明知城(あけちじょう)

明知城の基本情報

通称・別名

白鷹城

所在地

岐阜県恵那市明智町城山1318-1

旧国名

美濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

遠山景重

築城年

宝治元年(1247)

主な改修者

主な城主

明知遠山氏

廃城年

元和元年(1615)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀

指定文化財

県史跡(明知城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

岩村城(岐阜県恵那市)[8.1km]
小里城(岐阜県瑞浪市)[10.7km]
市場城(愛知県豊田市)[12.3km]
武節城(愛知県豊田市)[14.2km]
鶴ヶ城(岐阜県瑞浪市)[15.0km]
妻木城(岐阜県土岐市)[18.2km]
足助城(愛知県豊田市)[19.8km]
飯盛山城(愛知県豊田市)[20.3km]
多治見国長邸(岐阜県多治見市)[24.3km]
苗木城(岐阜県中津川市)[24.7km]

明知城の解説文



明知城(あけちじょう)は、美濃国明知、現在の岐阜県恵那市明智町にあった戦国時代の日本の城(山城)。別名白鷹城(しらたかじょう)。岐阜県指定史跡[1]。なお、美濃国には、可児郡明智荘にも明智城(長山城)が存在していたので、混同への注意が必要である。

概要 

明知城は、日本三大山城に数えられる岩村城から南西8キロメートルに位置する遠山十八城のひとつ。標高530メートルの山に築かれた天険の地形を巧みに利用した平山城で、土盛砦として保塁数大小23箇所あり、今でもその様子が原形のまま残っているのが日本でも数少ないとされ、県の指定文化財(史跡)となっている。重要な砦には石垣を積み上げ、中に陣屋として実戦に備えた館5棟があった。

恵那郡明知は、北は岩村・恵那、東は信濃国伊那郡飯田、西は土岐郡、南は三河国賀茂郡足助・額田郡岡崎に街道が通じる、交通の要衝の地である。遠山氏祖の遠山景朝の父親である、源頼朝の重臣の加藤景廉が明知を含む遠山荘の地頭に任ぜられ、それ以降、明知遠山氏累代の土地であった。

戦国時代の後期には、岩村・阿照・明知・串原・苗木・安木と並んで遠山七頭と呼ばれていた。そのうち「岩村遠山氏」と「苗木遠山氏」そしてこの「明知遠山氏」を「遠山三頭」といい、美濃国東濃地方に威を張っていた。

しかし、やがて美濃国東濃地方は争奪戦の地となり、武田信玄の家臣秋山虎繁(信友)、織田信長の嫡男の織田信忠、豊臣秀吉の武将の森長可が制圧している。秀吉の死後に長可の弟の森忠政が川中島に移封となり、替わって田丸直昌が入ったが、関ヶ原の戦いで直昌は大坂城城番となり西軍に取り込まれたため、遠山利景が嫡男の遠山方景と共に奪還した。

なお、明智光秀の生誕の城ともいわれているが、足利尊氏の御家人の土岐氏の末裔とされ、遠山氏の縁戚である可能性は、明治時代の子孫の記録や、両氏の重臣である三宅氏の存在などから考慮はされるものの、生誕地そのものである可能性は低い(江戸時代の初期に著作された書物類から、可児市にある明智長山城である可能性が高いとされる。)[2]

歴史・沿革 

宝治元年(1247年) 築城
遠山三郎兵衛景重が築城した。遠山景重の先祖は加藤景廉(源頼朝の重臣)が遠山荘の地頭になり、その子岩村城主景朝はこの地名をとって遠山と姓を改めた。遠山景重は加藤景廉の孫にあたる。

戦国時代前の状況( - 1570年)
戦国時代には美濃国東濃地方は信濃国・三河国との国境界に位置するため、美濃攻略を狙う武田と織田の争奪戦が繰り広げられた。始めは武田信玄に従っていた遠山家だが、明知城主遠山景行も織田信長の婚姻政策によって織田勢についた。

元亀元年(1570年) 12月28日 上村合戦で遠山景行戦死
秋山信友は、西に兵を進め、上村(現在の恵那市上矢作町)で明知・苗木・飯羽間・串原・足助の諸将の遠山連合軍と東三河の徳川の援兵合わせて五千と戦い、これを攻略した。この上村合戦において、明知城主遠山景行は5・6騎の兵とともに落ちのびたが自刃した。また、景行の甥で娘婿にあたる小里光次も戦死している。新しく明知城当主になった遠山一行(景行の長男景玄の子)が幼少のため、馬場山田村の飯高山満昌寺に出家していた景玄の弟が還俗し名を遠山利景と改め、一行を補佐し明知遠山氏を守った。

元亀元年(1570年)12月29日 明知城奪還
明知遠山氏は秋山勢に歯が立たず織田信長に救援を求めた。信長は時を移さず明智光廉を急派し、秋山勢を美濃領から駆逐するように命じた。両軍は美濃と三河の国境にある小田子村で対陣、(小田子合戦)三日間に渡る激戦の末、秋山勢は敗れて信濃に撤退した。

元亀3年(1572年):武田信玄は足利義昭の要請で上洛を決意。高遠城主秋山信友に三千の兵を率いさせ美濃に侵攻。その11月、包囲された岩村城は当主の遠山景任が、3年前の元亀元年の武田勢との戦いで負傷、その翌年に亡くなっていたため秋山虎繁(信友)は女城主となっていた一人身のおつやの方を籠絡し結婚を条件に和議の申し入れを受け開城させ岩村城を手に入れた。

天正2年(1574年) 2月 明知城落城
武田信玄の遺志にて武田勝頼は美濃、尾張、三河、遠江、駿河攻略の拠点となる明知城を、一万五千の大軍をもって襲撃する。明知城主遠山一行・叔父利景らは兵五百でこれを防ぎ、織田信長に急を報じた。信長は明知城を失う重大さを思い、奈良多聞山城から呼び寄せた子信忠と明智光秀とともに、三万の兵にて明知城西八丁の鶴岡山に布陣し、包囲された明知勢と連絡して武田勢を挟撃しようとした。

しかし城内では飯羽間右衛門による謀反が起こり、援軍として在城する坂井越中守を滅ぼし、また搦手水の口曲輪が破られ城郭・城下は火の海となり、城は武田方の手に渡った。戦死者五百を数えた。この戦いで遠山十八城のうち明知城は17番目に落城した。当主一行は利景とともに城を脱出し、妻の実家である足助の鈴木氏を頼った。

天正3年(1575年) 5月 明知城奪還
織田信長は長篠の戦いで武田勝頼を破ったのに続いて、嫡男信忠を総大将とする武田征伐軍が武田方に占拠された諸城を次々に奪回し、明知城も再び織田方の城となる。足助の鈴木氏を頼っていた遠山利景と一行は、明知城に帰還した。

天正11年(1583年)利景、家康を頼る
美濃の領主であった信長の三男信孝を追い出し自害させた秀吉のもと、池田恒興が岐阜城主となり、その娘婿で東美濃を任された森長可が支配権を行使するなか、圧迫された遠山利景は従兄の小里光明(和田助右衛門)とともに、足助の鈴木氏を頼った。利景の妻は鈴木重直の娘、小里光明の姉妹が鈴木重直の嫡男で現当主の鈴木信重の妻という関係である。鈴木は徳川と縁戚関係にあり、家康の大叔母で育ての母松平久子が鈴木重直の妻となっていたので、家康の配下にあった。 一行は本能寺の変の際に利景とともに甲斐に在番していた。変の混乱の後、一行を甲斐に残し、利景のみ明知城に戻った。その帰路、家康の家臣本多重次に会い、徳川に味方することを誓っている。一行はそのまま甲斐に残り、その後松平頼国(依田頼国)に従って信州を転戦した。

天正12年(1584年)4月 再び奪還するが剥奪される
小牧・長久手の戦いにおいて、遠山勢は菅沼定利の部隊に組み込まれた。長久手の戦いで岩村城主森長可が没したその隙に、家康の命により明知城を奪還する。しかし、家康が和睦し、天下人豊臣秀吉に城を長可の弟森忠政に返すよう命じられ、森左近が明知城城代となる。再び足助の鈴木氏を頼った。

慶長5年(1600年)2月 原土佐守が明知城城代となる
秀吉死後、さまざまな確執がある中、家康は森忠政を川中島に移封、代わりに田丸直昌を岩村城主とした。その際明知城城代として原土佐守を置いた。

慶長5年(1600年)9月 関ヶ原合戦 故城奪還
関ヶ原の戦いの際、小山の陣から真田氏とともに田丸氏は家康から離れ西軍に属することとした。家康は秀忠軍が通ると想定されたことから、利景に東美濃奪還を命じた。利景の子の方景や小里光明とともに、また妻木城主の妻木氏などと協力して田丸勢を追い出し、明知城を奪取し東美濃を平定、岩村城も開城させた。

慶長8年(1603年)9月 旗本になる
東濃平定の戦功により遠山利景は、恵那・土岐郡内で6,700石を与えられ旗本(交代寄合)となった。 旗本五千騎のうち、6,000石以上の旗本は50指に満たない。岩村には、(大給)松平家乗が入城するが、家乗は利景の妻の親戚筋(松平久子の曾孫)となる。

元和元年(1615年)一国一城令により廃城
一国一城令により旗本二代領主遠山方景に江戸邸が与えられ、明知城は廃城となり、城下大手門近く(北西側麓)に明知陣屋を構える。この陣屋は代官の村上氏が江戸時代から明治の大政奉還まで行政を行った。

明知城の口コミ情報

2021年05月13日 とんかつおやじND
諏訪ヶ峯陣城[明知城  周辺城郭]



「すわがね」は、鶴岡山の山頂732メートルに位置し、かつて織田信長軍の
諏訪ケ峯陣城があった場所です。空気が澄んだ日には、
山頂から愛知県吉良の海が見えることから、
明智町吉良見地区の語源にもなっています。

明知観光ナビより

鶴岡山砦の呼び名がわかり良いかな
明知方面の展望は抜群な織田方の砦 画像は 主郭、堀切


2021年02月16日 島津図書允義弘
落合砦[明知城  周辺城郭]



【データ】
名称:落合砦(おちあいとりで)
別名:土岐明知城、多羅砦
遺構:曲輪、虎口、武者走り、土橋など
駐車場:あり(無料)
御城印:日本大正村で販売中(1枚 税込300円)

【概要】
 落合砦は、明知城の西南にある千畳敷台地に築かれ、台地北東の南北に並ぶ二つの頂部にそれぞれ曲輪を設けています。眼下に中馬街道を望み、南北街道が横道に入る地点を押さえる重要な場所です。
 また、明知城や仲深山砦のような技巧的な縄張りではないため、両城・砦が築かれる以前の拠点、あるいは明知城攻めの陣城とも考えられていますが、詳細は不明です。(現地案内板参考)

【感想】
出丸(二の丸)からは明知城を見ることができ、見晴らしが良いです。明智光秀は享禄元年(1528年)3月10日に落合砦で誕生したともいわれており、三の丸には「明智光秀公産湯の井戸」があります。

【写真】
①本丸下の武者走り
②落合砦案内板
③土橋(本来はもっと狭かったと思われる🤔)
④出丸(二の丸)
⑤本丸
⑥明智光秀公産湯の井戸
⑦出丸(二の丸)からの景色
⑧明智光秀公産湯の井戸案内板 【2020.12.19】

2020年12月23日 島津図書允義弘
仲深山砦[明知城  周辺城郭]



遺構:曲輪、土塁、堀切
御城印:大正村で販売中(1枚300円)
所要時間:30分程度
写真:①土塁 ②曲輪 ③登城口 ④堀切

近くには駐車場が無いので、大正村または大河ドラマ館の駐車場を利用するのが良いと思います。

大河ドラマ館から、各所に小さい看板がありますので見逃さないようにご注意ください。

登城口の左手には赤い鳥居が見えます。
登城道は滑りやすく、急なので杖があると便利です。

登城道から登っていった最初の曲輪には立札があり、そのまま歩いていくと堀切や土塁があります。【2020.12.19】

2020年12月01日 わだち
明知城



寄り道程度の軽い気持ちだったんですが、想定外の規模で嬉しい誤算。
大堀切も豪快ですが、畝状竪堀群がツボにハマりました。
竪堀は下にも降りれるようになってるので、ぜひ下から攻め手の気持ちになってみてくたさい。
麓で地図もらえます。地図にはその先に道が途切れるのですが、現地標識だと行けるように書いてある場所あります。
陣屋側から登城すると土塁の先に右手大手道と白い標識あります。
また、出丸の裏手で天神神社から本丸に向かうと、直進本丸左手稲荷神社の登城口と書かれた標識あります。この左手は出丸の切岸沿いの道なのですが、地図通りに途中で切れます。
行けるかと思い頑張りましたが足の踏み場もありません。
木につけられたピンクの目印を頼りに進みましたか、民家の裏に出て行きどまったりしてやっぱり進む道がなくなりました。
私のような初心者は地図に素直に従いましょう…

2020年09月23日 織田上総介晃司
明知城

搦手口の駐車場から本丸までは約10分ほどで行けますが、遺構を見るため大回りしたので結構時間がかかりました。
でも大正ロマン館の駐車場からよりは近いと思います。

幟旗には白鷹城と書いてあるので一瞬間違えたかと思ったけど、地元では白鷹城と呼んでます。

明智駅の近くに大正村があり、大正ロマン館を含めレトロな建物があります。

2020年09月07日 眞田左衛門佐十兵衛
明知城



搦手門側の駐車場に車を止めて攻城しました。搦手門から本丸まで10分位です。
そんなに大きな城ではありませんが、良く遺構が残っていて説明板や散策路など整備されてました。大正ロマン館に大河ドラマ館がありそこからは本丸まで20分位で行けます。

2020年08月31日 海道一の弓取り
明知城



搦手口から行くと本丸や出丸に行くのは簡単だけど大正ロマン館?に行くのは結構大変なので大正ロマン館はロマン館で車で行った方が良いと思いました。

2020年07月02日 龍馬備中守【】
落合砦[明知城  周辺城郭]



岐阜県の恵那市にある落合砦☆別名を多羅砦とも呼びます☆ここは明智光秀の縁の地で光秀はこの砦で生まれ産湯として使ったとされる井戸が残されています♪千畳敷台地に形成された落合砦は明知城の砦として機能しました☆出丸からの見晴らしは最高で三河方面は(北条、今川、松平)中馬街道方面は(織田、森)信州方面は(武田、真田)の動きを一早くとらえる事ができる絶好の場所です☆

2020年06月27日 大納言大納言0123489
うかれ横丁[明知城  その他]



明治から大正にかけて、繭で栄えたこの町では多くの飲食店が立ち並ぶ繁華街でした。当時の人達はここを歩くだけでうかれ気分になったそうです。

2020年06月25日 龍馬備中守【】
仲深山砦[明知城  周辺城郭]



岐阜県の恵那市にある仲深山砦☆
中山道と中馬街道を挟み込む様に存在します☆

明知城、落合砦、そしてこの仲深山砦と点在してます☆仲深山砦には歴史的なモノは残って居らず明知城の支城なのか☆はたまた明知城を落とす為に築いた砦なのか☆

接近距離谷を挟む300mと近く、城の造り方(加工の仕方)を見て武田氏…☆が頭をヨギル☆長篠の戦いの時もそうだったしその他攻めてる時の武田軍の砦達は常に近いwここもゲキ近いw怪しいw
※武田勝頼は明知城を攻めた☆
色んな妄想が膨らみました〜♪


写真1・仲深山砦全貌☆
写真2・段郭☆
写真3・副郭下の堀切☆
写真4・主郭と副郭を遮断する堀切☆
写真5・主郭土塁☆
写真6・主郭☆
写真7・主郭切岸☆
写真8・副郭下の段郭は段々に☆

2020年03月30日 えるパパ右兵衛督
明知城



明知城『白鷹城』は典型的な山城です。何度も戦があって非常に実戦的なお城です。石垣はありませんが、竪堀や曲輪などの遺構がしっかりと残されています。ぜひお立ち寄りください

2020年02月22日 国府左京亮城介
仲深山砦[明知城  周辺城郭]



明知城と落合砦の中間にあるのが、仲深山砦です。
登城口は、明智回想法センターのある通りをもう少し南へ下っていくと、案内板があります。目印として、山側に鳥居が連なっているのが見えます。
そこから、真っ直ぐ登っていきます。暫く登ると、赤いテープがありますので、それを辿っていけば、砦に到着します。ただし、ほとんど整備されておらず、藪や片足分しかない場所を歩かされます。
到着地点は、東郭と西郭を分断する堀切になります。

東郭は、西郭と比べて広く、東側には土塁が盛られています。また、土塁を越えると二重堀切があります。二重堀切を越えても進むことができますが、砦の外かと思われます。

西郭は、二段の郭になっています。また、一応ここが仲深山砦である看板(昔のイベントで使用したもの)があります。

2020年02月02日 三尺坊左近衛中将影ちゃんII号
明知城

【バイク用駐輪場】
バイクで明智白鷹城に行く時は、車と一緒で大正村無料駐車場に駐めて下さい。
係のおじさん曰く、「駐車場の隅に駐めてくれれば良いよ。」と言ってました。白鷹城のリア攻め&城下町(大正村)探索にはちょうど良いかもしれません。

2020年01月24日 霜村加賀守聡慶
明知城



縄張構造が残っているとても見ててお腹一杯になる山城!
小谷城の竪堀もすごかったけど、こちらも圧倒される。写真では撮りにくく見にくいですが、中世城郭のお手本の用なお城。身震いする縄張です!来て良かった(^^)

2019年09月23日 田上陸奥守久兵衛
明知城

明智の荘イベのついでにこちらにも…
端的に言うといい意味で期待を裏切られました
付近の城目当てで来られた方は、時間があればこちらも絶対来るべきです


そもそも籔化が激しいとの事であまり期待しないで来城したのですが、大河効果の為か今年の夏から間伐作業をされてたらしく城域は思ってた以上に歩きやすかったです

そのため土塁や堀切などの塁跡の凹凸がハッキリしていたので素晴らしい遺構の数々が見て取れました

ホントこのタイミングで来て良かった
いつ行くの?今でしょ!って感じですw

所々に珍しい連続の畝状空堀があり、竪堀や、土橋も有り見応え十分です!

主郭付近には空堀✕土橋からの虎口✕大堀切(意味は行けば分かりますw)の王道パターンが出迎えてくれて、土城好きはテンション上がると思いますよ!

また主郭には最近作られたと思しき綺麗なベンチがあるので折角なので休憩を

他にも歩き回ると色々と見所があるので、是非行かれてみては如何でしょうか?

駐車場は大手口からなら大正ロマン館の駐車場をお借りすると良いかと
搦手口も駐車スペースがあり、城域が目の前なのでこちらもオススメですが場所が分かりにくいのでリア攻めマップに場所を追加しておきました

近くには明智光秀の供養塔(と伝えられてる)がある龍護寺もありますのでついでに寄られてみては如何でしょう?

2017年08月13日 美濃守ひろゆき
明知城

蛇がいました。
明智光秀と関係あるのかしら。

2016年05月03日 ぽこりどん®︎権六
明知城

本丸へ向かう途中の切株にスズメバチを発見しました。ご注意を。2016.5.3

2013年11月13日 清水若狭守龍親
明知城

明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れた後、敗走中、土民の竹槍で突かれて死んだとされていますが、実は死なずに落ちのび、生き残り、比叡山でしばらく過ごした後、南公坊天海として歴史の舞台に舞い戻ったという、非常に興味深い説で、色々と調べてみました。南公坊天海とは「南公坊天海智楽院と称した天台宗の僧です。当時の仏教界においてはかなりの人物であった上に、密教・神道・道教・陰陽道・風水学にも精通していたといいます。そしてそれらの知識を活用して豊臣家崩壊作戦の火蓋を切り、家康の宗教政策を一手に担い、江戸の霊的防衛網を完成させた人物でもあります。しかし彼の素性についてはまったく明らかにされていません。そのことが天海をよりミステリアスにしている点でもあると言えます。生年もはっきりわからず、没年についても約135説があり、驚くべき長寿であります。一般的には108歳入寂説が妥当とされています。もし光秀の後身が天海であるとするとすれば、天海の出自が明らかでないという説明もつきますし、年齢的にも光秀が死去したのが55歳ですから、この当時の天海が47歳であったことからさほど違わないと言えます。

2013年10月13日 大宰大弐あさよし
明知城

33号線からのぼりが沢山あるのでわかりやすく車も3台くらいは置けます。ここは搦め手からの入城になります。10月でしたが本丸から大手の方は草が生い茂り進行不可でした。

2013年03月04日 三日陸奥守落人
明知城

県道33号側には案内板があり、数台分のスペースがあります。

城跡ではしっかり高低差のある切岸に堀切・畝状竪堀など、戦国山城テイストたっぷりな遺構が確認できます。
ただ、樹木をあらく伐採してくれてはいるものの、ヤブの範囲が広く夏の訪問はお勧めしません

訪問時(3月)、城域内でカモシカを見かけました!


2013年03月03日 三条大納言猫又
明知城

公共交通機関利用の場合、JR恵那駅から明知鉄道で行くのもいいですが、JR瑞浪駅からバスを使うと早くて安いです。

土休日の日中は瑞浪45分発(14時台運行なし)、明智50分発(13時台運行なし)と1時間に1本あり、所要時間は約40分で500円でした。
朝夕は多少時間が違うようなので、ご確認のうえお出かけください。

2012年09月20日 三河守コーキしゃん
明知城

入り口は、県道33号線側の搦め手と、大正浪漫館からの2箇所から行けます。
搦め手からだと、すぐに城域に入れます。

○○砦と名の付く郭が沢山あり、畝状竪堀や堀切、土塁、空堀、陣屋には水堀があり、かなり見応えがありますが、夏は藪が酷く遺構が判断しづらいです。



明知城の周辺スポット情報

 出丸(遺構・復元物)

 本丸(本陣屋跡)(遺構・復元物)

 帯曲輪・升形虎口(遺構・復元物)

 曲輪(遺構・復元物)

 貯水池(遺構・復元物)

 貯水池(遺構・復元物)

 切岸(遺構・復元物)

 土橋(遺構・復元物)

 二の丸(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 明智光秀公 供養塔(碑・説明板)

 本丸説明板(碑・説明板)

 仲深山砦(周辺城郭)

 落合砦(周辺城郭)

 明知陣屋(周辺城郭)

 諏訪ヶ峯陣城(周辺城郭)

 釜屋大洞城(周辺城郭)

 龍護寺(寺社・史跡)

 柿本人麻呂社・明智光秀公手植えの楓(寺社・史跡)

 明智光秀公学問所、天神神社(寺社・史跡)

 観光案内所(御城印)

 搦手口側駐車エリア(駐車場)

 登上口(駐車場)

 ぎふ恵那大河ドラマ館(関連施設)

 大正村役場(その他)

 うかれ横丁(その他)

 天神神社付近(その他)

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