南本城城(みなみほんじょうじょう)

南本城城の基本情報

通称・別名

座光寺南城、上野南本城、上野城

所在地

長野県飯田市座光寺2503他

旧国名

信濃国

分類・構造

丘城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

座光寺氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀、土橋、虎口

指定文化財

県史跡(南本城城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

飯田城(長野県飯田市)[3.2km]
松尾城(長野県飯田市)[5.8km]
鈴岡城(長野県飯田市)[6.2km]
大島城(長野県下伊那郡)[7.4km]
船山城(長野県下伊那郡)[10.5km]
駒場城(長野県下伊那郡)[14.8km]
大河原城(長野県下伊那郡)[18.3km]
赤須城(長野県駒ヶ根市)[23.2km]
妻籠城(長野県木曽郡)[23.9km]
和田城(長野県飯田市)[25.0km]

南本城城の解説文

※この城郭は2025年4月6日に名称と位置が変更となりました。

南本城城(みなみほんじょうじょう)は、長野県飯田市座光寺にあった城。

概要 

尾根状になった段丘の先端に築かれた高さ約90mの山城で、南北370m、東西340mの範囲に遺構が分布します。主郭は西側に大規模な土塁を盛り、周辺に小さな郭を何段も重ねています。主郭から延びる尾根は堀で断っており、特に台地とつながる北側の尾根には、複雑な遺構が残されています。

これだけ立派な山城であるにもかかわらず、古文書に記されておらず、城主来歴ははっきりとしていません。北隣に巨大な松岡城を構えた松岡氏の城とする考えもありますが、「本城」と地名が残ることから、この地を本拠地とした座光寺氏に関連する城とみられます。

しかし、座光寺氏が単独でこれだけの山城を築いたとは考えられず、戦国大名クラスの大勢力が関与したとみられています。その勢力とは、当時の情勢からすると、武田氏、織田氏、徳川氏、北条氏、豊臣氏が考えられますが、今のところ特定できていません。 何重にも張り巡らされた防御構造に、戦国時代末期の緊張感が伝わってきます。

遺構 

折れ曲がった堀

下伊那の一般的な山城の堀切は、真っ直ぐなものがほとんどですが、北尾根には折れ曲がった堀が特徴的です。堀が曲がることによって、守備隊は堀底の攻城軍に対して、正面と側面の複数方向から射かけることができます。

四角く区画された土塁

土塁に囲まれた空間は、城兵が潜んだ場所とも、敵兵を取り囲む施設ともいわれますが、詳しいことは分かっていません。

土塁の上に立って西側を見下ろしたり、下段の腰郭から主郭を見上げてみると、腰郭と切岸が何重にも重なっており、主郭へ簡単に近寄れない仕組みになっています。腰郭の南側の端に土塁が盛られており、いくつかの虎口が設けられています。

主郭を守る厚い土塁

主郭の西側を中心に、南側、一部北側に土塁が残っており、東側に土塁はありません。北端で途切れている個所が、虎口と考えられています。敵兵は西から攻めてきて、東から攻めてくる可能性は低いと考えて造られた城です。

尾根を断つ堀切

主郭からのびる各方面の尾根は、ほとんどに大きな堀が掘られています。特に南尾根の堀は大きなもので、その幅はおよそ20mにもなります。山城としては郡下で突出した規模で、絶対に侵入を許さない強い意志の表れです。さらに堀の端を洞底まで下しており、尾根上だけでなく、斜面からの侵入を拒んでいます。

斜面を埋め尽くす腰郭

南東側の尾根、南西側の尾根は、小さな平場と急な斜面が連続しています。これらがすべて城の遺構かはわかりませんが、市内の山城で多くみられる施設です。

情報提供:飯田市教育委員会


南本城城の口コミ情報

2025年04月07日 ほりーないと信濃守
飯田駅観光案内所[南本城城  御城印]



☆飯田駅観光案内所
○営業時間・・・8:30〜17:00
○休業日・・・年末年始
○駐車場・・・市営飯田駅駐車場
       (120分未満は無料)

南本城の御城印の販売当初は登城口近くにある「座光寺自治振興センター」にて平日販売のみでした。少し離れた場所になりますが、飯田駅観光案内所にて土日祝も販売されるようになりました。

この観光案内所には伝統工芸の"飯田水引"が展示されていて撮影OKです(写真③④) 江戸時代、飯田藩主堀親昌が元結の製造を奨励しました。明治4年(1871年)の断髪令によって元結の製造は減少し、元結を改良した水引の製造がはじまりました。全国の70%の水引が飯田水引です。現在も職人さんが元結を製造していて、大相撲などに納品しています。

2025年02月11日 ほりーないと信濃守
松岡南城[南本城城  周辺城郭]



松岡南城(小城)
その名のとおり、松岡城(松岡本城)の南側に位置するお城です。農閑期であれば近くに駐車できます。本城で縄張図と鳥瞰図を確認してから松岡南城へ歩いて行くのも良いと思います。
二の丸、三の丸の一部が破壊されていますが、断面図のように曲輪と堀がよくわかります(写真⑤)。主郭東側の堀(写真⑥)は藪化しており、その先にある堀には進めませんでした。

松岡城址(本城)は松源寺となっています。永正10年(1513)頃、松源寺は松岡城主の松岡氏によって高森町牛牧に建てられました。天文13年(1544)、今川氏に追われた井伊直親(井伊直政の実父)を松源寺で12年間にわたって匿いました。その後、松岡氏は色々とありまして…改易となりました。江戸時代に松源寺は現在の場所へ移りました。松岡氏とその家臣のお城はなかなかの土木量で見応えがあります。松岡南城は本城から近く、隠居城だったのではないかという説があります。

2024年10月27日 ほりーないと信濃守
阿島陣屋[南本城城  周辺城郭]



関ヶ原の戦いに知久則直は徳川家康の小姓組として出陣。その翌年、慶長6年(1601)に旧領の一部三千石を安堵され阿島に陣屋を築きました。

嘉永元年(1848)に造営された二階建の茶室「曙月庵(しょげつあん)」が当初位置に残っています。県内唯一残る武家の茶室です。喬木村役場に予約をすると有料で貸し切ることができます。毎年10月に伝統工芸「阿島傘」展示が開催され、その期間中に無料見学できます。
県道18号の信号「阿島」~「曙月庵」の坂道は"城坂"と呼ばれ、江戸時代初期の石垣が残っています。地域おこし協力隊の方が作成した阿島陣屋の昔と今のマップが曙月庵にあります。個人の感想ですが、昔と今では大きく変わっています。

知久氏の由来
発祥は、諏訪明神の橘大祝氏から分かれた神族といわれ、伊那郡南小河内(上伊那郡箕輪町)にあって在地の名(知久沢山・知久沢川)をとって知久氏と称した。承久の乱(1221年)の直後、知久平(飯田市下久堅)に移住したといわれる。
(喬木村歴史民俗資料館パンフレットより)

戦国時代、知久頼元は武田軍と戦って敗北したことが知られています。その後、頼元の子・頼氏らは徳川家に身を寄せ、旧領に復帰しました。ところが…菅沼定利の策略?により、頼氏は浜松城で自害、後見人は暗殺され…。頼氏の子・則直は徳川家臣・大久保忠世のもとへ逃れました。関ヶ原の戦い…再度復帰して阿島陣屋を築きました。

先日、山梨県甲州市「雲峰寺」へ行き、宝物殿の武田軍旗などを見学させていただきました。この軍旗を見たら戦わず逃げ出したくなります。逃げ出さずに戦った知久氏はすごいと思いました。その挑む力が親から子へ受け継がれて、二度の復帰に繋がったのかもしれません。

※写真は阿島傘の展示の際に撮影しました。知久氏は領内に傘作りに必要な材料がほぼ揃っていることに目をつけ、地場産業として広められました。

2024年08月19日 ʀᴇᴅ副将軍
南本城城



在地土豪である座光寺氏の山城

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代や築城主等の詳細不詳。座光寺氏の山城と考えられています。座光寺氏は、源為朝の子の源為家が伊豆大島から信濃国伊那郡に移り座光寺氏を称したとも、諏訪氏の庶流とも云われ、戦国時代は武田信玄に従属していました。

1575年に座光寺為清は秋山虎繁とともに岩村城に籠城し織田信長勢と戦うも討死。座光寺氏は没落しました。

見所
並木沢川と西の沢川に挟まれた丘陵上に築かれています。南北に長い主郭は西から南に掛けて土塁が巡り、腰郭が敷設。北側は土橋が架かる空堀で区切られた先に北郭群が段々に連なります。主郭南側は東西の両尾根に郭群が連なります。東尾根、西尾根ともに深い堀切がありその先にも郭が認められます。

北本城は平時の居館であり、谷を隔てた南本城は大規模な実戦用の戦国末期の城郭であり座光寺氏が滅亡した1575年以降に武田氏、徳川氏などの大勢力により改修されたと考えられています。

2024年08月17日 ʀᴇᴅ副将軍
座光寺北本城[南本城城  周辺城郭]



在地土豪である座光寺氏の居館跡🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代や築城主等の詳細不詳。座光寺氏の居城と考えられています。
座光寺氏は、源為朝の子の源為家が伊豆大島から信濃国伊那郡に移り座光寺氏を称したとも、諏訪氏の庶流とも云われ、戦国時代は武田信玄に従属していました。
1575年に座光寺為清は秋山虎繁とともに岩村城に籠城し織田信長勢と戦うも討死。座光寺氏は没落しました。

見所
現在は大半が座光寺小学校の敷地となり遺構はほぼ消失。小学校正門前に案内板があります。
小学校北西は土塁跡とみられる段差が伸びており、座光寺保育園と耕雲寺の間は堀跡とされます。

北本城は平時の居館であり、谷を隔てた南本城は大規模な実戦用の戦国末期の城郭であり座光寺氏が滅亡した1575年以降に武田氏、織田氏などの大勢力により改修されたと考えられています。

2024年07月31日 ほりーないと信濃守
南本城城



座光寺南本城の御城印の販売が2024年7月23日から始まりました

御城印︰1枚300円
販売場所:座光寺自治振興センター
     (登城口の前にあります)
販売時間︰平日8:30〜17:15
※現在は平日のみの販売ですが、土日の販売を検討してくれるそうです

写真は7月下旬に撮影しました。夏場も整備されていて、いくつもある堀切などを遊歩道から撮影することができます。トイレにはフィッティングボードがあるので登城後に着替えもできます。冬場の方が遺構がハッキリしてオススメですが、夏場も楽しむことができます。

2024年05月05日 ʀᴇᴅ副将軍
松岡城(松岡本城)[南本城城  周辺城郭]



南信の有力国人である松岡氏の本拠地🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。南北朝時代に松岡氏により築かれたその居城です。
松岡氏は、1062年に前九年の役で敗れた安倍貞任の次男である仙千代が市田郷牛牧村へ落ち延び、その後に地頭となり松岡貞則と称したのが始まりとされます。
当初は北西に600mほどにある松岡古城を居城としていましたが、南北朝時代に松岡城を築いて移ったとされます。
1554年に武田信玄が伊那に侵攻。周辺の小笠原氏の鈴岡城や知久氏の神之峯城などが相次いで落城すると、松岡氏は武田氏に従属します。
1582年に織田信長が信濃へ侵攻。武田氏の拠点である大島城や高遠城を落とし、武田氏は滅亡。
すると松岡氏は織田信長に帰順し本領を安堵。飯田城に入城した織田信長家臣の毛利秀頼に従いました。しかし直後に織田信長が本能寺の変で没すると、伊那は徳川家康の勢力下となります。
徳川家康と豊臣秀吉の覇権争いの中で、小笠原貞慶は徳川方から豊臣方へと翻意。松岡貞利も小笠原貞慶に与し、徳川方の高遠城に攻め寄せるも形勢不利とみて退却。小笠原貞慶は大敗し、1588年に松岡貞利は改易となり所領は没収。松岡城は廃城となりました。

見所
天竜川西岸の標高560mの河岸段丘突端に築かれています。
松源寺から南東へ伸びた舌状の段丘上に第一から第五の空堀で区画された五郭で構成されている連郭式です。
大半が耕作地となっていますが、堀跡は概ね現存しており、段丘先端から連なる本曲輪・二の曲輪・三の曲輪・惣構がはっきりと残っています。
大手の北西には三日月堀があったとされます。
本曲輪の南側下にも堀切と山麓虎口が残っています。

行き方は、松源寺を目標に設定。駐車場も完備されており遊歩道が整備されています。

2024年04月18日 ほりーないと信濃守
洞頭城[南本城城  周辺城郭]



説明板より
牛牧の殿様(牛牧殿)は「松岡刑部大輔」と呼び松岡氏(市田殿)の兄でした。牛牧に残る「牛牧村歴代由緒覚書」によると、最初は上平の次郎城に住んでいましたが、大きな領地を与えられて洞頭城へ分家させられたと記されています。

洞頭城は松岡氏発祥の地とされる松岡古城の近くにあります。古城とは反対方向(南)に進み、南大島川を渡ると座光寺氏領に入ります。洞頭城の他にもお城があり、南側を意識したことがよくわかります。

城めぐを始めた頃、高森町で花桃が綺麗に咲いているのを見つけました。花桃の木は道路からハッキリとした段差の上にありました。この段差がとても気になる……あっ!城跡の標柱がある…ここがお城なの? 花桃があるこの段差は推定堀だそうです。
ストイックに洞頭城と向き合うには花桃は必要無い筈ですが…。交通量が多い道路の横での撮影には少しの勇気が必要かも。花桃が「私を撮って」と誘ってくれたので洞頭城をリア攻めしました。

高森町には松岡氏とその家臣のお城がたくさんあります。標柱や説明板が設置されているので助かります。洞頭城には花桃、松岡古城には菜の花があり、地元の皆様に大切されていると感じました。

2024年03月29日 ほりーないと信濃守
大丸山物見[南本城城  周辺城郭]



説明板より
大丸山は、松岡本城と支城の吉田城山城・吉田本城等の中間に位置し、四方の見晴らしがよいことから見張所がおかれたと思われます。

現在は大丸山公園となっていて大きく改変されています。遊具から芝生の広場の間には堀が残っています。信濃キッズはこのような公園で遊ぶ機会が多く、お城に興味を持ってから「この公園もお城だった」と知ります。私も子どもの頃に来たことがあるようです。

大丸山物見は、高森町歴史民俗資料館"時の駅"の目の前にあります。公園にも駐車場がありますが、"時の駅"から遊歩道もあります。高森町には松岡城があります。リア攻めする人が多い未登録城です。松岡氏とそのお城の資料が展示されていますので、"時の駅"も訪ねてみて下さい。

2023年10月28日 気分爽快武蔵守
松岡城(松岡本城)[南本城城  周辺城郭]



舌状の台地に直列に郭が配置され、各々の郭は堀で区切られています。個々の堀に個性があり、なかなか面白い城です。
①一の堀
②二の堀
③三の堀
④四の堀
⑤五の堀
⑥主郭横の堀
⑦土塁越しの主郭
⑧鯉が泳ぐ主郭

2023年07月18日 ʀᴇᴅ副将軍
松岡古城[南本城城  周辺城郭]



南信の有力土豪である松岡氏初期の居城🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。松岡貞則により築かれた松岡氏最初の居城跡と伝わります。松岡氏の歴史は古く、1056年から1062年の前九年の役で敗れた安倍貞任の次男である仙千代がこの地に逃れ、地頭となり松岡貞則を名乗ったのが松岡氏の始まりとされます。松岡古城はこの頃に築かれ、南北朝時代に松岡城に移るまでの約300年間、松岡氏の本城として機能しました。

見所
松岡城の北西約600mに位置し、城跡碑と樹齢千年以上の夫婦杉、松岡殿奥方と称される雲龍院殿の石碑が立っています。城跡碑の道を挟んだ南側に空堀が残ります。松岡城からほど近いので併せての訪城をオススメします。

2022年08月21日 ほりーないと信濃守
茶臼山狼煙台(茶臼山砦)[南本城城  周辺城郭]



地元の喬木村居住の方に聞いても場所がわからない?!「茶臼山狼煙台」
県道456号から喬木村と豊丘村の境にある尾根を走る道路を東へ向かって登ると「茶臼山公園」があります。駐車場はないので路駐して下さい。車も人もほとんど通りませんが、熊の目撃情報が2~3年に一度あります。

標高720m、南信州を一望できます。史料・伝承など詳細不明ですが、喬木村歴史民俗資料館には知久氏の砦と説明展示がありました。知久氏は武田信玄と戦い、最終的に降伏しました。その後、武田氏の狼煙台となりました。公園化されていますが、土塁の痕跡や腰曲輪などが確認できます。

毎年開催される武田信玄狼煙リレーでは茶臼山狼煙台(加々須茶臼山)が会場になっています。のぼり旗を入れて撮影しましたが、文字が反転してます…。
2022年8月狼煙リレーでは喬木村の子ども達を対象に歴史講座を開くそうです。狼煙リレーを通じて、お城好きの仲間が育つ事を願います。

2022年02月22日 ほりーないと信濃守
高岡第1号古墳[南本城城  寺社・史跡]



飯田市座光寺地区には76基の古墳があったと記録されています。鈴岡城がある竜丘地区に次ぐ古墳地帯です。
高岡第1号古墳はこの地域の最大級の前方後円墳で、6世紀前半の構造と推定され、築造時の原型をよく残しています。座光寺南本城や元善光寺から徒歩10~15分くらいです。駐車場もあります。
「麻績の里」と呼ばれる座光寺地区には古墳時代から人々が住み、飛鳥時代に元善光寺が建立され、戦国時代にはいくつもの城があった…。少し足を延ばして2000年浪漫の郷を歩く…おすすめです。

2022年02月20日 ほりーないと信濃守
麻績神社[南本城城  寺社・史跡]



(座光寺南本城・北本城のパンフレットより)
麻績神社は南本城の麓からの入口としても重要な位置であり、南本城は麻績神社の社叢(しゃそう)としても大切にされてきました。遺構がよく残っているのは、麻績神社の社叢となったことも大きな要因と考えられます。

境内には「旧座光寺麻績学校校舎」「麻績の里 舞台桜」があり、桜の時期には多くの人が集まります。
座光寺南本城・座光寺北本城のパンフレットが置いてあります。とても広い駐車場があります。桜の時期以外は問題なく駐車できます。

【旧座光寺麻績学校校舎】
長野県内最古の学校校舎。校舎と歌舞伎舞台の複合建物です。この舞台で市民有志の劇団の公演が行われた事があります。
【麻績の里 舞台桜】
推定樹齢350年、エドヒガンの突然変異種「半八重紅彼岸枝垂れ」です。1本桜の宝庫である南信州の中でもファンがとても多いです。ライトアップもしています。
写真は昨年3月末に座光寺南本城を攻めた後に撮影しました。

2022年02月19日 ほりーないと信濃守
元善光寺[南本城城  寺社・史跡]



(パンフレットより)
推古天皇10年(602年)に本多善光公が難波の堀にて阿弥陀如来様にめぐりあい生まれ故郷(麻績の里)へお連れし、お祀りしたのが元善光寺の起源です。
その後、御告げにより芋井の里(長野市の善光寺)に阿弥陀如来様を御遷しすることになった時、再び御告げがあって「毎月半ば十五日間は必ずこの故里(飯田)に帰りきて衆生を化益せん」との御誓願が残されました。
「善光寺と元善光寺と両方にお詣りしなければ片詣り」といわれています。

長野市の善光寺と同じく数えの七年に一度、丑年と巳年に御開帳が行われています。昨年春に行われる予定でしたが、今年(2022年)春に延期されています。
麻績神社から遊歩道で350m、とても近いです。麻績神社の裏山は「座光寺南本城」ですので、城攻めと一緒に元善光寺詣り…おすすめです。

2022年02月15日 ほりーないと信濃守
田村の城山城[南本城城  周辺城郭]

下伊那郡豊丘村の洞岩寺の裏手にあり、神之峰城の支城と考えられています。武田軍がこの城の南側(伴野川原)の天竜川浅瀬を渡り、知久軍との戦いが始まりました。神之峰城主知久頼元の嫡男頼康は伴野川原で討ち死にし、武田軍は富田城や知久平城などを焼き払い、そして神之峰城が落城しました。

洞岩寺には伊那秩父三十四番札所巡りで訪ねたので、お城がある事を知りませんでした。お寺の方に教えていただきました。知久頼康の菩提寺です。現在の城山城は洞岩寺の樹木葬の墓地となっています。見学をさせていただきました。狼煙台跡と伝わっており見晴らしが良い所です。ここに樹木葬…色々考えさせられます。

伊那秩父三十四番札所はすべて知久氏の旧領地内にあり知久氏との関係が深いです。不思議なご縁を感じました。
※配慮により写真投稿は控えさせていただきます。

2022年02月14日 ほりーないと信濃守
座光寺北本城[南本城城  周辺城郭]



座光寺地域自治会で立ち上げたガイド組織「浪漫の郷 座光寺案内人」の皆様の案内で3ヶ月程前に訪城しました。「座光寺南本城」の隣が「座光寺北本城」です。
先人様の口コミのとおり、座光寺小学校で遺構が消えています。ガイドさんから「堀や南曲輪の虎口があった」と発掘調査の写真を見せていただきました。南曲輪の先端には「北本城古墳」があります。座光寺小学校は敷地内に城跡と古墳があるスゴい学校です。日曜日の見学は小学校の了解を得ているそうです。敷地内の見学は確認した方が良いと思います。
話は少し変わります。城友さんたちの愛読書「信濃の山城と館」の著者の話をガイドさんから聞く事ができました。自分の足で城へ行き、巻き尺で曲輪や堀を一つ一つ測量…その現場に立ち会った事があるそうです。作成された縄張図は信濃の宝だと思います。

【写真】
①西曲輪の井水(堀)と土塁
空堀だったところに水が出たのではないか(ガイドさん談)
②堀(耕雲寺境内と保育園の間)
③北曲輪の北側の堀
④小学校グランド
体育館沿いに堀…想像して下さい
⑤小学校南側の堀(人工的な川)
堀沿いには通学路があり、その先には尾根を断つ堀切があります。
⑥案内板
※案内当日ではなく、後日(日曜日)に撮影しました

2022年02月12日 ほりーないと信濃守
南本城城



座光寺地域自治会の皆様が25年前に整備をはじめた城跡です。ガイド組織「浪漫の郷 座光寺案内人」を立ち上げ、3ヶ月程前に案内していただきました。

座光寺氏が築いたと推定されていますが、文書が残されておらず詳しい事はわかりません。遺構の規模とその複雑な縄張りからして、座光寺氏単独で普請したとは考えにくいです。武田氏の手が加わったのか…想像が膨らむ城です。

座光寺氏は信濃源氏の片切氏の分流説や神氏(諏訪上社)後裔説があります。戦国時代、武田氏の配下となりました。その後、秋山虎繁と共に岩村城を守り、織田氏に逆さ磔に処されました。

地元自治会による整備活動は続いています。木が伐採されて少しずつ見やすくなり、訪城の度に新鮮さを感じます。「浪漫の郷 座光寺案内人」の皆様から「多くの方にぜひ来て欲しい」とメッセージがありました。座光寺南本城の徒歩圏内に元善光寺や様々な史跡がありますので、一緒に巡るのもおすすめです。
(この城の先人様の口コミがありますので、そちらもご参照下さい)

【写真】
①北曲輪の北側の堀
これほど複雑に折れた堀は、伊那谷でも南本城だけです(パンフより)
②北曲輪から見た北側の土橋
③北曲輪の土塁
複雑な土塁、撮影が難しい…
④本曲輪近くの石積?
自然ではあり得ないが、石積だと立証する資料がない(ガイドさん談)
⑤東側斜面の横堀
⑥西曲輪の南尾根を断つ堀切
⑦本曲輪の土塁
現在、キツネ城主様が住んでいます
⑧案内板
城内の色んな所に設置されています
※案内当日ではなく、後日撮影しました

2021年10月24日 ほりーないと信濃守
阿島陣屋[南本城城  周辺城郭]



【阿島陣屋】
関ヶ原の戦の翌年、知久則直は旧領地の一部を安堵され阿島に陣屋を築きました。以来明治維新まで知久氏の本拠となりました。

【曙月庵】
知久陣屋御殿茶室。1848年に造営されたもので、茶室としては類い希な二階建てであり、当初位置に残り明治以降の改造が少ない等、貴重な建造物です。(パンフレットより)
一般公開はされていませんが、予約をすれば見学ができます。有料でお茶会などの利用ができます。

【阿島傘】
知久氏が預かった「波合関所」で旅人が倒れて関守が看病したところ、謝礼に和傘の製法を伝えたそうです。知久氏は和傘に必要な材料が領内でほぼ揃っている事に目をつけ、この地域の地場産業として広められました。
現在、阿島傘は陣屋のある喬木村の特産品となっています。地域おこしイベントとして曙月庵で展示会が開催されています。

2021年07月17日 ほりーないと信濃守
松岡城(松岡本城)[南本城城  周辺城郭]



【松岡城】
天竜川の河岸段丘を利用して築城された城。舌状の段丘先端から本曲輪、二の曲輪、三の曲輪と作られています。城内の大部分が開墾されて田畑となっていますが、深く掘られた数条の掘跡は概ね現存しています。
写真1 二の掘
写真2 一の掘
写真3 山麓虎口
写真4 東側斜面にある横掘

【松源寺と井伊家】
松岡城の五の曲輪にある寺。松岡氏によって建立された。今川氏に追われた井伊直親(井伊直政の実父)が12年間にわたって匿われた。その時に代官の娘と間に1男1女を儲けたとされ、その子孫が江戸時代に飯田城下町へ移住し、飯田井伊家として現在まで継続しています。
写真5 本曲輪からの眺め(浜松方面を望む)

2021年04月05日 【城郭道】たっきー
松岡城(松岡本城)[南本城城  周辺城郭]

【松岡城の歴史】
松岡城が作られたのは南北朝時代で敵の攻撃を防ぐことが大きな役割であったため、階段状の地形(河岸段丘)を活かして作られた。堀、土塁等で作られ、土の城として機能し、戦国時代まで整備された。

【松岡氏】
平安時代に松岡氏が始まったという。今の高森町あたりを自治。南北朝時代に松岡城を作り、拠点としていたが、戦国時代終わり頃に徳川家康によって改易された。

【亀之丞(井伊直親)】
井伊直政の父である亀之丞は九歳の時に命を狙われ、井伊氏に関わりがあった松源寺に逃れ、10年の時を過ごした。
(大河ドラマでも紹介されていたような気がします。)

2021年04月05日 【城郭道】たっきー
松岡古城[南本城城  周辺城郭]



松岡氏が松岡城に移るまでの居城。現在、南東の窪地が堀と見られています。少し、高くなっているところにあり、石碑と説明板もあります。
松岡城と同じように高森町史跡で、しっかりしています。
松岡城リア攻めの際に一緒に行くと良いと思います。

2021年04月04日 能登守さとみっくす
松岡城(松岡本城)[南本城城  周辺城郭]



なかなか綺麗な城。この辺りに来たならば行くべき城。また、松岡城に行ったらすぐそこの松岡古城にも行くべき。

2021年04月04日 【城郭道】たっきー
松岡城(松岡本城)[南本城城  周辺城郭]



雨の中、松岡城に行きました。雨でも十分楽しめる城。

五の曲輪の駐車場から四の曲輪へ行き、三の曲輪に入る前の三の堀がもう迫力です。もういきなりやられますね。それでもなんとか三の曲輪に入り、二の曲輪へ入ろうとするとおそらく城内で最も深い堀に出逢います。この堀には入れるようになってますね。

二の曲輪は松岡開祖五百年碑があります。次の本曲輪は堀に続いて土塁もあります。土橋の左の土塁には出構があります。土橋への横矢が効いてますね。本曲輪は入ると結構広いです。一番奥に松岡城の石碑があります。景色が雨だったので雲が山にかかって綺麗でした。本曲輪から下は帯曲輪が連なっています。時間がなかったので帯曲輪の説明板があるところから引き返して本曲輪の下(犬走のようなところ)を通って二の曲輪に行きました。詳しくは駐車場付近に置いてあるパンフレットを見てください。

なかなか良い城でした。3000城の中に入ってないのが惜しいくらいです。日本にはこんな感じに3000城に入ってなくても良い城はあるので是非、自分で調べて3000城以外の城へも行ってみてください。

2020年11月02日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
松岡城(松岡本城)[南本城城  周辺城郭]



とにかくすごい!案内してくれた南信のお友達にただただ感謝。帯曲輪より下までいかなければ足腰の丈夫でない方でも十分楽しめます。これで未登録とは勿体ないと思います。

写真は二の堀、本丸下帯曲輪などですが、規模の割には短時間で楽しめるからオススメです。

2020年01月04日 OROKA参議
座光寺北本城[南本城城  周辺城郭]



ナビ等で座光寺小学校を目指してください。城跡はほぼ小学校になっております。駐車場は特にないので私は校門の横に案内板があるのでその付近に路駐させていただきました。(自己責任で)

本郭は学校で遺構が消えているものの、周辺には遺構が結構残っているので散策してみると意外と楽しめます。
見所は座光寺保育園沿いの土塁、耕雲寺前から続く空堀と堀底道でしょうか。学校の中には井戸跡や土塁がありそうですが不審者扱いは怖いので休日でも入れずf(^_^;

全体的な雰囲気としては「館跡」で防御施設は南本城と比べると弛い…けど、ガチガチに固めてある山城の南本城よりも高い位置にあるというのが面白い。これが南信の館の特徴なのか、南本城は織田家の侵攻に備えた武田家が改築したという説の裏付けになるのか…想像が膨らみますな。

2020年01月03日 OROKA参議
南本城城



元善光寺のすぐ西にある麻績神社の裏手の山が城になります。麻績神社には広い駐車場もあります。

神社から本丸は登り10分強ほど。木々が多いものの、それなりに整備されてるので見やすいです。見所は各竪堀と土橋、本丸の土塁や奥にある馬出です。
探せばいろんな遺構の出てくる良い城です。元善光寺と一緒に見学しては(´▽`)

南本城城の周辺スポット情報

 案内板(碑・説明板)

 松岡城(松岡本城)(周辺城郭)

 松岡南城(周辺城郭)

 座光寺北本城(周辺城郭)

 松岡古城(周辺城郭)

 阿島陣屋(周辺城郭)

 田村の城山城(周辺城郭)

 茶臼山狼煙台(茶臼山砦)(周辺城郭)

 陣原(周辺城郭)

 洞頭城(周辺城郭)

 大下砦(周辺城郭)

 市田陣屋(周辺城郭)

 古御家(古御屋)(周辺城郭)

 大丸山物見(周辺城郭)

 次郎城(周辺城郭)

 坂巻城(坂牧城)(周辺城郭)

 浅間山城(周辺城郭)

 芦川殿館(周辺城郭)

 阿島城原城(周辺城郭)

 伴野古城(周辺城郭)

 南城(本城・小園城)(周辺城郭)

 宮崎氏館(周辺城郭)

 松源寺(寺社・史跡)

 松源寺山門(寺社・史跡)

 元善光寺(寺社・史跡)

 麻績神社(寺社・史跡)

 高岡第1号古墳(寺社・史跡)

 飯田駅観光案内所(御城印)

 座光寺自治振興センター(御城印)

 松岡城駐車場(駐車場)

 麻績神社駐車場(駐車場)

 北側登城口(その他)

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