承久の乱 大井戸渡古戦場
承久の乱 大井戸渡古戦場([明智長山城 寺社・史跡])
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承久の乱 大井戸渡古戦場の口コミ情報
2026年07月23日 猫耳尾張守メイド隊
承久の乱・大井戸渡 古戦場
『大井戸の戦い』
承久三年(1221年)五月、後鳥羽上皇は、源氏の直系が途絶えた後の混乱に乗じて執権として鎌倉幕府の実権を握った北条義時を朝敵として討つべしと在京の武士達に命令を発します。
上皇により「義時追討の院宣」が発せられたことをいち早く知った鎌倉幕府は、北条氏を中心に兵力を結集し、上皇に味方する西国の武士を討つべく大軍を送り出します。
北条氏の命により京都へ向かった幕府の軍勢(鎌倉方)は、東海道、東山道、北陸道の三つのルートに分かれて、それぞれ兵を進めました。なかでも東山道を進軍した武田信光・小笠原長清の軍勢は、同年六月五日に木曽川の渡しであった「大井戸」の地で、木曽川右岸(美濃加茂市)に布陣した朝廷側の軍勢(京方)と相対することになります。
「承久記」によると、鎌倉方の武田・小笠原は総勢五万余騎。京方の大内惟信は、わずか二千騎。数で勝る鎌倉方は京方を一蹴し、そのまま西へと向かいました。「大井戸」の地を皮切に始まった両軍の衝突の結果、京方は敗走を余儀なくされ、鎌倉方は瞬く間に京都へとのぼり、その地を支配下に置きました。
「承久の乱」と呼ばれるこの一連の戦いは、その後、江戸時代の終わりまで続く武士による政治体制が確立された重要な戦いと評されています。中世以降の日本社会の在り方を決定づける歴史的な事件の舞台となった可児市土田の地は、古くから木曽川流域の交通や物流の要として機能してきました。
今は、もう当時の様子を窺い知ることはできませんが、滔々と流れる木曽川の水面にかつての姿を垣間見ることができるかもしれません。
説明板より(一部省略)。
日特スパークテックWKS(かに木曽川左岸公園)西駐車場側に案内看板が設置されています。
2021年05月22日 青コアラ美濃守
承久3年(1221)の承久の乱において、東山道を進軍してきた鎌倉幕府方の武田信光・小笠原長清軍と、朝廷方の大内惟信の軍勢が木曽川を挟んでこの地で対峙します。数で圧倒する幕府方が勝利し、さらに西に軍を進めました。
幕府方が布陣した可児市側に詳細な説明板が、朝廷方が布陣した美濃加茂市側に簡素な説明板が立っています。









