大森城
大森城([明智長山城 周辺城郭])
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大森城の口コミ情報
2025年09月02日 猫耳感謝感激雨霰萌え
市指定史跡 大森城跡
戦国動乱の渦中、可児周辺には土田に生駒氏、久々利に土岐氏、室原に可児氏、今に小池氏、御嵩に小栗氏、蜂屋(美濃加茂市)に岸氏などが群立していました。大森城もそのひとつで、奥村又八郎の居城でした。しかし、天正十年(1582)六月に美濃金山城主・森長可の攻撃により落城します。その後、大森城は森氏が改修して利用したとの説もあります。
大森城は中世の山城で、高さ約35㍍の丘陵上にあり、戦国期後半の城郭構造をよく示しています。丘陵頂部には、東西約20㍍、南北約35㍍にわたり整地された主郭があり、周囲には土塁をめぐらせます。その他にも大きな曲輪が二箇所あります。曲輪を行き来する土橋や、幅3㍍の空堀、枡形虎口なども見ることができ、防御性の高い構造になっています。
また、大森城跡の東側丘陵部には、吹ヶ鼻洞砦跡があります。構造は不明な部分もありますが、いくつかの曲輪や横堀、土塁などが残されています。大森城と同時期の築城と推定され、奥村氏との関係が考えられています。
平成二十六年 可児市教育委員会
説明板より。
可児市埋文調査報告 57
可児市市内遺跡発掘調査報告書
(平成30・令和元年度)
2020
岐阜県 可児市
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第4章 大森城跡過去採集資料紹介
(1)概要
大森城跡は可児市の南部に位置し、大森川によって形成された谷筋に突出する丘陵先端に築かれた山城である。土岐(久々利)三河守の家臣奥村元信の子元広が築城し、天正十年(1582)美濃金山城主森長可に攻められ、落城したと伝えられている。
その構造は、大森神社背後の丘陵頂部に選地し、基本的には三つの曲輪が並立されている。主郭Ⅰは低いながらも周囲に土塁を巡らせ、北辺の虎口からは土橋を経て、Ⅱ郭に至る。Ⅱ郭も三方に土塁を巡らせている。主郭ⅠとⅡ郭の間に方形の小曲輪が設けられ、これは馬出し的な機能を果たしていた。主郭Ⅰの南部の虎口から土橋を渡るとⅢ郭に至る。Ⅲ郭は南辺に巨大な土塁が築かれ、この曲輪が南方防御の要であったことがうかがえる。
これらの三つの主要曲輪を囲い込むように横堀が巡らされ、大森城が戦国時代後半の発達した山城であったことが分かる。また、Ⅱ郭の東側Ⅳ郭に設けられた虎口Cは枡形状となり、高度な築城技術が認められる。現在残る大森城跡の構造は在地土豪の奥村氏によって築けるものではなく、天正十年以降に美濃金山城防御の支城として森氏によって改修されたものと考えられる。(可児市 2005)
昭和四十七年には、「典型的な中世山城の曲輪遺構などが保存状態良く残り、戦国時代の勢力分布を知る格好の記念物である」ことから市史跡に指定した。平成十五年度には、市史編纂事業に伴い、滋賀県立大学教授中井均によって城跡の再調査、縄張図作成が行われている。
(2)遺物
『可児町史 通史編』によれば、「昭和四十八年に本丸跡の試掘により灰層中より焼米・陶片(大甕・すり鉢・天目茶碗・土瓶等)が出土し、川原石で作られた炉跡も発見された」といわれる。掘った面積や深さは不明であるが、採集された約88点(接合後)の遺物がⅠ部分で出土したようである。
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中略
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大森城跡の築城年代については不明であるが、わすかな資料から推定すると十五世紀〜十六世紀後半に大森城跡が機能していたことが考えられる。ただ、城の遺構に森氏の改修が加わっている場合、現時点では大窯第三段階後半以降の遺物がみられないことからも森氏が入る以前にある程度の居住性を備えていたが、改修後には居住性が低くなり有事に使用されたことが想定される。
今後、大森城跡の各曲輪において遺構を明らかにすることが必要である。
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可児郷土歴史館で購入した、発掘調査報告書より一部抜粋。
大森城跡に行く前に、大森神社に参拝……。
蚊の大群が襲来し、参拝、登城出来ずに早々に撤退。虫除け等々の準備が必要でした。
2023年07月14日 ᴿᴱᴰ 副将軍
技巧的な縄張りが見事な美濃金山城の支城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
永禄年間(1558年〜1570年)に奥村元広により築城。奥山元広は、久々利城主である土岐三河守の家老であった奥山元信の子にあたります。織田信長が東美濃に侵攻し勢力を伸ばすと、奥村元広は織田信長家臣で美濃金山城の森長可に仕えました。しかし、1582年に奥村元広は謀反を画策するも内通者が出て露呈。森長可は大森城を攻め寄せ落城、奥村元広は越前へ逃亡したと云われます。その後の大森城の記録は残っていませんが、戦国時代後期の技巧的な縄張りであるから森氏によって改修され金山城の支城となり、小牧・長久手の戦いの際には南方を抑えとして機能したと思われます。
見所
南北に大きく三つの郭が連なり、それぞれは堀切で遮断されています。郭群の東西下は北端から南端の堀切まで横堀が周囲を巡りなかなかの深さがあります。横堀の堀底道は虎口状に土塁が狭まり桝形構造が連続する技巧的なものです。また、北側と南側に馬出しと目される郭も併設されており、地方土豪の城というより完全に織豊系の縄張りであり森長可により改修されたのは間違い無いと感じました。
行き方は、東麓の大森神社を目標に設定。神社の駐車場があります。神社に案内板が立ち裏山が城域となります。比高は20mくらいで直ぐに着きます。偶に整備が入るらしいですが、タイミング悪く下草が生い茂っていました。写真映えはしませんがなかなか良い山城でした。
2020年08月15日 征夷大将軍たろす
【大森城】
岐阜県可児市大森
毎年可児イベでお世話になっていながら未だに登録されていなかったんですね(^^;
【歴史】
永緑年間に久々利城主土岐三河守悪五郎の家老・奥村元信の子である奥村又八郎元広が築城したとされる。
天正10年、元広は美濃金山城主森長可に反旗を企てたが長可の知るところとなり逆に攻められ落城。
元広は加賀前田家を頼り落ち延びる。
その後は美濃金山城防御の支城となり、現在の遺構は森家により改修されたものと考えられる。
【遺構】
城域は大森神社西の裏山一帯に広がり、南北に4つの曲輪を並べる。
虎口は南北にあるが北虎口は枡形虎口となっている。
曲輪には土塁があり、特に南北は高く、切岸と合わせ防御力を高める。
最大の特徴として、北から東面にかけて深い横堀を連ねており、登城して目にすれば十分な感動を味わえます♪
コンパクトなお城ですが、戦国後期の技巧を随所に見られる素敵なお城です♪
【アクセス】
大森神社下に駐車場あり
パンフレットあり
駐車場から神社に上がり、向かって左側に行けば城の南側に、神社の真裏から(分かりにくい)行けば城の北側に取り付けます