妻木城(つまぎじょう)
妻木城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岐阜県土岐市妻木町字本城
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 土岐頼重
築城年
- 延元4年〔南朝〕/暦応2年〔北朝〕(1339)
主な改修者
- -
主な城主
- 土岐氏、妻木氏
廃城年
- 万治元年(1658)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸跡
指定文化財
- 県史跡(妻木城跡、妻木城土屋敷跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
土岐高山城(岐阜県土岐市)[7.2km]
多治見国長邸(岐阜県多治見市)[7.4km]
小里城(岐阜県瑞浪市)[9.3km]
市場城(愛知県豊田市)[11.7km]
鶴ヶ城(岐阜県瑞浪市)[12.7km]
入尾城(愛知県瀬戸市)[13.0km]
根本城(岐阜県多治見市)[13.1km]
久々利城(岐阜県可児市)[14.5km]
広見城(愛知県豊田市)[15.1km]
新居城(愛知県尾張旭市)[17.2km]
妻木城の解説文
[引用元:Wikipedia「妻木城」の項目]
妻木城(つまぎじょう)は、現在の岐阜県土岐市に存在した日本の城(山城)である。岐阜県指定史跡[1][2]。
概要
土岐市南部の標高409mの城山山頂に築かれた山城。妻木城は明智氏の所領であったが、後には明智氏一族とされる妻木氏の居城となって、次第に整備されていった。また妻木城主は代々と陶器の生産を奨励し、織部焼、志野焼などに代表される現在の美濃焼の基礎を作った領主として知られている。
歴史・沿革
南北朝時代
暦応2年 / 延元4年(1339年)に、土岐頼貞の孫である明智頼重が家臣育成の訓練場のような意味合いで築城したともされるが、諸説ある。戦国時代辺りに土岐氏が衰退してからは、一族の明智氏の所領になった後、さらにその一族とされる妻木氏の居城となった。
戦国時代
天正10年(1582年)本能寺の変の後に起きた山崎の戦いの際、城を治めていたのは第12代城主の妻木広忠であったが、広忠は明智軍に属して敗北し自刃したため、嫡男の妻木頼忠が跡を継いだ。その頃、可児郡の金山城を本拠とする森長可が土岐郡や恵那郡内の反抗勢力の掃討を開始した。長可は手始めに高山城主平井頼母に使者を送り、城を明け渡すよう要求したが、頼母がこれに応じなかったために攻めて自刃に追いこみ、その後家臣の肥田氏を入城させた。妻木城にも従うよう使者が来たが、頼忠が拒否したことから長可は城を攻めた。頼忠は城兵を集め奮戦したが、勝てる見込みがなかったので、和議にもちこみ長可に臣従した。この戦は、妻木氏が明智側の勢力である遠山氏らと共に、信長の重臣であった森氏が拠る金山城の勢力を排除しようと画策した事が原因であるといわれている。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの際に頼忠は森長可の家臣だったため豊臣秀吉側についた。愛知県春日井市と岐阜県多治見市の境にある内津峠に布陣したが、小規模な合戦により麓にあった町は焼失したという。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際には徳川家康側についた。頼忠は東濃地方を守るよう命じられ、父である妻木貞徳と共に西軍側の岩村城主・田丸直昌と戦った。田丸直昌の家臣である田丸主水が妻木城から近い所に土岐砦を築き、妻木方諸将の行動を封じ鎮圧しようと試みたため、頼忠は尾張の岩崎城主である丹羽氏次らを誘って田丸領の各所に放火して対抗し、高山城の城攻めを図った。しかし田丸主水の軍は高山城に火を放って放棄し、二手に別れた。主水を含む主力部隊は岩村城へ退却し、別働隊は土岐砦へ退却して立て籠もった。頼忠は田丸軍別働隊の退路を完全に遮断するため現在の瑞浪市寺河戸町付近に砦を築き、土岐砦を落とした。
また、田丸領内にある明知城と小里城は元々は遠山氏の支城と小里氏の居城であったが、田丸氏が奪って岩村城の支城とし、城番を常駐させていた。かつて城主であった遠山利景と小里光親は頼忠らの支援を受けて明知城と小里城の攻撃を開始し、その日のうちに明知城を、翌日に小里城を奪回することに成功した。これによって両名は城に戻ることができたので、その後頼忠は両名と共に田丸直昌の拠る岩村城を攻めようとした。しかし、岩村城は難攻不落と名高い城だったために苦戦を強いられた。妻木・遠山・小里連合軍と田丸軍はその後も睨み合っていたが、関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わったことで城主の田丸直昌も東軍の軍門に降り、岩村城方を指揮していた田丸主水も本来の城主である遠山利景に城を明け渡した。
江戸時代
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの際の戦功により頼忠は徳川家康から改めてこの地域を所領として与えられた。頼忠は領地経営において、山の上の城では生活が不便であるため、城のある山の北側の山麓に屋敷を築いて住み始めた。元和年間(1615年 - 1624年)頃にはこの城は放棄されたとみえ、山麓にある妻木城士屋敷が政庁となっていた。
現在
現在は本丸、二の丸跡地に小さな神社が置かれている。妻木城の登城口には駐車するスペースがあり、石垣や曲輪、土塁等の遺構も整備されている。建造物は残っていない。山麓の北側に妻木城士屋敷があるが、そこの石垣等の遺構も整備されており、駐車するスペースも完備されている。2つとも岐阜県史跡に指定されている。妻木城への登城口は、妻木城士屋敷跡の右脇から南へ伸びる道を進み、その終点から城山へ登っていくルートと名岐国際ゴルフ場の妻木口を入ってすぐ、右へと伸びる林道を進み、その奥にある広場から登るルートの2つある。
立地・構造
妻木城は妻木川左岸の丘陵先端(標高407m 妻木上郷集落から比高200m)に位置する山城で、山頂に位置する城中枢(主郭・二の郭)と大手筋の小郭群、南西側尾根・南側尾根に普請された郭群からなる。大手は北麓の妻木氏館から繋がる現在の山道と想定される。緩斜面の尾根には小郭が配置され、さらに虎口状の地形で大手筋を守備し主郭北側下の三の郭(物見)に繋がっている。山頂には石垣で補強された段差で区画された主郭・二の郭が配置されており、南西・南側に派生した尾根は郭群で処理され、尾根に挟まれた谷地(搦手)を守備している。この谷地上部には土塁で区画された空間があり、搦手に対する馬出機能があったと考えられる。主郭と南西・南側尾根を遮断した堀切は横堀状に主郭をカバーするなど、戦国末期の高度な技術を利用していることから、数度にわたり改修されたと考えられる。
妻木城士屋敷
概要
妻木城士屋敷(つまぎじょうさむらいやしき)は、妻木城の北側山麓にあった領主御殿や家臣屋敷の総称で、城跡と同じく岐阜県史跡に指定されている[3][4]。江戸時代に入ってから妻木氏が断絶するまでここが本拠となった。近くにある崇禅寺には、移築された屋敷群入口の門と妻木城の歴代城主の墓がある。
歴史
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで戦功を挙げた妻木頼忠は、慶長6年(1601年)に徳川家康から改めてこの地域を与えられ、その際に妻木城北麓にこの屋敷群を建てた。その時から元禄年間にかけて妻木城から次第にこの屋敷に拠点を移し、主にここが機能するようになっていった。その後土岐郡内7500石の領主は頼忠の子の妻木頼利、次に頼利の子の妻木頼次7000石(頼次の弟・幸広に500石分地のため)が跡を継いだが、頼次が跡継ぎの無いまま万治元年(1658年)に死去したため、妻木氏本家は3代で断絶し、屋敷も放棄された。しかし、頼次の弟の妻木幸広が土岐郡大富村500石から妻木上郷へ領地替されたことにより、上郷に新たに陣屋を築いて上郷妻木家(在地代官は日東氏)として存続し、明治維新に至った。
立地・構造
妻木城士屋敷は妻木城の北麓に位置する「根小屋」区域で、城主居館・家臣屋敷地からなる。現在確認できる遺構は南から北方向の緩斜面に3段に普請された石垣と上段の城主居館に残存する井戸址・庭園址・門址である。石垣は高さ1.5-2mほどで中央部には虎口と思われる大石段が残存する。南側の山裾には石塁で補強した溝が山腹と城主居館の境に巡らされており、雨水の流入を防ぐためのものと見られている。一部区域であるが家臣屋敷地の区画が残る。
城主一覧
1.妻木頼忠 2.妻木頼利 3.妻木頼次
家臣屋敷
沢井・土本・好安・仙石・水野・本田・小栗・安藤・那須・中垣・塚本・酒井・山神・豊部・土屋・有川・小池・高野・中條・芦尾・松本・奥村・ 加藤他(妻木領主御殿跡並家中屋敷見取略図 参照)。
アクセス
公共交通機関
- 東鉄バス
- JR中央本線 多治見駅(多治見駅前バスターミナル3番のりば)土岐・妻木線の終点(「妻木上郷」バス停)下車、徒歩で約40分。
- JR中央本線 土岐市駅南口 土岐・妻木線の終点(「妻木上郷」バス停)下車、徒歩で約40分(ただし1日往復2、3便しかない)。
自動車
- 東海環状自動車道 土岐南ICより約10分。
所在地
- 岐阜県土岐市妻木町上郷
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妻木城の口コミ情報
2023年09月12日 みつ
妻木城
駐車場からすぐに石垣が見えます。案内板もあり登山道もきれいにしてあります。苔むした石垣に、至る所に大岩があります。伝太鼓櫓の先に十字のくさび跡が残る大岩を見て感動!割るの諦めたのかな?近くの崇禅寺に城門が移築してあり御城印もあります。是非立ち寄ってみて下さい。
2022年12月31日 583系摂津守きたぐに
妻木城
2022年12月29日青春18切符利用で登城しました。麓の集落の民家には、だいぶ雪が残っていたのですが、登山道、本丸には雪は残っていませんでした。
城については先人様方が書かれていますので、公共交通機関利用の場合のアクセスに特化して投稿します。
なお、ダイヤは同日現在の休日ダイヤです。
妻木城へは公共交通機関利用の場合、JR中央線多治見駅から東鉄バス妻木上郷行きバス終点から徒歩でのアクセスが一般的ですが、いかんせん、本数が少ないことがネックになっています。大阪を早朝に出発して青春18きっぷ利用の場合、多治見駅から乗れる最も早い妻木上郷行きバスは10時50分発。その次は13時55分発となります。
多治見駅から城までの直線距離は10㎞足らず。レンタサイクルも検討しましたが、当日寒かったこともあり、10時50分発のバスを利用しました。このバスは、妻木上郷に11時19分に着き、5分後には折り返してしまいます。次の妻木上郷から多治見駅に向かうバスは14時29分発となります。
私は11時54分に本丸リア攻めをし、帰りは3㎞先の下石貢(おろしみつぎ)バス停まで歩いて戻り(妻木上郷からの道はほぼ平坦)、途中、バロー南土岐店でトイレ&貫モニ商品購入等で時間調整をして、同バス停13時18分発(平日は12時53分発)瑞浪駅前行きに乗って13時45分に瑞浪駅前に着き、そこから14時00分発明知駅行きバスに乗り換えて小里城に抜けました。
公民館が休みだと、トイレが下石貢周辺にしかないことがネックですが、多治見駅~瑞浪駅前、多治見駅~東駄知のバスを下石貢まで利用すると、本数不足を少しは解消できそうです。
2022年12月26日 尼崎城大膳大夫一口城主
妻木城
[妻木城城下町]12月17日、妻木城下山後に城下を散策。崇禅寺、妻木八幡宮、妻木公民館の順に下っていきました。崇禅寺の案内板を見ると境内を妻木城主廟所があると表記がありました。訪問時、お寺に人気(ヒトケ)がなかったので城主廟所の方角に手を合わせて🙏お寺を後にしました。次に八幡宮を訪れてお参り。御朱印と妻木城御城印を頂きました🖌宮司さんと色々と話をして盛り上がりました。妻木城の巨石の花崗岩の節理が凄かったと感想を言ったところ、そういう石がよく墓石🪦に用いられるんだよと教えて頂きました。社務所の裏の木曽馬も見学させてもらいました。どっしりとして落ち着いた雰囲気のある馬ですねと宮司さんに感想を述べたところ日本の馬🐴は大人しいんだよとまたまた教えて頂きました。最後に妻木公民館で妻木城や城下町の資料を見学。公民館のすぐ近くにあるバス停🚏妻木神宮から多治見駅行きのバス🚌に乗車して多治見駅に戻り、次の目的地の金山城、久々利城を目指しました🛤
2022年12月26日 尼崎城大膳大夫一口城主
妻木城
12月17日妻木上郷というバス停から徒歩にて登城。事前に多治見駅から妻木上郷行きのバス🚌の便を調べてみたところ便数が少ないことが分かったので前日、大垣まで移動して前泊。当日の多治見駅→妻木上郷行きの始発バスに間に合うように18きっぷで出陣🚃妻木上郷からまずは妻木城士屋敷跡を目指しました。道中、道が分かりづらい所があったものの運良く地元の方がいらっしゃったので道を教えてもらい無事屋敷跡に辿り着けました。屋敷跡の案内板を見ると屋敷跡から山頂の妻木城址まで徒歩約30分とのことでした。当日はパッと登ってリア攻めをしてサッと下りて、次のバスの折り返しの便に乗ろうと計画していたので早速熊ベル🐻🔔を鳴らしながら登山開始🥾道中、数カ所に本丸までの所要時間の案内が出ていたのでいい目安となりありがたかったです。妻木城址の会の方々に感謝です🙇🏻♂️進軍していくと三の曲輪に着き、そこからは東濃の景色や御嶽山を見渡すことが出来ました。今回の限定城巡りの東濃の山城巡りを通して東濃エリアは戦国時代に織田vs武田の攻防が激しい地域だったことが分かり、御嶽山⛰(長野県・旧信濃の国)が見えているということは今見ている風景の中に昔の美濃・信濃の国境があり、織田vs武田の攻防ラインがあったんだなぁと思わず戦国タイムスリップ目線で眺めてしまいました。三の曲輪から本丸に向かうより先に巨石群を見学して周りました。巨石群の凄さに圧倒され作戦変更。サッと下りるのはあまりにも勿体ない史跡だったので、次のバスを目指すのをやめて次々発のバスに乗ることにしてゆっくり妻木城を満喫することにしました。巨石群、最初に見た時は巨石同士が綺麗に積まれてよくこんなにキッチリと積み上げたなぁと思っていたら自然現象(写真⑥)とのことで大地のパワーに感動しました。巨石群を周っていると登ってきた所とは異なる登山口が見えたので寄り道をしてみたところ南口駐車場でした。こちらの登山口から本丸(山頂)までは徒歩約10分とありました。先人方の口コミの熊注意⚠️の看板もこちらにありました。その後撮影スポット📷のくさび跡の岩を撮って、本丸の城山八幡神社にお参りして下山。
2022年12月16日 在来線男右京進
妻木城
駐車場は広く20台くらい停めれます。駐車場への道は一部アスファルト、ほとんど砂利道です。しかしよく整備されているので普通の車で行けます。ただすり替わりができない道幅のところが多いです。割とすぐに登城できます。入口にクマに注意と看板があります。
2022年09月03日
妻木城
見事な巨石群。林道は車高の低いファミリーカーは、要注意ですよ。遺構もよくわかり維持していただきありがとうございます。妻木の街並みも綺麗です。
2022年05月05日 虹ノ松能登守
妻木城
南口駐車場から上りました。駐車場への案内看板が県道19号沿いにあるので迷わないと思いますが、そこから1.5キロの道のりは、対向車が来るとすれ違いが難しい道幅で、ほぼ砂利道です。
駐車場も広いけど砂利。登山口には立派な看板と、アクリルケースに案内図があるのでもらっていくと分かりやすいです。先達の皆様も書いている通り、巨石群が見応えありました。建物はありませんが、曲輪跡や登山道も綺麗にされています。
GWでしたが他に誰もいませんでした。ただ、羽虫が結構いたのと木が繁っていたので、虫の苦手な方や、見晴らしを求めるなら、春先までがおすすめだと感じました。
2022年04月22日 つみえ
妻木城
南口駐車場からだと、らくに攻城できる(妻木公民館にパンフレットあり見学もお勧め無料ですよ)
2022年04月21日 ya田
妻木城
巨岩群が凄すぎです、南口駐車場からだと楽々です。
2022年03月05日 西倉右馬助久郷
妻木城
陣屋跡のある北駐車場より登城しました 町歩き程度の軽装で登れないことはないですが 途中急坂がありますので軽登山程度の準備がしてあると安心かと
途中で八幡神社や公民館で案内地図や情報をゲットしておくのも有用です
2021年12月04日 RED副将軍三遠オフ初参戦
品野城[妻木城 周辺城郭]
松平と織田で幾度と争奪戦を繰り広げた城跡🏯桶狭間へとつながった合戦の地です⚔
オススメ度 ★★★★⭐︎
1210年頃に大金重高によって築城。その後、在地土豪の戸田氏、そして坂井氏の支配となっていった様です。
戦国時代になると、尾張の織田信秀と駿河•遠江の今川義元に属する三河の松平氏との争いが激化。坂井氏は織田方に付くも、1529年に松平清康に攻められ落城し、当主の坂井秀忠は討死。松平清康は徳川家康の祖父に当たります。その後、品野城は松平信定の支配となります。
1558年、織田信長は品野城攻略として、五輪の山に山崎城を築き、品野城の戦いが勃発。織田方は竹村長方を大将とし、松平家次が守備する品野城に攻め込むも落とすことが出来ず。逆に夜襲を掛けられ山崎城を奪われる始末に。
品野城の戦いは織田信長の初黒星の合戦でもあります。しかし、1560年に織田信長は総攻撃をかけ、品野城と周辺の桑下城、落合城を攻め落とし、廃城となった様です。このまま桶狭間の戦いへと続き、これが前哨戦になりました。
見所
急峻な尾根筋に突然、削平地が現れます。遺構の残存度はかなり良好で、郭を遮断する大堀切、城域南端には竪堀が放射状に数条確認できます。帯郭、出郭も明確に残り、これまでの厳しい登城路が嘘の様です。
行き方は、秋葉山の山頂にありますが、東海環状線が開通したことにより、登城ルートは非常に分かりにくい状態です。稲荷神社の北東に細い登城口があり、高速道路の高架を潜ります。東からでないと高架は越えられないと思います。正面の山頂が城跡ですが、まともな登山道はありません。比較的、沢を登る方が高度を稼ぎやすいと思います。一定の高度で尾根に取り付き山頂に出ました。比高は約100m程度で15分くらいの登りでしたが直登でヤブもあります。近くに駐車場が無いことも注意してください。
写真
①主郭南側の大堀切
②主郭には仕切り土塁が残る
③④城域南端には放射状に竪堀が落ちる
⑤大堀切を越えると更に空堀が敷設
⑥直登後は痩せ尾根が続く
⑦登城路にある石積み
⑧登城路は沢を渡ります
2021年09月25日 きむねこ
妻木城
車で一番近くまで行けるルートで行きましたが、とにかく舗装がされておらず道幅も狭いのでたまたま対向車が来なかったので良かったですが、来ていたらと考えると少しゾッとしました。自然石を活かしたお城で自然の逞しさとその石をなんとかしようとした昔の人達の努力の跡もありとても良かったです。行った日の前日に雨が降っていたので、かなり泥濘みもありましたので、前日の天気含め見学の日を検討してほうが良いかと思います。地図は一応入口にありましたが残り1つでしたので、先に御城印が売っている八幡神社に寄ってからの方が良いかと思います。そこには沢山置いてありました。
2021年05月10日 やまぴぃ
妻木城
明智光秀ゆかりの地巡りで妻木城に行ってきました。3の曲輪からの眺めも絶景でした。本丸(1,2の曲輪)もこじんまりしてよかったですが、人が積んだように見える巨石群は圧巻でした。これが自然に出来上がったとは驚きです。有名なお城もいいですが、地元のお城も色々な発見があり面白いです。城巡り初心者ですがどんどん城にハマっています。
2021年05月09日 さっちゃん
妻木城
城跡に近い駐車場から歩きました。通り雨があったので、足もとが滑るかと思い置いてあった杖を使いましたが、大丈夫でした。本降りの後だと危ないでしょうが、整備されていて歩きやすかったです。
曲輪からの見晴らしも素晴らしかったのですが、その当時のままの巨石群に感動しました。
本丸に神社、お百度詣の石?などから、地元の方々から大切にされてきた場所だったのではなかろうかと思われる城跡でした。
リア攻めして良かったです。
2021年01月01日 陸奥守たろす
正福寺駐車場[妻木城 駐車場]
【細野城駐車場】
※先達者さま登録ポイントに写真&口コミさせて頂きます
※写真は上段左から①~④、下段左から⑤~⑧
◆⑦「正福寺駐車場」としてリア攻めマップに登録されてます!
正福寺さんの駐車場ですが「鶴岡山登山・細野城へ登られる方は正福寺駐車場をご利用してください」と案内ありますので公式駐車場です。
◆Googleマップで「細野城」と設定すると④大手側登城口に案内されますが駐車場はありません。
付近に駐車できそうなスペースはありますが、やはり公式駐車場である「正福寺駐車場」に駐車しましょう。
なのでマップは「土岐 正福寺」に設定すると良いです。
どちらで設定しても国道363からのアクセス道入口から⑧案内板が現れますので「正福寺」に行きましょう。
◆正福寺駐車場から細野城④大手側登城口へは一旦来た道に戻るか、集落内を東側に進み徒歩で約7分。
◆登城口から②城域へは距離0.4km比高100mを登りますが、10分程で到着します。
◆駐車場から南に行くとすぐに「細野城1.8km」の案内がありますが、こちらは⑥搦め手登城口になります。
◆距離が示す通り城域までは遠回りになるとともに一旦③分岐点まで距離1.4km比高140mを17~18分程登ることになります。
(分岐点から城域までは0.4km下りになります)
◆この分岐点付近に⑤「石切場」と①「師岩」と呼ばれる名勝?があります。
大手側から登城し石切場を目指す場合は城域からさらに登ることになります。
◆どちらで登城するかはお任せですが、石切場お薦めです。是非ご覧下さいませ♪
2020年12月31日 陸奥守たろす
細野城[妻木城 周辺城郭]
【細野城】
岐阜県土岐市鶴里町細野の山城
※先達者さま登録城に口コミさせて頂きます
※写真は上段左から①~④、下段左から⑤~⑧、口コミの紹介順とは異なります。
【概要】
◆細野城は鶴里の集落を望む城ヶ根と呼ばれる標高約640mの緩やかな尾根の中腹に築かれた城。
◆眼下には尾張と南信を結ぶ中馬街道が通っており物資を運ぶ人々で賑わった。
◆築城については具体的な資料に乏しいが、天正12年の小牧・長久手の合戦時、あるいは慶長5年の関ヶ原の合戦時に築城されたと考えられる。
◆関ヶ原の合戦時には、隣の柿野村で東軍妻木勢と西軍田丸勢が戦ったとの記録が残る。
◆領主については不明であるが、室町期には妻木氏が、江戸期には岩村藩が治めている。
◆参考図書『岐阜の山城ベスト50を歩く』
※現地案内板にも同様の記載あり
【遺構】
◆大手側から登城し城域に達すると縄張り図では⑥堀切C(幅6m深さ2m)が現れるが、実際は横に通る遊歩道を進んだため通り過ぎたので曲輪Ⅰから戻り確認しましたw
◆遊歩道を進むとすぐに周囲に巨石が現れ横に④堀切Bが見える。曲輪Ⅰと大手曲輪(破れた大きな旗があります)を隔てる堀切は幅4m深さ1mとそれほど切れていないが、堀切BCで曲輪Ⅰの北西側を守る
◆堀切Bを過ぎると③虎口から曲輪Ⅰに至る。
◆曲輪Ⅰは東西20m南北35mで中央に⑧土塁を設ける。
◆曲輪Ⅰの搦め手に当たる東側はなかなかテクニカルな遺構が残っており、食い違い虎口の先に土橋、土橋の両側に堅堀を設ける(①は土橋先から曲輪Ⅰ側を望む)。
◆特に北西側の⑥堅堀は50m程と長く堀落とされている
◆さらに土橋の先に曲輪Ⅲ(搦め手曲輪)を配するが、間に⑤堀切Eを切る。堀切Eは西側が堅堀になっている。
◆曲輪Ⅲの東端には土塁を、土塁の東側には②堀切Fを設け、こちらも西側が堅堀となっている。
◆城域はここまでで30分もあれば余裕で散策できる。
堀切は埋まってしまったのか"キレッキレ"って感じではないが、合戦時の小規模な砦ながら全体的にテクニカルな遺構が残っており十分楽しめる山城です。
【備考】
◆搦め手道を進むと矢穴がある残念石が放置されたままの石切場がある。
(すでに先達者さまにて口コミあり)
◆城へのアクセスは改めて投稿する予定です。
2020年12月07日 とんかつおやじND
細野城[妻木城 周辺城郭]
搦手口の東側にあります
ただしこの石切場で加工後の行先が不明 大手の麓左手の石垣が❓
麓には関ヶ原の合戦の地方戦 妻木軍と田丸軍の戦いの供養塔武者塚があります
2020年10月26日 左馬頭里見家子孫
妻木城
御城印は妻木しろやま観光案内所で販売しているようですが、南口駐車場に着いたのが16時。本丸まで急いで攻め登った後、妻木公民館へ向かったが、日曜日だからか17時前でも誰もいませんでした。
御城印は崇禅寺でも購入できるそうです。
2020年10月18日 たなぼた飛騨守与助
妻木城
妻木城は立地も地質もとても面白い。三の曲輪から北面は広々と城下を見下ろせ、遙か彼方には冠雪した御嶽山を望みました。花崗岩の節理が生んだゴロゴロ岩も豪快です。
2020年09月23日 織田上総介晃司
妻木城
南口駐車場から曲輪Ⅰ(本丸)まで約10分で行けますが、当然ながら遺構を見ながら大回りしたので時間がかかりました。
妻木城でも御嶽山を見る事ができます。
山頂の遺構を見た後車で移動して妻木城士屋敷跡へ。
南口駐車場までの道はどちらかと言うと悪路なので運転に自信のない方は士屋敷跡向かいの駐車場に停めて山頂の妻木城を目指すといいでしょう。
東美濃の山城は素晴らしいものが多く苗木城・岩村城・明知城・小里城・妻木城の5城すべてめぐるだけで1日費やしますが、その価値は充分あると思います。
2020年06月27日 大納言Z紀伊守369
崇禅寺総門[妻木城 寺社・史跡]
妻木城主の菩提寺である崇禅寺の総門は、妻木城士屋敷の総門を移築したものと伝えられている。
2020年06月27日 大納言Z紀伊守369
妻木城士屋敷跡[妻木城 遺構・復元物]
城山の北側な山麓は、御殿と呼ばれる領主の館と家臣の武家屋敷が築かれ、1658年の妻木家の断絶まで陣屋として存続しました。
2020年03月22日 JUMP三河守
妻木城
道路脇登城口から光秀所縁の城(明智煕子さんの実家)と幟がたくさんあって目立ちました。駐車場までは少し距離があり、穴ぼこもありますが、城用車10台以上は余裕で停められます。山の斜面に石垣の残骸と思われる巨石が点在しています。井戸や櫓跡などの案内等よく整備してあって山城初心者の私もゆっくりじっくり見れました。
2020年03月01日 天道式部卿早雲
南登山口駐車場への入口[妻木城 その他]
途中、未舗装のところは少しデコボコがありますが、ミニバンでも十分通れます。
2020年03月01日 天道式部卿早雲
南登山口駐車場[妻木城 駐車場]
かなり広いスペースがあります。
道は舗装・未舗装が交互にあります。
一の丸まで15分ほどです。
トイレはありません。
2020年02月12日 あきおこ
品野城[妻木城 周辺城郭]
愛知県瀬戸市品野町にある山城です(標高330m/比高110m)。
上菱野城と妻木城の間にあり妻木城が登録範囲内だったので、こちらに投稿しました。
桶狭間合戦を調べていたらこの城に興味が沸いてきて、いざ登城。
永禄3年(1560年)、織田信長が尾張領に突出していた今川方の品野城を攻略。この後桶狭間合戦が起こる。
品野城は今川の尾張攻略の最前線拠点で松平氏が守将だった様です。
城は品野集落の稲荷神社東にあります。神社右手灯篭横の尾根からの登山道がありますが東海環状自動車道建設により途中から道が途切れ、ガード下を越えた所から急斜面の僅かな踏み跡を直登する事になります。
10分ほど登ると北側の尾根端に着きます。石がごろごろする段曲輪状の尾根を少し歩くとすぐに主郭に着きました。
主郭には低い仕切り土塁があり、朽ち果て悲しげな祠の残骸があります。
主郭の南側には美しく鋭い堀切があり、堀切から先には尾根から放射状に延びる数条の竪堀がありました。
藤井尚夫先生の書かれた縄張り図によると北西山腹、西尾根先端、南東尾根先端部に竪堀がある様ですが、全ては確認出来ませんでした。
アクセスは非常に難儀な城ですが、尾張地方に於いては珍しく遺構が良好に残る城です。
駐車場は無し。私が訪れた時は神社入口は工事の為、車止めがありその前のスペースにバイクを停めました。車はきついかもしれません。トイレも無し。
(登城日 2020年1月19日)
2020年02月11日 こんちゃん三河守コロン
妻木城
2020年2月11日に自動車で登城しました。今年は暖冬で、ノーマルタイヤで山の上の駐車場まで行きました。少し雪がありました。ぬかるんでいるので注意が必要です。泣きそうになりましたが、城跡は良かったです。
2018年11月10日 こうひろ☽☄
妻木城
この城の一番魅力は車を降りたら5秒で石垣(城友さん命名)です。居館跡の曲輪には苔むす見事な石垣と階段、井戸跡が迎えてくれるので気軽に散歩がてらリア攻め出来ます。
降水量が多いのでしょうか、苔と草木がいい具合に発育しています。奥のあまり整備されていない場所に更に素敵な石垣がありました。興味があれば藪漕ぎしてみて下さいね
2018年02月04日 ライ
妻木城
南側からの林道を使って駐車場まで行きました。(土岐市役所に問い合わせたところ南側のルートを紹介頂きました
2017年11月13日 ライ
妻木城
山麓の士屋敷跡の向かいが空き地になっており、駐車スペースとなっていましたよ。
2013年06月09日 青コアラ美濃守
妻木城
山麓の士屋敷跡は以前は石垣の前が駐車場になっていましたが、今は止められなくなっていますので、路駐か、石垣の間の細い道を少し上がった所に若干のスペースがあります。
山城へはここから登山道を歩くか、車で城の東南側からの林道を使って上まで行く事も出来ます。こちらには広大な駐車スペースもありますが、道は未舗装なので車高短や新車はやめた方がいいです。
2012年07月16日 ミツネン長門守
妻木城
妻木城へ行きました
この季節※草が長くなってて
登城口
分かりにくくなってます矢印の奥に草の中を
覗いたら登城口が
有ります