明智長山城(あけちながやまじょう)
明智長山城の基本情報
通称・別名
- 長山城、明智城
所在地
- 岐阜県可児市瀬田長山
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- なし
築城主
- 明智(土岐)頼兼
築城年
- 興国3年〔南朝〕/康永元年〔北朝〕(1342)
主な改修者
- -
主な城主
- 土岐明智氏
廃城年
- 弘治2年(1556)?
遺構
- 曲輪
指定文化財
- 市史跡(長山城跡)
再建造物
- 石碑、説明板、模擬冠木門
周辺の城
-
久々利城(岐阜県可児市)[3.2km]
金山城(岐阜県可児市)[4.1km]
根本城(岐阜県多治見市)[7.5km]
堂洞城(岐阜県美濃加茂市)[10.4km]
多治見国長邸(岐阜県多治見市)[10.7km]
猿啄城(岐阜県加茂郡)[11.0km]
加治田城(岐阜県加茂郡)[11.9km]
土岐高山城(岐阜県土岐市)[12.3km]
犬山城(愛知県犬山市)[13.7km]
羽黒城(愛知県犬山市)[14.3km]
明智長山城の解説文
明智長山城の口コミ情報
2024年07月29日 ザビ
明智長山城
車では天龍寺を目指していけばいいかも。駐車場がありました。本丸跡には光秀の銅像があり、展望台からの景色は最高でした。
2024年05月05日 図書頭RedKing
明智長山城
写真も口コミも既に多数公開されていますから現場を少し。実に立派なあけっつぁまの立像が建ちました。展望台からの眺めのパノラマ写真で可児兼山の金山城も間違えません。大手からも団地側からも登城道は地元の皆さんから大事に守られています。
2023年11月15日 前田利家猫耳メイド萌
野中古墳[明智長山城 寺社・史跡]
墳丘長 推定62㍍・後円部径 推定38.4㍍
前方部長 推定30㍍・前方部幅 推定36.5㍍
葺石あり。
明治初期の土取や、1891年の濃尾地震で後円部から竪穴式石槨が見つかり、更に1944年にも後円部から別の竪穴式石槨が発見されたという。
国産と思われる三角縁神獣鏡や、刀剣類が八本出土したと言われている。
現在は、後円部〜くびれ部の一部が残るのみです。この辺りには、前波古墳群十五基程(現存三基)があったらしいので、少しだけでも墳丘が残されて良かったです。
赤色立体地図で確認すると、少し東側にある稲荷神社が円墳ぽいが違うのか。
山城に行こう!の裏で巡った可児市の古墳、六ヶ所口コミ完了です。
2023年11月15日 前田利家猫耳メイド萌
長塚古墳[明智長山城 寺社・史跡]
前方後円墳
三世紀後半から七世紀に至る古墳時代、全国で膨大な数の古墳が築かれました。その中で目を見張る規模であり続けたのが、首長墓とされる前方後円墳です。特に古墳時代の前半では、首長墓の隔絶性が歴然としています。その分布状況からは、美濃地方の中に大小の領域をいくつか推定することもできます。その一つが、可児を中心とする木曽川中流域左岸の地域です。
前波の三ツ塚
この「可児地域」では、前波(可児市中恵土)と伏見(御嵩町)にいくつもの首長墓が確認できます。ここ前波地区に立地する三基の大型古墳は、総称して「前波の三ツ塚」と呼ばれ、古墳時代前期(四世紀)の中で、西寺山古墳(前方後方墳)→野中古墳(前方後円墳)→長塚古墳(前方後円墳)の順に築造されたと考えられます。東濃地方を中心として活動した首長の基盤が、当所付近にあったことがうかがえます。
長塚古墳
長塚古墳は、前波の三ツ塚の長塚で最も大きな古墳であり、加茂郡以東、東濃地方では最大の古墳です。昭和三十五年と六十一年の測量調査、平成七~九年の発掘調査等により、その概要が判明し、古墳時代前期後半(四世紀後半)に造られた二段築成の前方後円墳と分かりました。また、葺石や埴輪は見つかっておらず、周囲には周濠が巡りますが、深く水をたたえるものではなかったと思われます。
埋葬施設
後円部と前方部では、それぞれ一つずつの埋葬施設があります。後円部には、羽子板形の墓壙の中に木棺を包みこんだ粘土槨(長さ7.4㍍)があり、粘土槨の表面は堅杵のようなもので突き固められていました。中の様子は未調査です。前方部にある埋葬施設も長さ7.1㍍と長大で、その中に割竹形もしくは舟底形の木棺が直葬されていたようです。棺床には赤色顔料が撒かれており、棺内から捩文鏡一面、石訓、管玉、ガラス玉などが多数出土しました。
墳丘長 約72.0㍍・後円部径 38.4㍍
後円部高 6.9㍍・くびれ幅 18.5㍍
前方部長 35.8㍍・前方部幅 28.5㍍
前方部高 4.7㍍・周濠を含む主軸長 約115㍍
可児市教育委員会
説明板より。
岐阜県南部では、昼飯大塚古墳の次くらいの大きさの前方後円墳。赤色立体地図で見ると綺麗な鍵穴型。
2023年11月14日 前田利家猫耳メイド萌
西寺山古墳[明智長山城 寺社・史跡]
市指定史跡 西寺山古墳 前波の三ツ塚
当所、中恵土地内の前波地区には、古くから「前波の三ツ塚」と呼ばれる大きな古墳が知られます。これら三つの古墳は、古墳時代の前期に位置づけられ、概ね四世紀の中頃〜末頃にかけて相次いで築かれています。埋葬施設や外表施設、出土品などの状況から、西寺山古墳(前方後方墳)→野中古墳(前方後円墳)→長塚古墳(前方後円墳)の順で築かれたものと考えられます。
西寺山古墳の概要
西寺山古墳は、墳丘の半分程度が削平されていますが、平成十年と十六年に実施した発掘調査の結果から、元は全長60㍍の前方後方墳と確認されました。前方部の長さは26㍍、後方部の長さは34㍍を測ります。墳丘は二段に築かれ、裏込めも含めて川原石による葺石で厚く覆われています。
墳頂部付近には、数多くの埴輪が立て並べられていたようで、発掘調査では転がり落ちて壊れた多量の埴輪片が、墳端付近から出土しています。これらの埴輪は、円筒形ではなく底に穴のある壷の形をしたものばかりです。その形状から(二重口縁)壷形埴輪と呼びますが、外面が赤く塗られた大型品です。
墳頂にある埋葬施設の状況は分かりませんが、昭和初期に鏡が出土したと伝わります。
西寺山古墳の意味
隣接する伏見地区の前方後方墳三基も含め、この古墳は四世紀の可児地域の首長墓と考えられます。古墳時代前期の東日本では、各地で前方後円墳に先立ってよく前方後方墳が築かれています。濃尾平野でもこの傾向は顕著で、当可児地域の他、西濃方面や犬山方面でも見受けられます。
西寺山古墳の壷形埴輪や葺石の状況は、犬山方面との深いつながりを示します。
可児市教育委員会
説明板より。
犬山市の青塚古墳に飾られた、赤く塗られた壷埴輪が思い出されます。
2023年11月14日 前田利家猫耳メイド萌
熊野古墳[明智長山城 寺社・史跡]
熊野古墳は、可児川と久々利川に挟まれた東西に延びる丘陵の裾野近くに立地している。石室は南西方向に開口し、玄室部分は天井石がほとんど露出している。これまでの発掘調査により、規模は直径もしくは一辺が約30㍍、高さは約5㍍と推定され、規模や副葬品などから可児地域の首長墳とみられている。従来は円墳とされてきたが、可児・加茂地域の同時期の首長墳の傾向を鑑みると、方墳である可能性も否定できない。
出土品は、須恵器、土師器、鉄鏃、刀子、直刀、金銅装大刀がある。中でも金銅装大刀は、柄に列点で蕨手紋が描かれた金銅板が巻かれ、刀身がV字形に折り曲げられる、意図的な破壊行為が行われたと考えられる。
熊野古墳の名称は、かつて墳丘上に熊野神社が祀られていた事に起因する。
残存墳丘
南北約17㍍・東西約16㍍・高さ約3.5㍍
主体部構造
横穴式石室(単室片袖式)・残存部 13.32㍍
玄室長さ 4.49㍍・玄室最大幅 2.10㍍
床面からの高さ 最高 3.87㍍
築造年代 七世紀前半
令和四年三月 可児市
説明板より。
金山城リア攻めしたかったが、結構序盤の序盤で活動限界を向かえて、早々に撤退しイベ会場直近の古墳に来ましたが、古墳の石室内部の石組みが見られて良かったです。
2023年11月13日 前田利家猫耳メイド萌
身隠山古墳群(歴史と文化の森)[明智長山城 寺社・史跡]
岐阜県指定史跡 身隠山古墳群
身隠山古墳群は二基の円墳からなり、それぞれ古墳上に祀られていた神社の名から、「身隠山御嶽古墳」、「身隠山白山古墳」と呼ばれている。この身隠山の丘陵上には、他にもいくつかの古墳があったというが、今はその影も見当たらない。
可児市教育委員会 説明板より一部抜粋。
以前は、五基程の古墳があったらしいが、現在は二基の古墳が残るのみ、此処は古墳じゃないのと、感じる所もあるが…?詳細は不明です。
歴史と文化の森 歴史ゾーンとして、整備され句碑や歌碑の石碑が立てられています。
身隠山の由来は、やっぱり誰か隠れ住んでいたのだろうか?地形的には、コの字型になっているので、庵的なものは建てられそうでした。
2023年11月13日 前田利家猫耳メイド萌
身隠山白山古墳(身隠山古墳群)[明智長山城 寺社・史跡]
南側に位置する本古墳は、直径約42㍍、高さ4.5㍍を測り、やはり二段築成とみられる大型の円墳である。
埋葬主体は、岩盤を長方形に掘り窪めた墓壙の底に円礫と粘土を敷き、木棺を安置していたようである。明治三十五年に、この部分から多数の副葬品が発見されており、古墳時代前期の造営が判明している。その概要は次のとおりである。
内行花門鏡1面・だ龍鏡1面・鍬形石四個・車輪石1個・石製模造剣1本・石製紡錘車1個・三輪玉様石製品1個・筒型石製品1個・刀剣類数本・鉄斧2個・巴形銅器2個・朱
可児市教育委員会 説明板より一部抜粋。
一部抜粋というよりも、一箇所の説明板に複数の古墳が書かれている。
2023年11月13日 前田利家猫耳メイド萌
身隠山御嶽古墳(身隠山古墳群)[明智長山城 寺社・史跡]
本丘陵の北端に位置し、貯水槽の建設で地形が変わってはいるが、直径約36㍍、高さ4.5㍍を測る二段築成の円墳とみられる。
埋葬主体は竪穴系のものであり、江戸時代後期の天保九年と安政五年、明治四年に古墳時代前期(四世紀後半)の特徴をよく示す、多数の副葬品が発見されている。
現存不明なものを含めれば、その概要は次のとおりである。
内行花文鏡2面・四獣形鏡1面・勾玉2個・管玉132個・小玉178個・石訓2個・刀剣類・土師器・朱
可児市教育委員 説明板より一部抜粋。
地形図を見ると、方墳二つ、大小天守台…。
2023年10月18日 しぃ@和賀氏末裔右衛門尉
明智長山城
長くて2時間ほどで城全体をまわれます。大手門入口の掲示板には切岸、竪堀、堀切等について書かれていませんが、本丸から乾曲輪へ行く途中に見ることが出来ます。水の手横の道には晴天でしたがヒルがいましたので、少し用心してもいいかもしれません。結構整備されていて歩きやすいです。大手門より徒歩5分の天龍寺には明智一族の菩提寺がありますが、現在光秀の位牌は拝観出来ません。
2023年07月14日 RED副将軍
大森城[明智長山城 周辺城郭]
技巧的な縄張りが見事な美濃金山城の支城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
永禄年間(1558年〜1570年)に奥村元広により築城。奥山元広は、久々利城主である土岐三河守の家老であった奥山元信の子にあたります。織田信長が東美濃に侵攻し勢力を伸ばすと、奥村元広は織田信長家臣で美濃金山城の森長可に仕えました。しかし、1582年に奥村元広は謀反を画策するも内通者が出て露呈。森長可は大森城を攻め寄せ落城、奥村元広は越前へ逃亡したと云われます。その後の大森城の記録は残っていませんが、戦国時代後期の技巧的な縄張りであるから森氏によって改修され金山城の支城となり、小牧・長久手の戦いの際には南方を抑えとして機能したと思われます。
見所
南北に大きく三つの郭が連なり、それぞれは堀切で遮断されています。郭群の東西下は北端から南端の堀切まで横堀が周囲を巡りなかなかの深さがあります。横堀の堀底道は虎口状に土塁が狭まり桝形構造が連続する技巧的なものです。また、北側と南側に馬出しと目される郭も併設されており、地方土豪の城というより完全に織豊系の縄張りであり森長可により改修されたのは間違い無いと感じました。
行き方は、東麓の大森神社を目標に設定。神社の駐車場があります。神社に案内板が立ち裏山が城域となります。比高は20mくらいで直ぐに着きます。偶に整備が入るらしいですが、タイミング悪く下草が生い茂っていました。写真映えはしませんがなかなか良い山城でした。
2023年04月25日 RED副将軍
明智長山城
明智光秀ゆかりの城跡🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1342年に土岐頼兼により築城。
土岐頼兼は、美濃国守護である土岐頼清の次男で可児郡明智八郷を領して明智氏を名乗り代々の居城としました。
明智氏は、土岐氏の一族で室町幕府の足利将軍に直接仕えた奉公衆ということは確かな様ですが、その後の戦国時代までの200年間の歴史はよくわかっていません。
1556年、斎藤道三と斎藤義龍との長良川の戦いにおいて明智城の城主である明智光安は斎藤道三に付きましたが、斎藤道三は敗れて自刃。
これにより斎藤義龍より討伐を受けることとなり籠城するも落城し明智光安は自刃しました。
明智光安は明智光秀の叔父にあたるとされ、正当な後継者とされる明智光秀は越前に逃れたとも云われています。
その後、廃城になったと考えられています。
史料としても明智長山城なのか、恵那市の明知城なのか分からないことや錯誤していることも多い様で、どちらが明智光秀出生の城であるかも含めよく分かっていない状況です
見所
現在は、公園としてよく整備されており北側の大手門側に駐車場も完備しています。
2020年に大河ドラマ『麒麟がくる』が放送された
ことから明智光秀像が新たに建てられました。
馬蹄形の尾根筋に北東から大手曲輪、東出丸曲輪、中ノ曲輪、二ノ丸曲輪、本丸曲輪、西出丸曲輪、台所曲輪、水ノ手曲輪、西大手曲輪、乾曲輪が連なる連郭式。
但し、自然地形に見えて明瞭な土塁や堀切といった防御設備は認められず。
本丸曲輪から搦手からは竪堀が認められ城郭らしいと思いました。
城郭遺構はさておき、明智光秀のゆかりの城として訪城してみては。
2023年02月11日 山狐縫殿允薫
明智駅[明智長山城 その他]
明智長山城の最寄り駅。名鉄広見線で、新可児駅の次の駅です。城から1.4km離れています。
2022年12月21日 RED副将軍
今城[明智長山城 周辺城郭]
小規模ながらもまとまった縄張りの山城🏯整備が行き届き気軽に登れる山城ビギナーにオススメ城✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
天文年間(1532年〜1555年)に在地土豪の小池家継により築かれたと云われます。1565年に織田信長が中濃を平定し、家臣の森可成が美濃金山城に入城。この頃に小池氏は織田信長に従属した様です。1582年に織田信長が本能寺で没すると、統治体制が不安定となり森氏に従っていた東濃の在地土豪が反発。森長可は反発する土豪を鎮圧。小池氏も鎮圧さ帰農したとされます。1584年の小牧・長久手の戦いの際には森氏が今城を改修し拠点としたと考えられています。
見所
小規模ながらもきちんと整備をされており山城ビギナーには丁度良い城跡と思います。土塁、空堀、虎口、切岸、井戸跡等が分かりやすく説明板もあります。
行き方は、今公民館を目指してください。ここが見学用の駐車場となっており、案内板もあるので登城口まで辿り着けます。
2022年11月26日 【城郭道】たっきー
徳野陣屋[明智長山城 周辺城郭]
【小早川秀秋家臣の陣屋】
徳野陣屋、岐阜県可児市。関ヶ原の戦いの話をすれば必ず登場する小早川秀秋の家臣・平岡頼勝が1604年に家康公から一万石で拝領した地です。現在は井戸が残存しています(何処にある)。また、説明板も建ってますね。
2022年11月20日 菩提中務少輔山城
明智長山城
閉鎖中の搦手道にかわって、新しく十兵衛坂ができていました。大手門から登ったら、十兵衛坂からおりてくるのがおすすめです。堀切、竪堀群を見ることができます。
2022年11月19日
明智長山城
皆様の書かれている通りですが、南側は本丸横まで車で行けます。北側の大手門から登り搦手門から降りられるのがよろしいかと。見晴台からの景色は昔と変わっておりませんでしたが、綺麗にしていただいております。ぐるりと下を歩いても小一時間で。
2022年11月19日 竹中播磨守じゅん兵衛
明智長山城
山城に行こう!2022会場のぎふワールドローズガーデンから徒歩約20分で登城口到着、あっという間に大手門跡、本丸にたどり着きます。今日は晴天で金山城もよく見えました。
2022年09月12日 トミ右京大夫
明智長山城
南側から行くと分譲宅地の裏山に本丸を残しています。城へは車一車線の細い一本道で南から回り込む時は西側から回り込む。入り口に一台止めるスペースは空いてます。すれ違いは出来ないでしょう。明智光秀像がひっそり立ちます。
2022年06月12日 真田美濃守十兵衛
明智長山城
光秀没後440年を記念した特別御城印が販売されていました。
2022年01月25日 とんかつおやじND
吹ヶ洞砦[明智長山城 周辺城郭]
❶主郭東側の横堀
❷主郭南側の堀切
❸主郭南側の切岸
❹主郭西側の堀切
❺主郭は藪の中
❻尾根南側土塁
登りは トンネル脇からが良いと思います。 北側からは民家の庭先を通る事になりNG
1月でこの状況 害虫対策は必須 主郭画像は背伸びで撮影
2022年01月24日 三河守ぱーる
明智長山城
大手門の方から登りました。歩いて10分くらいで本丸につけます。展望台からの明智の荘を眺めると大河ドラマの風景が蘇ります。
2021年08月25日 たろぅ太閤
明智長山城
山の南側からだと住宅団地を抜けて車で曲輪・本丸まで行けるので足腰弱い人はそちらから。駐車場スペースは3台ほどで埋まるが余程大丈夫だと思われます。山の北側には10台弱ほどの駐車場で土日限られた日に地域コミュニティ団体による御城印販売が行われている(平日休みなので貰えるすべがなく残念)。登山道(大手道)には明智城家紋の桔梗が植えてあり一見の価値あり。
2021年05月22日 青コアラ美濃守
承久の乱 大井戸渡古戦場[明智長山城 寺社・史跡]
承久3年(1221)の承久の乱において、東山道を進軍してきた鎌倉幕府方の武田信光・小笠原長清軍と、朝廷方の大内惟信の軍勢が木曽川を挟んでこの地で対峙します。数で圧倒する幕府方が勝利し、さらに西に軍を進めました。
幕府方が布陣した可児市側に詳細な説明板が、朝廷方が布陣した美濃加茂市側に簡素な説明板が立っています。
2021年04月16日 青コアラ美濃守
塩河城[明智長山城 周辺城郭]
塩河(しゅうが)城は可児秀久が城主であったとだけ伝わります。
目標物は塩河公園です。登城口はグラウンドの南側、道路沿いにあります。何の表示もなく見付けづらいので別に登城口をスポット登録しました。
バリケードの手前、左側のロープが垂れ下がっている所から山に入ります。基本尾根伝いの道です。案内はありませんが、白いビニールテープの目印が山頂まで続いているのでそれに従って進みます。尾根に突き当たったら右へ行くとすぐに堀切に出ます。
堀切から小さな腰曲輪を経て上に上がると主郭です。
主郭より北に伸びる痩せ尾根上に何条もの堀切が入っていますが、『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』ではこれらは自然地形との見解が示されています。
碑・説明板の類は一切ありません。
登山道は比較的緩やかで、登城口から20分ほどです。
塩河公園にトイレ・駐車場がありますが、登城口のすぐ横に2台分ほどのスペースがあるので、そちらへの駐車が便利です。
2021年04月01日 青コアラ美濃守
室原城[明智長山城 周辺城郭]
美濃金山城の森氏配下の可児秀行が永禄8年(1565)頃築城と伝わり、慶長5年(1600)森氏の信濃川中島転封に伴い廃城となります。
標高200m強と決して高い山ではありませんが、未整備のため道が分かりにくいです。石碑のある所から山に入り、しばらくまっすぐ進み、電力会社の黄色い案内板の所を左に上がります。(No.43の鉄塔を目指します)
深い草を掻き分けて進んで鉄塔に出たら左に進みます。ここから先は道が不明瞭になるのでアバウトになりますが、尾根に出たら左方向に、尾根伝いに山頂を目指します。(主郭と思われる場所にスポットを置いています)
尾根伝いに進むと主郭の下に出ます。
縄張図が無いのではっきりとは分かりませんが、主郭東に広い曲輪があり、主郭北側からの連絡路が残っています。また主郭南に堀(堀切?)があります。
城跡碑は登城口にのみあります。駐車場はありません。登城口の斜め向かいに路肩が広くなっている所がありますが、自己責任で。
2020年12月22日 青コアラ美濃守
牛ヶ鼻砦[明智長山城 周辺城郭]
飛騨川を望む断崖上に位置する、加治田城の支城。毛利山城とも。加治田城主斎藤利堯が対金山城用砦として築いたもので、岐阜城主織田信孝も兵を派遣していた事から、最前線基地として重要視されていた事が窺えます。
現在は宗教施設が建っている為かなりの改変を受けていると思われ、遺構については判然としません。一応境内に、石垣に使われたという石が展示されています。
駐車場完備。地元では城跡としての認知度はゼロで、大天狗像で有名な「こびの天狗山」として知られています。
2020年11月12日 青コアラ美濃守
徳野陣屋[明智長山城 周辺城郭]
関ヶ原の戦いのときに小早川秀秋に寝返りを進言した事で有名な平岡石見守頼勝が、秀秋没後の慶長九年(1604)に徳川家康から美濃国可児郡一万石を与えられて構えた陣屋の跡。
現在はゴルフ練習場などになっています。井戸跡があるとのことですが、分かりませんでした。
少し離れた所にある禅台寺に平岡頼勝の墓所があります。
2020年11月09日 青コアラ美濃守
伝明智光秀産湯の井戸跡[明智長山城 碑・説明板]
この説明板が建っている場所から南に数十メートルほどの所に、昭和40年代まで井戸跡とされる場所が塚として残っていたが、現在は水田となっていて痕跡はありません。
駐車場はありませんが、端に寄せれば停められない事はないです。
2020年10月16日 コナン遠江守
明智長山城
大河ドラマ館(花フェスタ記念公園)の駐車場から徒歩10分程度で大手口の登り口に行けます。
本丸に新しい明智光秀公の銅像がありました。
搦手口側の登城道も再整備されており、帰りは搦手側から下城するのがおすすめです。
こちら側はかなりの急勾配で山城感が楽しめます。
御城印は不定期に販売されており、スケジュールは明智荘をみつめる会のInstagramで確認できます。
2020年10月11日 まー刑部卿
明智長山城
以前は城内に駐車出来たのに行ってみたら花フェスタ記念公園やふれあいパーク・緑の丘という駐車場に置いて歩いて行くようになっていました。流石に雨の日は遠慮したいと思い一昨日は断念しました。パイロンで断固駐車不可になっていました。
2020年08月18日 菩提中務少輔山城
明智長山城
大河ドラマが決まって以降、次々に整備されています。
多くの人が、大手門側から本丸まで行って、帰ってくると思いますが、せっかくなので、是非、搦手門側からも登ってみてください。切岸などは、こちらの方がよく残っています。
2020年08月18日 イオ左衛門佐
羽崎城[明智長山城 周辺城郭]
応永年間(1410年代)の築城で、土岐氏の一族、羽崎光直の居城でしたが、天正11(1583)年に廃城となったようです。久々利氏と同族ですし、時期的に森長可にやられたんでしょうか。
比定地は二箇所あるようですが、可児市の城址碑があるほうで設定しています。
なかなか登城口を見つけられず、しばらく周辺をうろうろしましたが、住宅地の中に小さな案内標識を発見。案内に従って進むと……どう見ても民家の敷地内です。ためらいつつも敷地内を通り抜けたその先には小さな祠があり、城址碑が建てられていました。祠の裏手には崩れかかった石垣や竹藪と化した曲輪っぽい空間もありましたが、これらが遺構なのか後世のものなのか、よくわかりませんでした。
2020年08月15日 陸奥守たろす
大森城[明智長山城 周辺城郭]
【大森城】
岐阜県可児市大森
毎年可児イベでお世話になっていながら未だに登録されていなかったんですね(^^;
【歴史】
永緑年間に久々利城主土岐三河守悪五郎の家老・奥村元信の子である奥村又八郎元広が築城したとされる。
天正10年、元広は美濃金山城主森長可に反旗を企てたが長可の知るところとなり逆に攻められ落城。
元広は加賀前田家を頼り落ち延びる。
その後は美濃金山城防御の支城となり、現在の遺構は森家により改修されたものと考えられる。
【遺構】
城域は大森神社西の裏山一帯に広がり、南北に4つの曲輪を並べる。
虎口は南北にあるが北虎口は枡形虎口となっている。
曲輪には土塁があり、特に南北は高く、切岸と合わせ防御力を高める。
最大の特徴として、北から東面にかけて深い横堀を連ねており、登城して目にすれば十分な感動を味わえます♪
コンパクトなお城ですが、戦国後期の技巧を随所に見られる素敵なお城です♪
【アクセス】
大森神社下に駐車場あり
パンフレットあり
駐車場から神社に上がり、向かって左側に行けば城の南側に、神社の真裏から(分かりにくい)行けば城の北側に取り付けます
2020年01月12日 中務少輔やまち
明智長山城
大手口横にある駐車場ですが、2020/1/11は駐車禁になっていましたので、行かれる方はご注意。
大河ドラマ館の影響かと…。
花フェスタ記念公園の駐車場に無料で止めれました。
大手口まではそこから歩いて10〜15分ほど。
道の分岐点に看板が設置されていますので(ありがたい!)、わかりやすかったです。
2019年11月10日 わだち
明智長山城
城址公園として整備していただいているのですが、申し訳ないですが山城目当ての人にも散策目当ての人にも中途半端に感じます…
2019年09月20日 昌幸太閤耳川の戦い
明智長山城
搦手側は台所曲輪までは行けますが、それより先(本丸まで)は崩落のため封鎖されています。西大手曲輪・乾曲輪・見張台のある郭は、社があるせいか下草もなくかなり広いことが伺えます。
しかしここから先の水の手跡・台所曲輪は訪問者が少ないせいか草ボウボウ、蚊の大群、ヌタ場(猪の泥浴び場)がありました。訪問する時間は注意してください。
2019年05月03日 KAZ左大臣正勝
見張台跡[明智長山城 碑・説明板]
西大手曲輪から乾曲輪までは、いかにも尾根筋の曲輪ですねー(^O^)/
2018年11月23日 フー甲斐守
明智長山城
乾曲輪、西大手曲輪、水の手曲輪はに向かう搦め手道は倒木の為通行禁止となっていました。
2017年08月15日 鎌倉又兵衛《》勘解由長官
明智長山城
この城を楽しむためには必ず北側の大手門近くの無料駐車場に車をとめて攻城しましょう。その反対の南側の二ノ丸曲輪付近に車で行くことはできますが、地形を活かした遺構を充分に楽しむことができません(たぶん違法駐車にもなります。。。)。
あと地元の方が頑張って整備してくれていますが真夏は薮が生い茂って、特に水の手曲輪や乾曲輪に近づくには、マムシに脅えながらの攻城になるでしょう。なるべくなら秋~春に是非。美濃の蝮にお気をつけて!(*^^*)
2015年05月01日 まー刑部卿
明智長山城
駐車場は大手門側に広い無料駐車場有りますが二の丸跡付近に2台ほどのスペース有ります。遊歩道ありますが見たいところは藪の中がほとんど。
2010年11月07日 三河守コーキしゃん
明智長山城
遊歩道になっていて散策しやすいです。
南東の方向約2㎞行くと久々利城があります。
明智長山城の周辺スポット情報
大手口跡(遺構・復元物)
中の曲輪跡(遺構・復元物)
東出丸曲輪跡(遺構・復元物)
西出丸曲輪跡(遺構・復元物)
切り岸(遺構・復元物)
大手口(遺構・復元物)
中の丸跡(遺構・復元物)
馬防柵(遺構・復元物)
乾曲輪(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
七ツ塚(碑・説明板)
馬場跡(碑・説明板)
本丸跡(碑・説明板)
二の丸跡(碑・説明板)
搦手門跡(碑・説明板)
幽魂塔(碑・説明板)
見張台跡(碑・説明板)
水の手跡(碑・説明板)
台所曲輪跡(碑・説明板)
明智光秀像(碑・説明板)
伝明智光秀産湯の井戸跡(碑・説明板)
明智城之記(碑・説明板)
上恵土城(周辺城郭)
大森城(周辺城郭)
羽崎城(周辺城郭)
今城(周辺城郭)
牛ヶ鼻砦(周辺城郭)
土田城(周辺城郭)
徳野陣屋(周辺城郭)
室原城(周辺城郭)
岡田将監屋敷(周辺城郭)
塩河城(周辺城郭)
吹ヶ洞砦(周辺城郭)
コテナ砦(周辺城郭)
明智家墓所(寺社・史跡)
天龍寺石碑(寺社・史跡)
東栄寺(寺社・史跡)
天龍寺(寺社・史跡)
承久の乱 大井戸渡古戦場(寺社・史跡)
小池神社(寺社・史跡)
土田御前生誕の地(寺社・史跡)
大井戸の戦い供養塔群(寺社・史跡)
承久の乱 大井戸の戦い供養塚(寺社・史跡)
伝・森長可首塚(寺社・史跡)
伝・木曽義仲奉納の馬頭観音(寺社・史跡)
伝・若菜御前宝篋印塔(寺社・史跡)
平岡山 禅䑓寺(寺社・史跡)
熊野古墳(寺社・史跡)
長塚古墳(寺社・史跡)
西寺山古墳(寺社・史跡)
野中古墳(寺社・史跡)
身隠山御嶽古墳(身隠山古墳群)(寺社・史跡)
身隠山白山古墳(身隠山古墳群)(寺社・史跡)
東寺山古墳1号墳(寺社・史跡)
東寺山古墳2号墳(寺社・史跡)
身隠山古墳群(歴史と文化の森)(寺社・史跡)
川合次郎兵衛塚1号墳(寺社・史跡)
御嶽宿わいわい館(御城印)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
花フェスタ記念公園西駐車場(駐車場)
明智城駐車場(駐車場)
大森神社駐車場(駐車場)
今公民館(駐車場)
室原城登城口(その他)
塩河城登城口(その他)
明智駅(その他)
搦手口登城道入り口(その他)
明智長山城跡主郭とされている地点は、現在配水池となっており、旧状はとどめていない。その他に、東出丸、搦手曲輪、二の曲輪、三の曲輪、西出丸、乾曲輪と伝わる場所がある。
明智氏一族と長山城
現在の可児市東部、平安時代に明知荘と呼ばれた地域にかかわりを持ったのが土岐明智氏であり、後に明智光秀を生む一族である。室町幕府の奉公衆としての存在も確認でき、在京していたようである。
後々の記録では、土岐頼兼が明智氏を名乗って、康永元年(1342)に「長山城」を築き、その子孫が代々の居城にしたとある。弘治2年(1556)には、明智光秀の叔父にあたる光安・光久が城主だった時、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城し、この城の付近が織田信長領となった後、先祖代々の旧跡として光秀の所領となり、代官として石森九郎左衛門が置かれたと伝わっている。
城跡北麓の天龍寺
青雲山天龍寺は、曹洞宗の寺院で、寺伝によれば伝龍寺という廃寺の後に建立したと伝わっており、そこには明智一族の墓所が整備されている。