飯田城(いいだじょう)

飯田城の基本情報

通称・別名

長姫城

所在地

長野県飯田市追手町

旧国名

信濃国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

坂西氏

築城年

13世紀前期

主な改修者

秋山虎繁、毛利秀頼、京極高知

主な城主

坂西氏、秋山氏、毛利氏、京極氏、小笠原氏、脇坂氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、赤門、八間門(移築)

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

松尾城(長野県飯田市)[2.8km]
鈴岡城(長野県飯田市)[3.2km]
大島城(長野県下伊那郡)[10.5km]
駒場城(長野県下伊那郡)[11.7km]
船山城(長野県下伊那郡)[13.7km]
飯島陣屋(長野県上伊那郡)[20.5km]
妻籠城(長野県木曽郡)[23.0km]
和田城(長野県飯田市)[23.2km]
赤須城(長野県駒ヶ根市)[26.4km]
苗木城(岐阜県中津川市)[31.5km]

飯田城の解説文



飯田城(いいだじょう)は、長野県飯田市にあった日本の城(平山城)。江戸時代には飯田藩の藩庁が置かれた。

概要 

13世紀初めに信濃国伊那郡郡戸荘飯田郷の地頭坂西(ばんざい)氏により築かれたといわれる[1][2]。天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、伊那郡は織田家臣・毛利長秀に与えられ、長秀は飯田城を拠点に伊那郡支配を行う。同年6月の本能寺の変により発生した天正壬午の乱を経て、三河国の徳川家康の支援を得た下条頼安が飯田城を掌握し、後に菅沼定利が入城した。徳川勢の関東移封後には、再び毛利秀頼が入り、その娘婿の京極高知に継承され、この頃に近世城郭としての姿が整えられた。江戸時代になると小笠原氏1代、脇坂氏2代と続き、寛文12(1642年)堀親昌が2万石で下野烏山より入封し、以後明治維新まで飯田城に居を構えた。

歴史 

鎌倉時代

坂西氏が飯田に入部。坂西氏は始め松原宿(飯田市上飯田)のあたりに住居をおき、のちに飯坂(飯田市愛宕)に愛宕城(飯坂城)を構えた。坂西氏の出自ははっきりしない。地頭として飯田に来たとも言われるが南北朝時代まで飯田郷の地頭は阿曽沼氏であり、坂西氏は庄官ですらなかった可能性もある[3]。四国阿波の坂西氏とどんな関係があるのかはわからず、阿波守護であった小笠原氏と何らかの関係があったとも言われる。

室町時代

坂西氏はより広い用地をもち展望のきく要害の地を求めて、飯田城を築いて移った。このときその地は山伏(修験者)の修行場となっていたので、愛宕城の土地と交換したといわれる。

武田氏時代

1554年(天文23年)[4]武田信玄が下伊那に侵入し、以後30年間武田氏の領となる。武田氏は南三河国に侵攻するため高遠・大島・飯田を拡張して重要な本拠地としたので、飯田城には武田氏式築城様式が残っている。 1562年秋山虎繁が城主になる[5]が1573年の岩村城主就任に伴い坂西織部亮が城主となる[6]

織田・豊臣氏時代

天正10年(1582年)2月に開始された織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐に際して2月14日には織田信忠による攻勢を受けて城将保科正俊、坂西織部亮、小幡因幡守が高遠城へ逃亡している(『信長公記』『甲乱記』)[7]

構造 

城は天竜川の支流の松川と野底川にはさまれた河岸段丘の先端部分を利用して築かれた平山城である。

縄張は、城郭の東部に本丸を置き、断崖に面して西部に向かって二の丸、桜丸、出丸と曲輪を配していた。建造物としては、東西南北100mの規模で土塀に囲まれた本丸御殿を中心に、7棟の建物が建てられていた。

遺構 

明治維新後は城内に筑摩県の飯田支庁が置かれた。飯田城の遺構はほとんど残っていないが、本丸跡は1880年(明治13年)に創建された長姫神社の境内となり、石塁・空堀・土塁の一部が残っている。二の丸跡には1921年(大正10年)から1982年(昭和57年)まで飯田長姫高校があり、長姫高校の鼎町移転後の1989年(平成元年)から飯田市美術博物館がある。藩主の居館のあった桜丸跡は長野県飯田合同庁舎として利用され、僅かに桜丸水の手門の石垣が残っている。

建物としては、赤門とも呼ばれる飯田城「桜丸御門」が城内に、桜丸の「薬医門」が飯田市上郷別府の経蔵寺に、「馬場調練場の門(脇坂門)」が飯田市馬場町3丁目地内に、それぞれ移築されている。また、文禄年間の建築ともいわれる「八間門」が飯田市松尾久井の民家に移築されて現存する。

桜丸御門

飯田城桜丸御門は桜丸の正門であり、塗られた弁柄の色から「赤門」とも呼ばれている[8]。宝暦3年(1753年)8月に工事が開始され、宝暦4年(1754年)に完成した。屋根は入母屋造であり、妻飾は狐格子と蔐懸魚(かぶらげぎょ)とする。間口の中央に2枚の開板戸があり、追手町小学校から見て左側に小さなくぐり板戸がつけられている。門の脇には別屋根が架けられた番所が突きだしているが、このような例は長野県唯一である。飯田城に関連する建築物としては、唯一桜丸御門だけが建築当時と同じ場所に所在する。長野県で建築当時と同じ場所に所在する城門は、小諸城の大手門と三の門(ともに国の重要文化財)、上田城の藩主居館表門(上田市指定文化財)、飯田城の桜丸御門の4例のみである。

明治時代の廃藩置県後には飯田城の構造物の大半が取り壊されたが、桜丸御門は取り壊されることなく生き残った。飯田県庁舎、筑摩県飯田支所、下伊那郡役所、下伊那地方事務所の正門として用いられていた。1971年(昭和46年)に長野県飯田合同庁舎が完成すると、通用門としての役目を終えたが、地元の要望でそのまま残された。1985年(昭和60年)には土台や塀の修理、色の塗り替えなどの大改修が行われ、同年11月20日には飯田市有形文化財に指定された。その時から扉が開けられることは一度もなかったが、桜丸御殿の夫婦桜が見ごろになるのに合わせて、1999年(平成11年)3月には14年ぶりに開門された。

桜丸御殿の夫婦桜

飯田藩初代藩主の脇坂安元(飯田藩主1617年-1654年)は無類の桜好きであり、「弥陀の四十八願の桜」として飯田藩内の寺院や祠に多数の桜を植えている[9]。嗣子である脇坂安経の死後、脇坂安元が養子として脇坂安利を迎えた際には、御殿の庭園の中心に2本の桜を植えた。「娘と婿殿の婚礼のために植えるのだから、仲良く近くに植えた方がいい」との配慮から、2本の桜を近くに植えたのである。

脇坂安元や庭師は2本ともシダレザクラであると思い込んでいたが、実は片方がシダレザクラ、もう一方は(枝垂れない)エドヒガンだった。近くに植えすぎた2本の桜は次第に根元が結合し、「夫婦桜」(めおとざくら)と呼ばれるようになった。1本の桜が2種類の花を咲き分けているように見えるのが特徴である[10]。シダレザクラとエドヒガンの2種が合体しているのはとても珍しいとされる。2012年時点の推定樹齢は400年。高さは20メートル、根元の幹回りは10メートル。

城下町 

城下は谷川橋を境に橋北5町、橋南13町に別れ、前者が三州街道の宿場町の機能を担った[11]。 問屋は伝馬町と桜町にあり、月初めの10日は伝馬町が、残り20日は桜町が伝馬役を務めた。

江戸時代中期からは中馬輸送の中継地として栄え、「入馬千匹、出馬千匹」と謳われるほど人馬や物資で賑わった。 宝暦3年(1753年)の『千曲之真砂』(瀬下敬忠)には「堀大和守様御城下、高二万石、むかしは大家の御城下のよし、町続きはよく、碁盤割にして、京師をみるがごとく、入口旅籠町あり、それを通り抜けて、谷川といふ橋を渡りて、本町に入る。それより御城大手の前へ懸り、御城は町の左のかたにあり、甚だ賑々しき町也」と、当時の様子が賞賛された。 そのため「南信の小京都」と称されることもあり、かつて全国京都会議に加盟していたこともある。

飯田最古の道標

大横町と殿町の角にある道標。1596年(慶長元年)に建立。現在のものは1879年(明治12年)再建。花崗岩の四角柱で高さ37センチ。東面「今宮 白山 入口」、南面「右 善光寺 甲州」、西面「左 ぜんこうじ」、北面「右 大平木曽 左 三州」と刻まれている[12][13][14]

参考文献 

  • 『長野県百科事典』(1974年 信濃毎日新聞社)
  • 【書籍】「 八間門:田園風景の中で異彩を放つかつての飯田城の城門」

飯田城の口コミ情報

2024年10月27日 ほりーないと
阿島陣屋[飯田城  寺社・史跡]



関ヶ原の戦いに知久則直は徳川家康の小姓組として出陣。その翌年、慶長6年(1601)に旧領の一部三千石を安堵され阿島に陣屋を築きました。

嘉永元年(1848)に造営された二階建の茶室「曙月庵(しょげつあん)」が当初位置に残っています。県内唯一残る武家の茶室です。喬木村役場に予約をすると有料で貸し切ることができます。毎年10月に伝統工芸「阿島傘」展示が開催され、その期間中に無料見学できます。
県道18号の信号「阿島」~「曙月庵」の坂道は"城坂"と呼ばれ、江戸時代初期の石垣が残っています。地域おこし協力隊の方が作成した阿島陣屋の昔と今のマップが曙月庵にあります。個人の感想ですが、昔と今では大きく変わっています。

知久氏の由来
発祥は、諏訪明神の橘大祝氏から分かれた神族といわれ、伊那郡南小河内(上伊那郡箕輪町)にあって在地の名(知久沢山・知久沢川)をとって知久氏と称した。承久の乱(1221年)の直後、知久平(飯田市下久堅)に移住したといわれる。
(喬木村歴史民俗資料館パンフレットより)

戦国時代、知久頼元は武田軍と戦って敗北したことが知られています。その後、頼元の子・頼氏らは徳川家に身を寄せ、旧領に復帰しました。ところが…菅沼定利の策略?により、頼氏は浜松城で自害、後見人は暗殺され…。頼氏の子・則直は徳川家臣・大久保忠世のもとへ逃れました。関ヶ原の戦い…再度復帰して阿島陣屋を築きました。

先日、山梨県甲州市「雲峰寺」へ行き、宝物殿の武田軍旗などを見学させていただきました。この軍旗を見たら戦わず逃げ出したくなります。逃げ出さずに戦った知久氏はすごいと思いました。その挑む力が親から子へ受け継がれて、二度の復帰に繋がったのかもしれません。

※写真は阿島傘の展示の際に撮影しました。知久氏は領内に傘作りに必要な材料がほぼ揃っていることに目をつけ、地場産業として広められました。

2024年09月09日 RED副将軍
知久平城[飯田城  周辺城郭]



飯田下伊那の有力豪族である知久氏の居城🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。鎌倉時代に知久氏によって築かれたと云われます。
知久氏は諏訪大社大祝神氏の支流とされ、鎌倉時代に上伊那郡箕輪上の平より地頭として知久平に築城したのが始まりとされます。
室町時代には新たに神之峰城を築いて居城を移し、知久平城は出城となったとされます。
1542年に武田信玄が伊那に侵攻すると当主の知久頼元も周辺の在地領主と同様に武田氏に帰順。
しかし1553年の第一次川中島の戦いに際して知久氏は座光寺氏らとともに武田氏から離反し反旗を翻します。翌1554年に武田氏は伊那に侵攻し神之峰城は落城。知久氏は没落しましたが、江戸時代には旗本として再興しています。
1582年、武田氏が織田信長によりに滅亡すると、知久平城には徳川家康の家臣である菅沼定利が入城。
1590年に徳川家康が関東移封となると菅沼氏も上野国に移り、知久平城は廃城となりました。

見所
天竜川東岸の河岸段丘上に築かれています。
北から南へ出丸・本丸・二の丸・三の丸・馬出と連なっていましたが、宅地または耕作地となり遺構の大半が消失。
本丸と二の丸の間の空堀は何となく分かりましたが、三の丸の土塁は判別できませんでした。

2024年08月19日 RED副将軍
座光寺南本城[飯田城  周辺城郭]



在地土豪である座光寺氏の山城

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代や築城主等の詳細不詳。座光寺氏の山城と考えられています。
座光寺氏は、源為朝の子の源為家が伊豆大島から信濃国伊那郡に移り座光寺氏を称したとも、諏訪氏の庶流とも云われ、戦国時代は武田信玄に従属していました。

1575年に座光寺為清は秋山虎繁とともに岩村城に籠城し織田信長勢と戦うも討死。座光寺氏は没落しました。

見所
並木沢川と西の沢川に挟まれた丘陵上に築かれています。南北に長い主郭は西から南に掛けて土塁が巡り、腰郭が敷設。北側は土橋が架かる空堀で区切られた先に北郭群が段々に連なります。主郭南側は東西の両尾根に郭群が連なります。東尾根、西尾根ともに深い堀切がありその先にも郭が認められます。

北本城は平時の居館であり、谷を隔てた南本城は大規模な実戦用の戦国末期の城郭であり座光寺氏が滅亡した1575年以降に武田氏、徳川氏などの大勢力により改修されたと考えられています。

2024年08月17日 RED副将軍
座光寺北本城[飯田城  周辺城郭]



在地土豪である座光寺氏の居館跡🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代や築城主等の詳細不詳。座光寺氏の居城と考えられています。
座光寺氏は、源為朝の子の源為家が伊豆大島から信濃国伊那郡に移り座光寺氏を称したとも、諏訪氏の庶流とも云われ、戦国時代は武田信玄に従属していました。
1575年に座光寺為清は秋山虎繁とともに岩村城に籠城し織田信長勢と戦うも討死。座光寺氏は没落しました。

見所
現在は大半が座光寺小学校の敷地となり遺構はほぼ消失。小学校正門前に案内板があります。
小学校北西は土塁跡とみられる段差が伸びており、座光寺保育園と耕雲寺の間は堀跡とされます。

北本城は平時の居館であり、谷を隔てた南本城は大規模な実戦用の戦国末期の城郭であり座光寺氏が滅亡した1575年以降に武田氏、織田氏などの大勢力により改修されたと考えられています。

2024年07月31日 ほりーないと
座光寺南本城[飯田城  周辺城郭]



座光寺南本城の御城印の販売が2024年7月23日から始まりました

御城印︰1枚300円
販売場所:座光寺自治振興センター
     (登城口の前にあります)
販売時間︰平日8:30〜17:15
※現在は平日のみの販売ですが、土日の販売を検討してくれるそうです

写真は7月下旬に撮影しました。夏場も整備されていて、いくつもある堀切などを遊歩道から撮影することができます。トイレにはフィッティングボードがあるので登城後に着替えもできます。冬場の方が遺構がハッキリしてオススメですが、夏場も楽しむことができます。

2024年05月05日 RED副将軍
松岡城(松岡本城)[飯田城  周辺城郭]



南信の有力国人である松岡氏の本拠地🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。南北朝時代に松岡氏により築かれたその居城です。
松岡氏は、1062年に前九年の役で敗れた安倍貞任の次男である仙千代が市田郷牛牧村へ落ち延び、その後に地頭となり松岡貞則と称したのが始まりとされます。
当初は北西に600mほどにある松岡古城を居城としていましたが、南北朝時代に松岡城を築いて移ったとされます。
1554年に武田信玄が伊那に侵攻。周辺の小笠原氏の鈴岡城や知久氏の神之峯城などが相次いで落城すると、松岡氏は武田氏に従属します。
1582年に織田信長が信濃へ侵攻。武田氏の拠点である大島城や高遠城を落とし、武田氏は滅亡。
すると松岡氏は織田信長に帰順し本領を安堵。飯田城に入城した織田信長家臣の毛利秀頼に従いました。しかし直後に織田信長が本能寺の変で没すると、伊那は徳川家康の勢力下となります。
徳川家康と豊臣秀吉の覇権争いの中で、小笠原貞慶は徳川方から豊臣方へと翻意。松岡貞利も小笠原貞慶に与し、徳川方の高遠城に攻め寄せるも形勢不利とみて退却。小笠原貞慶は大敗し、1588年に松岡貞利は改易となり所領は没収。松岡城は廃城となりました。

見所
天竜川西岸の標高560mの河岸段丘突端に築かれています。
松源寺から南東へ伸びた舌状の段丘上に第一から第五の空堀で区画された五郭で構成されている連郭式です。
大半が耕作地となっていますが、堀跡は概ね現存しており、段丘先端から連なる本曲輪・二の曲輪・三の曲輪・惣構がはっきりと残っています。
大手の北西には三日月堀があったとされます。
本曲輪の南側下にも堀切と山麓虎口が残っています。

行き方は、松源寺を目標に設定。駐車場も完備されており遊歩道が整備されています。

2024年04月18日 ほりーないと
洞頭城[飯田城  周辺城郭]



説明板より
牛牧の殿様(牛牧殿)は「松岡刑部大輔」と呼び松岡氏(市田殿)の兄でした。牛牧に残る「牛牧村歴代由緒覚書」によると、最初は上平の次郎城に住んでいましたが、大きな領地を与えられて洞頭城へ分家させられたと記されています。

洞頭城は松岡氏発祥の地とされる松岡古城の近くにあります。古城とは反対方向(南)に進み、南大島川を渡ると座光寺氏領に入ります。洞頭城の他にもお城があり、南側を意識したことがよくわかります。

城めぐを始めた頃、高森町で花桃が綺麗に咲いているのを見つけました。花桃の木は道路からハッキリとした段差の上にありました。この段差がとても気になる……あっ!城跡の標柱がある…ここがお城なの? 花桃があるこの段差は推定堀だそうです。
ストイックに洞頭城と向き合うには花桃は必要無い筈ですが…。交通量が多い道路の横での撮影には少しの勇気が必要かも。花桃が「私を撮って」と誘ってくれたので洞頭城をリア攻めしました。

高森町には松岡氏とその家臣のお城がたくさんあります。標柱や説明板が設置されているので助かります。洞頭城には花桃、松岡古城には菜の花があり、地元の皆様に大切されていると感じました。

2024年03月31日 たまちゃん
飯田城



本丸と二の丸の間に大きな堀切があり、桜丸に赤門があります。近くにも移築門があります。

2024年03月29日 ほりーないと
大丸山物見[飯田城  周辺城郭]



説明板より
大丸山は、松岡本城と支城の吉田城山城・吉田本城等の中間に位置し、四方の見晴らしがよいことから見張所がおかれたと思われます。

現在は大丸山公園となっていて大きく改変されています。遊具から芝生の広場の間には堀が残っています。信濃キッズはこのような公園で遊ぶ機会が多く、お城に興味を持ってから「この公園もお城だった」と知ります。私も子どもの頃に来たことがあるようです。

大丸山物見は、高森町歴史民俗資料館"時の駅"の目の前にあります。公園にも駐車場がありますが、"時の駅"から遊歩道もあります。高森町には松岡城があります。リア攻めする人が多い未登録城です。松岡氏とそのお城の資料が展示されていますので、"時の駅"も訪ねてみて下さい。

2024年02月07日 城山出羽守
飯田城



遺構は石垣くらいですが当時を偲ぶには充分でした

2023年10月28日 気分爽快豊後守
松岡城(松岡本城)[飯田城  周辺城郭]



舌状の台地に直列に郭が配置され、各々の郭は堀で区切られています。個々の堀に個性があり、なかなか面白い城です。
①一の堀
②二の堀
③三の堀
④四の堀
⑤五の堀
⑥主郭横の堀
⑦土塁越しの主郭
⑧鯉が泳ぐ主郭

2023年07月18日 RED副将軍
松岡古城[飯田城  周辺城郭]



南信の有力土豪である松岡氏初期の居城🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。松岡貞則により築かれた松岡氏最初の居城跡と伝わります。松岡氏の歴史は古く、1056年から1062年の前九年の役で敗れた安倍貞任の次男である仙千代がこの地に逃れ、地頭となり松岡貞則を名乗ったのが松岡氏の始まりとされます。松岡古城はこの頃に築かれ、南北朝時代に松岡城に移るまでの約300年間、松岡氏の本城として機能しました。

見所
松岡城の北西約600mに位置し、城跡碑と樹齢千年以上の夫婦杉、松岡殿奥方と称される雲龍院殿の石碑が立っています。城跡碑の道を挟んだ南側に空堀が残ります。松岡城からほど近いので併せての訪城をオススメします。

2023年06月27日 ほりーないと
峯高寺[飯田城  寺社・史跡]



飯田城主 小笠原秀政の正室・福姫(登久姫)が眠るお寺です。福姫は松平信康と五徳姫の娘で、徳川家康と織田信長の孫娘にあたります。秀政は、疱瘡により31歳で病死した福姫の菩提を弔うため、毛賀村(飯田市松尾)にあった慶林寺を城下へ移し、福姫の法名にちなんで「峯高寺」と改めました。宝篋印塔の墓石には徳川家の家紋"三葉葵"が刻まれています。昭和22年(1947)の飯田大火で古い建物はすべて焼失しました。

地域おこしとして、ひさかた和紙&飯田水引で"福姫のしおり"を作っています。飯田藩領内は古くから和紙の産地で、その和紙から"元結"が作られて江戸時代に特産品となりました。明治時代の断髪令により元結の需要が減り、元結を改良した水引が作られるようになりました。手漉き和紙は昭和30年代頃に途絶えました。現在、飯田市下久堅では"ひさかた和紙"の復活に取り組んでいます。和紙の材料である楮(コウゾ)を育てて、ほぼ手作業で和紙を作っています。楮畑は知久平城跡にあります。
"福姫のしおり"の販売店の店長さんが、松本城おもてなし隊の登久姫(福姫)が有名なので福姫が飯田城で過した事を知らない人が多い、このしおりを通じて福姫を知って欲しいと話していました。

2023年03月30日 ほりーないと
専照寺[飯田城  寺社・史跡]



1573年(天正元年)に下伊那郡松川町名子に建てられた後、1604年(慶長9年)に飯田城主小笠原秀政の帰依により現在地に移転されたお寺です。北側には飯田城の惣堀のなごりがあります。

山門は伊豆木陣屋の表門であった太鼓門を移築したものです。小笠原信嶺(最後の松尾城主)の弟の長巨は1600年(慶長5年)に伊豆木に千石を賜り陣屋を構えました。

本堂の前には推定樹齢400年のシダレザクラがあります。桜の見頃を迎えると多くの人が訪れます。

2022年08月28日 ほりーないと
富田城[飯田城  周辺城郭]



富田城で2022年武田信玄狼煙リレーに参加しました。

長野県根羽村「杣路峠」から8月27日10時スタート。富田城では10時30分頃に加々須茶臼山(茶臼山砦)の狼煙を確認し、ホラ貝の合図で点火!!
高森町「吉田城山城」→松川町「大島城(台城公園)」→中川村「陣馬形山」へ狼煙がリレーされ、塩尻市にゴールしました。

富田城から見えた狼煙は、加々須茶臼山と吉田城山城の2ヶ所。陣馬形山は望遠撮影でうっすら見える程度でした。昨年は陣馬形山の狼煙が見えたので、天候によって違います。

今回は二日間に分けて狼煙リレーが開催されています。最終ゴールとなる躑躅ヶ崎館へは10/29に狼煙が上がる予定です。

富田城では狼煙の歴史・リレー日程・縄張り図などの資料が配布されました。戦国時代は、いつ狼煙が上がるのか不明状態で狼煙台で待機したそうです。狼煙が上がらない時は…重罪となりました。現代は日時がわかるので、狼煙を必ず上げる事ができます。

喬木村では村の歴史・城・狼煙上げなどを語れる人が多いと感じました。先日訪ねた喬木村民俗歴史資料館の職員さんはお城好きで、次の文化祭で喬木村の山城の展示を計画しているそうです。
狼煙リレーには子ども達が多く参加していました。次世代へ狼煙上げがリレーされています。

2022年08月21日 ほりーないと
茶臼山狼煙台(茶臼山砦)[飯田城  周辺城郭]



地元の喬木村居住の方に聞いても場所がわからない?!「茶臼山狼煙台」
県道456号から喬木村と豊丘村の境にある尾根を走る道路を東へ向かって登ると「茶臼山公園」があります。駐車場はないので路駐して下さい。車も人もほとんど通りませんが、熊の目撃情報が2~3年に一度あります。

標高720m、南信州を一望できます。史料・伝承など詳細不明ですが、喬木村歴史民俗資料館には知久氏の砦と説明展示がありました。知久氏は武田信玄と戦い、最終的に降伏しました。その後、武田氏の狼煙台となりました。公園化されていますが、土塁の痕跡や腰曲輪などが確認できます。

毎年開催される武田信玄狼煙リレーでは茶臼山狼煙台(加々須茶臼山)が会場になっています。のぼり旗を入れて撮影しましたが、文字が反転してます…。
2022年8月狼煙リレーでは喬木村の子ども達を対象に歴史講座を開くそうです。狼煙リレーを通じて、お城好きの仲間が育つ事を願います。

2022年06月13日 尼崎城駿河守一口城主
飯田城



5月8日、元善光寺にお参りした後に登城。進軍していくと長姫神社⛩に辿り着きました。下城後、電車内で観光マップを眺めていると赤門や水の手御門があったようで見落としていて残念でした🥲観光のペース配分を誤り電車の時間が迫っていたのでゆっくりと散策出来ませんでした。飯田駅に向かう道中、赤穂浪士の赤垣源蔵の生誕地がありました。その後、飯田線でゆっくりと帰路につきました🛤

2022年05月04日 今川党山県右兵衛尉ニャン八
飯田城

城と言うよりは美術館です。しかし、本丸二の丸間の堀切が見事です。駐車場は沢山あるので心配無用だと思います。寄ってみる価値はあるかと。

2022年04月14日 ほりーないと
北原城[飯田城  周辺城郭]



飯田市と喬木村の境の近く、天竜川左岸の河岸段丘先端部に神之峰城(知久氏)の支城の1つ「北原城」があります。地元の人もほとんど知らないお城です。

見晴らしがとても良く、竜望園(短期間営業していた茶屋)が造られて公園化しています。城としてのおおよその形はわかります。「信濃の山城と館」の著者の調査時は荒廃しており、今後の破壊が進まないことが望まれると書かれていました。

現在は、北原地区の人たちが整備をして"お花見スポット"になっています。説明板が設置されており、城跡としても大切にされていると感じました。
北原城は民家などの奥にあり私有地ですので、不審者にならないように桜時期に行くのが良いと思います。主郭背後の幅30mの堀切が駐車場となっています。

2022年04月06日 ほりーないと
飯沼城[飯田城  周辺城郭]



天竜川の右岸、比高差約50mの中位段丘の突端に位置する。本郭と二~五の郭からなる連郭式の城であるが、中学校建設等により細部は把握できていない。主郭の土塁や西側の空堀が良好に残る。城主は初め飯沼氏、後に坂西氏・知久氏が支配したといわれるが、諸説あって定見がない。武田氏の知久氏攻略により廃城となったと考えられる。
(南信州の山城パンフレットより抜粋)

主郭には飯沼郷諏訪神社があり、応永4年(1394年)の記録が諏訪大社に残っているそうです。数えで7年に1度の式年御柱祭が行われています。中学校敷地沿いの道から神社横の駐車場へ行けます。正面からは急な300段の神社石段を登ります。

御柱祭では急な石段で巨木を人力だけで曳き上げるそうです。石段には御柱用に「溝」があります。今年の御柱祭はコロナ感染拡大防止によりトラック運搬となりました。写真は建て御柱の前に撮影しました。

石段桜は南信州の桜名所となっています。桜の美しさで300段の石段を往復してしまう人がたくさんいます。飯沼城の石段攻めを体験してみて下さい。

2022年02月22日 ほりーないと
高岡第1号古墳[飯田城  寺社・史跡]



飯田市座光寺地区には76基の古墳があったと記録されています。鈴岡城がある竜丘地区に次ぐ古墳地帯です。
高岡第1号古墳はこの地域の最大級の前方後円墳で、6世紀前半の構造と推定され、築造時の原型をよく残しています。座光寺南本城や元善光寺から徒歩10~15分くらいです。駐車場もあります。
「麻績の里」と呼ばれる座光寺地区には古墳時代から人々が住み、飛鳥時代に元善光寺が建立され、戦国時代にはいくつもの城があった…。少し足を延ばして2000年浪漫の郷を歩く…おすすめです。

2022年02月20日 ほりーないと
麻績神社[飯田城  寺社・史跡]



(座光寺南本城・北本城のパンフレットより)
麻績神社は南本城の麓からの入口としても重要な位置であり、南本城は麻績神社の社叢(しゃそう)としても大切にされてきました。遺構がよく残っているのは、麻績神社の社叢となったことも大きな要因と考えられます。

境内には「旧座光寺麻績学校校舎」「麻績の里 舞台桜」があり、桜の時期には多くの人が集まります。
座光寺南本城・座光寺北本城のパンフレットが置いてあります。とても広い駐車場があります。桜の時期以外は問題なく駐車できます。

【旧座光寺麻績学校校舎】
長野県内最古の学校校舎。校舎と歌舞伎舞台の複合建物です。この舞台で市民有志の劇団の公演が行われた事があります。
【麻績の里 舞台桜】
推定樹齢350年、エドヒガンの突然変異種「半八重紅彼岸枝垂れ」です。1本桜の宝庫である南信州の中でもファンがとても多いです。ライトアップもしています。
写真は昨年3月末に座光寺南本城を攻めた後に撮影しました。

2022年02月19日 ほりーないと
元善光寺[飯田城  寺社・史跡]



(パンフレットより)
推古天皇10年(602年)に本多善光公が難波の堀にて阿弥陀如来様にめぐりあい生まれ故郷(麻績の里)へお連れし、お祀りしたのが元善光寺の起源です。
その後、御告げにより芋井の里(長野市の善光寺)に阿弥陀如来様を御遷しすることになった時、再び御告げがあって「毎月半ば十五日間は必ずこの故里(飯田)に帰りきて衆生を化益せん」との御誓願が残されました。
「善光寺と元善光寺と両方にお詣りしなければ片詣り」といわれています。

長野市の善光寺と同じく数えの七年に一度、丑年と巳年に御開帳が行われています。昨年春に行われる予定でしたが、今年(2022年)春に延期されています。
麻績神社から遊歩道で350m、とても近いです。麻績神社の裏山は「座光寺南本城」ですので、城攻めと一緒に元善光寺詣り…おすすめです。

2022年02月15日 ほりーないと
田村の城山城[飯田城  周辺城郭]

下伊那郡豊丘村の洞岩寺の裏手にあり、神之峰城の支城と考えられています。武田軍がこの城の南側(伴野川原)の天竜川浅瀬を渡り、知久軍との戦いが始まりました。神之峰城主知久頼元の嫡男頼康は伴野川原で討ち死にし、武田軍は富田城や知久平城などを焼き払い、そして神之峰城が落城しました。

洞岩寺には伊那秩父三十四番札所巡りで訪ねたので、お城がある事を知りませんでした。お寺の方に教えていただきました。知久頼康の菩提寺です。現在の城山城は洞岩寺の樹木葬の墓地となっています。見学をさせていただきました。狼煙台跡と伝わっており見晴らしが良い所です。ここに樹木葬…色々考えさせられます。

伊那秩父三十四番札所はすべて知久氏の旧領地内にあり知久氏との関係が深いです。不思議なご縁を感じました。
※配慮により写真投稿は控えさせていただきます。

2022年02月14日 ほりーないと
座光寺北本城[飯田城  周辺城郭]



座光寺地域自治会で立ち上げたガイド組織「浪漫の郷 座光寺案内人」の皆様の案内で3ヶ月程前に訪城しました。「座光寺南本城」の隣が「座光寺北本城」です。
先人様の口コミのとおり、座光寺小学校で遺構が消えています。ガイドさんから「堀や南曲輪の虎口があった」と発掘調査の写真を見せていただきました。南曲輪の先端には「北本城古墳」があります。座光寺小学校は敷地内に城跡と古墳があるスゴい学校です。日曜日の見学は小学校の了解を得ているそうです。敷地内の見学は確認した方が良いと思います。
話は少し変わります。城友さんたちの愛読書「信濃の山城と館」の著者の話をガイドさんから聞く事ができました。自分の足で城へ行き、巻き尺で曲輪や堀を一つ一つ測量…その現場に立ち会った事があるそうです。作成された縄張図は信濃の宝だと思います。

【写真】
①西曲輪の井水(堀)と土塁
空堀だったところに水が出たのではないか(ガイドさん談)
②堀(耕雲寺境内と保育園の間)
③北曲輪の北側の堀
④小学校グランド
体育館沿いに堀…想像して下さい
⑤小学校南側の堀(人工的な川)
堀沿いには通学路があり、その先には尾根を断つ堀切があります。
⑥案内板
※案内当日ではなく、後日(日曜日)に撮影しました

2022年02月12日 ほりーないと
座光寺南本城[飯田城  周辺城郭]



座光寺地域自治会の皆様が25年前に整備をはじめた城跡です。ガイド組織「浪漫の郷 座光寺案内人」を立ち上げ、3ヶ月程前に案内していただきました。

座光寺氏が築いたと推定されていますが、文書が残されておらず詳しい事はわかりません。遺構の規模とその複雑な縄張りからして、座光寺氏単独で普請したとは考えにくいです。武田氏の手が加わったのか…想像が膨らむ城です。
座光寺氏は信濃源氏の片切氏の分流説や神氏(諏訪上社)後裔説があります。戦国時代、武田氏の配下となりました。その後、秋山虎繁と共に岩村城を守り、織田氏に逆さ磔に処されました。

地元自治会による整備活動は続いています。木が伐採されて少しずつ見やすくなり、訪城の度に新鮮さを感じます。
「浪漫の郷 座光寺案内人」の皆様から「多くの方にぜひ来て欲しい」とメッセージがありました。
座光寺南本城の徒歩圏内に元善光寺や様々な史跡がありますので、一緒に巡るのもおすすめです。
(この城の先人様の口コミがありますので、そちらもご参照下さい)


【写真】
①北曲輪の北側の堀
これほど複雑に折れた堀は、伊那谷でも南本城だけです(パンフより)
②北曲輪から見た北側の土橋
③北曲輪の土塁
複雑な土塁、撮影が難しい…
④本曲輪近くの石積?
自然ではあり得ないが、石積だと立証する資料がない(ガイドさん談)
⑤東側斜面の横堀
⑥西曲輪の南尾根を断つ堀切
⑦本曲輪の土塁
現在、キツネ城主様が住んでいます
⑧案内板
城内の色んな所に設置されています
※案内当日ではなく、後日撮影しました

2022年02月09日 ほりーないと
飯田城



江戸時代後期、女性たちは善光寺を目指して旅をしました。中山道「福島関所」を避けて、険しい大平街道を通り…たどり着いたのは飯田城。
女性の旅日記に「飯田城見物を楽しんでいたところ、故郷の近江八幡の者にばったり会った」と書かれているそうです。
現在の城下町では7年に1度(申・寅年)「お練りまつり」が開催され、江戸時代の賑わいを体感できます。

【お練りまつり】
1715年の羊満水(水害)の折り、大宮諏訪神社に祈願して難を逃れました。無事を感謝して、中断していた「お練りまつり」が復活しました。大名行列や獅子舞などが披露されます。
大名行列には中高生も参加しています。学校で言われても茶髪のままの高校生が保存会の人から「大名行列にその髪は…」の一言で黒髪に染め直したという話もあったとか…

飯田の城下町は古くから大火にもおそわれています。昭和22年の大火により約7~8割が焼失。自分たちの土地を提供し、町屋の境に「裏界線(りかいせん)」という防火帯が設けるなどして復興しました。
古い時代から人々は力を合わせて様々な事を乗り越えてきました。2022年は寅年、お練りまつりや御柱祭の年です。コロナ禍を乗り越えて、無事に開催されますように…

【写真】
①桜丸御門(赤門)
飯田城跡にただ一つ残る建物。隣は図書館。
②③惣堀跡
飯田市役所本庁舎の近く、飯田大火を免れた地区にあります。
④獅子舞フェスティバル
城下町で毎年開催される祭り。この地域は屋台獅子と呼ばれる大きな獅子です。お練りまつりに多くの獅子舞が登場。

2021年11月03日 たけ◎曲輪衆
富田城[飯田城  周辺城郭]



長野と山梨で行われた武田信玄狼煙リレーを10月30日に喬木村の富田城で見てきました。1近くの茶臼山城の狼煙を確認し、2.3狼煙に点火。欅の生枝が燃えると白煙がものすごい迫力で。4少しすると、富田城の狼煙を確認した隣の吉田城からも狼煙が上がり、さらに北方の大島城、5陣馬形山へ繋いでいく。

とても迫力満点、ダイナミックな狼煙リレーでした。飯田城周辺は武田信玄狼煙網に関係した山城がたくさんあります。毎年開催されています。来年も行きたい!

2021年10月24日 ほりーないと
阿島陣屋[飯田城  寺社・史跡]



【阿島陣屋】
関ヶ原の戦の翌年、知久則直は旧領地の一部を安堵され阿島に陣屋を築きました。以来明治維新まで知久氏の本拠となりました。

【曙月庵】
知久陣屋御殿茶室。1848年に造営されたもので、茶室としては類い希な二階建てであり、当初位置に残り明治以降の改造が少ない等、貴重な建造物です。(パンフレットより)
一般公開はされていませんが、予約をすれば見学ができます。有料でお茶会などの利用ができます。

【阿島傘】
知久氏が預かった「波合関所」で旅人が倒れて関守が看病したところ、謝礼に和傘の製法を伝えたそうです。知久氏は和傘に必要な材料が領内でほぼ揃っている事に目をつけ、この地域の地場産業として広められました。
現在、阿島傘は陣屋のある喬木村の特産品となっています。地域おこしイベントとして曙月庵で展示会が開催されています。

2021年07月20日 ほりーないと
知久平城[飯田城  周辺城郭]



1200年代前半承久の乱の後に、知久氏(諏訪氏の分流)が上ノ平城(上伊那郡箕輪町)より下伊那に移り知久平城を築き居館とした。1500年前後に神之峰城へ本拠地を移して支城となった。1554年に武田氏が伊那谷侵攻、神之峰城が落城し、知久氏は一時滅亡した。
1582年、家康の名により田峰城(愛知県北設楽郡設楽町)の菅沼氏が入城した。今日に残る知久平城址跡は菅沼氏が拡張した跡地である。
現在は小学校、市役所支所などが点在する。

写真1 出丸
本丸の北西端の三方直立の崖上にある。
写真2 三の丸土塁跡
わずかに残る土塁跡。幅11m・長さ100mと推定される。
写真3 知久平諏訪社
知久平城址に隣接する古社。神社横には堀跡の田んぼ(休耕田かも)がある。式年御柱祭が開催され、水が張られた田んぼに御柱を落とす「木落し」が行われる。

2021年07月17日 ほりーないと
松岡城(松岡本城)[飯田城  周辺城郭]



【松岡城】
天竜川の河岸段丘を利用して築城された城。舌状の段丘先端から本曲輪、二の曲輪、三の曲輪と作られています。城内の大部分が開墾されて田畑となっていますが、深く掘られた数条の掘跡は概ね現存しています。
写真1 二の掘
写真2 一の掘
写真3 山麓虎口
写真4 東側斜面にある横掘

【松源寺と井伊家】
松岡城の五の曲輪にある寺。松岡氏によって建立された。今川氏に追われた井伊直親(井伊直政の実父)が12年間にわたって匿われた。その時に代官の娘と間に1男1女を儲けたとされ、その子孫が江戸時代に飯田城下町へ移住し、飯田井伊家として現在まで継続しています。
写真5 本曲輪からの眺め(浜松方面を望む)

2021年07月04日 くっしー治部大輔尚人
飯田城



現在、長姫神社の本殿がある所に飯田城の本丸があったそうです。説明看板には、空堀や石垣が残ると書かれているのですが、どれかわかりませんでした。

2021年07月03日 弾正尹 山城守pi_pua
飯田城

2021年7月2日攻略。遺構はほとんど確認できません。本丸跡には神社が有り、二の丸や三の丸には公共施設などが配置されています。飯田市街地と隣接しておりアクセスは容易です。

2021年05月10日 ほりーないと
富田城[飯田城  周辺城郭]



神之峰城(鈴岡城の周辺城郭)の北側にある支城。武田氏が伊那谷へ侵攻を開始。神之峰城の知久氏だけは最後まで戦う事を選択。富田城はその戦いで焼き払われた。

主郭まで車で行く事ができる。天竜川が流れる伊那谷は河岸段丘のため、眺めは対岸のみとなる。富田城は西岸も東岸も眺める事ができる。遺構はあまり残っていないが、この眺めはオススメである。

春には桜が咲く。地元でもあまり知られていない城なので、隠れた桜の名所かもしれない。

2021年04月13日 しげしげ主税頭信繁
飯田城

桜町駅方面から銀座4丁目の信号を左折すると突き当たりが長姫神社です。そこが飯田城のあった場所の様です。手前の図書館に赤門がありました。

2021年04月05日 【城郭道】たっきー
松岡城(松岡本城)[飯田城  周辺城郭]

【松岡城の歴史】
松岡城が作られたのは南北朝時代で敵の攻撃を防ぐことが大きな役割であったため、階段状の地形(河岸段丘)を活かして作られた。
堀、土塁等で作られ、土の城として機能し、戦国時代まで整備された。

【松岡氏】
平安時代に松岡氏が始まったという。今の高森町あたりを自治。南北朝時代に松岡城を作り、拠点としていたが、戦国時代終わり頃に徳川家康によって改易された。

【亀之丞(井伊直親)】
井伊直政の父である亀之丞は九歳の時に命を狙われ、井伊氏に関わりがあった松源寺に逃れ、10年の時を過ごした。
(大河ドラマでも紹介されていたような気がします。)

2021年04月05日 【城郭道】たっきー
松岡古城[飯田城  周辺城郭]



松岡氏が松岡城に移るまでの居城。現在、南東の窪地が堀と見られています。少し、高くなっているところにあり、石碑と説明板もあります。
松岡城と同じように高森町史跡で、しっかりしています。
松岡城リア攻めの際に一緒に行くと良いと思います。

2021年04月04日 能登守さとみっくす
松岡城(松岡本城)[飯田城  周辺城郭]



なかなか綺麗な城。この辺りに来たならば行くべき城。また、松岡城に行ったらすぐそこの松岡古城にも行くべき。

2021年04月04日 【城郭道】たっきー
松岡城(松岡本城)[飯田城  周辺城郭]



雨の中、松岡城に行きました。雨でも十分楽しめる城。

五の曲輪の駐車場から四の曲輪へ行き、三の曲輪に入る前の三の堀がもう迫力です。もういきなりやられますね。それでもなんとか三の曲輪に入り、二の曲輪へ入ろうとするとおそらく城内で最も深い堀に出逢います。この堀には入れるようになってますね。

二の曲輪は松岡開祖五百年碑があります。次の本曲輪は堀に続いて土塁もあります。土橋の左の土塁には出構があります。土橋への横矢が効いてますね。本曲輪は入ると結構広いです。一番奥に松岡城の石碑があります。景色が雨だったので雲が山にかかって綺麗でした。本曲輪から下は帯曲輪が連なっています。時間がなかったので帯曲輪の説明板があるところから引き返して本曲輪の下(犬走のようなところ)を通って二の曲輪に行きました。詳しくは駐車場付近に置いてあるパンフレットを見てください。

なかなか良い城でした。3000城の中に入ってないのが惜しいくらいです。日本にはこんな感じに3000城に入ってなくても良い城はあるので是非、自分で調べて3000城以外の城へも行ってみてください。

2020年11月02日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
松岡城(松岡本城)[飯田城  周辺城郭]



とにかくすごい!案内してくれた南信のお友達にただただ感謝。帯曲輪より下までいかなければ足腰の丈夫でない方でも十分楽しめます。これで未登録とは勿体ないと思います。
写真は二の堀、本丸下帯曲輪などですが、規模の割には短時間で楽しめるからオススメです。

2020年09月22日 織田上総介晃司
飯田城

朝駆け(早朝)めぐらーさんに朗報です。

早朝は合同庁舎・図書館や美術館の駐車場は柵がされて駐車できませんが図書館の臨時駐車場には停める事ができます。(リア攻めマップ参照)

2020年02月18日 OROKA参議
知久平城[飯田城  周辺城郭]



下久堅保育園や小学校を中心とした、町の一帯が城跡となってます。本丸は畑になっていて、明確な遺構は外郭くらいです。
全体的に薄~い土塁や空堀ですが、地図と比較しながら町に残る遺構探しの散歩をしてみるのは結構楽しかったです♪

2020年01月04日 OROKA参議
座光寺北本城[飯田城  周辺城郭]



ナビ等で座光寺小学校を目指してください。城跡はほぼ小学校になっております。駐車場は特にないので私は校門の横に案内板があるのでその付近に路駐させていただきました。(自己責任で)

本郭は学校で遺構が消えているものの、周辺には遺構が結構残っているので散策してみると意外と楽しめます。
見所は座光寺保育園沿いの土塁、耕雲寺前から続く空堀と堀底道でしょうか。学校の中には井戸跡や土塁がありそうですが不審者扱いは怖いので休日でも入れずf(^_^;

全体的な雰囲気としては「館跡」で防御施設は南本城と比べると弛い…けど、ガチガチに固めてある山城の南本城よりも高い位置にあるというのが面白い。これが南信の館の特徴なのか、南本城は織田家の侵攻に備えた武田家が改築したという説の裏付けになるのか…想像が膨らみますな。

2020年01月03日 OROKA参議
座光寺南本城[飯田城  周辺城郭]



元善光寺のすぐ西にある麻績神社の裏手の山が城になります。麻績神社には広い駐車場もあります。
神社から本丸は登り10分強ほど。木々が多いものの、それなりに整備されてるので見やすいです。見所は各竪堀と土橋、本丸の土塁や奥にある馬出です。
探せばいろんな遺構の出てくる良い城です。元善光寺と一緒に見学しては(´▽`)

2019年05月06日 信濃守はとまめ
井戸跡[飯田城  遺構・復元物]



飯田城二ノ丸跡の一部は現在、美術博物館になっています。
窓越しに骨格模型が見えるのでこの場所の井戸は写真を撮ると不思議な写真になります。
また安富桜と呼ばれる樹齢450年の桜の巨木があり、見応えがあります。

この美術博物館では飯田城の散策マップがもらえます。
変わった外観は京都駅等をデザインした建築家が飯田を囲む山々を表現したそうです。また飯田出身の明治の日本画家、菱田春草の常設展もあります。

2019年05月06日 信濃守はとまめ
櫓台跡石垣[飯田城  遺構・復元物]



飯田城本丸の石垣です。昔はこの上に白塀が巡らされていたと言われています。長姫神社の本殿の後ろにあり敷地を通らないと見れないので、見る場合は失礼の無いようにお願いします。(石垣の一部だけなら三宜亭という温泉旅館側からも見えます)

2019年05月06日 信濃守はとまめ
水の手御門跡(石垣)[飯田城  遺構・復元物]



飯田城の水の手御門跡の石垣です。
追手町小学校(昔の出丸)と民家の間の細い道を下っていくとあります。
この石垣の少し上。駐車場を挟んで反対側の民家の床下にも少し石垣が見えますが、それは二の丸に続いていた土橋の跡です。

2019年05月03日 信濃守はとまめ
赤門(桜丸御門)[飯田城  遺構・復元物]



飯田城の桜丸の正門。弁柄で赤く塗られており通称赤門と呼ばれています。
普段は門は閉まっていますが道向かいの小学校(有形文化財)の入学式の頃には門が開きます。この赤門を含め、飯田城の門は4ヶ所が移築されて残っています。

2015年05月01日 まー刑部卿
飯田城

駐車場は美術館の駐車場を利用すると良い。休館日でも第一駐車場は開いているので停めてください。見所はあまりありません。桜門くらい。

2013年09月15日 傾奇揚げ仙兵衛
飯田城

国道沿いに模擬天守発見!「お菓子の里 飯田城」
赤飯まんじゅうが名物らしい

2011年02月03日 御屋形
飯田城

飯田市美術博物館の駐車場が良いかと思います。

飯田城の周辺スポット情報

 赤門(桜丸御門)(遺構・復元物)

 水の手御門跡(石垣)(遺構・復元物)

 櫓台跡石垣(遺構・復元物)

 井戸跡(遺構・復元物)

 旧飯田藩馬場調練場の門(通称脇坂門)(遺構・復元物)

 八間門(遺構・復元物)

 桜丸西門 雲彩寺移築(遺構・復元物)

 桜丸の門(経蔵寺移築)(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 井戸(遺構・復元物)

 観耕亭碑(碑・説明板)

 松岡城(松岡本城)(周辺城郭)

 松岡南城(周辺城郭)

 座光寺南本城(周辺城郭)

 座光寺北本城(周辺城郭)

 知久平城(周辺城郭)

 松岡古城(周辺城郭)

 富田城(周辺城郭)

 田村の城山城(周辺城郭)

 飯沼城(周辺城郭)

 北原城(周辺城郭)

 茶臼山狼煙台(茶臼山砦)(周辺城郭)

 陣原(周辺城郭)

 洞頭城(周辺城郭)

 大下砦(周辺城郭)

 市田陣屋(周辺城郭)

 古御家(古御屋)(周辺城郭)

 大丸山物見(周辺城郭)

 次郎城(周辺城郭)

 坂巻城(坂牧城)(周辺城郭)

 浅間山城(周辺城郭)

 芦川殿館(周辺城郭)

 阿島城原城(周辺城郭)

 伴野古城(周辺城郭)

 南城(本城・小園城)(周辺城郭)

 氏乗城山城(周辺城郭)

 伊久間城(周辺城郭)

 小川松下城(周辺城郭)

 虎岩城(周辺城郭)

 上郷の古城(周辺城郭)

 原ノ城(周辺城郭)

 原ノ城(西城)(周辺城郭)

 宮崎氏館(周辺城郭)

 今宮城(城山)(周辺城郭)

 虚空蔵山城(周辺城郭)

 松源寺(寺社・史跡)

 松源寺山門(寺社・史跡)

 阿島陣屋(寺社・史跡)

 元善光寺(寺社・史跡)

 麻績神社(寺社・史跡)

 高岡第1号古墳(寺社・史跡)

 専照寺(寺社・史跡)

 峯高寺(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 美術博物館駐車場(駐車場)

 飯田中央図書館臨時駐車場(駐車場)

 松岡城駐車場(駐車場)

 パンフレット置き場(その他)

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