めない。」だった。書いたおいらも読み返すと読めないぐらいの文字…恥ずかしながらそこから勉強やり直し(ペン字練習帳みたいなのを買って勤務中に平仮名から練習してたwそんなレベルっす。ちなみに今でも鉛筆の持ち方とか人様と違うのでなるべく見られないようにしている。)。今でも口コミ書く度にどの漢字を使ったらよいのか常にGoogle様にお世話になるおいら…もっと頑張れや。
2023年10月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
池島一官屋敷[妻籠城 周辺城郭]
池島一官屋敷は妻籠城の西方約3.8km、木曽川北岸(右岸)、長谷川東岸(左岸)、標高約378mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地したとの伝承が残る屋敷です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている北方の「五宮神社」を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで該地を特定してね。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは池島一官(一貫とも。)です。
「長野県町村誌」には「古宅跡」として、「年号不詳。池島一官と云者居りしと云、森氏祖先と口碑のみ。書類中古家宅焼失之節焼亡、宅跡当時田となり、森武蔵所有す。」とあり、「西筑摩郡誌」には「田立砦址」の項に、「池島一官(木曽氏の臣にして藪原の人)も共に守りしか其邸址ありと伝ふ」とあるんだそう。但し、町村誌の記述は全くの謎でしかないし、郡誌の「藪原の人」とするのも誤りではないだろうか(上松の人か。現在の木曽郡上松町には「池島」の地名が今も残る。)。
現在は推定敷地範囲最下段の一角に森さんがお住まい。近世には庄屋を務めた事もあるらしい。「森氏系図」によると、美濃金山城主、森三右衛門(可成)の長男が若い頃に田立村に流れて池島一官の娘を娶り、次男宗内の子、二代目宗内は木曽氏に仕えて五百石を知行、妻籠三左衛門と共に田立坪川砦と美濃口の関所を守ったんだそう。
…おいらの読解力が乏しいのかも知らんけど、この系図の説明を理解出来ます?…結果的に池島一官が娘婿の子に家督を譲ったて解釈で合ってるんでしょか。登場する次男宗内とは森可隆(三右衛門の長男を長可とする解釈も可能だが…)の子なんだろうか。そうなると可隆の孫の代に在地で木曽氏に仕えたて事になるんすけど、可隆の生年を考えると時代的に辻褄が合わない。大体にして僅か19歳にして討死した人間が流亡する若い頃て一体何歳の時の話なんだよ…小学校高学年位で家を追い出されて他所者と結婚、子供を2人授かったて感ぢ?
屋敷の現況は水田、耕作地、一般住宅とその敷地等となっている。その敷地範囲は推定であり、遺構も確認出来ず見るべきものは特に無い。該地の南方木曽川の対岸は岐阜県中津川市山口、東濃、裏木曽は「応仁の乱」以降、木曽氏の勢力が及ぶ地域であり、現在の県境を単純に勢力の境目として捉えるのは誤りである。
…伝承て難しいっすよね。おいらは一次資料を重要視するけど伝承が生まれるにはそれなりの根拠があるからだとも思ってる。無下には否定しない。個人的には池島氏と森氏の関係性には疑問を持たざるを得ないが、伝承の部分が何処かで誤り伝えられただけなのかもしれない。伝言ゲームじゃないけど語り伝える事の難しさて事なんだろう。
※写真④、背景の山稜が標高797.1mの摺鉢山っす。
2023年10月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
島田の屋敷[妻籠城 周辺城郭]
島田の屋敷は妻籠城の西北西約3.7km、木曽川北岸(右岸)、長谷川東岸(右岸)、標高854mの山塊山頂から南西へ伸びる支尾根直下、標高約412mの緩斜面上平場に立地した屋敷です。屋敷地の北側は謂わゆる山際であり、丘陵台地が山地に消える場所でもある。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南方の「五宮神社」を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで該地を特定してね。但し、現地は細い道が入り組んでいて地図を確認しながらでも実に判り難い場所となっている。ちなみに五宮神社は毎年10月の第1日曜日に執り行われる「田立の花馬祭り」の祭場でもある。祭りは鞍にお花をド派手に飾った3頭の木曽馬が集落を練り歩き五宮神社の境内を目指す。木曽馬(サラブレッドと比べたら随分と小さいけど、甲冑に身を固めた武士を乗せて駆け回る事ぐらい楽勝っすわ。力強いっす。)、開田高原の「木曽馬の里」で触れ合ったけど凄く可愛い。好きー
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。名称にある「島田」は屋号であり、何故そう呼ばれるかについても不明(妻籠城の木曽川対岸に、かつて「島田」の地名が残っていたそうだが…)らしい。又、屋敷地は現在、宮川さんの所有する土地家屋となっている。この宮川氏は中世の末頃に伊勢の宮川から来住した一族なんだそう。単純にこの宮川氏来住以降の屋敷地とするか、それ以前の地侍の屋敷地だったとするかは昔の事なんで知らんがな…と宮川さんは仰ってた。
居館の現況は耕作放棄地、一般住宅とその敷地等となっている。家屋は近年無人となったようでそのお庭は荒れ放題、ひっつき虫の餌食になるので探索する気にもなれないや。縄張図を見ると生意気にも屋敷地は二段の削平地、後背に山地を控える集落の最上段は武士の住まう場所としては適地なんだろう。
該地の長野県木曽郡南木曽町田立は北方の王滝村と共に長野県最西端の村落であり、国道19号線を僅かに西行すれば岐阜県中津川市山口に至る。応仁の乱以前は遠山氏の領分と推測され、東濃の裏木曽(阿寺山地の西方、現在の岐阜県中津川市加子母地区、川上地区、付知地区である。)に連なる地域でもあった。往時の福島から田立へ抜けるまともな道筋は、木曽川西岸(右岸)の小路(恋路)峠、柿其峠を越える山塊山中の山道しかなかったろう。
アプリの登録城、妻籠城の城郭基本情報には天正十二年(西暦1584年)九月に繰り広げられた「妻籠城の戦い」の記述(原本は「木曽考」である。)があるが、あえて一部を抜粋してみる。
「…山村良勝は奮戦したが、渡島の者達が徳川方に付いたため、北方との連絡が取れなくなり孤立してしまった。兵糧や弾丸が不足して困った。そのうえ上山口の牧野弥右衛門も徳川方に付き、田立・渡島の者達に水の手を塞がれてしまったので水にも困る事態となった。…」
…つまりは田立の衆等が徳川勢に味方したために籠城方は完全に孤立し水の手にも窮した訳だ。妻籠城の西方、田立の地侍等は戦いの後に木曽氏からどんな処遇を受けたのだろうか。
2023年10月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
与川中山砦[妻籠城 周辺城郭]
与川中山砦は妻籠城の北東約6.9km、与川南岸(左岸)、小川野平の台地上、標高約665mの丘陵頂部に立地する砦です。南麓の与川道からの比高は30m位でしょか。同じ妻籠城のリア攻めマップにある小川野氏屋敷の裏山でもあり、東行する与川道(中山道脇道)は丘陵東側鞍部の阿曽坂を登りつつ北へ向きを変えて野尻に至る。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…
築城年代、築城者は不明、地元の郷土史家はこの砦について、「小河野(小川野)氏の砦か。野尻氏と三留野氏の地戦に関係あるか。」等と誰でも想像出来そうな事をもっともらしく仰っていらっしゃる。史料、伝承等が皆無なのでそうとしか言い様が無いのも事実、近在の方も該地が砦だったとの認識は一切無い。
小川野氏屋敷の裏山である事から単純に同氏に関係するものかとも想像出来るが、たぶん前述の私戦(理由はともかく兄弟喧嘩っすわ…)に伴うワンタイムオンリーの砦なんだろう。木曽谷全体で見れば外勢に対する重要度は皆無に等しい。野尻から三留野に至る道筋を押さえるためだけの役割、喧嘩が終わればその必要性は無くなる。
砦の現況は殆ど地山、過去には全山耕作されていたんだそう。丘陵頂部は段が付き一応削平されているらしいが熊笹藪で今は何がどうやら…小川野氏屋敷の旧地にお住まいの平尾さんの持ち山で、お話しによると宝篋印塔の残欠がどっかに転がっているらしい。又、過去には該地から磨製石斧が出土した事もあるんだそう。丘陵の三方は急峻、西方へはだらだらと斜面が下る。
城郭遺構ではないが、丘陵西端部に「境の土塁」と呼ばれる結構な堀形と土塁が付いている。小川野氏屋敷の口コミでも書いたが、木曽代官、山村氏は「関ヶ原の戦い」の後に、池口平と小川野平の約半分を小川野氏から取り上げ、これ等を功のあった島崎与右衛門に与えて与川村の庄屋とした。土塁はその際に境目を示すためだけに設けられたもので土地の線引き以外の意味は無い。何だか闇深そうな話だけど、現在の島崎さんと小川野氏の後裔、平尾さんは仲良しの御近所さんなので安心してつかぁさい。
平成の世に、「日本列島は日本人だけのものではないんです。」等と真顔で仰る宇宙人が総理大臣だった(自らが代表である国家の範囲すら把握出来ていなかった事になる…)事もある我が国、一所懸命の土地を明らかにし、それを後世に伝えていく事がトップに求められる最低限の条件だろう。木曽谷の地侍にその姿勢を学んで欲しいわ…
※写真①は丘陵北側、与川道から見た近景っす。
※写真⑥の小社は島崎家の山の神っす。土塁から山側は小川野氏の持分、谷側は島崎氏の持分であった。
2023年10月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
小川野氏屋敷[妻籠城 周辺城郭]
小川野氏屋敷は妻籠城の北東約6.7km、下出沢北岸(右岸)、与川南岸(左岸)、小川野平の台地上、標高約628mの緩斜面上平場に立地した屋敷です。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小川野氏です。「木曽考」によれば、木曽氏当主、兵部少輔家豊の代に舎弟の左京亮家範を三留野に、その舎弟の右馬助家益を野路里(野尻)に封じたとされる。小川野氏の祖、次郎左衛門は右馬助家益の分流とされ、時代的には子、もしくは孫の代に当たると思われるが根拠を欠きはっきりしない。
小川野次郎左衛門は与川を知行し、三留野家範の系累である与川俊範を招き入れて古典庵の住僧とした(古典庵とその僧については同じ妻籠城のリア攻めマップにある与川古典庵館を参照して下さい。)。その知行地は現在の小川野平、坂本平の一帯と推測され、近世の与川道は該地の北側を通って野尻へ抜ける。
木曽代官、山村氏は「関ヶ原の戦い」の後に、池口平と小川野平の約半分を小川野氏から取り上げ、これ等を功のあった島崎与右衛門に与えて与川村の庄屋とした。裏を返せば小川野氏は「関ヶ原の戦い」において山村氏に合力しなかったとも言える。
屋敷の現況は耕作地、一般住宅とその敷地等となっている。例によってその敷地範囲すら不明だが、武士の住まう屋敷地としては小川野平の最上段に当たり適地である。北側の丘陵頂部には同じ妻籠城のリア攻めマップにある与川中山砦が立地する。又、該地には小川野氏の末裔、平尾さんが今もお住まいだ。
…庭先に平尾さんがお見えだったので突撃お宅訪問、来訪した理由を告げると、「何でそんな事知ってるんだ。見てもらいたい物があるから家に入ってけ。」とのお言葉を頂く。
見せて頂いたのは、「正應四辛卯年(西暦1291年) 正源院殿昴翁鐵心大居士 三月十三日」の銘が刻まれた御位牌、聞けば木曽氏中興の祖とされる木曽家仲の物で、自宅の裏手にかつて建てられていた旧古典庵の位牌堂を取り壊す際に仏壇に安置したんだそう。他にも経文、兜鉢、槍の穂先が伝わっているそうだが、後日に再会を約して今回は遠慮させて頂いた。位牌は裏面に、「小川殿先祖源家仲」とあるが、こちら側の銘は後に刻まれたものであろう。小川野氏の発祥は早くても室町時代後期と推測されるし、本来藤原姓の木曽氏が木曽義仲の後裔を意識して源姓を名乗るのは、文正元年(西暦1466年)、興禅寺に寄進した梵鐘銘中の「源朝臣家豊」が最初とされるからだ。
宿題も頂いた…平尾さんの御子息は与川を離れて久しいそうだが、子孫に伝えるために我が家の来歴を纏めて欲しいと依頼された。その気持ちは痛い程よく解る。誰でも自分の代で不明としたくはないものだ。史料、伝承が殆ど伝わらない小川野氏…疑問は疑問とするも、せめて話の辻褄が合う読めるものにだけは何とかしたい。図書館で紹介してもらった地元の郷土史家の方と連絡を取りながら現在鋭意作成中…この先生が平尾さんの菩提寺の過去帳を探し出してくれる事を切に願う…
見返りなんて何も無い。人生意気に感ず…ただそれだけの理由で引き受けた。この初対面の異邦人を信頼して大事を託したんだ。それだけで行こうじゃないか。山城好きが高じて信濃の地方史にどっぷり浸かる常時沼状態のおいらだけど、最近は何やってんだろうね。
2023年10月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
与川古典庵館(与川城・丸山)[妻籠城 周辺城郭]
与川古典庵館(与川城・丸山)は妻籠城の北東約7.0km、与川北岸(右岸)、坂本平の台地上、標高約645mの丘陵頂部に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「古典庵跡」を目標に設定して下さい。この古典庵の旧跡が「丸山」とも呼ばれる該地であり、木曽八景と称する其一でもある。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは与川俊範とされる。「長野県町村誌」には「古天庵」として以下の記述がある。即ち、「字与川にあり。昔は木曽家方の四子、右馬之助家益野路里に住す。其支裔与川に住し小川野某と云、老後此庵を建て、僧をして此に居らしむ。中世廃絶し、方今柴野にして、僧の墓碑竝に銀杏木一本あるのみ。」とある。又、碑文によると、「戦国時代の半ばに小川野氏によって開基された。小川野氏の祖、次郎左衛門は木曽氏の支流三留野家範に仕え、その縁から三留野氏の系累の俊範を迎えて住僧とした。…」とある。
但し、ただの僧侶ではない。アプリの登録城、妻籠城の城郭基本情報には天正十二年(西暦1584年)九月に繰り広げられた「妻籠城の戦い」の記述(原本は「木曽考」である。)があるが、あえて一部を抜粋してみる。
「…そこで竹中小左衛門という者が妻籠城を夜に紛れて抜け出し、搦手である木曽川に降りて、牛ヶ渕を渡って対岸の島田へ渡り、河原を歩いて味方が居る三留野へ辿り着き、そこに居た30人ばかりの髪に玉薬を結び付けさせて木曽川を渡らせて妻籠城へ帰還した。
この時に与川村にあった古典庵の僧が、与川の郷民に紙旗を数十本持たせ、三留野の原久左衛門(神官園原氏の祖)と共に柴山の峰に登り、紙旗を上げて狼煙を上げ、夜は篝火を焚いた。
徳川方は、孤立していた妻籠城は、そろそろ兵糧も武器も尽きたものと思っていたが、三留野から運ばれた弾丸で撃たれたので、秀吉方の美濃金山城主の森忠政が大軍を率いて救援に来たため、渡島や山口の者達が寝返ったと勘違いをした。
また夜の篝火を見て木曽福島からも援軍が来て四方を囲まれたと思い、妻籠城の囲みを解いて逃げ出した。…」
…つまりは戦も出来るバトル坊主だったんす。大軍を前に臆する事無く僅かな郷民を率いて籠城方に合力する…木曽の地侍の意地を見たような気がする。三留野の衆や与川の郷民は籠城を支えた影の立役者だった訳だ。
居館の現況は丘陵頂部の削平地を活用した油揚げみたいな形の公園?となっている。展望は与川の秋月、木曽八景の一つでもあり絶佳である。古典庵の旧跡として石碑が建ち案内板も立っているが、元々庵の旧地はグラウンドを挟んだ北側の山際にあったんだそう。従ってこの「丸山」は要害地を占地した館城の類いだったんだろうか。又、グラウンドの位置には幅の広い堀形が残っていたそうだが、大きく掘り下げられて今は旧態を見ない。
江戸時代の与川村は享保九年(西暦1724年)の検地によると、田畑二十八町二畝六歩、年貢高は僅かに四十石一斗六升一合でしかない。耕作面積の少ない木曽の各村に石高を基準とした経済基盤を求める事はそもそもが誤りではあるが、少なくとも村落としての規模が信濃の他地域と比べても遥かに劣る。「古典庵の僧」が率いた与川の郷民の人数も推して量れるだろう。
2023年10月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
胡桃田の物見[妻籠城 周辺城郭]
胡桃田の物見は妻籠城の北東約5.5km、南北を胡桃田沢と正善沢に挟まれた標高約623mの台地上丘陵頂部に立地したらしい物見台です。南麓の与川道からの比高は15m位でしょか。但し、登れるもんなら登ってみるがいいさ。真冬でも無理やろ…
行き方は…Googleマップに位置登録されている南麓の「与川道 正善沢」を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップを参照して該地を特定してね。ただの沢のくせに天下のGoogleマップ様に位置登録されているなんてアレですが、正善沢は江戸時代に三留野村と与川村の境目だったらしく、度々両村の間で山論(境界争い)が起きていたんだそう。現地にはその揉め事について書かれた説明板が立っている。
築城年代、築城者は不明、地元の郷土史家はこの物見台について、「野尻氏と三留野氏の地戦のときに構築・使用され、程なく放棄されて地元でも知っている人はいない。地形からみてこの辺りに大奈良へ向かった砦があるであろうと探して見つけた砦である。」と言っている。が、本当なんか先生…実際に城砦であると判定する根拠が不明、要害地だし近世以降の与川道沿いでもあるので往時何らかの道筋を押さえる砦や物見台の占地としては間違い無いんだろうけど、この先生(たぶん故人だと思う。)を果たして信じてよいものだろうか…
中山道は概ねで山塊下段、谷筋に設けられた街道だが、三留野宿と野尻宿の間には「羅天の桟」と呼ばれる桟道(侵食崖の岩盤層に片持ち式の梁を穿ち、その上に板を渡して道としたもの。)の難所を抱え、度々蛇抜(土石流)で通行不能となっていた。距離は長くなるが該地に面する与川道はこの中山道の脇道であり、律令制下で設けられた東山道支道、「木曽古道(岐蘇山道、もしくは吉蘇路)」の道筋に準じていると推測されている。与川道の現在は中山道のメインルートとして多くの外国人観光客も歩く舗装路だが本来の街道ではない。ちなみに将軍家に輿入れする和宮親子内親王は、文久元年(西暦1861年)十月二十日、京の桂宮邸を出立、中山道の三留野宿〜野尻宿間を迂回路である与川道を選んで下向している。一行の総勢約三万…行列長は最大で約十四里(約55km)、軍勢と輿入れの行列に大きな差はあれど、往時の大軍が行動する際の難しさも参考程度に知れる。
もう訪ねる前からリア攻めの結果は大体判ってたんすけど、とりま登らなきゃ気が済まないんで挑戦してみる事に…が、2m位直登した所で、「おいら、一体何やってるんだろう…」て疑問が湧いて来てしまい、途端に阿呆らしくなってリア攻めを中断する事に…こんなん無理っすわ…登ったとしてもねぇ…目の前の草しか見えないと思います。密度の高い人の背丈を超える草木と蔦植物の混合藪、手強すぎる…苦労対効果が100対1位の物件すわ…
…近景は要害地に加えてぽこりんとした可愛い小山、下から眺めるだけで充分だと思う。が、おいらの写真には与川道を挟んだ上方からの近景写真がある…実は正善沢から泥だらけになりながら関係無い山塊尾根筋を直登してしまい、結構登ってから間違ってる事に気付くていう…そんな訳で当日おいらが胡桃田の砦から提示された苦労対効果は150対1位に爆上がりしてましたわ…
2023年10月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
上の原の屋敷[妻籠城 周辺城郭]
上の原の屋敷は妻籠城の北東約3.5km、木曽川東岸(左岸)標高約526mの台地緩斜面上平場に立地した屋敷です。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは松原氏です。「信濃の山城と館7、安曇・木曽編」には、「三留野氏が滅亡後の頃に王滝村より移住して来た…」とあるがその経緯は不明であるとも言っている。仕方ないので史料を漁ると同氏に関連する以下の2通の書状を見付けた。
天正十三年(西暦1585年)七月廿七日、松原彦右衛門宛木曽義昌宛行状案には、「依詫言、賢老分壱貫五拾文所宛行候、弥可奉公者也、仍如件、」とある。もう1通については長くなるので割愛するが、慶長元年(西暦1596年)三月五日、王瀧の松原某が石河備前守光吉(貞清、兵蔵、初め秀吉の使番、後には木曽の太閤蔵入地の代官を務め、「関ヶ原の戦い」においては居城の犬山城に籠城した。美濃金山城の天守櫓と家臣長屋の古材を譲り受けて犬山城を改修したのは光吉である。優秀なテクノクラートでもあったようで、家康は後の木曽代官、山村良勝にその名を挙げて施政の踏襲を求めている。ちなみに無名だが、実父光重は創業からの秀吉譜代衆の一人であった。)の下代官、神邊休安から王瀧村前年分の下用米を請け取っている。これ等書状に登場する「松原」が上の原の屋敷の松原氏と関係があるのかは知らんけど、木曽義昌から奉公に対する土地を宛行われた他、太閤蔵入地の下代官と書状のやり取りが出来る王滝の有力な地侍衆の一氏ではあったようだ。
屋敷地は律令制下で設けられた東山道支道、「木曽古道(岐蘇山道、もしくは吉蘇路)」に沿っているらしい。ちなみに木曽古道の推定経路は不思議な事に南部(野上〜湯船沢間)において長さ約46kmの木曽山脈西縁断層帯主部(上松断層、馬籠峠断層)のラインとほぼ一致する。
屋敷の現況は…周辺台地上は土地の構造改革等で耕作地として改変されており遺構は特に見られない。該地には今も松原さんがお住まいで屋号は「上野」、この土地の地主層だった事は間違い無いんだろう。信濃のお城の神は、「往古の景観は想像出来ないが、土豪の屋敷地としては不安が残る。」と言っている。周辺は民家が少ないが、想像すれば中山道の宿駅、三留野宿の宿寄せには従わなかったとも言えるし、従わなくても済む程の有力者だったとも考えられる訳だ。
…屋敷の主、松原さんにどうしてもお話しを聞きたい事があって30分位待っていたんだけどお帰りにならない。やる気の無い時や急いでいる時は近在の方から声を掛けまくられる(大概は「娘のために写真を撮らさせて下さい。」とか、「親戚に自慢するのでサインして下さい。」とかのお願い。Jr.アイドルだから当然変装してるんだけどオーラで判っちゃうらしいの。)おいらだけど、やる気のある時に限って待ちぼうけ…木曽谷は日が暮れる前に肌寒さを感じる…そんな季節にもなって来た。さぁ、今日のところはもう帰ろうよ。
2023年10月15日 kazuking
妻籠城
熊が出るそうです。気をつけてくださいな!
2023年10月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
大原の城山[妻籠城 周辺城郭]
大原の城山は妻籠城の北東約4.7km、木曽川東岸(左岸)、与川南岸(左岸)、上の原の台地上、標高約649mの山稜山頂部に立地する砦です。北麓の与川からの比高は185m位、南麓の中山道からの比高は75m位でしょか。
行き方は…Googleマップに位置登録されている南西麓の「大原休憩所」を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップを参照して該地を特定するしか術が無い。南東麓は与川農道と町道が合流する場所であり、南麓は町道から分岐するワイルドな中山道が西方へ向けて下る場所でもある。
築城年代、築城者は不明、てか「城山」の伝承のみが伝わっているらしい。名称も信濃のお城の神が付けた仮称である。…謂わゆる色物物件すわ…何でも地元の郷土史家の話だと、「伝承、上の原の老人は、全員知っている。」て事らしいんだけど本当なんか…先生、少なくとも今の世代の老人は誰も知らんやろ。
もう訪ねる前からリア攻めの結果は大体判ってたんすけど、該地には東西に長く伸びる後世の野火止め用の防火塁が残ってるらしいんで頑張ってみた。中山道から熊笹藪をかき分けながら直登すると中段からは過去に重機が入った様な道が付いている…凄く損したブルーな気分で山頂部に辿り着く…
砦の現況は…東向き、北向きの砦なのかな。西方、三留野愛宕山城の支砦、もしくは与川との古い道筋を押さえる役割を果たすんだろう。野路里木曽氏と三留野木曽氏の私闘に関わるものと推測されている。ちなみに現在の展望は最悪っす。後は…語るのまぁ無理っすわ…藪が酷すぎて探索以前の問題がある。お目当ての防火塁がどれなのかも判らない。ひょっとして目の前の大土塁状の痩せ尾根の事を言っているんだろうか。この山稜に重機を入れた意味も理解出来ず、途端に阿保らしくなって下山する事にした。
…帰りは当然重機が削った道を東麓へと下りて行ったんだけど、山麓からこの道が見付けられなかったのも当たり前だったて訳だ。途中から背丈を超える激藪が待ち構えている。「も、もう、止めてぇ〜」と横山弁護士みたいな泣き言を喚きながら無理やり突破、草木が谷側に頭を下げてたから何とかなった(股に挟んでライドオンするのだ。)けど、登るとなると相当厳しかったろう。代償は信じられない程大量のひっつき虫、全部取り去るのに20分位掛かったよ…あ、横山弁護士が誰なのか知らない方はようつべで検索してみてね。悪意のあるインタビュー攻撃が許される?時代でした。ちなみにおいらは山中で虫類に吸血されると、「◯◯◯◯!!!」、野生動物に遭遇すると、「MATHA◯◯◯◯!!!」、蜘蛛の巣に引っ掛かると、「あぁっ、もぅ馬鹿っ!」て十中八九は言う。
里山だが人が入る事は絶えてしまって久しいんだろう。荒れまくったお山、訪ねたからって得るべきものは何も無い。でもねぇ…この城山の事を語れる権利だけはゲットしたて信じたい…此処に口コミして記録に留めて置く。
写真①の草写真が東麓からの登城路?入口っす。
写真②、③の草写真が山頂部、これを見に苦労した訳だ…
写真④が「大原休憩所」からの近景、眺めるだけでよかったと思う。ちなみに大量のひっつき虫を此処にばら撒いて帰ったので休憩所の藪度が増すかもしれない。
2023年10月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
三留野東山城[妻籠城 周辺城郭]
三留野東山城(三留野城・東山)は妻籠城の北東約3.1km、木曽川東岸(左岸)、東方山塊から西方へ張り出す標高542mの尾根端部ピーク上平場に立地する要害です。西麓の等覚寺からの比高は85m位でしょか。東方山塊とは鞍部を介しており事実上の独立山稜となっている。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「東山公園」を目標に設定して下さい。この公園が該地です。但し、これを公園と定義してよいのかは甚だ疑問、山頂の削平地に石碑を建ててベンチを置いただけの簡素極まりない場所…展望も僅かなんで悪しからず…
築城年代、築城者は不明、立地からすると西麓に住した三留野の支配層の要害て事になる。三留野に住した地頭職、三留野を知行した者については同じ妻籠城のリア攻めマップにある三留野家範居館とヤダカをそれぞれ参照して下さい。お城は山頂部を削平しただけの要害であり、縄張からある程度の時代を推測する事すら難しい。
時代の振れ幅が大きい事から歴史的背景も知れず、地形的にも殆ど地山、訪ねてみれば実際に城館だったのかも疑わしい。遺構が見当たらないのは後世の公園化に伴う改変ではなく、そもそもが山頂を削平するだけに留まった縄張だったのだろう。木曽氏の南方からの狼煙台ネットワークの一つかなとも思ったけど、こちらの役割は同じ妻籠城のリア攻めマップにある三留野愛宕山城に譲ると考える。久々に厳しい物件にぶつかった気がする。縄張に含まれるのか知らんけど、山稜下段に鎮座する東山神社の方がよっぽどそれらしい佇まいがある。要害としての緊張感を見出せず、現況から心に感じるものが何も無い。但し、木曽谷の地侍や在地土豪の築く要害がこれで充分だったと言えるのも事実、根本的に木曽氏や木曽谷の諸氏は外勢を籠城してやり過ごす考えは持たず、険阻な峠や山中の道筋で防ぐのが守勢の方針だったようにさえ思う。
該地がただの田畑や地山であっても何かしらの楽しみ方を見付けて後悔しないようリア攻めしているが時には行き詰まるよな物件にも出くわす。せめて何かしらの城歴を知れたらお城の見方も変わるだろうに…「長野県町村誌」の「御殿」の項における三留野周辺の城館の記述は伝承を繋げて話をややこしくしているだけだし、現地に立つ説明板の記述もどこか不安気だったりする。
※写真①は別日に撮った遠景、山稜の南側を梨子沢が音を立てて流れる。
2023年10月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
三留野家範居館[妻籠城 周辺城郭]
三留野家範居館は妻籠城の北東約3.0km、木曽川東岸(左岸)、標高約454mの河岸台地緩斜面上平場に立地したと推測される居館です。現在該地は曹洞宗の寺院、等覚寺の境内となっている。山号は日星山、創建は天正年間(西暦1573年〜1592年)にまで遡るとされる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは三留野家範とされる。但し、家範の居館地ははっきりしておらず、同じ妻籠城のリア攻めマップにあるヤダカもその候補地の一つだ。該地もあくまで居館地として推測される場所に過ぎないが、城郭跡を利用して寺社が建てられる例は他にも数多く見られるのは言わずもがな。
館の主、三留野左京亮家範は木曽氏当主、左京太夫家賢の二男で、「木曽考」によれば、当主兵部少輔家豊の代に舎弟の左京亮家範が三留野に、その舎弟の右馬助家益を野路里(野尻)に封じたとされる。三留野には鎌倉時代以降、小木曾荘地頭職、真壁氏があった事は確実だが、同氏が木曽氏に逐われた時期がはっきりしない。永正元年(西暦1504年)、飛騨三木氏の王瀧口来攻の際に三澤で討死した木曽勢の中に間壁美濃の名が見られるが小木曾真壁氏の後裔だろうか。
「応仁の乱」に際して美濃国以東の勢力は京への出兵を控えているが、相対する勢力の分国へ乱入する事によって積極的に関与する。文明五年(西暦1473年)、美濃守護代、齋藤妙椿が兵を率いて上京する風聞が立った事から、将軍義政を奉じる東軍はこれを牽制するため、文明五年二月廿一日、小笠原左衛門佐(家長、伊那郡松尾小笠原氏当主である。)宛足利義政御内書を発給、東濃への出兵を指図している。即ち、「土岐美濃守成頼對治事、相談小笠原左京太夫政秀、令進発濃州、可抽戦功候也、」とあり、続く、文明五年三月九日、小笠原六郎(定基、家長の子である。)宛足利義政御内書では、「濃州凶徒等對治事、被仰付木曽候、致合力、抽戦功者、可在恩賞候也、」とある。前書では小笠原左京太夫政秀(伊那郡鈴岡小笠原氏当主である。)と相談して美濃国へ出兵、戦功に励むよう促し、後書では木曽にも仰せ付けてあるので、合力して戦功に励めば恩賞もあると言っている(三月廿日には後書と同様の内容で細川右馬頭政国が小笠原六郎宛に重ねて書状を発給している。)。これを受けた左衛門佐家長、六郎定基は小笠原左京太夫政秀、木曽兵部少輔家豊と共に東濃へ乱入、恵那郡の阿寺、大井、土岐郡の荻島の各城を落としている。矢面に立たされたのは恵那郡に割拠する遠山氏であった事は明白で、これ以降、同氏が木曽谷南部、裏木曽から逐われた事は確実視される。右京亮家範が三留野を知行したのはこれ等時期の前後の事であろうか。以降、東濃に影響力を保ち続けた木曽氏だが、中津川市史では中津川もその範囲だったと推測(勝山小笠原文書には尙木曽宮俊宛の文書が残り、苗木跡職について言及しているらしいが解明困難らしい。)している。
兄弟仲良く同時期にそれぞれ三留野と野路里を知行した訳だが、三留野左京亮家範の勢い強く宗家に叛意あるを疑い、野路里右馬助家益は度々これと私闘を繰り広げている。木曽氏当主、兵部少輔家豊はこれを憂えて池口、古根、寺町等をして妥協せしめんとするが双方聞き入れず、遂には池口をしてこれ等を討たしめんとしたが沙汰止みとなった。左京亮家範が病のため没した事がその理由だ。
あ、忘れてた。居館の現況は前述のとおり立派な寺院です。そもそも論で比定地なんで…東方後背の山稜が台地に変わる場所だが、この山稜には要害とされる三留野東山城が立地する。法事が始まりそうだったので急いで退散、写真撮影の時に除けてくれてありがとう。
※写真④が三留野東山城の近景、正に裏山だ。
2023年10月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
ヤダカ[妻籠城 周辺城郭]
さて、北条武州相州連合とチバラキ北関東連合の合戦中でもあるので金箔よりも薄〜くこれに関連するよな物件を紹介したいと思う。但し、合戦とは直接何の関係も無いし佐竹の真壁しか登場しない木曽谷の話っす。…ジモティの大掾さんが結成した名門チームの血を受け継ぐ「鬼真壁」は何処よりも気合い入ってる喧嘩上等、走りは二の次の集団なんで夜露死苦、地元はチームだらけで人数少ないけど「鬼義重」の傘下に入ってからは水を得たように暴れまくってる。だけどなぁ、譲れないもんもしっかり持ってるのさ。筋違いがあれば佐竹総長にも臆せず楯突くぜ。とりま茨城・栃木県道41号、つくば益子線でかち合ったら道は譲っとけ。
…ヤダカは妻籠城の北東約2.9km、木曽川東岸(左岸)、標高約447mの河岸台地斜面上平場を中心に立地したとの伝承が残る居館です。該地は後の中山道の宿駅、三留野宿の本陣至近でもある。名称の「ヤダカ」は小字だが、「長野県町村誌」では「ヤカタ」が誤り伝えられたものとしている。館域は特定されておらず信濃のお城の神はごく狭い範囲に4箇所の比定地を挙げている。
三留野宿の「三留野」は「みどの」と読ませる。東京でも白金台、成城、田園調布に比肩するハイパーセレブリティしか住む事を許されない超高級住宅地、あきる野(秋留野、阿伎留野)市出身のおいらは躊躇せず「みるの」と読んだけど全然ちゃうわ…地名て難しいですね。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。スポット登録は縄張図における比定地①を選んでます。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。木曽氏の一族、三留野左京亮家範の居館地と推測されているが、比定地③に残る鹿島社(今は見付からない。)の存在から、それ以前の小木曾荘地頭職、真壁氏の居館地とする説がある。三留野には鹿島社が3社、香取社が1社鎮座していたようで、長野県でこれ等、チバラ…いや、茨城色に塗れた社に出会う場所は他ではまず無い。ちなみに視界を妨げるだけのロケットカウルに日章旗タンク、2人しか座れないのに三段シート、6連ホーンに直管、竹槍マフラーのイカれた二輪、もしくは車の寿命を縮めるだけのベタベタのサスカット、空気抵抗完全無視したパテ埋め失敗自作エアロパーツ完備、直管、竹槍サイドマフラーでキメた四輪等は此処では走っていないので安心してつかぁさい。乗ってる方も樫木棒とか持って凶器準備、ハコ乗りしていないです。
…小木曾荘は荘域がはっきりしないが、「永野、水野、吉野」の三保で構成されていたと考えられており、この内の「水野」が現在の三留野に比定されている。一説には「御殿」が「三留野」に転じたともされており、荘域の中心地であったとされる根拠の一つともなっている。
詳細は省くが、小木曾真壁氏は遠山荘の地頭職であった加藤景廉の娘が常陸国真壁荘の地頭職、真壁友幹の継室となり、その所生の子、薬王丸が小木曾荘に入ったのがその始まりとされる。更に詳細を省くが、最新の研究では庶流である小木曾真壁氏の政幹とその孫広幹が足利尊氏に従って東国に下向し、宗家である常陸真壁氏の地位を簒奪したと考えられている。観応三年(西暦1352年)、小木曾荘に真壁光幹があった事は間違い無いが、この光幹こそが本来の常陸真壁氏宗家の者であり、常陸国真壁荘の一部と美濃国小木曾荘の一部とを相博(交換っす。)する形で木曽谷に幽閉されていたとも推測されている。つまりはアプリ登録武将の真壁氏幹は本来が小木曾真壁氏を出自とする庶流の者であり、南北朝時代において同氏の系図に混乱が見受けられるのもこれが理由だと考えられている。
…佐竹総長は全国制覇の野望を持っていなかったんだけど、仲良しの石田先輩と組んじまったから所帯もすっかり小さくなっちまった。結局総長、秋田で会社立ち上げる事になって引っ越すんだけど、当然俺も付いて行ったよ…美人はみんな連れてっちまったなんて噂もあるな。でも総長律儀なんで秋田で大成功、その証拠に400年後の今でも秋田の頭張ってる。そういえばCMなんかにも出てたな…セリフは雑だったけど。俺も山深い木曽谷を出て真っ平らな茨城で青春を送り雪深い秋田で落ち着いた。感慨深いもんがあるぜ。後悔?後悔なんかしていない。みんな県道で死んじまったけど俺はちゃんと生き延びる事が出来たからな。今は霞流棒術て言う小さな道場を開いてる。鹿島、香取の御加護てやつさ。
しかし怒られるでほんまに…
※写真①の石垣は往時のものではない。この上に建っていた公民館(今は更地っす。)のもの。
※写真③の民家の庭先に鹿島社が鎮座していたとされる。段上からは見付ける事が出来なかった。
2023年10月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
番匠屋屋敷[妻籠城 周辺城郭]
番匠屋屋敷は妻籠城の南東約0.5km、東方山塊から続く南北を堀木沢と与の洞(堀切り沢)に挟まれた標高約466mの台地緩斜面上平場に立地したとの伝承が残る屋敷です。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。該地の上段東側には現在町道が南北に走っているが、この道筋の一部には木材搬出の用に供する蘭(あららぎ)森林鉄道が通っていたんだそう。鉄道は此処で与の洞の谷筋を渡る。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方の姓名が伝わらない。屋敷の主は慶長六年(西暦1601年)、妻籠宿の宿寄に従い妻籠中町にお引越し、名称にある「番匠屋」は屋号だがこの際のものだろう。妻籠宿の中心地である中町に屋敷を構える事が出来たのは妻籠一帯の有力者に限られたであろう事は想像に難くない。又、「番匠屋」の屋号から姓名を簡単に特定出来るとも考えていたが手持ちの史料には見当たらなかった。土地の人に聞き込みした方が早いかもしれない。後に妻籠宿本陣、問屋を務めた島崎氏の郎党だろうか。
天正十四年(西暦1586年)三月四日、関白秀吉と誼みを通じるために上洛した小笠原氏被官、倉科七郎左衛門朝軌はその帰途、馬籠下り谷で地侍衆に襲われ落命する。朝軌の一行、約三十人は全滅しているが、この人数を全滅させるだけの地侍衆の規模も推して量る事が出来るだろう。木曽氏の政治的な意図があったようにも思えず、純粋な金品目的と言っても過言では無い(自分が聞き込みした方の伝承もそれを裏付ける…「…あの家は〜を奪ったけど、我が家は何にも貰えなかった…」)。三留野、与川から馬籠に至る道筋の地侍の殆どが関与しているようにも思う。首謀者は人を集めている。これを知らない筈が無い。ちなみにおいらはこの話しこそが当時の地侍(武士)の本質を表していると思っている。泥臭く強かで悪事をも厭わない。豪勇で知られる森長可が川中島から退去する際、木曽谷の通行に慎重になったのも頷ける話だ。
襲われた倉科七郎左衛門朝軌は安曇郡の人で武田氏に従って同郡に来住したとされる。倉科姓を名乗っているんで気になったんだけど、埴科郡倉科荘(郷)を本貫地とした倉科氏(村上氏の一族である。)との関係性が指摘出来そうだ。ちなみに屋代城のリア攻めマップにある鷲尾城は同氏の要害とされる変態城、マニアが泣いて喜ぶ一級品なんで興味を持ったら是非訪ねてみて下さいまし。
話が脱線…戦国時代の倉科氏関係史料を漁ってみると以下のとおりとなる。
天正七年(西暦1579年)四月廿八日、倉科七郎左衛門朝軌宛仁科盛信宛行状
天正八年(西暦1580年)四月廿日、倉科七郎左衛門朝軌宛武田勝頼安堵状
天正十年(西暦1582年)四月七日、倉科七郎左衛門朝軌宛木曽義昌宛行安堵状
天正十年(西暦1582年)拾月十日、倉科七郎左衛門朝軌宛小笠原貞慶宛行状
天正十四年(西暦1584年)三月吉日、倉科方後家宛溝口美作守(貞秀)書状
天正十四年(西暦1584年)五月十日、倉科盛軌宛小笠原貞慶黒印宛行状
…以前に川中島周辺一帯の標柱を作成している方にお話しを聞いたんだけど、倉科氏は武田氏によって倉科郷を逐われ安曇郡に逃れた者もあったんだそう。後に同氏は時代不明なるも倉科郷に還住する者もあったようだが、これを記念した善光寺住職の筆による石碑が建てられているとも聞いた(未見、今度探してみる。)。考察するに倉科氏は安曇郡へ逃れた後、仁科氏(武田氏)に尽力(西濱…越後での活動が評価されている。)した功により同地で復し、その後は安曇郡の支配層に従う事で武家としての家名を存続させたように思う。主題と脱線する事甚だしいが、ひょんな事から話に辻褄が合うようになったので此処に書き留めて置く。
あ、忘れてた。要害地だけど屋敷の現況は耕作地、ただの段々畑っす。妻籠宿の後背地にして最上段、眺めは良好っす。
※木曽郡南木曽町下り谷には倉科七郎左衛門朝軌の霊を慰める「倉科祖霊社」が鎮座する。未見なんで今度行ってみる。
2023年10月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
大島(座光寺)仁右衛門屋敷[妻籠城 周辺城郭]
大島(座光寺)仁右衛門屋敷は妻籠城の南方約1.9km、標高約472mの山間鞍部台地上平場に立地した屋敷です。該地は西方山塊が台地に変わる場所であり、同じ妻籠城のリア攻めマップにある神明砦からみやま沢を挟んだ北西麓に位置する。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。実は同じ妻籠城のリア攻めマップにある妻籠丸山砦は至近に位置するのでそちらを参照するのもよいかな。該地へは私有地の耕作放棄地を横断する必要がある。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方は名称のとおり大島(座光寺)仁右衛門です。「座光寺」と聞いてピンと来る方は立派なマニア、座光寺氏は伊那郡大島、座光寺を本貫地とする。恐れ多い事に「寛政重修諸家譜」によると平安時代のチート級武士、あの鎮西八郎源為朝(おいらにとっての源氏のイメージは為朝、義仲、義経のそれ。戦は抜群だが処世がやんちゃ…)の後裔を自称しているが同氏についての詳細は別の機会に譲りたい。
大島(座光寺)仁右衛門が座光寺氏においてどんな立場にあったのかは不明だし、遠隔地である妻籠に来住した時代もはっきりしない。同氏は戦国時代に衰退を経験した一族なので来住する意味合いも時代によって左右されると思う。後には妻籠宿の宿寄せに従い妻籠中町にお引っ越し、屋号は「高麗屋」、妻籠宿町役人七人衆の一人となったらしい。又、天正十二年(西暦1584年)九月の「妻籠城の戦い」では籠城衆の中に大島道旦の名が見られるがその関係性は不明だ。
屋敷の現況は…みやま沢の谷筋に面する要害地、第一印象は、「もっといい所に住めばよいのに…」だ。台地上の最上段に立地し現在は殆どが山地に続く雑木林となっている。往時の屋敷地はもう少し西側に広がりがあったそうだが、後世の溜池造成によって細部はおろかその敷地範囲も明確ではない。屋敷跡とされる高台は採土のために削り取られ櫓台程度の面積でしかなく屋敷地と言うよりは砦に近い印象さえある。ちなみに周辺は山地からの水が豊富に出る多湿な場所、居する環境としてもよろしくないんじゃ…トレッキングシューズも泥だらけになったわ…
※写真⑧は屋敷地から見た本郷丸山砦の遠景っす。
私事ではあるが御報告、把握している信濃の全城館を城めぐのリア攻めマップにスポット登録する地道な作業がこの度終了致しました。アプリ登録城の範囲によって作成出来ない城館も当然あるけど、概算で総計千数百箇所、登録出来ない物件は意外にも百件未満だったと思います。
どのお城本でもそうだと思うが、該地が一体何処に位置するのかが最大の問題点、おいらのバイブル、「信濃の山城と館」もその例外ではなく、特に広域図を省略している点が問題となっている。位置図で示された範囲が市町村の何処を示しているのかがまず判らない。明確なランドマークが無いものに関してはそれこそ古い字地名や三角点の標高表記、等高線の形から割り出すしか術が無い。城めぐのリア攻めマップはアプリ登録城ごとに見る必要があるけど、スポット登録を極めて正確に出来る点と余計な情報を省いて目標だけを表示する点においては他の追随を許さない。つまりはこれのみで該地に到達出来るようにした。リア攻めは登山系アプリで補完すればOK♪ちなみにあくまで自分のため。それこそ携帯の画面一つで事足りるようにしたかった。
が、作業中に気付いちゃった点も一つ…それは正確な位置にスポット登録されていない物件が散見される事だ。自分も最初の頃は結構適当だった。今回の作業では納得いかなくなった物件に関しては削除して改めてスポット登録をやり直した。いいねぽちしてくれた皆様には本当に申し訳無い気持ちで一杯だが、今までに苦労して書いた口コミの殆どは現在消え去っている。
山城においての話だが、正確な位置にスポット登録するには国土地理院地図の画面のみが有効(そもそも大概の位置図は国土地理院地図がベースだ。)だ。標準地図や航空写真はもっての他、悪意は無いとはいえ時には城域すら被らないもの、山尾根を間違えているもの、山陵そのものを勘違いしているもの等が見受けられる。画面上では誤差の範囲かもしれないが、現地での差は距離や標高、地形に多大な錯誤が生じる。リア攻めマップのみに頼ってリア攻めする方もいないと思うけど遭難を誘発する可能性すら潜在する。
SNSも含めて誰でも簡単、気軽に情報発信出来る時代だが、それに対する反応、評価も必ず受けるものだと思う。ましてや管理者や本人でなければその情報は消えないのだ。自分も常にその事を念頭に置いて口コミしてるし、間違いに気付けば面倒だけど後には訂正もしている。情報に誤りがあれば是非伝言して欲しい。有り難く拝読して修正させて頂くつもりです。
2023年09月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
本郷丸山砦[妻籠城 周辺城郭]
本郷丸山砦は妻籠城の南方約1.7km、蘭(あららぎ)川西岸(左岸)、西方山塊から張り出す標高約470mの尾根端部上平場に立地する砦です。東麓の蘭川からの比高は35m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている尾根北麓の「御食事処 音吉」を目標に設定して下さい。南側に何となく丸く見える尾根端部を確認したら東麓から直登する。直登箇所の目印は旧の中山道(現在は舗装路っす。)に設けられた切通、藪が最も薄いと思う。この切通は既に城域だけどやっぱし上段まで登らなきゃね。比高は大した事ないので頑張って下さい。
築城年代、築城者は不明、但し、該地には島崎氏の屋敷が構えられていたんだそう。同氏は関東相模三浦氏の一族とされ、島崎重綱の代に木曽義在に仕えたのが木曽谷における同氏の始まりとされるが裏付けは系図のみである。個人的にはこの時代に突拍子も無く木曽氏を選んで仕えた事に疑問を抱くが、義在の時代に相模三浦氏が滅亡したのは事実である。又、弘治元年(西暦1555年)、妻籠に住したとあるが、事実ならば木曽氏の武田氏への服属後の話だろうか。武田氏に重用された山村氏の処遇に準ずるものとの推測も成り立つ。事実、武田氏滅亡後の木曽谷において両氏は概ねで行動を共にしている。
妻籠は「下条由来記」によると、「木曽妻籠殿は木曽の三男なり、」とあり、永正年間(西暦1504年〜1520年)以前の一時期、木曽氏の領分であった。伊那郡下条を本拠とする下条氏は永正年間に下伊那から妻籠へ通じる清内路峠を調略(木曽妻籠家中の原伝左衛門、「…清内路に住居、この者何と心付けしや下条に降参し、下条家を引入れ暫時の間に責め取る、…彼の者の案内にて安々と討取る」)によって押さえ同地の支配に及ぶ。興禅寺文書には、「…馬籠 落合の事は 下条知行の事に候間、牢人共徘徊仕らぬ様申し付候…」とあり、この時期において下条氏が妻籠のみならず東濃の馬籠、落合まで勢力を伸長させていた事が判る。同氏の支配は遠隔地故に継続しなかったようだが、これ以降、妻籠、馬籠の一帯に再び木曽氏の勢力が及んだ事は疑いが無い。当時は木曽氏が木曽谷の支配を完成させた時代でもあり、義在の代には東濃の落合から筑摩郡塩尻へ抜ける木曽谷の道筋(中山道の原型だろうか。)が整備されている。後に同氏は裏木曽のみならず東濃へ勢力を拡大させていく事となる。
この砦の通称2郭と通称3郭には島崎氏の屋敷が構えられていたそうだが、果たして弘治元年以来のものだったのだろうか。天正十二年(西暦1584年)九月の「妻籠城の戦い」において、島崎監物(重道、もしくは長子重長)、同与次右衛門(重次)、同忠左衛門、同彦四郎(重道の四男、美濃国恵那郡岩村住とされる。)の名が確認出来る事から島崎氏が妻籠や馬籠周辺に住していたのは確実なところだろう。後に「関ヶ原の戦い」において徳川氏に尽力した山村氏に従った島崎重道の子等は中山道の宿駅制度成立後にそれぞれ馬籠、妻籠の本陣、問屋となり、妻籠に入ったのは島崎重道の二男、与次右衛門重次とされる。この妻籠島崎氏、もしくはこれに関係する者が何某かの砦跡に新たに屋敷を構えたものと推測するが、この推測だと一族、郎党が居したものとしても妻籠宿内の本陣から離れた位置にあり疑問が発生する。実際は屋敷等ではなく番所の類いだったのではないだろうか。該地は妻籠宿の関門に当たり、宿泊も認められる関宿が整備された大妻籠に含まれる。そうでなければ妻籠宿成立以前の島崎氏の屋敷地を番所として二次利用したものに過ぎないと考える。
砦の現況は…段の付いた削平はしっかりしてるけどそこら辺の裏山っす。竪堀に見える地形は崩落跡だろう。城域下段には旧の中山道が切通を形成、街道を挟んだ東側の微高地が通称1郭だ。信濃のお城の神は此処に木戸が設けられていたと推測している。砦跡の屋敷地は明治末年に島崎氏が全財産を整理した際に最後まで島崎氏に仕えていた郎党の嵯峨氏に贈与されたんだそう。あ、ちなみに最奥部の通称3郭は激藪なんで侵入不可能っす。
砦の名称に「本郷」とあるが、中山道が整備される以前、妻籠の中心地は該地周辺の本郷地名が残る「大島」、「田島」であり、宿駅の妻籠宿はこれ等周辺地域から人家を強制的に集住させて成立したものだ。寛永十九年(西暦1642年)の妻籠村は戸数五十四軒、人口三百三十七人、戦国時代の地侍の有り様も推し量れるだろう。長くなったけど、そうした地侍、在地土豪レベルの砦の話をこの口コミでしている。阿保なんでしょか。
2023年09月27日 RED副将軍
馬籠城[妻籠城 周辺城郭]
遠山十八支城のひとつ馬籠遠山氏の居城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代、築城主は不詳。室町時代には馬籠遠山氏の所領となり、馬籠城(馬籠砦)は存在していた様で遠山十八支城のひとつにも数えられます。
遠山氏は、源頼朝の重臣である加藤景廉が1185年に美濃国恵那郡の木曽川以南にあたる遠山荘を地頭として入部し、子の加藤景朝が遠山氏と称したのが始まりです。
その後、岩村城を居城とした岩村遠山氏が本家であり、庶流が遠山荘各地に分散し居城ごとに分かれて「遠山七家」(岩村・苗木・明知・飯羽間・串原・明照・安木・馬籠など)と呼ばれました。その内のひとつが馬籠城を居城としていた馬籠遠山氏です。
しかし、1574年には武田信玄の侵攻により馬籠遠山氏は滅亡。武田氏の所領となり、武田氏に従属していた木曽氏が入城していた様です。
1581年に木曽義昌は織田信長の調略を受け、武田勝頼を見限り離反。馬籠城は木曾氏の支城となります。
1582年に武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺で没すると、木曽義昌は羽柴秀吉に従属。1584年の小牧・長久手の戦いの際には羽柴秀吉軍として妻籠城にて徳川家康の軍勢を撃退しています。
馬籠城には重臣の島崎重通が守将として入城しましたが、徳川家康軍の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠の陣を張り、恐れをなした島崎重通は妻籠城に逃亡したとされます。
1600年の関ヶ原の戦い後は、徳川家の直轄領となり、1615年に東濃、木曽が尾張藩領に編入された際に廃城となった様です。
見所
馬籠宿の南西400mに位置する旧中山道沿いの荒町集落にある丸山と呼ばれる丘陵に石碑と説明板が立っています。
明確な城郭遺構は見当たらず、主郭は豊川神社が祀られ、周囲は宅地や耕作地になっています。
中山道の宿場町として有名な馬籠宿に訪れた際にこちらも立ち寄ってみて下さい。
日本の原風景が残る良い場所でした。
2023年09月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
妻籠丸山城(丸山)[妻籠城 周辺城郭]
妻籠丸山城(丸山)は妻籠城の南南西約1.7km、蘭(あららぎ)川西岸(左岸)、標高584mの山塊尾根ピーク上平場を中心に立地した何かです。東麓の蘭川からの比高は155m位でしょか。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。該当尾根末端部から送電線鉄塔用の保安道らしきものが付いてる。但し、尾根下から見付けるのは達人でも無理、自分も帰りにこれに気付いた。結局辿った道筋は、北麓を東西に走る舗装路から該地に最も近い場所を選んで細野沢を渡り、登山系アプリで位置を確認しながら腐葉土の急斜面を直登、尾根を一つ越えて小沢を渡り該当尾根稜線上に達して前述の保安道を登った感ぢ?っす。
築城年代、築城者は不明です。てか結構立派な名称が付与されているけど、信濃のお城の神はその著述の中で、「丸山城の位置がはっきりしない。細野沢の南の山が丸山と呼ばれているようで妻籠丸山城をこの山に考えてみたが確証はない。」…と思わず意識が遠のくよな事を仰られている…この一文に気付いたのは今正にこれ書いてるこの時でして、苦労したあの時間は一体何だったのかと悔むばかり…しかしっ!おいらは伝承地だろうが比定地だろうが所構わず地域周辺一帯の城館を全て訪ねるのをリア攻めの基本としている。後悔なんかしないぜっ!しっ、しないもん、かずりは…
木曽谷の城砦は基本的にまともなものの方が圧倒的に少ない。縄張図から読み取れるものは「殆ど地山」だ。最初から結果は見えてるんだけど、訪ねなきゃ気が済まないのも事実、誰かが確認しなくちゃならないとも常日頃から思ってる。でもねぇ、ほら山登りが大嫌いでしょ、しかも殆ど地山に登るんすよ…てか完全地山だよ、地山…
城域に入ったまではよかったんすよ…「あり、削平地に段が付いてる。こりはひょっとして…」みたいな。でも奥へ奥へと進むと絶望感しか感じなくなるんすわ…該地の木曽郡南木曽町は林業が盛んな地域だけど、このお山にもごく最近まで人の手が入っていたような気がしてならない…つまりは人工らしきものはその際、もしくは鉄塔建設、鉄塔保安管理に伴うものとしか思えなくなるんす(縄張の一部である平場の一つには鉄塔が建っている。)。又、該地が実際に城跡だったとしても、「地山をフル活用した狼煙台や物見台の類いに過ぎない。」としか言いようがない。但し、稜線を外せば山中としては平場が意外にも多かったりする。
実は該当尾根に達する前の別尾根に凄〜く立派な植林場跡が残っているんす(下手な山城より見応えがある。)。数段の綺麗な削平地、土留めの立派な石垣、谷側には何故か立派な石垣付きの土塁様地形、石垣からして後世のものだろうけど正直此処が妻籠丸山城の成れの果てであって欲しかった…
腐葉土の斜面を登ったおいらだけど、時として泥だらけになる事を考慮して普段からスグレモノをしっかりとザックに用意してある。定価500円以下で買える作業用ポリエステル製パンツだ。山城登る時は数年来愛用しているお高いクライミング用パンツを履いてるんだけど、だんだんと藪漕ぎでぼろぼろになってしまい、新品予備が1着あるとはいえ大切に保たせたい(替わる物が無い。)が故に厳しい物件に臨む時は上から履くようになったんす。が、通気性はサウナスーツばりに無いので夏場の下半身は地獄、よってクライミング用パンツを脱ぎ捨てて下着の上から直履き、何の意味も無くなりました。しかも光に翳すと透けて見える程薄いので防御力ゼロ、足が傷だらけになるんす。今回のリア攻め中には枯れ枝に引っ掛かけて腰の部分から派手に断裂、下着と太腿が完全露出、お山の中で着替えるのも面倒だし、何だか社会人として後戻り出来ない大切な一線を超えてしまった様な奇妙な解放感も湧いて来たのでそのまま下山する事に。すっかり山の中のやべぃ奴っすわ…あ、やっばし直登には使えないっす。
※信濃のお城の神が示した該地である事は間違い無いけれど、城跡と断定出来る術が無いので写真は全て嘘写真になる可能性がある。
※信濃のお城の神が描いた縄張図は概ねで正しいけれど、縄張外の部分で現況と一致しない。細野沢の南側にも小さな谷筋を形成する小沢が流れている。
2023年09月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
妻籠城
妻籠城その2…
前回の続きっす。
弘治元年(西暦1555年)、木曽氏は和議を乞い武田氏に従属すると、武田晴信は己が娘を輿入れさせて木曽氏を親族衆に取り込むが、この際に輿添の他に甲州の臣、安倍加賀守宗貞を同道させている。木曽氏の独立性に制限を掛けるための処置である事は明白だが、この宗貞が住したのが妻籠である事が断簡の文書で確認出来る。今に残る妻籠城の縄張はこの時代に殆ど完成を見たと推測され、同時に交通の要衝である妻籠の支配が少なくとも武田氏の干渉を受けていた事が判る。以降、妻籠は武田氏による飛騨、東濃経略の重要な拠点としての役割を果たす事になる。
天正十年(西暦1582年)二月、織田氏を中心とする「甲州征伐」は木曽氏の武田氏からの離反が決起とされるが、木曽氏は苗木遠山氏を通じてある程度の事前の報せ(調略等)を受けていたようだ。先手の川尻秀隆勢に続き主攻の織田信忠勢は十四日、岩村に着陣、十六日には木曽勢が織田勢と合力の上、鳥居峠で武田勢を破る。十七日には平谷まで進み、翌十八日には飯田に達する。織田勢は岩村から最短距離で伊那郡へ侵入するが、木曽谷、妻籠を押さえる木曽氏の存在が無ければ破竹の進軍は叶わなかった筈だ。
天正十二年(西暦1584年)九月には「小牧・長久手の戦い」の一環として「妻籠城の戦い」が発生する。主戦場から遠く離れた妻籠において何故この戦いに至ったのかは地図を見れば一目瞭然、双方にとって妻籠が無視出来ない地勢であった事は疑いが無い。籠城方の山村氏は木曽谷における最大の成功者、後には木曽代官、福島関所の関守として幕末まで木曽谷に威勢を張る。籠城衆の一人、島崎重道(監物)は後に妻籠宿、馬籠宿の本陣、問屋となる近世島崎氏の祖、子孫に文人、島崎藤村を輩出する。又、慶長五年(西暦1600年)九月十七日、徳川秀忠が「関ヶ原の戦い」の東軍勝報を聞いたのは妻籠城においてだったとされる(ちなみに遅参した秀忠が「中山道」を急いだとするのは多くの歴史家が経験する初歩的なミスだ。この時点において同街道は存在しない。むしろ大軍が木曽谷のどの道筋を選んだかの方が興味が湧かないっすか?)。
お城は見たい箇所が激藪だったりするし、堀切がそのまま登城路と化してしまう悩ましさがあるけどそんなんどうでもいい事でしょう。妻籠の地は度々歴史の局面において様々な役割を果たして来た。同地が如何に「木曽路の内」を超えた重要な結節点であったかを示す証左なんだろう。…等と、主郭で御幣餅2本喰いしながら感慨に耽る。喰い終わったら日本茶が異常に欲しくなったわ。
2023年09月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
妻籠城
妻籠城その1…
…二千文字書けるようになった口コミだけど、色々調べてたらこの文字数でも全然足りないのよ…口コミに命懸けてる訳じゃないけど、誰のためでもない自分の纏めた史料と考察の保存でもあるので勘弁してね。厳密に言うと口コミではないとさえ思っている。肥前と美濃の城友さんも同様の点では本当に阿保だけど、この気持ちだけはきっと解ってくれる筈…おいらは山城好きであると同時に信濃の地方史に関しては中途半端を許さない歴史好きでもあるのさ〜ただの趣味がエキストリームな方向で発展して解消しないのは毎度の事っす。てか前置きだけでこんなに文字数消費したわ…
妻籠城(しろやま)は木曽川南岸(左岸)、蘭(あららぎ)川東岸(右岸)両川合流点に面する標高約520mの独立峰に立地する要害です。東麓の中山道からの比高は55m位、西麓の蘭川からの比高は145m位でしょか。西麓からも一応道は付いてるけどお城目的でこれを登る阿保はいないだろう。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はあれこれ悩むぐらいなら妻籠宿の駐車場に捨てるのが良いと思う。
アプリの登録城なんでお城の詳細はそっちを参照して下さいまし。ちなみに「妻籠城の戦い」の記述は籠城方の山村氏の子孫、木曽代官、山村良景が著した二次史料である「木曽考」に頼っているが貴重である。妻籠城は割と知られたお城だけど築城年代、築城主体がはっきりしない。
国道19号線を走ると理解出来るけど、木曽の里山の高い事、高い事、山頂の見えない急峻な山の斜面が視界の左右に迫って来る。木曽川とそれに流れ込む大小河川が創造した狭小で複雑な地形、起伏に富んだ自然の谷筋自体が要害とも思える。
個人的に木曽谷のお城は今まで故意にスルーしていたんす。理由は地山に近い城砦が多数を占める事、登城が困難(取り付きさえ判らない…情報が全く無く諦めざるを得なかったものも多い。適当直登を許さない厳しさもあったりする。)な砦、狼煙台や物見台が殆どである事…信濃のお城の神も探索は命懸けだと仰っている…そんな根性無しが今後の様子見を兼ねて訪ねたのが凄く優しい妻籠城て訳なんす。
中山道は近世以降の道筋だが妻籠城の東麓を通る。古代からの交通の要衝であり、筑摩郡から東濃へ抜けるには必争の地、妻籠城を無視しての南進、北進は事実上不可能である。そしてそれだけには留まらない。伊那郡との境目は人馬の通行が困難な木曽山脈で殆ど遮られるが、妻籠城の南方には下伊那へ通じる追分を控え、東行して清内路峠を越えれば駒場に至る。伊那郡松尾の小笠原氏や同郡下条の下条氏が東濃で行動出来たのはこの山道の存在があったからこそだ。
妻籠城は築城年代、築城主体がはっきりしないと書いたが、その最大の理由は特に室町時代中期〜後期において妻籠がどの勢力に帰属していたのかが判然としない事だ。天文二年(西暦1533年)、京都醍醐寺理性院厳助僧正の「信州下向日記」には、「妻子(籠)は木曽一家也伝々、則ち木曽路の内也」とあり、これ以降に木曽氏が領分としていた事は確実だが、不思議な事に妻籠城や隣接する妻の神土塁は北向きの要害、障壁のようだ。少なくとも要害としての発生はそれ以前のものと考察され、応仁の乱以前の遠山氏や永正年間(西暦1504年〜1520年)に清内路峠を調略によって押さえ、遠隔地でありながら東濃の落合まで勢力を伸長させた下条氏の普請と考えても決して飛躍ではないと思う。「下条由来記」には、「永正年中に山本、上飯田、別府辺迄打ち取る、この威にて清内路、妻子(籠)辺り迄納る」とある。ちなみに木曽氏も含めて南信の国人領主等は中信ではなく常に東濃を指向していた。
明日に続く…
2023年09月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
愛宕山陣場[妻籠城 周辺城郭]
愛宕山陣場は妻籠城の西方約0.6km、木曽川南岸(左岸)、蘭(あららぎ)川西岸(左岸)、両川合流点に面する標高592mの愛宕山山頂から東方へ伸びる尾根上段、標高約570m地点の平場を中心に立地したとの伝承が残る陣場です。東麓の蘭川からの比高は190m位でしょか。山頂部も縄張に含んでおり、その比高は約210m、陣場としては極めて高所である。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、お山は三方が急崖、唯一南東側にのみ登路が付いている。この登路に至る道筋は北東側で立入禁止、東側では「中村木工所」の敷地を抜けて蘭川の急流に掛かる小さな鉄橋を渡る必要がある。登路は陣場中心地に鎮座する愛宕社への参拝道でもあり、愛宕社は毎年8月24日に執り行われる「妻籠宿の火祭り」の会場の一つでもある。
参拝道でもあると書いたが登路は岩場も含んでいて実にワイルド、僅かな山の弛みを除けば全て急登、迷う事は無いが本当に腹立つわ…ちなみにおいらが前述の鉄橋を渡ろうとするとニホンザル2頭が橋のど真ん中で威嚇しながらお出迎え、「勝負したろかい。」と呟いて傍らの廃角材を掴むと奇声を発して逃げて行く。今日のところは勘弁しといたるわ…
アプリの登録城、妻籠城の城郭基本情報には天正十二年(西暦1584年)九月に繰り広げられた「妻籠城の戦い」の記述(原本は「木曽考」である。)があるが、該地の愛宕山はこの際に徳川方の保科越前守正直(保科氏は信濃の国人領主としては最も成功した氏族だ。)が蘭の間道を抜けて布陣した場所との伝承が残る。愛宕山は妻籠城山よりも高所であり、確かに妻籠城の城内の様子は手に取る様に覗ける。が、武田氏時代の保科氏の軍役は百二十騎、推測するに当時の手勢は千を超えるだろう。この細尾根の狭小な陣場に全てを収容する事は不可能であり、実際は物見のために一部の兵を置いたとするのが相応しいと考える。又、陣場は元々が妻籠城に関係する狼煙台(愛宕社は火伏せの神を祀る。)や物見台の類いであり、保科勢が占拠し物見に利用されたに過ぎないとさえ思える。
城廓遺構としては犬走りが残っていたそうだが、山頂部の平場に付く帯郭状の腰郭様地形の事を言っているのだろうか。又、愛宕社の建つ陣場中心地の削平はしっかりしているが、そもそも論で同社勧進の際のものなのかもしれない。それらしい地形を往時の人工のものと判断する事は出来ず殆ど地山の印象、木曽谷の城砦は地形頼みの縄張が多数を占めるので該地が狼煙台や物見台の類いであった事を否定する事には決してならないが…
保科勢は「妻籠城の戦い」において殿軍を務める事になり、愛宕山の下山に手間取った(下山しても蘭川が障害となる。)同勢は木曽方の広瀬、与川の衆の伏勢を前に多数の討死、手負を出したんだそう。実際に愛宕山を下山すれば誰でも至極当然の結果だと思う筈だ。色物物件ではあるけど戦いの様相を理解した上で臨めば結構楽しめるとは思う。
2023年09月21日 RED副将軍
須原城[妻籠城 周辺城郭]
木曽義仲の末裔と称する木曽氏の詰城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等は不詳。室町時代には定勝寺館を居城としていた木曽氏の詰め城として利用されたと云われます。
1509年に17代当主の木曽義在は福島に上之段城を築き、須原と交互に本拠としていた様です。
18代当主の木曽義康は木曽福島城を築いて本拠地を移しました。
見所
木曽川左岸の丘陵上に築かれています。東西に走る稜線上に6つの郭が連なる連郭式です。
最大の見所は主郭と二郭を区切る二重堀切です。土橋が架かり、それぞれの虎口につながりますが中土塁の切込によりクランクする動線になっている技巧性があります。
主郭の南北には帯郭状の通路が備えられており、南西部にもある虎口に繋がっています。
行き方は、東側麓に送電線鉄塔の巡視用の登り口があります。近くの路肩に駐車スペースもあり、整備された鉄塔用通路があり比高も70mしか無いので15分ほどで主郭に辿り着くことができます。
写真
①②③二重堀切
④西端の四郭
⑤主郭北側の帯郭
⑥主郭南西部の虎口
⑦⑧鉄塔下のクランクする通路
2023年09月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
妻の神土塁[妻籠城 周辺城郭]
妻の神土塁は妻籠城の東南東約0.6km、標高1030.8mの山塊山頂から北北西に伸びる尾根端部上、標高約513m地点の緩斜面上平場に立地する土塁遺構です。西麓の中山道からの比高は45m位でしょか。この山尾根を標高672.4mの三角点まで登ると妻籠古城に至る。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、妻籠城の周辺は空地が少ないし、特に中山道は観光客の往来が結構あるので雰囲気的にも車の捨て場所に困ってしまう。ここは素直に諦めて妻籠宿の駐車場を利用して徒歩で該地を目指すのが正解だと思う。大した距離でもないしね。取り付きは南麓に建つ一般住宅上段の舗装路からで、尾根上に建つ送電線鉄塔に至る保安道が付いているのでこれを辿る。目印は「大桑 No.57」と書かれた小さな標識だ。この時期だと入るのに少し躊躇するけど道筋ははっきりしている。鉄塔にぶつかったら右手へ進めば該地だが鉄塔周辺にも土塁の残滓が確認出来る。
盛られた年代、盛った方は不明、てかそもそも論でこれがいつの時代に何のために盛られたものなのかさえ判らない…妻籠城の説明板では単純に妻籠城の一角としているが城廓遺構としての体を成していない。かと言って陣城の類、後世の猪鹿垣や防火塁、耕作に伴うものでない事は明白で単純な直線土塁だけには終わっていない。信濃のお城の神も頭を悩ませていらっしゃる…
どうにも妻籠城と中山道をメインに考えるから失敗するようにも思う。律令制下で設けられた東山道支道、「木曽古道(岐蘇山道、もしくは吉蘇路)」は道筋が推測の域を出ないが、推定図を見ると妻籠城の周辺では丁度この妻の神土塁付近を通っている。土塁は概ねで東西に伸びる南北に対する長大なもので道行く者にとっての障壁となる(但し、悩ましい事に土塁は明らかに北向きである。)。この土塁が古い時代の何かしらの遺構であるならば、中山道開通以前の木曽古道、もしくはそれに準ずる道筋に設けられた番所に付随するものと考えても決して飛躍ではないと思う。
妻籠て今は紛れもなく長野県すよね?が、古くは妻籠を含む小木曾荘(遠山荘との境目は馬籠峠、地頭職は美濃真壁氏、常陸真壁氏の一族、遠山荘の加藤氏と縁戚関係にあった。)は美濃国に属しており、信濃国筑摩郡の一部となったのは中世後期以降と考えられている。度々両国の境目争いが発生するグレーゾーンな土地柄、支配層の変遷も当然影響している。美濃守護、土岐美濃守持益は、永享四年(西暦1432年)九月廿九日、室町幕府から以下の「御前落居奉書」を受けている。即ち、「七間御厩御材木事、妻籠兵庫助申付之、不日可被召進之由所被仰下也、仍執達如件、」とあり、妻籠兵庫助は美濃守護である土岐持益を通じて七間御厩(馬屋)の材木を進じるよう指図を受けている。少なくとも妻籠は当時の認識では美濃国の内にあり、木曽氏の勢力が及ぶのは文書上においては天文二年(西暦1533年)、京都醍醐寺理性院厳助僧正の「信州下向日記」を待たなければならない。現長野県知事は木曽氏に感謝すべきだろう。
2023年09月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
左近右屋敷[妻籠城 周辺城郭]
左近右屋敷は妻籠城南東麓、標高約462mの山間鞍部上平場に立地した屋敷です。該地は妻籠城大手曲輪の東側直下でもある。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、位置は少しだけ南西にずれています。ちなみに屋敷跡には後世、「しろやま茶屋」と称する茶屋が営まれていたが今は廃屋となっている。妻籠城を訪ねた事がある方なら必ず見ている筈…
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは妻籠城の城番、杉村左近右衛門と伝えられているんだそう。同名の詳細は不明だが、島崎氏(文人の島崎藤村は馬籠島崎氏を出自とする。)の郎党と推測される。杉村氏は後に吾妻村(新設合併により廃村)の村長を務めた事もあったそうで、戦国時代には地侍、江戸時代には庄屋、この土地の有力者であった事は間違い無い。天正十四年(西暦1586年)三月四日、関白秀吉と誼みを通じるために上洛した小笠原氏被官、倉科七郎左衛門朝軌が馬籠下り谷で地侍に襲われた際にはその一味だったろう。事は伝承として南木曽の主だった各家に伝えられているが、極近年まで他言無用のタブーだったんだそう(与川の平尾さんのお話…突然のお宅訪問、面白いお話を聞かせてくれた上に色々御馳走までしてくれてありがとう。)。
近世の中山道沿いに立地するが、妻籠城の在りし時代に同街道は存在しない。往時の松本平から東濃に至る道筋は律令制下に設けられた東山道支道、「木曽古道(岐蘇山道、もしくは吉蘇路)」に準じたものと推測され、妻籠城の周辺では中山道よりもやや東側、やや上段を通り南行して馬籠峠に至る。木曽古道は全体として概ねで山塊中腹の高所を通り、現代人の感覚では俄かに信じ難い命懸けのルートだ。木曽川の影響を受け易い谷筋を避け、木曽川に流れ込む大小河川の渡渉(道行く者にとっては何よりの関心事…)を川幅の狭い上流域に求めたのがその理由だと考察されている。
城山茶屋の廃屋を撮影中、外国人から何を撮っているのかと英語で話掛けられた。帰国子女でもあるJr.アイドルのおいらは流暢な英語で答えてみる…
かずり「THIS IS OLD CAFE HOUSE RUIN AND ABOUT 500 YEARS AGO SAMURAI'S HOUSE CALLED "NEAR LEFT'S RIGHT HOUSE".」
外人「なるほど…そうだったのね。あなたってただの男前かと思ったら頭も凄く良いのね!」
かずり「YEAH! THAT'S RIGHT! I AM FAMOUSE UNIVERSITY'S PROFESSOR.」
外人「神は時として二物を与えるものなのね!」
※会話の内容は誇張が含まれています。
…頼むから日本に来たんだから日本語で話し掛けてくれ…
しかし、外国人観光客がインバウンドで日本のディープな場所を求めているてのは本当の話だったさ〜中山道を歩いているのは本当に外国人ばかり…日本人なんて1人も見掛けなかったぜ。はるばる観光旅行に来て南木曽〜野尻間を歩くなんてハード過ぎるなとも思うけど何だか嬉しくもあったりする。
あ、忘れてた…左近右屋敷の事なんだけど、名称から妻籠城の大手筋の向かって右側に位置するからそう呼ばれるのかと当然思うじゃないすか?でも違うんすわ…どうやら屋敷の主とされる杉村左近右衛門の「衛門」が省略されているだけの話みたい。現地で左屋敷も存在するのかと真剣に考えてたし、もしかしたらそれは右近の左屋敷?なのか?とも思ってた。日本語て難しいすね。
2022年11月06日 サスケ左近衛少将
妻籠城
妻籠宿のすぐ近く~車ですぐそばまで行けるけど停める場所なし。城郭は、ちゃんと整備されてる
2022年09月23日 RED副将軍
妻籠城
中山道に面する美濃・信濃の境目の城🏯
多くの戦いの前線地となりました。
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等は不詳。
文永年間(1264年〜1274年)に沼田家仲により築城とも、室町期に木曽家村により築城されたとも云われますが定かではありません。
室町期は遠山氏の所領であった様で、戦国期は木曽氏の支配下となりました。
木曽氏は甲斐武田氏に従い、19代当主の木曽義昌は武田信玄の三女真理姫を娶り姻戚関係を築いています。
その木曽義昌の時代には家臣の山村良勝が妻籠城を守備していました。
しかし1582年、木曽義昌は、武田勝頼による新府城造営による賦役増大と重税に不満を持ち、織田信長に付きます。妻籠城や周辺の城を改修し、武田勝頼に反旗を翻します。これを期に織田信長は甲州征伐により武田氏を滅ぼしました。木曽義昌は織田信忠と木曽谷に向かっていた武田信豊を鳥居峠にて撃退しています。
同年に本能寺の変にて織田信長が没すると羽柴秀吉が徳川家康と対立し、1584年には小牧長久手の戦いが勃発。
木曽義昌は、当初は徳川家康に付いていましたが羽柴秀吉に寝返り加担。
戦いの前線となりこの時も妻籠城は改修されたと云われます。
そして徳川勢の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らの攻撃を受けましたが、山村良勝は撃退しています。
山村良勝は1600年に木曽氏が改易されると徳川家康の家臣となっています。
1615年、一国一城令により廃城になりました。
見所
木曽川左岸にある標高519mの独立丘陵上に築いています。
頂部を削平した主郭は北側に虎口が開口し、周囲に帯郭群を巻いています。
東側の尾根筋に堀切と馬出郭を挟んで東郭が敷設されたシンプルな縄張り。東郭はヤブとなっていました。
城域に入り最初に目にする痩せ尾根を加工した土橋が一番の見所でしょうか。
写真
①②痩せ尾根を加工した土橋
③東郭と馬出郭を隔てる堀切
④馬出郭
⑤馬出郭と主郭を隔てる堀切
⑥主郭切岸
⑦主郭虎口
⑧主郭
2022年09月12日 Maru姫22
妻籠城
お城の場所がいまいち分からなかったので、観光案内所で聞いたところ丁寧に教えていただきました。妻籠宿の散策がてら登城できるお城です。
2022年04月24日 ほりーないと
かぶと観音[妻籠城 寺社・史跡]
木曽義仲が治承4年(1180年)に挙兵して北陸道を京へ向かう際、義仲の兜の八幡座の観音像を祀ったのがおこりと伝えられています。境内には、義仲が弓を引こうとした際に邪魔になり巴御前が袖を振って倒した「袖振りの松」や、義仲が腰掛けたという「腰掛石」が残されています。
国道19号の信号「神戸」から木曽川の反対側へ入り、道なりに進んだ所にあります。旧中山道が通っており、かぶと観音の前の交差点が妻籠城へ行く目印になります。なお、妻籠城の登城口周辺には駐車場はなく、路駐になります。地元の方の通行がありますので、ご注意下さい。
2021年11月28日 あおまさ信濃守
分かれ道[妻籠城 その他]
分かれ道は整備されている右側がおすすめです。
2021年11月28日 あおまさ信濃守
妻籠城
主郭からは妻籠宿が一望です。勝ち戦も納得です。
2021年05月16日 ほりーないと
妻籠宿[妻籠城 寺社・史跡]
中山道の宿場町「妻籠宿」は日本で最初に宿場保存事業が行われた。色んな歴史に触れることができるので、散策しながら妻籠城へ行くのもオススメです。
宿場としての利用度は参勤交代の大名が三十家余りと少ないが、公家や旗本などに利用されていた。和宮の御降嫁の行列は妻籠で御昼を召し上がったという。復原された妻籠宿本陣、重要文化財指定の脇本陣、江戸時代はじめに制定された宿場に必ず設けられた桝形跡(写真1)、口留番所跡(写真2)などがある。歴史資料館には小牧長久手の戦いの一環として起きた「妻籠城の戦い」のジオラマ展示がある。
季節に合わせて雛人形と五月人形の展示がある。古い時代の人形だけではなく「今」がわかるマスク姿の人形などの展示もあり毎年楽しめる。写真3は大名行列をする五月人形。
歴史を知りたくて妻籠宿の人達に声をかけると丁寧に色んな事を教えていただいた。温かい気持ちになれる宿場町です。
2021年04月12日 宮内卿ピロシキ
妻籠城
典型的な山城。
主郭はかなり広い。
礎石もあったので、何かしら建築物もあったみたい。
妻籠宿がよく見え、この場所に築城した理由がよく分かります。
アルプスも望めて眺めが良い。
2021年04月12日 宮内卿ピロシキ
妻籠城
さわやかウォーキングにて南木曽駅から。コース外でしたが、たくさんの人が登っていました。遺構はよく残っている。本丸から妻籠宿か望めてこの場所に築城したのが良く理解できます。アルプスも見えて登って良かった。
2020年11月22日 フー甲斐守
登城口[妻籠城 碑・説明板]
1枚目が案内板。
2枚目がしろやま茶屋跡
3枚目が道案内。中央の石畳が妻籠宿への道。城へは1番右端の道。
因みに妻籠宿から来るとこの看板振り返った状態になってますので左右お間違えないよう。
妻籠宿から片道20分程度で頂上にたどり着きます。4枚目の写真は頂上に向かう最後の分かれ道ですが、正解は右です。左に行くと、「えっ、口コミと違い、藪中なんですが…」となります。たどり着きますが(笑)当然私は左に行ってしまいました。
2017年10月19日 権中納言みきを
妻籠城
JR南木曽駅下車し、バスで妻籠宿まで行き、観光案内所にあるマップを片手に宿場町をブラブラした後に攻城しました。
マップに城の場所も書いてあるのでわかりやすいです。
妻籠城は山城ですが、前の方が書いておられる通り、登山道もしっかりしており登りやすかったです。
2016年09月25日 京楽秋水石狩守
妻籠城
馬籠宿から妻籠宿手前の国道256号に出る止まれの交差点、休日天気のいい日は必ずと言っていいほど一旦停止の取り締まりをしているので要注意です!
2015年08月15日 花子
妻籠城
【アクセス】
国道256号線沿「妻籠宿」という大きな看板の手前を左折。300㍍位登るとT字があるので左手前に戻る方向に鋭角に曲がると城趾碑があります。
【駐車場】
妻籠宿を見学しながらでも行ける距離ですが、城趾碑前に駐車するのが一番近いです。しかしスペースは狭いのでご注意下さい。
【トイレ】
なし
【城 跡】
妻籠宿を歩きながら城跡まで行きました。
登りだしてすぐ、左に竹林、右に杉林?桧林?がありそれぞれの色鮮やかな緑を堪能。
少し歩くと竹に囲まれた土橋があります。
主郭までの間には、堀切、帯曲輪があります。案内板もあるので初心者の私でも解りやすかったです。
主郭へ行く最後の道はツツジらしき木のトンネルを通り幻想的でした。
頂上からは妻籠宿が一望です。
女性2人で行きましたが、整備されている所も多くスニーカーでも歩きやすい山城でした。
2010年10月16日 傾奇揚げ仙兵衛
妻籠城
妻籠宿は風情があってとても好きな町です。
2010年09月03日 傾奇揚げ仙兵衛
妻籠城
やっぱ南木曽の木曽路ビールでしょう
妻籠城の周辺スポット情報
堀切(遺構・復元物)
曲輪(遺構・復元物)
登城口(碑・説明板)
土橋(碑・説明板)
上久保一里塚(碑・説明板)
馬籠城(周辺城郭)
三留野東山城(周辺城郭)
三留野愛宕山城(周辺城郭)
坪川砦(周辺城郭)
馬籠丸山砦(周辺城郭)
須原城(周辺城郭)
和村城(本城)(周辺城郭)
木曽氏定勝寺館(周辺城郭)
越坂の物見(周辺城郭)
大屋城(周辺城郭)
木戸彦左衛門館(周辺城郭)
野尻愛宕山城(周辺城郭)
野尻城(天王洞)(周辺城郭)
十二兼砦(袖山)(周辺城郭)
柿其中山の物見F(周辺城郭)
柿其中山の物見E(周辺城郭)
柿其中山の物見D(周辺城郭)
柿其中山の物見C(周辺城郭)
柿其中山の物見B(周辺城郭)
柿其中山の物見A(周辺城郭)
柿其の秋葉神社物見(周辺城郭)
柿其峠の物見(周辺城郭)
梛野丸山の物見(周辺城郭)
柿其峠の物見(周辺城郭)
大原の城山(周辺城郭)
田口氏屋敷(周辺城郭)
上の原の屋敷(周辺城郭)
三留野家範居館(周辺城郭)
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与川古典庵館(与川城・丸山)(周辺城郭)
与川中山砦(周辺城郭)
小川野氏屋敷(周辺城郭)
左近右屋敷(周辺城郭)
妻の神土塁(周辺城郭)
番匠屋屋敷(周辺城郭)
妻籠古城(周辺城郭)
愛宕山陣場(周辺城郭)
大高取砦(大鷹取)(周辺城郭)
神明砦(周辺城郭)
本郷丸山砦(周辺城郭)
蘭 お太子さま(周辺城郭)
麦島氏宗家屋敷(周辺城郭)
上段の広瀬九郎右衛門屋敷(周辺城郭)
上段の殿様屋敷(周辺城郭)
纐纈氏(橋場氏)屋敷(周辺城郭)
南沢の丸山物見(周辺城郭)
伝・広瀬の広瀬九郎右衛門屋敷(周辺城郭)
広瀬の半僧坊山(蘭砦比定地)(周辺城郭)
広瀬の丸山(蘭砦比定地)(周辺城郭)
長者畑 屋敷(周辺城郭)
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島田の屋敷(周辺城郭)
さんこ山物見(周辺城郭)
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大島(座光寺)仁右衛門屋敷(周辺城郭)
池島一官屋敷(周辺城郭)
ヤダカ(周辺城郭)
坪川砦(周辺城郭)
原蔵人佐の屋敷(周辺城郭)
越野山物見(周辺城郭)
木曽氏大やしろ館(木曽家教館)(周辺城郭)
妻籠宿(寺社・史跡)
かぶと観音(寺社・史跡)
馬籠宿(寺社・史跡)
分かれ道(その他)
小路峠(恋路峠)(その他)
柿其峠(その他)
分岐点(その他)