上恵土城
上恵土城([明智長山城 周辺城郭])
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上恵土城の口コミ情報
2025年11月24日 尾張守たまきち
築城時期不明。戦国時代の15世紀末頃に荏土城と呼ばれていた平城で、後に上恵土城(かみえど)と称されるようになった。天正10年(1582)頃、本能寺の変の混乱に乗じて、上恵土城主∶長谷川五郎右衛門は大森城主∶奥村又八郎と謀って、金山城主∶森長可を攻め滅ぼそうと企てるが、逆にその謀議の報告を受けた長可に攻められ、落城した。
現地を訪問したところ、土塁と堀の一部がみられましたが、ほとんど城館の面影をうかがうことはできませんでした。近くの民家脇に城主∶長谷川五郎右衛門供養碑が有りました。
2025年08月04日 猫耳□□□□□□萌え
岐阜県教育文化財団文化財保護センター
調査報告書 第101集
上恵土城跡・浦畑遺跡 (本文編)
2006 財団法人岐阜県教育文化財団
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序
国土交通省中部地方整備局多治見砂防国道事務所による一般国道21号可児御嵩バイパス建設に伴い、事業の範囲にかかる遺跡について記録保存することとなりました。本報告書は平成13・14・15年度に実施した「上恵土城跡・浦畑遺跡」の発掘調査の成果をまとめたものです。
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中略
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第二章 遺跡の位置と環境
第二節 歴史的環境
2,上恵土城跡・浦畑遺跡の様相
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当遺跡が位置する地域は、中世において荏戸荘という荘園に含まれており、室町時代には上郷と下郷に分かれていた。応仁二年(1468)には、荏戸上郷より美濃国守護所比定地である革手城(現:岐阜市)の堀を掘削するための人夫が徴用された記録が残っている。
上恵土城は、十五世紀末頃荏戸城と呼ばれていた。八百津町の大仙寺開山の僧東陽英朝の語録「少林無孔笛」の中の法語「下火(あこ)」によると、明応から文亀年間頃(1492〜1504)に、極玄周玄という僧が荏戸城において戦死し、後日これを聞いた東陽英朝が葬儀の導師をつとめたとされる。十六世紀中頃より、荏戸城は上恵土城と呼ばれ、天正十年(1582)頃の城主は長谷川五郎右衛門であった。
「金山記」によると、天正十年六月に本能寺の変で織田信長が死ぬと、織田信長の命令で信濃を攻めていた金山城(現:可児市兼山町)の城主森長可は速やかに帰国し、金山城の守りを固めた。上恵土城城主長谷川五郎右衛門と、大森城(現:可児市大森)の城主奥村又八郎が金山城を攻めようとする動きがあることを察知した森長可は、同年六月二十五日に上恵土・大森両城に向かい、同日に大森城、翌日に上恵土城を攻略したとされている。
また、「岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第三集」(岐阜県教育委員会2004)では、上恵土城跡は「上恵土城跡(新村城跡)」、浦畑遺跡「浦畑屋敷城館跡呼称地」と記載されている。そして、当遺跡周辺の地籍図から、上恵土城は複数の居館から構成されていたことを指摘し、浦畑遺跡の区画溝等は上恵土城跡に隣接する中世集落の遺跡と推定されている。
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中略
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第六章 総括
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第三節 まとめ
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上恵土城跡が城館跡の一部であると考える根拠は
①現在に残り、「出口」「大屋敷」「小屋敷」など城を思わせる小字名と細長い地割りの存在。
②主軸の向きが一定でしかも溝に沿って立てられている一連の掘立柱建物跡の屋敷の存在。
③屋敷を囲む溝跡の存在と堀と考えられる溝跡、そして土塁が存在したと考えられる基底部の存在。
④文献の記録とそれを裏付ける同時代の遺物の出土。
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以下省略。
ページ数が多すぎて諦めた!!
本郷公民館の南側一帯に築かれていたとされ、「大屋敷」南側の東西約50㍍の土塁が残っている。
ラスパ御嵩の駐車場から徒歩数分です。









