妻籠城(つまごじょう)
妻籠城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長野県木曽郡南木曽町吾妻218-7
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 木曽氏?
築城年
- 室町時代中期
主な改修者
- -
主な城主
- 遠山氏、山村良勝(木曽氏家臣)
廃城年
- 元和2年(1616)
遺構
- 曲輪、帯曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- 県史跡(妻籠城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
苗木城(岐阜県中津川市)[12.8km]
大博士城(岐阜県中津川市)[19.9km]
駒場城(長野県下伊那郡)[20.5km]
飯田城(長野県飯田市)[23.0km]
松尾城(長野県飯田市)[23.7km]
鈴岡城(長野県飯田市)[23.7km]
岩村城(岐阜県恵那市)[28.2km]
船山城(長野県下伊那郡)[29.1km]
大島城(長野県下伊那郡)[29.1km]
福島城(長野県木曽郡)[31.4km]
妻籠城の解説文
[引用元:Wikipedia「妻籠城」の項目]
妻籠城(つまごじょう)は、長野県木曽郡南木曽町に存在した日本の城(山城)である。
概要
築城時期は室町時代中期である。標高521mに位置し、戦国時代には木曾義昌が城主であった。本城は東西約30メートル、南北約40メートルで、四周に土塁と帯郭を巡らせた茶臼型の山城である。北東に張り出した屋根に空堀を施し、その先端に郭を築いている。大手は東方鞍部で前面に構えの郭があり、両側断崖の土橋上の小道を経て本城に入る構造となっている。
歴史
16世紀中期に木曾氏は甲斐の武田氏に従っていたが、妻籠城改築の年と伝わる天正10年(1582年)に入って間もなく織田氏に寝返った。
織田信長はこの出来事を好機と見て、木曽、伊那、そして徳川家康の遠江から大軍を武田氏がいる甲斐へと攻め寄せ、滅亡させた。
元和2年(1616年)の一国一城令により、廃城になった。
妻籠城の戦い
天正12年3月(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、木曾義昌は当初、徳川家康に付いていたが、羽柴秀吉に寝返った。
同年9月、木曾義昌は妻籠城に山村良勝を入れて300騎を付けて籠らせた。徳川方の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らが清内路峠を越えて攻めて来た[1]。徳川方は妻籠城の対岸の愛宕山を占拠して攻撃した。
山村良勝は奮戦したが、渡島の者達が徳川方に付いたため、北方との連絡が取れなくなり孤立してしまった。兵糧や弾丸が不足して困った。そのうえ上山口の牧野弥右衛門も徳川方に付き、田立・渡島の者達に水の手を塞がれてしまったので水にも困る事態となった。
そこで竹中小左衛門という者が妻籠城を夜に紛れて抜け出し、搦手である木曽川に降りて、牛ヶ渕を渡って対岸の島田へ渡り、河原を歩いて味方が居る三留野へ辿り着き、そこに居た30人ばかりの髪に玉薬を結び付けさせて木曽川を渡らせて妻籠城へ帰還した。
この時に与川村にあった古典庵の僧が、与川の郷民に紙旗を数十本持たせ、三留野の原久左衛門(神官園原氏の祖)と共に柴山の峰に登り、紙旗を上げて狼煙を上げ、夜は篝火を焚いた。
徳川方は、孤立していた妻籠城は、そろそろ兵糧も武器も尽きたものと思っていたが、三留野から運ばれた弾丸で撃たれたので、秀吉方の美濃金山城主の森忠政が大軍を率いて救援に来たため、渡島や山口の者達が寝返ったと勘違いをした。
また夜の篝火を見て木曽福島からも援軍が来て四方を囲まれたと思い、妻籠城の囲みを解いて逃げ出した。
これを見た山村良勝は、兵を先回りさせて蘭(あららぎ)の山路に伏せ置いて、城門を開けて徳川勢を追尾した。この時、広瀬市右衛門は、菅沼氏の大将の朝日仙助の馬を射ち倒したので、朝日仙助は走って逃げて行ったという。また与川の郷民も坂本与九郎なる者を鉄砲で撃ち倒す手柄をたてた。
このようにして山村良勝が大軍を破って勝利に導き、徳川方を撃退した。
所在地
- 長野県木曽郡南木曽町吾妻
参考文献
- 信濃史学会 編、『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』、1988年
- 南原公平 著、『信州の城と古戦場』、しなのき書房、2009年
- 南木曽町誌 通史編、妻籠城の戦い
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妻籠城の口コミ情報
2023年09月21日 RED副将軍三遠オフ初参戦
須原城[妻籠城 周辺城郭]
木曽義仲の末裔と称する木曽氏の詰城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等は不詳。室町時代には定勝寺館を居城としていた木曽氏の詰め城として利用されたと云われます。
1509年に17代当主の木曽義在は福島に上之段城を築き、須原と交互に本拠としていた様です。
18代当主の木曽義康は木曽福島城を築いて本拠地を移しました。
見所
木曽川左岸の丘陵上に築かれています。東西に走る稜線上に6つの郭が連なる連郭式です。
最大の見所は主郭と二郭を区切る二重堀切です。土橋が架かり、それぞれの虎口につながりますが中土塁の切込によりクランクする動線になっている技巧性があります。
主郭の南北には帯郭状の通路が備えられており、南西部にもある虎口に繋がっています。
行き方は、東側麓に送電線鉄塔の巡視用の登り口があります。近くに駐車スペースもあり、整備されて登山道で比高も70mしか無いので15分ほどで主郭に辿り着くことができます。
写真
①②③二重堀切
④西端の四郭
⑤主郭北側の帯郭
⑥主郭南西部の虎口
⑦⑧鉄塔下のクランクする通路
2023年09月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
妻の神土塁[妻籠城 周辺城郭]
妻の神土塁は妻籠城(しろやま)の東南東約0.6km、標高1030.8mの山塊山頂から北北西に伸びる尾根端部上、標高約513mの緩斜面上平場に立地する土塁遺構です。西麓の中山道からの比高は45m位でしょか。この山尾根を標高672.4mの三角点まで登ると妻籠古城に至る。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、妻籠城の周辺は空地が少ないし、特に中山道は観光客の往来が結構あるので雰囲気的にも車の捨て場所に困ってしまう。ここは素直に諦めて妻籠宿の駐車場を利用して徒歩で該地を目指すのが正解だと思う。大した距離でもないしね。取り付きは南麓に建つ一般住宅上段の舗装路からで、尾根上に建つ送電線鉄塔に至る保安道が付いているのでこれを辿る。目印は「大桑 No.57」と書かれた小さな標識だ。この時期だと入るのに少し躊躇するけど道筋ははっきりしている。鉄塔にぶつかったら右手へ進めば該地だが鉄塔周辺にも土塁の残滓が確認出来る。
盛られた年代、盛った方は不明、てかそもそも論でこれがいつの時代に何のために盛られたものなのかさえ判らない…妻籠城の説明板では単純に妻籠城の一角としているが城廓遺構としての体を成していない。かと言って陣城の類、後世の猪鹿垣や防火塁、耕作に伴うものでない事は明白で単純な直線土塁だけには終わっていない。信濃のお城の神も頭を悩ませていらっしゃる…
どうにも妻籠城と中山道をメインに考えるから失敗するようにも思う。律令制下で設けられた東山道支道、「木曽古道(岐蘇山道、もしくは吉蘇路)」は道筋が推測の域を出ないが、推定図を見ると妻籠城の周辺では丁度この妻の神土塁付近を通っている。土塁は概ねで東西に伸びる南北に対する長大なもので道行く者にとっての障壁となる(但し、悩ましい事に土塁は明らかに北向きである。)。この土塁が古い時代の何かしらの遺構であるならば、中山道開通以前の木曽古道、もしくはそれに準ずる道筋に設けられた番所に付随するものと考えても決して飛躍ではないと思う。
妻籠て今は紛れもなく長野県すよね?が、古くは妻籠を含む小木曾荘(遠山荘との境目は馬籠峠、地頭職は美濃真壁氏、常陸真壁氏の一族、遠山荘の加藤(遠山)氏と縁戚関係にあった。)は美濃国に属しており、信濃国筑摩郡の一部となったのは中世後期以降と考えられている。度々両国の境目争いが発生するグレーゾーンな土地柄、支配層の変遷も当然影響している。美濃守護、土岐美濃守持益は、永享四年(西暦1432年)九月廿九日、室町幕府から以下の「御前落居奉書」を受けている。即ち、「七間御厩御材木事、妻籠兵庫助申付之、不日可被召進之由所被仰下也、仍執達如件、」とあり、妻籠兵庫助は美濃守護である土岐持益を通じて七間御厩(馬屋)の材木を進じるよう指図を受けている。少なくとも妻籠は当時の認識では美濃国の内にあり、木曽氏の勢力が及ぶのは文書上においては天文二年(西暦1533年)、京都醍醐寺理性院厳助僧正の「信州下向日記」を待たなければならない。現長野県知事は木曽氏に感謝すべきだろう。
2023年09月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
左近右屋敷[妻籠城 周辺城郭]
左近右屋敷は妻籠城(しろやま)南東麓、標高約462mの山間鞍部平場上に立地した居館です。該地は妻籠城大手曲輪の東側直下でもある。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、位置は少しだけ南西にずれています。ちなみに屋敷跡には後世、「しろやま茶屋」と称する茶屋が営まれていたが今は廃屋となっている。妻籠城を訪ねた事がある方なら必ず見ている筈…
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは妻籠城の城番、杉村左近右衛門と伝えられているんだそう。同氏の詳細は不明だが、島崎氏(文人の島崎藤村は信濃島崎氏の最後の当主である。)の郎党と推測される。杉村氏は後に吾妻村(新設合併により廃村)の村長を務めた事もあったそうで、戦国時代には地侍、江戸時代には庄屋、この土地の有力者であった事は間違い無い。天正十四年(西暦1586年)、関白秀吉と誼みを通じるために上洛する小笠原氏被官、倉科七郎左衛門朝軌が妻籠周辺で地侍に襲われた際にはその一味だったろう。事は伝承として南木曽の主だった各家に伝えられているが、極近年まで他言無用のタブーだったんだそう(与川の平尾さんのお話…突然のお宅訪問、面白いお話を聞かせてくれた上に色々御馳走までしてくれてありがとう。)。
近世の中山道沿いに立地するが、妻籠城の在りし時代に同道は存在しない。往時の松本平から東濃に至る道筋は律令制下に設けられた東山道支道、「木曽古道(岐蘇山道、もしくは吉蘇路)」に準じたものと推測され、妻籠城の周辺では中山道よりもやや東側、やや上段を通り南行して馬籠峠に至る。木曽古道は全体として概ねで山塊中腹の高所を通り、現代人の感覚では俄かに信じ難い命懸けのルートだ。木曽川の影響を受け易い谷筋を避け、木曽川に流れ込む大小河川の渡渉(道行く者にとっては何よりの関心事…)を川幅の狭い上流域に求めたのがその理由だと考察されている。
城山茶屋の廃屋を撮影中、外国人から何を撮っているのかと英語で話掛けられた。帰国子女でもあるJr.アイドルのおいらは流暢な英語で答えてみる…
かずり「THIS IS OLD CAFE HOUSE RUIN AND ABOUT 500 YEARS AGO SAMURAI'S HOUSE CALLED "NEAR LEFT'S RIGHT HOUSE".」
外人「なるほど…そうだったのね。あなたってただの男前かと思ったら頭も凄く良いのね!」
かずり「YEAH! THAT'S RIGHT! I AM FAMOUSE UNIVERSITY'S PROFESSOR.」
外人「神は時として二物を与えるものなのね!」
※(会話の内容は誇張が含まれています。)
…頼むから日本に来たんだから日本語で話し掛けてくれ…
しかし、外国人観光客がインバウンドで日本のディープな場所を求めているてのは本当の話だったさ〜中山道を歩いているのは本当に外国人ばかり…日本人なんて1人も見掛けなかったぜ。はるばる観光旅行に来て南木曽〜野尻間を歩くなんてハード過ぎるなとも思うけど何だか嬉しくもあったりする。
あ、忘れてた…左近右屋敷の事なんだけど、名称から妻籠城の大手筋の向かって右側に位置するからそう呼ばれるのかと当然思うじゃないすか?でも違うんすわ…どうやら屋敷の主とされる杉村左近右衛門の「衛門」が省略されているだけの話みたい。現地で左屋敷も存在するのかと真剣に考えてたし、もしかしたらそれは右近の左屋敷?なのか?とも思ってた。日本語て難しいすね。
2022年11月06日 サスケ中務少輔
妻籠城
妻籠宿のすぐ近く~車ですぐそばまで行けるけど停める場所なし。城郭は、ちゃんと整備されてる
2022年09月23日 RED副将軍三遠オフ初参戦
妻籠城
中山道に面する美濃・信濃の境目の城🏯
多くの戦いの前線地となりました。
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等は不詳。
文永年間(1264年〜1274年)に沼田家仲により築城とも、室町期に木曽家村により築城されたとも云われますが定かではありません。
室町期は遠山氏の所領であった様で、戦国期は木曽氏の支配下となりました。
木曽氏は甲斐武田氏に従い、19代当主の木曽義昌は武田信玄の三女真理姫を娶り姻戚関係を築いています。
その木曽義昌の時代には家臣の山村良勝が妻籠城を守備していました。
しかし1582年、木曽義昌は、武田勝頼による新府城造営による賦役増大と重税に不満を持ち、織田信長に付きます。妻籠城や周辺の城を改修し、武田勝頼に反旗を翻します。これを期に織田信長は甲州征伐により武田氏を滅ぼしました。木曽義昌は織田信忠と木曽谷に向かっていた武田信豊を鳥居峠にて撃退しています。
同年に本能寺の変にて織田信長が没すると羽柴秀吉が徳川家康の対立し、1584年には小牧長久手の戦いが勃発。
木曽義昌は、当初は徳川家康に付いていましたが羽柴秀吉に寝返り加担。
戦いの前線となりこの時も妻籠城は改修されたと云われます。
そして徳川勢の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らの攻撃を受けましたが、山村良勝は撃退しています。
山村良勝は1600年に木曽氏が改易されると徳川家康の家臣となっています。
1615年、一国一城令により廃城になりました。
見所
木曽川左岸にある標高519mの独立丘陵上に築いています。
頂部を削平した主郭は北側に虎口が開口し、周囲に帯郭群を巻いています。
東側の尾根筋に堀切と馬出郭を挟んで東郭が敷設されたシンプルな縄張り。東郭はヤブとなっていました。
城域に入り最初に目にする痩せ尾根を加工した土橋が一番の見所でしょうか。
写真
①②痩せ尾根を加工した土橋
③東郭と馬出郭を隔てる堀切
④馬出郭
⑤馬出郭と主郭を隔てる堀切
⑥主郭切岸
⑦主郭虎口
⑧主郭
2022年09月12日 Maru姫22
妻籠城
お城の場所がいまいち分からなかったので、観光案内所で聞いたところ丁寧に教えていただきました。妻籠宿の散策がてら登城できるお城です。
2022年04月24日 ほりーないと
かぶと観音[妻籠城 寺社・史跡]
木曽義仲が治承4年(1180年)に挙兵して北陸道を京へ向かう際、義仲の兜の八幡座の観音像を祀ったのがおこりと伝えられています。境内には、義仲が弓を引こうとした際に邪魔になり巴御前が袖を振って倒した「袖振りの松」や、義仲が腰掛けたという「腰掛石」が残されています。
国道19号の信号「神戸」から木曽川の反対側へ入り、道なりに進んだ所にあります。旧中山道が通っており、かぶと観音の前の交差点が妻籠城へ行く目印になります。なお、妻籠城の登城口周辺には駐車場はなく、路駐になります。地元の方の通行がありますので、ご注意下さい。
2021年11月28日 あおまさ
分かれ道[妻籠城 その他]
分かれ道は整備されている右側がおすすめです。
2021年11月28日 あおまさ
妻籠城
主郭からは妻籠宿が一望です。勝ち戦も納得です。
2021年05月16日 ほりーないと
妻籠宿[妻籠城 寺社・史跡]
中山道の宿場町「妻籠宿」は日本で最初に宿場保存事業が行われた。色んな歴史に触れることができるので、散策しながら妻籠城へ行くのもオススメです。
宿場としての利用度は参勤交代の大名が三十家余りと少ないが、公家や旗本などに利用されていた。和宮の御降嫁の行列は妻籠で御昼を召し上がったという。復原された妻籠宿本陣、重要文化財指定の脇本陣、江戸時代はじめに制定された宿場に必ず設けられた桝形跡(写真1)、口留番所跡(写真2)などがある。歴史資料館には小牧長久手の戦いの一環として起きた「妻籠城の戦い」のジオラマ展示がある。
季節に合わせて雛人形と五月人形の展示がある。古い時代の人形だけではなく「今」がわかるマスク姿の人形などの展示もあり毎年楽しめる。写真3は大名行列をする五月人形。
歴史を知りたくて妻籠宿の人達に声をかけると丁寧に色んな事を教えていただいた。温かい気持ちになれる宿場町です。
2021年04月12日 宮内卿ピロシキ
妻籠城
典型的な山城。
主郭はかなり広い。
礎石もあったので、何かしら建築物もあったみたい。
妻籠宿がよく見え、この場所に築城した理由がよく分かります。
アルプスも望めて眺めが良い。
2021年04月12日 宮内卿ピロシキ
妻籠城
さわやかウォーキングにて南木曽駅から。コース外でしたが、たくさんの人が登っていました。遺構はよく残っている。本丸から妻籠宿か望めてこの場所に築城したのが良く理解できます。アルプスも見えて登って良かった。
2020年11月22日 フー甲斐守
登城口[妻籠城 碑・説明板]
1枚目が案内板。
2枚目がしろやま茶屋跡
3枚目が道案内。中央の石畳が妻籠宿への道。城へは1番右端の道。
因みに妻籠宿から来るとこの看板振り返った状態になってますので左右お間違えないよう。
妻籠宿から片道20分程度で頂上にたどり着きます。4枚目の写真は頂上に向かう最後の分かれ道ですが、正解は右です。左に行くと、「えっ、口コミと違い、藪中なんですが…」となります。たどり着きますが(笑)当然私は左に行ってしまいました。
2017年10月19日 弾正尹みきを
妻籠城
JR南木曽駅下車し、バスで妻籠宿まで行き、観光案内所にあるマップを片手に宿場町をブラブラした後に攻城しました。
マップに城の場所も書いてあるのでわかりやすいです。
妻籠城は山城ですが、前の方が書いておられる通り、登山道もしっかりしており登りやすかったです。
2016年09月25日 京楽秋水陸奥守️
妻籠城
馬籠宿から妻籠宿手前の国道256号に出る止まれの交差点、休日天気のいい日は必ずと言っていいほど一旦停止の取り締まりをしているので要注意です!
2015年08月15日 摩虎羅**
妻籠城
【アクセス】
国道256号線沿「妻籠宿」という大きな看板の手前を左折。300㍍位登るとT字があるので左手前に戻る方向に鋭角に曲がると城趾碑があります。
【駐車場】
妻籠宿を見学しながらでも行ける距離ですが、城趾碑前に駐車するのが一番近いです。しかしスペースは狭いのでご注意下さい。
【トイレ】
なし
【城 跡】
妻籠宿を歩きながら城跡まで行きました。
登りだしてすぐ、左に竹林、右に杉林?桧林?がありそれぞれの色鮮やかな緑を堪能。
少し歩くと竹に囲まれた土橋があります。
主郭までの間には、堀切、帯曲輪があります。案内板もあるので初心者の私でも解りやすかったです。
主郭へ行く最後の道はツツジらしき木のトンネルを通り幻想的でした。
頂上からは妻籠宿が一望です。
女性2人で行きましたが、整備されている所も多くスニーカーでも歩きやすい山城でした。
2010年10月16日 傾奇揚げ仙兵衛
妻籠城
妻籠宿は風情があってとても好きな町です。
2010年09月03日 傾奇揚げ仙兵衛
妻籠城
やっぱ南木曽の木曽路ビールでしょう
妻籠城の周辺スポット情報
登城口(碑・説明板)
土橋(碑・説明板)
上久保一里塚(碑・説明板)
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