大博士城(だいはくしじょう)
大博士城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岐阜県中津川市蛭川
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 曽我幸慶?
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 曽我氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- なし
周辺の城
-
苗木城(岐阜県中津川市)[10.4km]
妻籠城(長野県木曽郡)[19.9km]
鶴ヶ城(岐阜県瑞浪市)[20.5km]
岩村城(岐阜県恵那市)[22.1km]
小里城(岐阜県瑞浪市)[25.6km]
土岐高山城(岐阜県土岐市)[27.3km]
明知城(岐阜県恵那市)[27.4km]
金山城(岐阜県可児市)[27.6km]
久々利城(岐阜県可児市)[29.1km]
明智長山城(岐阜県可児市)[30.4km]
大博士城の解説文
大博士城の口コミ情報
2024年03月11日 RED副将軍
猪狩山城[大博士城 周辺城郭]
茂地野修理が城主として伝わる苗木城の支城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不詳。苗木遠山氏の勢力下にあり、苗木城の支城として機能したとされます。
永禄年間(1558年~1570年)の城主は茂地野修理であったとされ、久須見城の松尾左京から二度に渡り侵攻を受け、1564年に茂地野修理は討死し猪狩山城は落城したと伝わります。
見所
木曽川北岸にある標高435mの猪狩山に築かれています。
山頂に主郭を置き、北西から南東に伸びる尾根を主郭の両サイドで遮断。主郭の周囲は帯郭が囲います。
北西尾根は堀切を一条挟んで武家屋敷と呼ばれる削平地があります。この周辺に大きな石が点在していますが鹿垣とのことです。
可児市の山城に行こうで恵那市のブースにいた方に技巧的な中世山城としてかなり勧められて登城しましたが造成は甘めでした。好みにもよりますが、恵那市はもっと凄い山城が沢山あると思います。
行き方は、城域北側麓に案内板が立ち登城路が整備されています。案内板の前に2台程度の駐車スペースもあります。こちらは搦手になりますが、近年は地元の方が整備されキレイになっています。
距離はありますが比高が少ないので20分程度で辿り着きます。
2023年01月14日 山狐縫殿允薫
丈右衛門新道遺跡[大博士城 寺社・史跡]
明治初期に地元の豪商「牧野丈右衛門」氏が私財をなげうって開設した有料馬車道。 旧付知町~八百津町の最短ルートとして、地域の産物を八百津町へ送り、生活物資を帰りに運ぶための道として整備されるはずでしたが、牧野氏は志半ばにして破産してしまったそう。 今は、ここより広い道路が次々に整備され、使う人が少なくなって廃道化したとの事。
2022年06月14日 ほりーないと
坂折棚田[大博士城 その他]
坂折棚田は約400年前から作られ始めた石積みの棚田です。名古屋城の石積みにも携わった「黒鍬(くろくわ)」と呼ばれる石職人の集団によるものだと伝わっています。
うま~く撮影すると棚田の石積みがお城の石垣写真に見えるかも…。「石積み塾」や「石積みの見本」があり、石積みを学べる棚田です。
【石積み塾】
水を湛える棚田なので石積みを毎年補修しています。その補修時期(稲刈り後)の10月末に開講。座学の後、石積み(補修)体験ができます。
【石積みの見本】
見本として積まれた本物です。種類は乱積み・布積み・昔の布積み・谷積み・昔の谷積みです。駐車場の近くにあります。
2021年10月06日 とんかつおやじND
天王山砦[大博士城 周辺城郭]
天王山砦 単郭で詳しい情報はありません が 遺構には目を見張りました 主郭の東側南側の切岸 切岸脇に横堀から外側に土塁 南側土塁下に三連竪堀と守りが硬い
織田と武田の境目の東美濃
木曽川沿い笠置ダムの少し上流になります
この天王山砦から上流4km程の川沿いに四箇所の砦跡が… 更にその上流には苗木城…この天王山砦 武田方の改修を受けた遺構だろうとの声が多数 拙い私もその様に感じました
1.郭東側の堀切
2.郭南側の三連竪堀の一本
3.郭西側の竪堀
4.郭から見た南側横堀土塁竪堀
5.郭東側横堀と左土塁右切岸
6.南西側虎口下石積から更に一段下の石積
2021年02月19日 あきおこ
猪狩山城[大博士城 周辺城郭]
恵那市笠置町姫栗の木曽川沿いにある山城です(標高435m比高180m)。永禄年間、茂地野修理が城主と伝わります。駐車はスポットの登城口脇に2台ほど路駐可能。城までは整備された遊歩道と距離を示す標柱が随所にあり、急な登りもなく15分程度で行けます。
道中左手に石列が続きますが調査報告書によると猪垣の様です。武家屋敷、堀切状鞍部をこえると素晴らしい虎口が迎えてくれます。虎口の左は鋭く高さのある切岸、右は段曲輪を設け、主郭は少人数しか籠城出来ない広さです。南東側には薄めの堀と虎口、更に南東尾根を歩くと巨石があり支城に至ります。
コンパクトな城ですが整備された道や標柱には並々ならぬ城愛を感じます。応援の意を込めての投稿。あと登城口から見る農村の広大な景色がなかなかいい感じで心が癒されました。(登城日2021年2月13日)
2020年12月13日 菊姫
大博士城
皆さんは東の料亭跡に車を停め小川を渡り直登、中間ピークの南側に見所の石垣、堀切越えて主郭マークポイント(平畝堀)。ここまで、テープが有ります。
テープはそのまま一つ南の尾根の降りとなり、中間ピークに破城した石垣(写真)があります。テープから離れて真南に行くと土橋、先端頂上668.1mの三角点
ココも郭でここからの各尾根も城郭だったかもです?
主郭マークから北へは、80mにピーク(私は主郭だと)、土橋、ピーク、土橋、その先で舗装道路のカーブ部に出ます。
*結論は、北側の舗装道路から攻めるのがアップダウンも少なく30分で石垣、主郭、土橋見れますけど(危険小)(^_^;)お好きな方をどうぞです☆ミ
遺構
蛭川の中心地から北へ約3km、山間に拓かれたキャンプ場西側の山稜、比高50mの尾根先端に位置する。自然地形に近い曲輪が見られるほか、尾根続きの北西側は堀切によって断ち切られている。
堀切の一部には石積が見られるが、これは蛭川の地が、「蛭川みかげ石」と呼ばれる花崗岩を始めとした鉱物の一大産地であり、石材の調達が容易であったことに関係するであろうか。
歴史
曽我幸慶(ゆきよし)という人物が城主であったとされるが、築城年代や築城主の詳細については不明である。旧蛭川村は江戸時代、苗木藩の領地であり、中世においても苗木遠山氏の支配地域であったことから、曽我氏もその被官の在地領主だったのであろうか。
旧蛭川村に伝わる親王伝説では、親王(尹良親王か)に供奉した四家七名字の中に曽我幸保の名があり、大博士城の城主として伝わる曽我幸慶との関係もうかがわせる。
交通
・JR東海中央本線・明知鉄道明知線恵那駅から車で約45分参考文献
・『蛭川村史』岐阜県蛭川村、1974年。・岐阜県花崗岩販売協同組合公式サイト(http://www.hirukawa-ishi.com/)。
・『週刊日本の城』デアゴスティーニ・ジャパン、2013年。