宮下家住宅

宮下家住宅([駒場城  寺社・史跡])

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宮下家住宅の口コミ情報

2024年03月08日 ほりーないと


県宝・宮下家住宅は、国道153号線(三州街道)と国道151 号線(遠州街道)の間に位置します。戦国時代、武田氏は国境である伊那地方にいくつもの関所を設けました。江戸時代になってからも、関所はそのまま設置されました。その一つである心川関所は、三州街道と遠州街道を連絡する道を押えるため設けられ、阿島知久氏が預かりました。宮下家が責任を持つ関所でした。通行手形が宮下家に現存しています。

長篠の戦いの後
敗走する武田勝頼一行は菅沼定忠の案内で田峯城で休息するつもりでしたが、留守居に入城を拒否されました。武節城で一夜を明かし、信濃→甲斐へと逃れました。その翌年、信濃に身を潜めていた定忠は田峯城を襲いました…。
このことが後世に伝わったのは、勝頼一行を田峯城〜武節城〜信濃まで道案内した喜八が田峯村に戻り、後に庄屋となって「小野田家遺詺書」を記したからです。喜八は信濃から田峯村へ戻る時に、徳川支配下となった三州街道を避け、浪合(三州街道)から脇街道(複数ルートあり)を通って遠州街道へ出たそうです。

織田軍の武田攻め
三州街道の関所であった滝之沢城を吉岡城の下条氏が守っていましたが、吉岡城主の弟が織田方に寝返りました。織田軍は伊那→諏訪→甲斐に進み、武田氏は滅亡しました。
宮下家の当主はその危機をいち早く察して、吉岡城から奥方と幼い若君を助け出して、三州黒瀬へ逃したそうです。

江戸時代になると、三州街道を多くの中馬(輸送業)が行き交いました。滝之沢城は波合(浪合)関所となりました。心川関所は脇街道なので、波合関所のような交通量ではなかったようです。戦国時代、人が道を通って情報が伝達されました。脇街道の監視は重要だったと思います。

阿南町のホームページには「宮下家住宅は、江戸時代中頃(1700年頃)の建築で、長野県の中南部に見られる本棟造の母体と考えられる"棟持柱構造"が特色の民家住宅である」と書かれています。宮下家は1332年に遠州宮口よりこの地へ移ったとされます。雛人形の展示期間中は住宅の中を見せてもらえます。逆光だったので構造がわかる写真を撮れなかったです。

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