駒場城(こまんばじょう)
駒場城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長野県下伊那郡阿智村駒場城山
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 林氏?
築城年
- 応永年間(1394〜1428)
主な改修者
- -
主な城主
- 林氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
鈴岡城(長野県飯田市)[9.3km]
松尾城(長野県飯田市)[9.7km]
飯田城(長野県飯田市)[11.7km]
妻籠城(長野県木曽郡)[20.5km]
大島城(長野県下伊那郡)[22.1km]
和田城(長野県飯田市)[22.4km]
苗木城(岐阜県中津川市)[24.2km]
船山城(長野県下伊那郡)[25.1km]
岩村城(岐阜県恵那市)[27.5km]
飯島陣屋(長野県上伊那郡)[31.5km]
駒場城の口コミ情報
2024年03月08日 ほりーないと
宮下家住宅[駒場城 寺社・史跡]
県宝・宮下家住宅は、国道153号線(三州街道)と国道151 号線(遠州街道)の間に位置します。戦国時代、武田氏は国境である伊那地方にいくつもの関所を設けました。江戸時代になってからも、関所はそのまま設置されました。その一つである心川関所は、三州街道と遠州街道を連絡する道を押えるため設けられ、阿島知久氏が預かりました。宮下家が責任を持つ関所でした。通行手形が宮下家に現存しています。
長篠の戦いの後
敗走する武田勝頼一行は菅沼定忠の案内で田峯城で休息するつもりでしたが、留守居に入城を拒否されました。武節城で一夜を明かし、信濃→甲斐へと逃れました。その翌年、信濃に身を潜めていた定忠は田峯城を襲いました…。
このことが後世に伝わったのは、勝頼一行を田峯城〜武節城〜信濃まで道案内した喜八が田峯村に戻り、後に庄屋となって「小野田家遺詺書」を記したからです。喜八は信濃から田峯村へ戻る時に、徳川支配下となった三州街道を避け、浪合(三州街道)から脇街道(複数ルートあり)を通って遠州街道へ出たそうです。
織田軍の武田攻め
三州街道の関所であった滝之沢城を吉岡城の下条氏が守っていましたが、吉岡城主の弟が織田方に寝返りました。織田軍は伊那→諏訪→甲斐に進み、武田氏は滅亡しました。
宮下家の当主はその危機をいち早く察して、吉岡城から奥方と幼い若君を助け出して、三州黒瀬へ逃したそうです。
江戸時代になると、三州街道を多くの中馬(輸送業)が行き交いました。滝之沢城は波合(浪合)関所となりました。心川関所は脇街道なので、波合関所のような交通量ではなかったようです。戦国時代、人が道を通って情報が伝達されました。脇街道の監視は重要だったと思います。
阿南町のホームページには「宮下家住宅は、江戸時代中頃(1700年頃)の建築で、長野県の中南部に見られる本棟造の母体と考えられる"棟持柱構造"が特色の民家住宅である」と書かれています。宮下家は1332年に遠州宮口よりこの地へ移ったとされます。雛人形の展示期間中は住宅の中を見せてもらえます。逆光だったので構造がわかる写真を撮れなかったです。
2024年01月11日 ほりーないと
大沢城(古城)[駒場城 周辺城郭]
下條村の吉岡城址公園から国道151号線を阿南町富草方面へ走行すると「古城八幡社」「バス停"古城"」など、お城好きには気になる案内板があります。
大沢城の主郭は古城八幡社です。説明板には「武田氏の一門 下条伊豆守源頼氏が甲斐国下条郷から大沢の地に入り、ここに城を築いた…」と書かれています。6代康氏のときに吉岡城(下條村)へ移りました。康氏は信濃守護職小笠原政康の三男です。その後、下条氏は下伊那最大勢力となります。
現在の国道151号線には橋が架けられ、古道(遠州街道)がどこを通っていたのか…よくわかりません。国道151号線沿いには下条氏の城や砦がいくつもあり、これらを訪ねていくのは面白そうだと思いました。下條村では語り継がれてきた民話と伝説のうち11話が1冊の本にまとめられています。そこには下条氏のことが多く書かれています。
2023年07月07日 ほりーないと
武田勝頼首検分の処[駒場城 碑・説明板]
天正10年(1582年)3月13日、織田信長は岩村城から根羽に進み、14日には浪合に陣取り、そこで武田勝頼父子の首を実検したといいます。そして、15日、信長は飯田に進軍し、勝頼父子の首をさらしたのです。(飯田市歴史研究所編集「飯田・上飯田の歴史」より)
"武田勝頼首検分の処"は、信濃と三河を結ぶ伊那街道(中馬街道)、極楽峠を越え下条村への道、和知野川に沿って和合を経由して天竜川筋へ出る道が集まる交通の要衝にあります。すぐ近くには江戸時代に"波合関所"を守った浪合村名主の左源太の屋敷があります。左源太と代々名乗り、中馬(江戸時代の物流業)の利権争いでは信濃の代表と記されています。左源太は武田信玄に仕えた波合胤成(原胤成)の子孫になります。胤成は川中島の戦いで軍功を立てました。長篠の戦いで討死にしました。屋敷には現在もご子孫がお住まいになっています。
浪合村は2006年に阿智村へ編入合併されました。阿智村には武田信玄の終焉の地とされる"駒場"があります。長篠の戦いでは、春日虎綱(高坂弾正)は敗報を聞くと駒場において武田勝頼を出迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮し、五箇条の献策を行ったとする逸話があります。阿智村にはこの続きの伝承があります。虎綱は密かに自分の子を阿智村五和に住まわせて信玄の御霊をお守りしたそうです。そのご子孫の現在のお名前は"高坂"さんです。他にも「甲斐から移り住んだ」「川中島で戦った」と伝え聞いてる方々がいるそうです。
石碑があるという事は、そこには色んな歴史があります。伝承も含めて大切にしたいと思いました。
2023年06月28日 ほりーないと
伊豆木陣屋[駒場城 周辺城郭]
伊豆木陣屋の南側の兄川を水堀と見立てると、堀の内に一戸だけお屋敷があります。そのお屋敷は「御下屋敷(おしたやしき)」と呼ばれ、七代目当主長煕が天明5年(1785年)、弟の長著に家督をゆずり、隠居して造営しました。門、主屋、土蔵の一式が残っています。御下屋敷家小笠原家は現代までその家系が存続していましたが、主が不在となり人手に渡る危機がありました。その危機を救った人が私設資料館"小笠原長孝記念館"を運営して、色んな人と一緒に"御下屋敷"を守っています。
"御下屋敷"は様々な交流ができる場所となっています。資料館として展示されている本物の甲冑や武具などを実際に触れる事ができます。その重さやその美しきなどが伝わってきます。館長さんのお話がとても勉強になり面白く、武家文化・美術・歴史などもっと知りたいと思いました。地元の観光会社の歴史ツアーコースにも入っています。
夏になると兄川では蛍が舞います。蛍が舞う夜に御下屋敷で和楽器のミニ演奏会がありました。源氏の小笠原家で平家琵琶を初めて聴きました(感想を書くと長文になるので省略します)。演奏後に和楽器を触らせていただきながら、奏者たちと交流しました。貴重な体験でした。館長さんはこのような交流をこれからも進めたいと話していました。当主の小笠原長孝氏は音楽家でした。演奏会を見守っていただいたように感じました。
【小笠原長孝記念館(御下屋敷)】
刀剣・武具資料館
開館日:日曜日午後(不定期休館あり)
拝見料:大人300円、子ども100円
※拝見料は御下屋敷の維持修理等の費用に充てられます。
2023年04月16日 ほりーないと
伊豆木陣屋[駒場城 周辺城郭]
小笠原資料館は伊豆木陣屋の敷地内に1999年(平成11年)に建築された建物です。写真のとおり築造400年の旧小笠原家書院とは対象的な近代の建物ですが、何故か伊豆木陣屋には合っている感じがします。
資料館の設計者のお一人は伊豆木小笠原家に所縁がある方です。設計者のお母様が伊豆木陣屋で生まれ育ったそうです。伊豆木陣屋の敷地には様々な建物があり、広かった事を伝わるように設計されたそうです。資料館の中の椅子に座って書院が眺められるのが良いです。
同じ設計者の建物に「静岡市歴史博物館」があります。地域限定城めぐり「家康公が愛したまち静岡 ゆかりの地めぐり」で訪れた人が多いと思います。私も静岡イベで行きましたが、小笠原資料館と同じ設計者だとその時は知らなかったです。家康の時代の道の跡を発掘現場そのままに展示しているのはビックリしました。
設計者ご自身が幼い頃に伊豆木陣屋を訪れた事があると思います。その時に歴史ある建物を感じて、今の設計に繋がっていると思います。写真④の馬2匹のシルエットは設計者のお父様が寄贈したものです。伊豆木陣屋には馬2匹がいたそうです。
2022年12月12日 ほりーないと
伊豆木城[駒場城 周辺城郭]
伊豆木陣屋"旧小笠原家書院"の裏山が伊豆木城です。松尾小笠原氏の家臣 伊豆木氏が築城したとされています。伊豆木氏の記録は全くないため詳しい事はわかりません。伊豆木は吉岡城の下条氏との境になるので重要な城だったと考えられています。
旧小笠原家書院の管理人さんに声をかけると登城口まで案内してくれます。案内板は「伊豆木城址近道」の矢印(写真⑧)のみ、管理人さんから「尾根筋を登れば伊豆木城へ着きます」というザックリな案内があるだけでした。どこが尾根筋なの?という藪多めの状態ですが、登っていくと3つある曲輪の1つに辿り着きます。曲輪の間には美しい堀切が待っています。縄張り図がないと迷子になりそうですが、熊に遭遇する心配はなく、迷子になっても何とかなる城跡です。
写真⑥は水堀ではなく、江戸時代になってから空堀に水を引いて溜池にしたもので「御泉水」と呼ばれています。その水は田んぼに利用されました。写真⑦は伊豆木城から見た田園風景です。
旧小笠原家書院を知っていても、裏山が城跡である事を知らない人が多いです。セットでの訪城がおすすめです。近所にお住まいの方は伊豆木城が子どもの頃の遊び場だったそうです。その方のお孫さんも伊豆木に来ると城山(伊豆木城)へ遊びに行くそうです。羨ましい遊び場です。
伊豆木城の登城口には立入禁止の看板がありますので、管理人さんに声をかけて下さい。旧小笠原家書院の休館日はソッと登城して大丈夫なようです。
2022年09月14日 ほりーないと
伊豆木陣屋[駒場城 周辺城郭]
伊豆木小笠原家の居館の一部「小笠原書院」は、南の3分の1を崖上に突出した懸造りで全国的にも珍しい遺構です。国の重要文化財に指定されていて見学(有料)できます。
裏山は、松尾小笠原氏に属する伊豆木氏によって戦国末期頃に築城された「伊豆木城」です。伊豆木氏の居館跡に伊豆木小笠原家の陣屋があります。
小笠原書院では受付の方が案内してくれます。伊豆木小笠原家の歴史に大変詳しくて親切な人たちです。そこで貴重なお話を聞きました。
小笠原書院は寛永初年(1624年)頃に建立され、もうすぐ400年を迎えます。現在、当時の姿に戻す取り組みをしています。書院の西南側の竹藪を伐採して遠くから懸造りの姿が見えるようになりました。庭園の土の表面10cmを庭師さんと地元の人たちが運び出して再生しています。
書院の南側には兄川が流れていて、そこにある石垣は当時のものと考えられます(調査予定あり)。
【御下(おした)屋敷】
小笠原書院の西側に、門、主屋、土蔵の一式を残す武家屋敷があります。七代目当主長煕が隠居して御下屋敷小笠原家が興り、現代までその家系が存続していました。
主が不在となり人手に渡る危機がありました。その危機を救った人がいます。小笠原書院の庭園の再生をしている庭師さんです。小笠原書院以外にも文化財の庭園を手掛けているそうです。御下屋敷小笠原家と交流がありました。
登録有形文化財を目標に私設資料館「小笠原長孝記念館(御下屋敷)」を運営しています。開館は日曜日午後(拝観料 大人300円 子供100円・予告なし休館あり)。武家文化・美術(甲冑、武具、文書など)に関する展示があります。展示品は庭師さんが集めたものと、ご自身の家に伝わるものです。
御下屋敷は専門家による調査が入り、江戸時代の姿に復元する予定です。そして…地元の人たちが交流できる場、若い人たちが交流できる場にしていくそうです。お城好きさん、歴史好きさんも利用できると思います。
庭師さんの話より
歴史ある"景観"を大切にしたい。御下屋敷が人手に渡り、現代のアパートが建つような事を避けたかった。伊豆木城も手入れをして人が来る場所にしたい。文化財を守るには行政だけを頼りしてはいけないと話していました。
この話を聞く事ができて良かったです。城めぐの口コミ投稿などを通じて、色んな人に知って欲しいと思いました。
2022年09月08日 ほりーないと
滝之沢城[駒場城 周辺城郭]
天正10年(1582年)2月、下条氏長が主君の吉岡城主・下条信氏を裏切り、織田信忠軍(河尻秀隆)を引き入れた「滝之沢城」
武田信玄により伊那街道に設けられた関所の一つが滝之沢関所(とつばせ関所)です。関所を設けた頃に滝之沢城が築城されたと考えられていますが、史料・伝承等がなく全く不明です。
問題は場所です。往古より平谷村と浪合村(現在は阿智村)には境論争がありました。"とつばせ"という地名が伝えられていません。平谷村の靱地籍の近くに「滝沢」という地名がある事や、地形的にみて、この場所が比定されました。
滝之沢城の陥落後に信忠軍本隊、そして、岩村口より信長軍本隊が伊那谷へ侵攻しました。その2ヶ月半後に本能寺の変が起きました。
その後、滝之沢関所は飯田城主京極氏・代官宮崎氏によって支配されました。
元和七年(1621年)に浪合村へ移り、「波合関所」として旗本知久氏が管理しました。
滝之沢城からは狼煙台「蛇峠山」が見えます。木々が邪魔になるので、投稿写真は滝之沢城近くから撮影しました。蛇峠山の目印は業務用アンテナです。
本陣比定地へ登る道にはお堂があり、"赤子石"が祀られています。
2022年07月03日 ほりーないと
極楽峠パノラマパーク[駒場城 その他]
標高994m、武田信玄狼煙リレー会場の一つです。下條村と阿智村(旧浪合村)の境にあり、車で行く事ができます。眺めがとても良く、飯田下伊那地区の狼煙リレー会場をほとんど見ることができます。
極楽峠は東山道の間道の一つとして発達したと言われる古い歴史がある道です。戦国時代は信濃国と東海地方を結ぶ軍用道路でした。
この峠には狼煙台の伝承がありますが、「信濃の山城と館⑥」には極楽峠砦と断定することは難しいと書かれています。極楽峠から蛇峠山狼煙台(旧浪合村)は見えません。狼煙台を2~3㎞間隔で設けないと狼煙は繋がりません。
昨年(2021年)狼煙リレーでは、久米ヶ城から極楽峠の狼煙を確認し、神之峰城や富田城にリレーされる狼煙を実際に見る事ができました。
今年の狼煙リレーは地区別に開催されます。下伊那~上伊那は8月27日(土)です。
戦国時代の狼煙は、どのように繋がったのでしょうか…。
2022年06月10日 RED副将軍
伊豆木陣屋[駒場城 周辺城郭]
伊豆木城に続いて麓の伊豆木陣屋の投稿です📮陣屋の書院が現存し、旧小笠原家書院として重要文化財に指定されています✨
オススメ度 ★★★★⭐︎
文亀年間(1501年〜1504年)に信濃国守護小笠原氏家臣の伊豆木氏が背後の山に伊豆木城を築城したと云われ、もともと山麓には居館があった様です。
1582年、織田信長による信濃侵攻において落城し、伊豆木氏は滅亡。その後、徳川家康に仕えていた松尾の旧城主だった小笠原信嶺の弟・小笠原長巨が1600年に伊豆木1千石を与えられ、麓に陣屋を構えました。廃藩置県まで陣屋は存続していましたが、明治にほとんどの建造物が取り壊され、書院だけが残存しました。
見所
現存する武家の書院は1624年の築造で貴重なもの。特に清水寺の舞台などで知られる懸造が素晴らしいです。内部は格天井、花頭窓、欄間、虹梁等、非常に丁寧で贅沢な造作でした。
2022年06月09日 RED副将軍
伊豆木城[駒場城 周辺城郭]
マイナーですが、3つの曲輪を区切る鋭い大堀切と周囲の段曲輪が見事です✨
オススメ度 ★★★★⭐︎
文亀年間(1501年〜1504年)に信濃国守護小笠原氏家臣の伊豆木氏が築城したと云われています。1582年、織田信長による信濃侵攻において落城し、伊豆木氏は滅亡した様です。
その後、1600年に松尾の旧城主だった小笠原信嶺の弟・小笠原長巨が麓に陣屋を構えました。
見所
東西に大きく3つの曲輪が連なり、それぞれが鋭い大堀切で区切られています。いずれも曲輪の規模は大きく、主郭の特定は困難ですが、中央の曲輪が最も防御性が高いと思われます。周囲には段曲輪が明瞭に残り、櫓台も確認できます。
行き方は、小笠原家書院(伊豆木陣屋)の裏山であり、小笠原家書院の受付で伊豆木城を見たい旨を伝えると登城口まで案内していただきました。登城口には立入禁止の看板が建ち、無断進入はダメです。
2022年05月30日 ほりーないと
吉岡城[駒場城 周辺城郭]
城好きになると「こんな所にお城があったんだ!」と再発見する事があるのではないでしょうか。場所は下條村の阿南町境近く、主郭と二の曲輪の堀が国道151号になっています。主郭は公園となっていて、駐車場から徒歩2分の主郭西側の堀は素晴らしいです。
小笠原氏から康氏を養子に迎えた下条氏が、1475(文明7)年築城して居城を大沢城(古城)から移したそうです。9代下条信氏は武田信玄の妹を妻に迎え、武田軍の伊那谷先方衆として三河方面に軍功を現しました。織田信長に追われ三河に逃亡し、徳川家康を頼り再び吉岡城主となりますが、1587(天正15)年に改易となりました。
信濃⇔三河、信濃⇔遠江の城旅ルートとして国道151号を通る方が多いと思います。コンビニも道の駅も少ない国道ですので、吉岡城の堀を見ながらの休憩…おすすめです。
2022年05月22日 ほりーないと
武田信玄公火葬塚[駒場城 寺社・史跡]
阿智村の長岳寺にある武田信玄公灰塚供養塔は四百年祭に火葬塚より灰をうつし、供養塔としたものです。
中馬街道の宿場町「駒場宿」イベントで阿智村歴史講座の講師の方にお会いして歴史トークをしていると…「火葬塚へ行く地図を設置したから、今度は迷わないよ」と教えていただきました。
これから行ってみようと阿智村立第一小学校の隣の「安布知神社」を目指しました。神社に向かって右手に大きな案内板があります。その近くに地図が設置されています。地図のとおり中央道をトンネルで横断して、そのまま細い山道を進みます。簡易水道施設があり、ここまで車で行けます。細い山道の運転が苦手な方は神社から徒歩が良いと思います。車を下りるとまた地図があり、そのとおりに徒歩で山を登ります。簡易水道施設から徒歩10分くらいで火葬塚に着きました。
武田信玄公火葬塚は木々に囲まれ、落ちいた所でした。向かう途中の道からの眺めはとても良かったです。
所々に地図が設置されていて、わかりやすかったです。阿智村では歴史のまち歩きガイドツアー(有償)をはじめたばかりです。史跡への道案内などが整備されていくと思います。城山(駒場城)ガイドは手付かず状態との事でしたので「お城もぜひ!」と担当者さんにお願いしました。
2022年03月21日 ほりーないと
駒場城
一昨年秋に先人様たちの口コミ「車で行ける」を読んで行ってみましたが、全面通行止でした。今年2月に地元新聞「駒場城趾で遊歩道整備」記事があり再登城しました。
【こまんば城址】(写真①)
中央道と国道153号から看板がよく見え、駒場城の位置確認ができます。
【阿智公園を目指す】
駒場宿から下條村方面へ向かい、阿知川の中之橋を渡る。「阿智公園」案内板のとおり右へ進むと、もう一つ案内板(写真②)があり、その先が細い山道です。
山道が苦手な方は駒場宿からの徒歩がおすすめです。山道エリアには駐車場がないので自己責任で路駐して下さい。私は山道エリアに入ってすぐの稲荷神社に駐車(路駐)しました。
【全面通行止の道】(写真③)
稲荷神社から徒歩10分くらいで右へ別れる道があり全面通行止の看板があります。この先に駒場城があり徒歩で登ります。この辺りに路駐可能です。
全面通行止の道は駒場城の整備のために車両が入っているので道自体は大丈夫です。所々に落石の危険があり通行止解除はできないと思われます。雨天直後は登城を控えた方が良いです。
【信玄のろし台】
全面通行止の看板から徒歩10分くらいで駒場城に到着。三の曲輪にある看板は以前「信玄のろし台」と書かれていました。眺めがとても良く、武田信玄狼煙リレー会場の久米ヶ城や水晶山などが見えます(写真④)。
【駒場城の整備】
草刈りや木の伐採がされています。登山道が車道ですので歩きやすく初心者も楽しめると思います。
しかし…遊歩道整備で西側の四連続の竪堀などが破壊されていました(泣) 残っている主郭西側の竪堀(写真⑤)は素晴らしいです。
2022年03月06日 ほりーないと
長岳寺[駒場城 寺社・史跡]
弘仁年間に創建。武田信玄の遺品の前立てが寺宝として所蔵され、十三重の供養塔があります。寺宝は有料拝観です。長岳寺の目の前を流れる阿知川の対岸には駒場城があります。
【武田信玄公灰塚供養塔】
信玄公は、野田城攻めの最中に肺肝を得、病が重くなり三河から帰途、元亀四年(天正元年)4月12日、信州伊那の里駒場の山中で落命されました。信玄公の死を秘めて身代わりを甲州に送り、裕教法印(下条家出身の住職)と共に、裏山にて火葬にふしました。この塔は四百年祭に火葬塚より灰を移し、供養塔としたものです。
(パンレットより)
長岳寺がある阿智村は古来より様々な人の往来がありました。ヤマトタケル、源義経などの伝説が残っています。武田信玄は通路の守りとしていくつかの関所を設置しました。
江戸時代には中馬街道(三州街道)の宿場として駒場宿は栄えました。現在は大正時代の旧銭湯「玉の湯」など趣深い建物が残っています。
満蒙開拓平和記念館があり、長岳寺の「望郷の鐘」には平和への願いが込められています。
お城がある所には色んな歴史があります。
2022年02月07日 ほりーないと
大平宿[駒場城 その他]
飯田藩によって江戸時代中期に伊那谷と中山道の妻籠宿を結ぶため、建設された"大平街道"。そのほぼ中間地点、標高1150mの大平高原と呼ばれる山中に宿場「大平宿」があります。
昭和30年代に清内路峠を越える国道256号が開通して大平街道の物流や交通が減少。昭和45年に集団移住を決定し、大平宿は約250年の歴史に幕を下ろしました。現在は保存された古民家で宿泊体験ができます。
【女性たちと大平街道】
江戸時代、街道には関所が設けられ、「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。実際は、多くの女性が善光寺を目指して旅をしました。どのように関所を抜けたのでしょうか…
中山道「馬籠宿」まで来たところで北上せず、"大平街道"へ進みます。木曽「福島関所」を避けるルートですが、標高1200m以上の峠が二つある険しい街道です。大平街道にも「市瀬番所」がありますが、そこで一番大事なのは「袖の下(お金)」です!
無事に大平街道を通過した女性たちは飯田城見物を楽しんだそうです。
現在の大平街道は…
ドライブ技術が必要になる険しい山道です。雪が降る冬は閉鎖されています。
大平宿にはスマホの電波がありません! 公衆電話が設置されています。
古民家の宿泊体験すると、江戸時代にタイムスリップできるかもしれません♪
2021年11月08日 ファン掃部助トム治郎
駒場城
長岳寺から歩きました。阿智公園の看板にそって阿知川支流に沿った林道を歩き登ること20分。入山禁止の看板あり。たどり着きませんでした。 長岳寺の信玄の遺品は見ごたえあります。
2021年11月01日 カデル織部正
駒場城
長岳寺へ行ってきました。武田信玄の時代の長岳寺は現在の中央自動車道北側にあったそうです。今は高速道路の下だとか。当時はかなり大きな寺院だったそうです。とても残念。御住職から地域と長岳寺、お寺の内陣の色々な話を聞かせて頂きました。小さいながら中身の濃いお寺でした。
2021年10月22日 ほりーないと
波合関所跡[駒場城 寺社・史跡]
【波合関所跡】
戦国時代に武田氏が伊那地方を支配下に置いた時、この地域の豪族を監視するためにいくつかの関所が設置されました。徳川幕府となってからもそのまま関所が設置され「入り鉄砲、出女」が取り締まれました。その一つが「波合関所」です。
礎石や石垣が残り、史実より少し立派な門が復元されています。旧街道「中馬街道(三州街道)」が数百メートル続き、歴史の道を歩くことができます。
江戸時代、取り締まりが厳しい波合関所を避けて別の街道を通り、善光寺参りをした女性が多かったそうです。
「波合」から「浪合」へ地名が変わった現在、私と友人は関所跡でゆっくりと過ごし、出女は先へ進む事ができませんでした。
国境には、お城はもちろん、魅力的な史跡がたくさんあります。
【写真】
①信濃国の入り口となる関所
②礎石が残る関所跡
③旧街道「中馬街道(三州街道)」
④説明板
2018年10月11日 あきおこ
駒場城
【アクセス】
中央自動車道からも見える「こまんば城」と書かれた山にある阿智公園を目指します。
本アプリのマップでは北麓の行止りの道に案内されるので注意が必要。
登城ルートは阿智の町を過ぎ橋を渡りMoterCafeDreamを過ぎたカーブ右側に阿智公園の看板があります。
道なりに進むと三叉路の分岐になるのでUターン気味に山側に登っていく道を進みます。分岐での案内表示はありません。分岐してからは道が細いのと駐車場前は虎口状の急斜面ですので注意が必要です。
麓から車で10分あまり。
駐車場には4台くらい駐車可能。
トイレの中は荒廃状態。
【見どころ】
主郭より奥が見どころ満載で大小5条の堀切、竪堀、南の谷側に複数の小郭を配置しています。
中でも副郭周囲は堅固で大堀切と竪堀で遮断され土木量が半端ないです。
5条目の土橋を伴う低い堀切が城のキワであとは自然地形が山頂まで続きます。
主郭奥は手入れされており遺構は散策しやすいです。
昔、看板には「信玄ののろし場」と書かれており小規模な砦というイメージがありましたが、立派な遺構の残る素晴らしい山城でした。
2017年09月07日 安田大蔵卿秀俊
駒場城
駒場の 長岳寺には
・武田信玄 灰塚供養塔
・馬場美濃守 供養塔
があります。(駒場で死去した信玄を火葬した寺)
2011年04月23日 柿崎信濃守景家
駒場城
ちなみに武田信玄公を火葬した寺・長岳寺が駒場城の目の前に鎮座している。志し半ばで亡くなり、武田氏滅亡のきっかけを作ってしまったことは無念で仕方ありません。
2010年09月06日 若狭守ロングチャリダー
駒場城
三方原の戦いで徳川家康を破った武田信玄は、病気になってしまい、兵越峠を過ぎて、甲斐に戻る途中の、この駒場で没した。
駒場城の周辺スポット情報
竪堀(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
廓(遺構・復元物)
説明板(碑・説明板)
武田勝頼首検分の処(碑・説明板)
滝之沢城(周辺城郭)
吉岡城(周辺城郭)
伊豆木城(周辺城郭)
伊豆木陣屋(周辺城郭)
古城(周辺城郭)
中関の林氏・宮崎氏館(周辺城郭)
備中原の林氏館(周辺城郭)
上中関の堀ノ内(周辺城郭)
上中関の堀ノ内(大屋敷)(周辺城郭)
上中関の堀ノ内(陣屋畑)(周辺城郭)
原氏館(周辺城郭)
御所平(周辺城郭)
蛇峠山狼煙台(周辺城郭)
仁王関城山砦(風越山)(周辺城郭)
大沢城(古城)(周辺城郭)
育良山狼煙台(周辺城郭)
足畑山狼煙岳砦(烽岳)(周辺城郭)
火ふり場(周辺城郭)
城山塚沢砦(周辺城郭)
狼煙岳(周辺城郭)
小松原城(周辺城郭)
小松原の城(原氏館)(周辺城郭)
粒良脇砦(周辺城郭)
鐘突堂砦(周辺城郭)
極楽峠砦(焼小屋)(周辺城郭)
八幡城(周辺城郭)
矢草城(家古沢城・井戸城)(周辺城郭)
砦山城(周辺城郭)
分外山狼煙台(周辺城郭)
殿上(田上)狼煙台(周辺城郭)
左京城山(城山)(周辺城郭)
大峯山城(長田山)(周辺城郭)
川手氏砦(城山)(周辺城郭)
卯月山城(周辺城郭)
波合関所跡(寺社・史跡)
長岳寺(寺社・史跡)
武田信玄公火葬塚(寺社・史跡)
お社(寺社・史跡)
宮下家住宅(寺社・史跡)
駐車場(駐車場)
大平宿(その他)
極楽峠パノラマパーク(その他)
神坂峠(その他)
登城口(その他)