明知城(あけちじょう)

明知城の基本情報

通称・別名

白鷹城

所在地

岐阜県恵那市明智町城山1318-1

旧国名

美濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

遠山景重

築城年

宝治元年(1247)

主な改修者

主な城主

明知遠山氏

廃城年

元和元年(1615)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀

指定文化財

県史跡(明知城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

岩村城(岐阜県恵那市)[8.1km]
小里城(岐阜県瑞浪市)[10.7km]
市場城(愛知県豊田市)[12.3km]
武節城(愛知県豊田市)[14.2km]
鶴ヶ城(岐阜県瑞浪市)[15.0km]
妻木城(岐阜県土岐市)[18.2km]
土岐高山城(岐阜県土岐市)[19.2km]
足助城(愛知県豊田市)[19.8km]
飯盛山城(愛知県豊田市)[20.3km]
多治見国長邸(岐阜県多治見市)[24.3km]

明知城の解説文



明知城(あけちじょう)は、美濃国明知(岐阜県恵那市明智町)にあった戦国時代の日本の城(山城)。別名白鷹城(しらたかじょう)。岐阜県指定史跡[1]。なお、美濃国には、可児郡明智荘にも明智城(長山城)が存在していたので、混同への注意が必要である。

概要 

明知城は、日本三大山城に数えられる岩村城から南西8キロメートルに位置する遠山十八城のひとつ。標高530メートルの山に築かれた天険の地形を巧みに利用した平山城で、土盛砦として保塁数大小23箇所あり、今でもその様子が原形のまま残っているのが日本でも数少ないとされ、県の指定文化財(史跡)となっている。重要な砦には石垣を積み上げ、中に陣屋として実戦に備えた館5棟があった。

恵那郡明知は、北は岩村・恵那、東は信濃国伊那郡飯田、西は土岐郡、南は三河国賀茂郡足助・額田郡岡崎に街道が通じる、交通の要衝の地である。遠山氏祖の遠山景朝の父親である、源頼朝の重臣の加藤景廉が明知を含む遠山荘の地頭に任ぜられ、それ以降、明知遠山氏累代の土地であった。

戦国時代の後期には、岩村・阿照・明知・串原・苗木・安木と並んで遠山七頭と呼ばれていた。そのうち「岩村遠山氏」と「苗木遠山氏」そしてこの「明知遠山氏」を「遠山三頭」といい、美濃国東濃地方に威を張っていた。

しかし、やがて美濃国東濃地方は争奪戦の地となり、武田信玄の家臣秋山虎繁(信友)、織田信長の嫡男の織田信忠、豊臣秀吉の武将の森長可が制圧している。

秀吉の死後に長可の弟の森忠政が川中島に移封となり、替わって田丸直昌が入ったが、関ヶ原の戦いで直昌は大坂城城番となり西軍に取り込まれたため、遠山利景が嫡男の遠山方景と共に奪還した。

なお、明智光秀の生誕の城ともいわれているが、足利尊氏の御家人の土岐氏の末裔とされ、遠山氏の縁戚である可能性は、明治時代の子孫の記録や、両氏の重臣である三宅氏の存在などから考慮はされるものの、生誕地そのものである可能性は低い(江戸時代の初期に著作された書物類から、可児市にある明智長山城である可能性が高いとされる)[2]

歴史・沿革 

宝治元年(1247年) 築城
遠山三郎兵衛景重が築城した。遠山景重の先祖は加藤景廉(源頼朝の重臣)が遠山荘の地頭になり、その子岩村城主景朝はこの地名をとって遠山と姓を改めた。遠山景重は加藤景廉の孫にあたる。

戦国時代前の状況( - 1570年)
戦国時代には美濃国東濃地方は信濃国・三河国との国境界に位置するため、美濃攻略を狙う武田と織田の争奪戦が繰り広げられた。始めは武田信玄に従っていた遠山家だが、明知城主遠山景行も織田信長の婚姻政策によって織田勢についた。

元亀元年(1570年) 12月28日 上村合戦で遠山景行戦死
秋山信友は、西に兵を進め、上村(現在の恵那市上矢作町)で明知・苗木・飯羽間・串原・足助の諸将の遠山連合軍と東三河の徳川の援兵合わせて五千と戦い、これを攻略した。この上村合戦において、明知城主遠山景行は5・6騎の兵とともに落ちのびたが自刃した。また、景行の甥で娘婿にあたる小里光次も戦死している。新しく明知城当主になった遠山一行(景行の長男景玄の子)が幼少のため、馬場山田村の飯高山満昌寺に出家していた景玄の弟が還俗し名を遠山利景と改め、一行を補佐し明知遠山氏を守った。

元亀元年(1570年)12月29日 明知城奪還
明知遠山氏は秋山勢に歯が立たず織田信長に救援を求めた。信長は時を移さず明智光廉を急派し、秋山勢を美濃領から駆逐するように命じた。両軍は美濃と三河の国境にある小田子村で対陣、(小田子合戦)三日間に渡る激戦の末、秋山勢は敗れて信濃に撤退した。

元亀3年(1572年):武田信玄は足利義昭の要請で上洛を決意。高遠城主秋山信友に三千の兵を率いさせ美濃に侵攻。その11月、包囲された岩村城は当主の遠山景任が、3年前の元亀元年の武田勢との戦いで負傷、その翌年に亡くなっていたため秋山虎繁(信友)は女城主となっていた一人身のおつやの方を籠絡し結婚を条件に和議の申し入れを受け開城させ岩村城を手に入れた。

天正2年(1574年) 2月 明知城落城
武田信玄の遺志にて武田勝頼は美濃、尾張、三河、遠江、駿河攻略の拠点となる明知城を、一万五千の大軍をもって襲撃する。明知城主遠山一行・叔父利景らは兵五百でこれを防ぎ、織田信長に急を報じた。信長は明知城を失う重大さを思い、奈良多聞山城から呼び寄せた子信忠と明智光秀とともに、三万の兵にて明知城西八丁の鶴岡山に布陣し、包囲された明知勢と連絡して武田勢を挟撃しようとした。

しかし城内では飯羽間右衛門による謀反が起こり、援軍として在城する坂井越中守を滅ぼし、また搦手水の口曲輪が破られ城郭・城下は火の海となり、城は武田方の手に渡った。戦死者五百を数えた。この戦いで遠山十八城のうち明知城は17番目に落城した。当主一行は利景とともに城を脱出し、妻の実家である足助の鈴木氏を頼った。

天正3年(1575年) 5月 明知城奪還
織田信長は長篠の戦いで武田勝頼を破ったのに続いて、嫡男信忠を総大将とする武田征伐軍が武田方に占拠された諸城を次々に奪回し、明知城も再び織田方の城となる。足助の鈴木氏を頼っていた遠山利景と一行は、明知城に帰還した。

天正11年(1583年)利景、家康を頼る
美濃の領主であった信長の三男信孝を追い出し自害させた秀吉のもと、池田恒興が岐阜城主となり、その娘婿で東美濃を任された森長可が支配権を行使するなか、圧迫された遠山利景は従兄の小里光明(和田助右衛門)とともに、足助の鈴木氏を頼った。利景の妻は鈴木重直の娘、小里光明の姉妹が鈴木重直の嫡男で現当主の鈴木信重の妻という関係である。鈴木は徳川と縁戚関係にあり、家康の大叔母で育ての母松平久子が鈴木重直の妻となっていたので、家康の配下にあった。 一行は本能寺の変の際に利景とともに甲斐に在番していた。変の混乱の後、一行を甲斐に残し、利景のみ明知城に戻った。その帰路、家康の家臣本多重次に会い、徳川に味方することを誓っている。一行はそのまま甲斐に残り、その後松平頼国(依田頼国)に従って信州を転戦した。

天正12年(1584年)4月 再び奪還するが剥奪される
小牧・長久手の戦いにおいて、遠山勢は菅沼定利の部隊に組み込まれた。長久手の戦いで岩村城主森長可が没したその隙に、家康の命により明知城を奪還する。しかし、家康が和睦し、天下人豊臣秀吉に城を長可の弟森忠政に返すよう命じられ、森左近が明知城城代となる。再び足助の鈴木氏を頼った。

天正13年(1585年)豊臣秀吉は森忠政の重臣の林為忠(長兵衛)に明知城を与えた。

慶長5年(1600年)2月 原土佐守が明知城城代となる
秀吉死後、さまざまな確執がある中、家康は森忠政を川中島に移封、代わりに田丸直昌を岩村城主とした。その際明知城城代として原土佐守を置いた。

慶長5年(1600年)9月 関ヶ原合戦 故城奪還
関ヶ原の戦いの際、小山の陣から真田氏とともに田丸氏は家康から離れ西軍に属することとした。家康は秀忠軍が通ると想定されたことから、利景に東美濃奪還を命じた。利景の子の方景や小里光明とともに、また妻木城主の妻木氏などと協力して田丸勢を追い出し、明知城を奪取し東美濃を平定、岩村城も開城させた。

慶長8年(1603年)9月 旗本になる
東濃平定の戦功により遠山利景は、恵那・土岐郡内で6,700石を与えられ旗本(交代寄合)となった。 旗本五千騎のうち、6,000石以上の旗本は50指に満たない。岩村には、(大給)松平家乗が入城するが、家乗は利景の妻の親戚筋(松平久子の曾孫)となる。

元和元年(1615年)明知城廃城
幕府より旗本が城を持つことは不可とされたため、二代の遠山方景は明知城を取り壊し、城下大手門近く(北西側麓)に明知陣屋を構えた。

参考文献 

  • 『明智町誌』 第二編 歴史 第二章 中世 第二節  戦国期の遠山氏 明知城址 p83~p86 明智町 1960年
  • 『旗本明知遠山氏 明知御陣屋 乾』(熊谷博幸編集・発行 平成22年)
  • 『旗本明知遠山氏 明知御陣屋 坤』(熊谷博幸編集・発行 平成22年)

明知城の口コミ情報

2024年09月07日 三宅三河守康貞
明知城



地域は明智なのに城跡は明知城、明知遠山氏発祥の地との事で、明知城となったようです。山の上に貯水池跡があり1キロ先の天然記念物の団子杉の水源から丸木樋を通し引いていた様です。

2024年04月26日 RED副将軍
明知城



畝状竪堀群が見事な明知遠山氏の居城🏯

オススメ度 ★★★★★

1247年に遠山景重により築かれたと云われます。
「遠山七頭」(岩村・明照・明知・飯羽間・串原・苗木・安木)のひとつに数えられ、そのうちの岩村遠山氏、苗木遠山氏、明知遠山氏は「遠山三頭」と呼ばれて東濃地方で勢力を誇っていました。
1570年、武田信玄の家臣で高遠城の秋山信友が侵攻し、上村合戦で明知城の遠山景行、苗木城の遠山勘太郎、飯狭間城の遠山友忠、串原城の遠山景男らと激突するも武田氏が勝利し、明知城の遠山景行は自刃しています。
しかし、明知遠山氏は織田信長に救援を求め、織田信長は明智光廉を派遣。秋山勢と明智勢が美濃と三河の国境の小田子村で激突した小田子合戦では、激戦の末に秋山勢は敗れて信濃に撤退。明知遠山氏は明知城を奪還しました。
1572年、足利義昭の要請により武田信玄は上洛を決意し、秋山信友は再び美濃に侵攻。岩村城は包囲され、女城主のおつやの方は秋山信友との結婚を条件に和議の申し入れを受け開城します。
1574年、武田勝頼は美濃、尾張、三河、遠江、駿河攻略の拠点とすべく明知城に一万五千の大軍で襲撃。明知城の遠山一行は五百の兵で防ぎ、織田信長に援軍を要請。織田信長は織田信忠と明智光秀と共に三万の兵で明知城の西にある鶴岡山に布陣し、明知遠山氏と挟撃をはかります。
しかし飯羽間右衛門による謀反により、搦手が破られたことで明知城は落城し武田氏の支配となりました。 
しかし1575年に織田信長は長篠の戦いで武田勝頼を敗り、織田信忠を総大将として武田氏に占拠された諸城を奪回。明知城も奪還し、足助の鈴木氏を頼って落ち延びた遠山一行は明知城に復帰しました。
1583年、明知城の遠山利景(遠山一行の叔父)は羽柴秀吉の家臣で金山城の森長可の圧迫により明知城から退去し、徳川家康に仕えます。
1584年、小牧・長久手の戦いの際に森長可の家臣である石黒藤蔵・関左門が明知城を守備していましたが、遠山氏が攻略。しかし、合戦後に豊臣秀吉の命により明知城は森長可に返されました。
1600年、関ヶ原の戦いでは、西軍に付いた岩村城の田丸直政の家臣である山川左之助・原土佐が明知城を守備していましたが、徳川家康に東濃奪還を命じられた遠山利景は、明知城を攻略し東濃を平定し岩村城も開城させます。その功によって恵那郡と土岐郡を領し旗本となり、後に明知陣屋を築いて移ったため明知城は廃城となりました。

見所
標高528mの城山に築かれており、山頂に主郭を置き、南東下に二郭、西下に三郭、南に郭、周囲には更に多数の郭群が配されており、岩村城に次ぐ大規模な山城です。
高く鋭い切岸に、郭群の外側を横堀が巡り、更にそれに連動した畝状竪堀群が設けられていることが最大の特徴です。
横堀は通路を兼ねており、特に主郭北側下の畝状竪堀群は背丈を超える長大なものです。

定かではありませんが明智光秀の生誕地として有名です。
複数の登城口があり、いずれも遊歩道が付いています。比高は約80mで非常に良い状態で整備されています。

2024年03月24日 RED副将軍
釜屋大洞城[明知城  周辺城郭]



小規模ながら技巧的な縄張りの近年発見された山城🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代や築城主等の詳細不詳。
1575年に武田勝頼が明知城を攻略した際に築いたとも、在地土豪の詰め城として築かれたとも考えられています。
縄張りからは戦国時代後期のもので間違いないと思われます。

見所
鶴岡山の北西に伸びる尾根頂部に築かれています。
標高665mの尾根頂部に主郭を置き、北側に階段状に四段の段郭を配し、北東尾根には街道の監視目的と考えられる出丸があります。
城域西側には南北に通路が設けられ、三カ所に門跡とされる礎石があり、櫓台状の張り出しも認められます。
主郭南側は二条の堀切で遮断されていますが、北側の堀底は通路としても利用または木橋が架かっていた様で、主郭南東の枡形虎口と城域西側の通路に連結しています。南側の堀切は東側へ弓型に横堀として伸びています。

行き方は、城域南側に林道が通っており登り口の案内板が立っています。路肩駐車をして約800m進めば辿り着きます。尾根伝いに登りもありません。

2020年に発見された山城です。それまで未発見だったとは思えないくらい立派な山城です。

2024年02月07日 RED副将軍
陣屋敷[明知城  周辺城郭]



明知城と岩村城の中間に位置する詳細不明の城跡🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代、築城主等の詳細不詳。
明知城の北に位置し明知城と岩村城を結ぶ主要街道沿いに築かれており、明知城の北側の守りとして築かれたのか、織田信長または武田勝頼の陣城として機能したのかは不明です。

見所
鶴岡山の南東斜面に張り出した二本の尾根先端に築かれています。
西尾根の方が規模が大きく、主郭と思われる郭は切岸と坂虎口が明瞭に残り、更に南側に下ると堀切と土橋が残っていました。
東尾根は土橋地形があるもののあまり遺構らしいものは認められませんでした。
農地化による改変も受けている様です。

行き方は、国道363号から西に入り城域北側の車道から取り付きます。踏み跡もあり分かると思います。100mほど歩けば主郭があります。
周辺に路肩駐車しました。

2023年09月23日 山狐縫殿允
喫煙所[明知城  その他]

煙草吸殻入れがひとつおいてあるだけですが、大正村の施設内は全館禁煙の為、この場での喫煙をお願いします。

2023年09月02日 淡路守ハツドラサン
明知城



日本大正村の無料駐車場に停めさせてもらって登城しました。案内板も残り距離も表記され親切で迷わずつけました。1000mくらいは歩くしそれなりにアップダウンもあるので歩きやすい靴で

2023年05月28日 VTR美濃守シゲ
大平城[明知城  周辺城郭]



恵那市明智町串原に有る串原遠山氏の城

恵那山城サミットの時整備されたのかな下草刈りなど見やすく整備されてます

①西側の堀切
②北側の堀切
③主郭部に有る説明板縄張り図

主郭部より西から北側に見所多い印象テクニカルさはそれほど有りませんが、段曲輪と高い切岸は見応え有ります

2023年05月24日 RED副将軍
落合砦[明知城  周辺城郭]



明智光秀の生誕地とも云われる明知城の出城🏯⁡

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎⁡

築城年代は不詳。1247年に遠山景重により明知城が築かれた際に、位置的に重要な対岸の台地上に築かれた出城と云われます。
1573年には、武田勝頼が明知城に侵攻。落合砦には串原遠山氏の遠山経景が守備していたと伝わりますが、明知城は落城し武田氏の属城となりました。
その後、森氏・田丸氏の支城となり、江戸時代になると遠山利景が旗本としてこの地に復帰。明知城の麓に陣屋が設置され、明知城は廃城となりました。
落合砦はどの時点で廃されたかは不明です。⁡

見所
明知城から西南の明智川と南北街道を挟んだ台地上に築かれています。
最高所に主郭、北側の鞍部に三郭、その先に出丸とされる二郭が配されます。
堀切などは見当たりませんが、主郭には桝形虎口、武者走りが認められます。
二郭は狼煙台であったとされ、三郭は井戸があることから居館があったと考えられています。
⁡明智光秀公産湯の井戸があり生誕地とも云われていますが、多数ある伝承地のひとつに過ぎません。⁡

行き方は、県道11号から車で登ることができ、千畳敷公園として整備されています。広い駐車場、トイレが完備されています。

2023年04月09日 山狐縫殿允
大正ロマン館駐車場[明知城  駐車場]

明知保育園の跡地で、大正ロマン館から約200mの所にあります。

2023年02月24日 山狐縫殿允
旧三宅家[明知城  遺構・復元物]

恵那郡馬木村(現恵那市明知町馬木地区)の有力な農家・三宅氏の民家。もとは馬木地区にありましたが、1991年(平成3年)に明知町が寄贈を受け、翌年現在地に移築復元しました。

住居は1688年に普請されたもので、近世中期の民家の特徴である鳥居建ての形式が残されています。内部は養蚕のために板の間が拡張され、三間取り(広間型)から四間取り(田の字型)に改造されています。

2023年02月18日 山狐縫殿允
明知陣屋[明知城  周辺城郭]

江戸時代成立時、明知一帯を治めていた明知遠山氏が旗本となり、1615年、遠山方景の代に明知城を廃し、建立した陣屋。 1678年、旗本になって5代目である遠山伊清の代に旗本寄合席になったことにより、この地は代官の村上氏がおさめる事になり、1869年(明治2年)の版籍奉還までこの状態が続きました。 現在陣屋跡地には、村上氏屋敷と土蔵が残っています。

2023年01月29日 山狐縫殿允
明知駅[明知城  その他]

明知城の最寄り駅。明知鉄道最終地点で、城から0.7kmほど、仲深山砦から0.9kmほど離れています。

2023年01月23日 西倉木工助汝愚
観光案内所[明知城  御城印]

16時で閉まりますのでお城印をお求めの際はお早めに と買えなかった私が言っている 閉店時間見てなかったんです😭

2023年01月11日 第六天魔王 近江守 八咫烏
明知城



搦手門から程よい運動量で本丸攻め!大変登りやすく美しい山城跡です。

2022年11月24日 尼崎城駿河守一口城主
明知城



10月23日、山城サミット当日に登城。山城サミットの岩村会場から明知鉄道で明智駅に移動したところタイミング良く駅前に多羅砦行きの無料シャトルバスが🚌止まっていたので乗車して、まず土岐明智城(多羅砦)を散策🥾三の曲輪に光秀公産湯の井戸がありました。出丸(二の曲輪)では山城サミット開催中ということもあってか狼煙🔥が上がっていました。本丸(落合砦)まで散策して、下山して光秀公の母の於牧の方のお墓参りをして明知城(白鷹城)を目指しました。保存会の方々に整備して頂いている為か堀切、切岸等の縄張りが分かりやすかったです。

2022年11月07日 桜井太政大臣静龍
明知城



明知城 搦手駐車場、2022年11月道路工事をしてまして見落としがちなので気を付けてください。搦手駐車場から急登ですが歩10分くらいで本丸でした。登口に杖が置かれてるので利用するとかなり楽です。地元の方に遭遇して話を聞いたところ、かなり整備されたとのこと。リア攻めしやすいかと思います。

2022年10月23日 くまなみ
明知城



登山道が整備されていてとても登りやすいです
竪堀もダイナミックなライン
出丸や本丸にはベンチがあるので休憩できます
登りはあちこち見ながら小一時間かけましたが帰りは20分ほどで大正ロマン館まで下りました

2022年10月19日 とんかつおやじND
陣屋敷[明知城  周辺城郭]



陣屋敷

今年3月に恵那市教育委員会より 
(恵那市の新発見城館跡 明知城周辺調査事業.恵那市城館跡分布調査報告書1)
にて報告された城址となります。

鶴岡山の南東側斜面で野志集落の中央に張り出した尾根の先端に立地する。前項の釜屋神明神社前-野志間の里道はこの尾根の北に出る。また、東を通る国道363号は、明知から山岡町上手向・久保原を経て中山道に通じる街道であった。
単郭の主郭を同心円状に腰郭が取り巻き、南側に堀切等を普 請するという簡単な構造の城館。

個人的に 陣屋敷とは名ばかりで 竪堀、堀切、主郭と腰曲輪間の切岸、城址遺構
東側尾根が謎 堀等は無いが 北に平坦地から東側残して削平道をつけて 南へ降る尾根は土橋風に…想像を掻き立てる
明知と山岡の和田城、山田城、の中間地点で 尾根続きに釜屋城、釜屋大洞城、鶴ヶ峰陣城があり 北向いの山には上手向城、下手向城がある 城館集中地帯

これからの調査がまたれる。

2022年10月18日 とんかつおやじND
釜屋大洞城[明知城  周辺城郭]



高田 徹さんの研究ノート「岐阜県恵那市山岡町釜屋所在の新発見城郭」にて発表

(恵那市の新発見城館跡 明知城周辺調査事業.恵那市城館跡分布調査報告書1)
にて報告された城址となります。

鶴岡山の北西側斜面に伸びる尾根の一つの頂部に選地する。近世に釜屋、原から鶴岡山を越えて明知に向かう主要な道は、釜屋神明神社前-野志、原札ノ辻―大船、原金毘羅神社前―吉良見の3本があり、他にも尾根ごとに里道が通っていた。城跡の尾根にも釜屋大洞から大船・野志への里道が通る。

曲輪、堀切、竪堀が残る

2022年10月08日 在来線男右京進
明知城



大正ロマン館から登城しました。草はきれいに刈ってあり坂には階段があってたいへん登りやすかったです。曲輪や切岸、竪堀がしっかり残っていてかなり満足しました。からめ手から出てくると光秀の母親のお牧の方のお墓があります。大きな杉の木の根元にひっそりとありました。あいにくの小雨でしたがまったく問題ありませんでした。

2022年10月01日 山狐縫殿允
杉野一夜城[明知城  周辺城郭]

織田武田戦の際に活用された陣。武田軍が明知城を攻めようとした際、その軍勢を止めるために織田方が造ったと言われています。地元の百姓を総動員して、一夜で造らせたといいます。しかし、武田方の秋山虎繁(信友)が明知城を攻める際、戸障子をここに建て廻し、一見して白壁の城のように見せかけたという話も残っていて、築城経緯ははっきりしていません。

2022年09月27日 剛中務卿鯉城
明知城



岩村城と違い、整ってはいませんがリア攻めはそれほど大変ではありません。

2022年09月20日 気分爽快陸奥守
明知城



東美濃の山城イベントで初登城。大きな城ではありませんが、巨大な畝は見応えありです。

2021年05月13日 とんかつおやじND
諏訪ヶ峯陣城[明知城  周辺城郭]



「すわがね」は、鶴岡山の山頂732メートルに位置し、かつて織田信長軍の
諏訪ケ峯陣城があった場所です。空気が澄んだ日には、
山頂から愛知県吉良の海が見えることから、
明智町吉良見地区の語源にもなっています。

明知観光ナビより

鶴岡山砦の呼び名がわかり良いかな
明知方面の展望は抜群な織田方の砦 画像は 主郭、堀切


2021年02月16日 島津左馬允義弘
落合砦[明知城  周辺城郭]



【データ】
名称:落合砦(おちあいとりで)
別名:土岐明知城、多羅砦
遺構:曲輪、虎口、武者走り、土橋など
駐車場:あり(無料)
御城印:日本大正村で販売中(1枚 税込300円)

【概要】
 落合砦は、明知城の西南にある千畳敷台地に築かれ、台地北東の南北に並ぶ二つの頂部にそれぞれ曲輪を設けています。眼下に中馬街道を望み、南北街道が横道に入る地点を押さえる重要な場所です。
 また、明知城や仲深山砦のような技巧的な縄張りではないため、両城・砦が築かれる以前の拠点、あるいは明知城攻めの陣城とも考えられていますが、詳細は不明です。(現地案内板参考)

【感想】
出丸(二の丸)からは明知城を見ることができ、見晴らしが良いです。明智光秀は享禄元年(1528年)3月10日に落合砦で誕生したともいわれており、三の丸には「明智光秀公産湯の井戸」があります。

【写真】
①本丸下の武者走り
②落合砦案内板
③土橋(本来はもっと狭かったと思われる🤔)
④出丸(二の丸)
⑤本丸
⑥明智光秀公産湯の井戸
⑦出丸(二の丸)からの景色
⑧明智光秀公産湯の井戸案内板 【2020.12.19】

2020年12月23日 島津左馬允義弘
仲深山砦[明知城  周辺城郭]



遺構:曲輪、土塁、堀切
御城印:大正村で販売中(1枚300円)
所要時間:30分程度
写真:①土塁 ②曲輪 ③登城口 ④堀切

近くには駐車場が無いので、大正村または大河ドラマ館の駐車場を利用するのが良いと思います。

大河ドラマ館から、各所に小さい看板がありますので見逃さないようにご注意ください。

登城口の左手には赤い鳥居が見えます。
登城道は滑りやすく、急なので杖があると便利です。

登城道から登っていった最初の曲輪には立札があり、そのまま歩いていくと堀切や土塁があります。【2020.12.19】

2020年12月01日 わだち
明知城



寄り道程度の軽い気持ちだったんですが、想定外の規模で嬉しい誤算。
大堀切も豪快ですが、畝状竪堀群がツボにハマりました。
竪堀は下にも降りれるようになってるので、ぜひ下から攻め手の気持ちになってみてくたさい。
麓で地図もらえます。地図にはその先に道が途切れるのですが、現地標識だと行けるように書いてある場所あります。
陣屋側から登城すると土塁の先に右手大手道と白い標識あります。
また、出丸の裏手で天神神社から本丸に向かうと、直進本丸左手稲荷神社の登城口と書かれた標識あります。この左手は出丸の切岸沿いの道なのですが、地図通りに途中で切れます。
行けるかと思い頑張りましたが足の踏み場もありません。
木につけられたピンクの目印を頼りに進みましたか、民家の裏に出て行きどまったりしてやっぱり進む道がなくなりました。
私のような初心者は地図に素直に従いましょう…

2020年09月23日 織田上総介晃司
明知城

搦手口の駐車場から本丸までは約10分ほどで行けますが、遺構を見るため大回りしたので結構時間がかかりました。
でも大正ロマン館の駐車場からよりは近いと思います。

幟旗には白鷹城と書いてあるので一瞬間違えたかと思ったけど、地元では白鷹城と呼んでます。

明智駅の近くに大正村があり、大正ロマン館を含めレトロな建物があります。

2020年09月07日 眞田左衛門佐十兵衛
明知城



搦手門側の駐車場に車を止めて攻城しました。搦手門から本丸まで10分位です。
そんなに大きな城ではありませんが、良く遺構が残っていて説明板や散策路など整備されてました。大正ロマン館に大河ドラマ館がありそこからは本丸まで20分位で行けます。

2020年08月31日 海道一の弓取り
明知城



搦手口から行くと本丸や出丸に行くのは簡単だけど大正ロマン館?に行くのは結構大変なので大正ロマン館はロマン館で車で行った方が良いと思いました。

2020年07月02日 龍馬備中守【】
落合砦[明知城  周辺城郭]



岐阜県の恵那市にある落合砦☆別名を多羅砦とも呼びます☆ここは明智光秀の縁の地で光秀はこの砦で生まれ産湯として使ったとされる井戸が残されています♪千畳敷台地に形成された落合砦は明知城の砦として機能しました☆出丸からの見晴らしは最高で三河方面は(北条、今川、松平)中馬街道方面は(織田、森)信州方面は(武田、真田)の動きを一早くとらえる事ができる絶好の場所です☆

2020年06月27日 大納言Z周防守369
うかれ横丁[明知城  その他]



明治から大正にかけて、繭で栄えたこの町では多くの飲食店が立ち並ぶ繁華街でした。当時の人達はここを歩くだけでうかれ気分になったそうです。

2020年06月25日 龍馬備中守【】
仲深山砦[明知城  周辺城郭]



岐阜県の恵那市にある仲深山砦☆
中山道と中馬街道を挟み込む様に存在します☆

明知城、落合砦、そしてこの仲深山砦と点在してます☆仲深山砦には歴史的なモノは残って居らず明知城の支城なのか☆はたまた明知城を落とす為に築いた砦なのか☆

接近距離谷を挟む300mと近く、城の造り方(加工の仕方)を見て武田氏…☆が頭をヨギル☆長篠の戦いの時もそうだったしその他攻めてる時の武田軍の砦達は常に近いwここもゲキ近いw怪しいw
※武田勝頼は明知城を攻めた☆
色んな妄想が膨らみました〜♪


写真1・仲深山砦全貌☆
写真2・段郭☆
写真3・副郭下の堀切☆
写真4・主郭と副郭を遮断する堀切☆
写真5・主郭土塁☆
写真6・主郭☆
写真7・主郭切岸☆
写真8・副郭下の段郭は段々に☆

2020年03月30日 えるパパ左京大夫
明知城



明知城『白鷹城』は典型的な山城です。何度も戦があって非常に実戦的なお城です。石垣はありませんが、竪堀や曲輪などの遺構がしっかりと残されています。ぜひお立ち寄りください

2020年02月22日 国府左京大夫城介
仲深山砦[明知城  周辺城郭]



明知城と落合砦の中間にあるのが、仲深山砦です。
登城口は、明智回想法センターのある通りをもう少し南へ下っていくと、案内板があります。目印として、山側に鳥居が連なっているのが見えます。
そこから、真っ直ぐ登っていきます。暫く登ると、赤いテープがありますので、それを辿っていけば、砦に到着します。ただし、ほとんど整備されておらず、藪や片足分しかない場所を歩かされます。
到着地点は、東郭と西郭を分断する堀切になります。

東郭は、西郭と比べて広く、東側には土塁が盛られています。また、土塁を越えると二重堀切があります。二重堀切を越えても進むことができますが、砦の外かと思われます。

西郭は、二段の郭になっています。また、一応ここが仲深山砦である看板(昔のイベントで使用したもの)があります。

2020年02月02日 三尺坊左近衛中将影ちゃんII号
明知城

【バイク用駐輪場】
バイクで明智白鷹城に行く時は、車と一緒で大正村無料駐車場に駐めて下さい。
係のおじさん曰く、「駐車場の隅に駐めてくれれば良いよ。」と言ってました。白鷹城のリア攻め&城下町(大正村)探索にはちょうど良いかもしれません。

2020年01月24日 三好河内守
明知城



縄張構造が残っているとても見ててお腹一杯になる山城!
小谷城の竪堀もすごかったけど、こちらも圧倒される。写真では撮りにくく見にくいですが、中世城郭のお手本の用なお城。身震いする縄張です!来て良かった(^^)

2019年09月23日 田上太閤久兵衛
明知城

明智の荘イベのついでにこちらにも…
端的に言うといい意味で期待を裏切られました
付近の城目当てで来られた方は、時間があればこちらも絶対来るべきです


そもそも籔化が激しいとの事であまり期待しないで来城したのですが、大河効果の為か今年の夏から間伐作業をされてたらしく城域は思ってた以上に歩きやすかったです

そのため土塁や堀切などの塁跡の凹凸がハッキリしていたので素晴らしい遺構の数々が見て取れました

ホントこのタイミングで来て良かった
いつ行くの?今でしょ!って感じですw

所々に珍しい連続の畝状空堀があり、竪堀や、土橋も有り見応え十分です!

主郭付近には空堀✕土橋からの虎口✕大堀切(意味は行けば分かりますw)の王道パターンが出迎えてくれて、土城好きはテンション上がると思いますよ!

また主郭には最近作られたと思しき綺麗なベンチがあるので折角なので休憩を

他にも歩き回ると色々と見所があるので、是非行かれてみては如何でしょうか?

駐車場は大手口からなら大正ロマン館の駐車場をお借りすると良いかと
搦手口も駐車スペースがあり、城域が目の前なのでこちらもオススメですが場所が分かりにくいのでリア攻めマップに場所を追加しておきました

近くには明智光秀の供養塔(と伝えられてる)がある龍護寺もありますのでついでに寄られてみては如何でしょう?

2017年08月13日 美濃守ひろゆき
明知城

蛇がいました。
明智光秀と関係あるのかしら。

2016年05月03日 ぽこりどん^_^権六
明知城

本丸へ向かう途中の切株にスズメバチを発見しました。ご注意を。2016.5.3

2013年11月13日 清水若狭守龍親
明知城

明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れた後、敗走中、土民の竹槍で突かれて死んだとされていますが、実は死なずに落ちのび、生き残り、比叡山でしばらく過ごした後、南公坊天海として歴史の舞台に舞い戻ったという、非常に興味深い説で、色々と調べてみました。南公坊天海とは「南公坊天海智楽院と称した天台宗の僧です。当時の仏教界においてはかなりの人物であった上に、密教・神道・道教・陰陽道・風水学にも精通していたといいます。そしてそれらの知識を活用して豊臣家崩壊作戦の火蓋を切り、家康の宗教政策を一手に担い、江戸の霊的防衛網を完成させた人物でもあります。しかし彼の素性についてはまったく明らかにされていません。そのことが天海をよりミステリアスにしている点でもあると言えます。生年もはっきりわからず、没年についても約135説があり、驚くべき長寿であります。一般的には108歳入寂説が妥当とされています。もし光秀の後身が天海であるとするとすれば、天海の出自が明らかでないという説明もつきますし、年齢的にも光秀が死去したのが55歳ですから、この当時の天海が47歳であったことからさほど違わないと言えます。

2013年10月13日 蔵人頭あさよし
明知城

33号線からのぼりが沢山あるのでわかりやすく車も3台くらいは置けます。ここは搦め手からの入城になります。10月でしたが本丸から大手の方は草が生い茂り進行不可でした。

2013年03月04日 三日左馬助落人
明知城

県道33号側には案内板があり、数台分のスペースがあります。

城跡ではしっかり高低差のある切岸に堀切・畝状竪堀など、戦国山城テイストたっぷりな遺構が確認できます。
ただ、樹木をあらく伐採してくれてはいるものの、ヤブの範囲が広く夏の訪問はお勧めしません

訪問時(3月)、城域内でカモシカを見かけました!


2013年03月03日 三条大納言猫又
明知城

公共交通機関利用の場合、JR恵那駅から明知鉄道で行くのもいいですが、JR瑞浪駅からバスを使うと早くて安いです。

土休日の日中は瑞浪45分発(14時台運行なし)、明智50分発(13時台運行なし)と1時間に1本あり、所要時間は約40分で500円でした。
朝夕は多少時間が違うようなので、ご確認のうえお出かけください。

2012年09月20日 三河守コーキしゃん
明知城

入り口は、県道33号線側の搦め手と、大正浪漫館からの2箇所から行けます。
搦め手からだと、すぐに城域に入れます。

○○砦と名の付く郭が沢山あり、畝状竪堀や堀切、土塁、空堀、陣屋には水堀があり、かなり見応えがありますが、夏は藪が酷く遺構が判断しづらいです。



明知城の周辺スポット情報

 出丸(遺構・復元物)

 本丸(本陣屋跡)(遺構・復元物)

 帯曲輪・升形虎口(遺構・復元物)

 曲輪(遺構・復元物)

 貯水池(遺構・復元物)

 切岸(遺構・復元物)

 土橋(遺構・復元物)

 二の丸(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 大竪堀(遺構・復元物)

 曲輪(遺構・復元物)

 曲輪(遺構・復元物)

 畝状竪堀群(遺構・復元物)

 旧三宅家(遺構・復元物)

 明智光秀公 供養塔(碑・説明板)

 本丸説明板(碑・説明板)

 仲深山砦(周辺城郭)

 落合砦(周辺城郭)

 明知陣屋(周辺城郭)

 諏訪ヶ峯陣城(周辺城郭)

 釜屋大洞城(周辺城郭)

 杉野一夜城(周辺城郭)

 柿畑城(周辺城郭)

 陣屋敷(周辺城郭)

 門野砦(周辺城郭)

 多羅砦(周辺城郭)

 松本砦(周辺城郭)

 原城(周辺城郭)

 牧砦(周辺城郭)

 大平城(周辺城郭)

 龍護寺(寺社・史跡)

 柿本人麻呂社・明智光秀公手植えの楓(寺社・史跡)

 明智光秀公学問所、天神神社(寺社・史跡)

 お牧の方墓所(寺社・史跡)

 明智光秀産湯の井戸(寺社・史跡)

 明智光秀公 御霊廟(寺社・史跡)

 明智光秀公 供養塔(寺社・史跡)

 土岐坂第1号古墳(寺社・史跡)

 観光案内所(御城印)

 公衆トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 公衆トイレ(トイレ)

 公衆トイレ(トイレ)

 公衆トイレ(トイレ)

 搦手口側駐車エリア(駐車場)

 大正村駐車場(駐車場)

 大正村駐車場(駐車場)

 大正ロマン館駐車場(駐車場)

 ぎふ恵那大河ドラマ館(関連施設)

 大正村役場(その他)

 うかれ横丁(その他)

 搦手登城口(その他)

 大正村絵画館(その他)

 大正時代館(その他)

 大正路地(その他)

 明知駅(その他)

 通信資料館(その他)

 喫煙所(その他)

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