赤須城(あかすじょう)

赤須城の基本情報

通称・別名

所在地

長野県駒ヶ根市下平512-1

旧国名

信濃国

分類・構造

連郭式平山城

天守構造

築城主

赤須氏

築城年

室町時代前期

主な改修者

主な城主

赤須氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(赤須城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

飯島陣屋(長野県上伊那郡)[5.9km]
殿島城(長野県伊那市)[8.9km]
市野瀬古城(長野県伊那市)[11.1km]
船山城(長野県下伊那郡)[12.9km]
高遠城(長野県伊那市)[15.2km]
大島城(長野県下伊那郡)[17.0km]
福与城(長野県上伊那郡)[19.4km]
上ノ平城(長野県上伊那郡)[23.3km]
藤沢城(長野県伊那市)[25.7km]
飯田城(長野県飯田市)[26.4km]

赤須城の口コミ情報

2024年02月24日 ほりーないと
火山峠芭蕉の松[赤須城  その他]



火山峠(ひやまとうげ)は、高遠城がある伊那市と駒ヶ根市を結ぶ道です。"伊那の古城"には「この峠は高遠へ年貢を運んだ道、高遠往還とも云っていた」と書かれています。古い道は狭く、曲がりくねっていて、通行を避けることが多いと思います。火山峠は長野県道18号伊那生田飯田線として改良され、高遠へスムーズに行くことができます。

私事になりますが、南信地区に住む私にとって火山峠は国道153線などと同様に当たり前のように通行する道の一つです。古い道だという認識がありませんでした。信濃を旅する城友さんが南信へ来た時、高遠攻めにはどのルートで行ったのだろうかという話をしました。火山峠を越えて道なりに進むと、三峰川の手前に織田軍の陣城(一夜の城)があります。織田信忠も火山峠を越えたのかもしれません。

火山という名は、火を炊いた「のろし場」があったからという話もあるそうです。火山峠の周辺には城跡がたくさんあります。
"火山峠芭蕉の松"は県道沿いにあります。以前からあったと思いますが、高遠街道の碑(写真⑤⑥)を最近見つけました。

2023年12月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
北割の古城[赤須城  周辺城郭]



北割の古城は赤須城の西方約6.9km、鼠川北岸(左岸)、標高約1106mの山稜山頂部に立地する要害です。南麓の鼠川からの比高は70m位でしょか。該地の山稜は西南西、標高2864.0mの空木岳、その前衛山塊を構成する一つでもある。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、そのままでは行けないので、手前の「古城公園 あかつきの塔」で車を捨てよう。後は空木岳登山口へ通じる池山林道を進むだけなのだが、林道はゲートによって一般車両の通行が出来なくなっている。リア攻めマップで位置を確認し、城域直下に辿り着いたら適当直登すればOK♪登る比高は30m位になる筈だ。ちなみに「あかつきの塔」は未来を約束する恋人同士が愛を語らう場所でもあるので野暮な事は控えるように。この世の無情を呪ってフェンスに掛けられた愛の南京錠を鉄線鋏とか使って破壊しないで下さいまし。

築城年代は不明、築城者は上穂氏です。上穂氏については同じ赤須城のリア攻めマップにある上穂城を参照して下さい。寛文年間(西暦1661年〜1673年)に上穂村で作成された「上穂方口聞書(中割小林文書)」には、「上穂殿先年は此方の勘兵衛地内の古城(大北城)と申す所に御座なられ候て、其の御時代に今度問答の山口に取手(砦)を御普請なられ、古城(北割の古城)と申し候、其の後又今梛澤の南に取手(砦)を御普請なられ新城(荒城)と申し候、その後大手の城(上穂城)へ御移りなられ候と申し傳へ候…」とあり、口碑ながらも上穂氏の築いた最初の要害である事が判る。

お城は急峻な山稜山頂部を活用した縄張、信濃のお城の神は立地から逃げ込み城と推測しているが、同じ赤須城のリア攻めマップにある荒城とは大きく違い謂わゆる山城然とした造りである。主郭のぽこりんに萌える他、竪堀、更には虎口なのかは知らんけど桝形なんかが辛うじて原型を留めている。又、城域北東端部には堀形も確認出来るが、この堀形はどうやら堀切ではなく単なる郭間を隔てる窪地形のようだ。城域直下西縁を取り巻く道形がこの堀形に端を発してもいる。時代不明なるも古い道筋の乗り越しなのかもしれない。

西南西、空木岳とその西北、東川岳山頂部が形成する鞍部上、標高約2495m地点には山小屋、「木曽殿山荘」が建つ。この鞍部は「木曽殿越」と呼ばれる乗り越しで、名称のとおり木曽義仲が伊那攻めの際に通ったて伝承が残る場所だ。伝承てよりは伝説に近い話だが、常識的に軍勢の通過は不可能であっても古来から木曽山脈を東西に無理矢理越える山道が存在したて事は十分に考えられる。もし中世にも同様の道筋が存在したと仮定するならば、木曽谷と伊那平中部を最短距離で結んだ該地周辺がその伊那口に当たる筈だ。俄かに信じ難い推測だが荒唐無稽とも言い切れまい。当時既に人の往来があったからこそ伝承が生まれたのであろう。

※本人は知ったかぶりして「空木岳」を語るが当然登った事は無い。大体にして「からきだけ」と読むもんだと思ってた。正解は「うつぎだけ」、木曽山脈の名峰にして日本百名山の一つでもある。弁解するけど、同山脈の木曽前岳と木曽駒ヶ岳には昔、先輩に付き合わされて登った経験がある。おいらの登山嫌いは素人にも容赦しない(高山におけるパワーハラスメント、やったらあかん。)今は亡きこの方が原因…ちなみに飲み会で前後不覚になりながらも常に次の酒場を求め続けるこの先輩を何度生垣や水路等に突き飛ばして逃げた事か…

※該地北東側下段、Googleマップに位置登録されている「古城公園」は城域に含まれないので注意っす。

※写真⑦が「古城公園 あかつきの塔」、夜景は微妙らしいが展望に優れる映えスポットである。

※写真⑧はその展望、城域からは山深過ぎて何も見えねぃ…

2023年12月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
荒城(新城)[赤須城  周辺城郭]



荒城(新城)は赤須城の西方約6.1km、鼠川南岸(右岸)、標高932mの丘陵地緩斜面上平場に立地する要害です。北麓の鼠川からの比高は30m位でしょか。西南西、標高2864.0mの空木岳、その前衛山塊から続く東方裾野でもあり、裾野が段丘台地に消える先端部の一つが該地だ。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、そのままでは行けないので、手前の「駒ヶ根高原家族旅行村キャンピングリゾート駒ヶ根」に車を捨てましょう。このリゾート地の北西隅に林道が付いておりお城への案内板も立っている。BBQを楽しむ家族連れが賑わうリゾート地を後にして、独り寂しく今となっては誰も歩かない林道に入って行く訳だが、どんなに優しいジェダイ・マスターのおいらでもこの時ばかりはフォースのダークサイドに支配されてしまったのか、「隕石でも落ちないかな…」等と思わず呟いてしまったりもした。

築城年代は不明、築城者は上穂氏です。上穂氏については同じ赤須城のリア攻めマップにある上穂城を参照して下さい。寛文年間(西暦1661年〜1673年)に上穂村で作成された「上穂方口聞書(中割小林文書)」には、「上穂殿先年は此方の勘兵衛地内の古城(大北城)と申す所に御座なられ候て、其の御時代に今度問答の山口に取手(砦)を御普請なられ、古城(北割の古城)と申し候、其の後又今梛澤の南に取手を御普請なられ新城(荒城)と申し候、その後大手の城(上穂城)へ御移りなられ候と申し傳へ候…」とあり、口碑ながらも同じ赤須城のリア攻めマップにある北割の古城に替わる要害として普請された事が判る。又、荒城の「荒」は「簡素なもの」を意味する訳ではなく、ここでは「新しいもの」を意味すると考えた方が妥当だろう。

お城の現況は雑木林となっている。前述の林道が城域央部を東西に貫通しているが、単郭の縄張には見事な土塁が北辺を除いて残っている。城域の西側山側背後はなだらかな斜面、遮るものは土塁のみだが、東側では急登を強いられる他、北側は鼠川に落ち込む急崖、それなりの要害地が選ばれている。が、誰でも混乱してしまう事を一点…城域内には乱雑な方向性を伴わない短い堀形が多数確認出来る他、城域外には集合する長大な竪堀様の堀形も確認出来る。一見すると中世の城館跡てよりは激戦を経た第二次世界大戦時の中隊陣地やPaKfront、対戦車砲陣地の趣きがある…

…どうやら該地周辺は植林場だったらしく、前述の堀形は樹木の採伐による根掘りの跡や材木運搬のための木落としの単なる溝のように思う。遺構の土塁にはこれ等によって数箇所に虎口様の開口部が切られているのも極めて不自然(土塁は損なわれている。)、その証左になるだろう。

伊那市長谷黒河内、市野瀬古城のリア攻めマップにある艮城(うしとらじょう)の付近には「八人塚」と呼ばれる塚がある。弘治二年(西暦1556年、川中島で甲越が激しく争った時期である。)、伊那郡の各衆は武田氏に反して木曽に攻め入るが、結果としては失敗し同郡の八人が捕らえられ狐島(たぶん天竜川の中洲だろう。)において斬首、梟首された。黒河内の郷民は夜陰に乗じて狐島に赴き、八人の首を密かに持ち帰り艮城の東側に丁重に葬ったてのがその云われ。塚の上に建つ石碑には上穂伊豆守重清の名が刻まれる…

…重清は伊豆守を名乗る先祖と同じ受領名を名乗っているので当時の当主であろうか。上穂氏の居館城、上穂城の故地に建つ日蓮宗の寺院、大宝寺の創建は永禄十二年(西暦1569年)と伝わる。上穂城はそれ以前に機能を喪失していたと考えて間違い無いだろう。又、生島足島神社文書中に残る上穂善次為光起請文の提出は永禄十年(西暦1567年)とされ、当時の上穂氏自体も引き続き春近五人衆としての活動が見られるんだそう。一族は弘治二年の反抗時に二分したのであろうか。さもなければ乱後に何れかの他家(片桐氏等)が名跡を継いだものとも考えられる。

※写真⑤〜⑧は遺構ではない謎地形っす。

2023年12月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
塩木城(古城)[赤須城  周辺城郭]



塩木城(古城)は赤須城の西北西約4.1km、鼠川北岸(左岸)、標高約737mの段丘台地緩斜面上平場に立地する居館城です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西側の「塩木いきいき交流センター」を目標に設定して下さい。このコミュニティセンターから舗装路を挟んだ東側の一角が該地、車も堂々捨てられる。

築城年代、築城者は不明、史料、伝承等も無いが、「駒ヶ根市誌」では該地が上穂氏の所領であった事から同氏に関係するものとしている。

塩木城との関係性不明なるも、「大坂の陣」に参陣し真田信繁に付けられた上穂十一騎の中に塩木九四郎の名が見られる。この九四郎の塩木氏とは上穂氏の一族、もしくは郎党だったのであろうか。少なくとも在名を名乗る武士の存在があった事は間違い無いだろう。

近傍の方は該地を「古城」と呼ぶらしく、城域南側を東西に抜ける道筋は後世、西方、天台宗の寺院、光前寺へ通じる参拝道でもあったらしい。城域内には小さなお堂が建つが、参詣途中の休息場であり、身なりを整える場所でもあった。光前寺の南側、鼠川沿いには同じ赤須城のリア攻めマップにある上穂氏の要害、荒城が、更に西方、山塊中段には同じ赤須城のリア攻めマップにある上穂氏の古要害、北割の古城が立地する。東方、居館城からの道押さえ、繋ぎの城館として築城に及んだものとも推測出来る。

お城の現況は…空地、墓地、造園業者の資材置場等となっている。改変著しく旧態を見ない。土地の構造改革等によって平らげられたのかもしれないが、現況からは往時、城域全体が微高地だった可能性も残る。遺構の確認はおろか縄張を想像する事すら許されない物件、北辺に僅かな名残りがあるような気もするが、城館跡として見るには大変厳しい。バーチャル3Dリア攻めがGoogleマップで十分可能、阿保以外は特に訪ねる必要も無いように思う。

…たまにはまともな山城を紹介して欲しいとかお叱り?を受けるし、こんなお城訪ねて本当に楽しいのかて疑問に思われる方も多いんだろうけど楽しいんだぜ〜大体この手の物件には最初からそんなもん1mmも期待していない。用事は他にもあるのさ。お城好きのあり方は千差万別、建造物が存在しないから遺構が無いて人もいれば、石垣が無ければ駄目て人もいる。整備されていなければリア攻めの対象にならず、用意されていなければ楽しめないなんて人もいる。道も違えば話も違う的なところもあるけど、その考え方を尊重するし、その人の趣味、趣向を否定もしない。だからおいらにも好き勝手やらせてくれw

…おいらは縄張図以外のものも現地に確認しに来ている(故に脱線が多い。)。地形、河川の流れ、その土地の風土、歴史、人物、城館の占地、連続性、中世の道筋等々…もはやこれ等を抜きにしてのリア攻めは成り立たない。どんな物件にも実際に訪ねてみなければ感じ得ないものが沢山ある。それ等を全部ひっくるめたのがおいらの城廻り、お城一点で考える事無く常に視野を広げて人と時代と面の三つで物事を捉えていきたいのさ、だから皆さんが敬遠するよな物件でも十分楽しめる。信濃のお城の神、宮坂先生が全てを教えてくれた。

※写真①は造園業者が集積した石積みっす。

2023年12月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
大北城[赤須城  周辺城郭]



大北城は赤須城の西方約3.1km、鼠川南岸(右岸)、標高約700mの段丘台地上平場に立地する居館城です。鼠川に南面する微高地の一角が該地、城域南側からの比高は無いに等しい。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…近くまで来たら鼠川沿いの目立つ雑木林を探すのがよいと思う。車はそこら辺の農道に捨てられる。

築城年代は不明、築城者は上穂氏です。上穂氏については同じ赤須城のリア攻めマップにある上穂城を参照して下さい。

寛文年間(西暦1661年〜1673年)に上穂村で作成された「上穂方口聞書(中割小林文書)」には、「上穂殿先年は此方の勘兵衛地内の古城と申す所に御座なられ候て、…」とあり、ここで言う「勘兵衛地内の古城」が地名から大北城に比定され、時代的な推移は不明なるも上穂氏が上穂城に移る以前の居館城だったと推測されている。

大北城の位置は赤穂扇状地の扇央部を南北に横断する現在の駒ヶ根市道上穂本線が鼠川を渡る場所であり、上穂本線は律令制下で設けられた東山道の駅路に推定される道でもある。近世に入ると上穂には中山道の脇往還である伊那往還が通るが、中世においても同様の経路が主要な道筋であった事は疑いが無い。又、自然流水に頼る往時の農業用水は河川から引水するのが一般的だが、交通、水利の双方を押さえる占地は開発領主としての上穂氏の存在を裏付けている。

お城の現況は…実は何の期待もしていなかったが往時の居館城の雰囲気を実によく伝えている。後世の改変や鼠川による侵食もあるとはいえ、微高地、単郭の縄張には見事な土塁が北辺を除いて残っている。連続する微高地上は西辺で掘り割られ城域の西端部を形成、この堀形はかつて城域周囲を取り巻いていたのかもしれない。又、居館城としては少し手狭に感じるのも事実、東側に建つ長福寺(無住)にかけての一帯も城域に含んだ方が自然だと思う。

該地は私有地なので所有者に断りを入れた方が無難、おいらは民家を避けてだだっ広い水田中の畦道を辿ったが、作業中の家人に特に咎め立てもされなかったのでそのまま城域へ…むしろ訪問目的を告げるために咎め立てされたかったのに。逆に帰り際にはこの方から「御苦労様です。」と声を掛けられる始末…道楽なのに何だかちょっぴり恥ずかしいや…

慶長十九年(西暦1614年)、「大坂冬の陣」、慶長二十年(西暦1615年)、「大坂夏の陣」に参陣し真田信繁に付けられた牢人衆の中に次の上穂の人がある。荒井圓書之助、春日昌義、木下大隅、北原春之助、北村政明、小林義国、駒ヶ岳大弐坊、塩木九四郎、田中員近、湯原三四郎、横山五郎の十一人がそれで、後には「上穂十一騎」と呼ばれる事になる。上記名は悉く討死、駒ヶ根市赤穂の天台宗の寺院、光前寺(大変素晴らしいお寺さん、大寺でもある。)には十一人を祀る祠が建つ。上穂十一騎は千村氏家臣だったと伝わるが、各家の二男、三男以下で構成される一団だったらしく、特に豊臣家に何の恩義も無い事から冒険と立身出世を求めての参陣(殆どの牢人衆も同様だ。豊臣家への忠義なんてある訳が無い。)だったろう。

…実は現在の大北城の所有者と同姓の者が上穂十一騎の中にある。確証は得られないが所有者はそういう家系の人なのかもしれない。こうした繋がりを現地で確認出来たりするのが地方史の醍醐味、フィールドワークは必須、足で稼ごう。

※これ書くまで「上穂」は「かみほ」と読むもんだと思ってたけど、正解は「うわぶ」だった…

※結構感動する城跡だったけど写真は文中の理由により少なめ。

※写真①は要るのか知らんけど南西、農道から撮影した近景っす。

※写真⑥は城域北辺を洗う鼠川っす。上穂氏は同川流域を中心に発展した氏族である。

2023年12月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
上穂城[赤須城  周辺城郭]



さて、おいらの口コミには伊那谷のものが殆ど無い。理由は行ってないからw信濃の城館を廻る人に共通している事だけど、どうしても東信、中信、北信が主戦場と化してしまい今まで訪ねる機会が殆ど無かったんす。

松本平の城館を90%位片付けた(残りは登城困難城が2件、面倒なのが3件…各地区誌掲載の所在不明物件が12件程…)今夏、新たなターゲットに選んだのが伊奈平、全然知らない土地柄なんで凄く新鮮に感じた。地域、地方によって気候、地形、風土も大きく異なるのが広大な長野県の魅力の一つ。城館の成立もそれに準じていて面白い。佐久平の城館との類似性を強く感じるのは地形の成り立ちが影響しているんだろうか。

上穂城(大手城・西城)は赤須城の西北西約3.1km、鼠川北岸(左岸)、標高約704mの段丘台地緩斜面上平場に立地する居館城です。一応段丘崖縁に築かれてはいるが比高自体は無いに等しい。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地に建つ日蓮宗の寺院、大法寺の駐車場に捨てられる。大法寺とその西側の一帯が概ねの城域の中心地である。ちなみに信濃の城館廻りで日蓮宗の寺院にぶつかる事は今までで殆ど経験が無い。

築城年代は不明、築城者は上穂氏です。上穂氏の出自は既に近世の頃には不明となっていたんだそう。甲斐源氏に滅ぼされた菅冠者の後裔。菅姓だったとする説と片桐氏支流説があるが答えを見出せない。後者であるならば源姓である。

アプリの登録城である赤須城で名の知れた?赤須氏は史料も比較的に探し出せるんだけど、上穂氏の史料は殆ど皆無に近い。事跡を探ってみると、応永七年(西暦1400年)、信濃守護に補任された小笠原長秀とこれに抗する信濃国人衆、大文字一揆衆が争った「大塔合戦」の際には守護方として参陣した上穂伊豆守がある。伊那郡には幕府から守護家に還付された春近領(「春近」は郷名ではなく、概ねで国衙領、公領の総称とされる。優良田が選ばれたとされ、伊那郡のみならず信濃国、信濃国以外の各地に点在する。春近領の実態を荘園なのか国衙領なのかを判断する事は信濃国の荘園史上における難問題とされる。ちなみに現在は伊那市に東春近、西春近が地名として残っている。)が存在し、地縁的繋がりもあって伊那衆はその中核の一つを成していた。

武田氏時代には伊那郡赤須、上穂両郷は南山の境界について争論、上穂郷の地下人がこれを訴え、飯島大和守為頼、大島(片桐)兵庫頭為定が仲介して両郷を和せしめている。即ち、永禄三年(西暦1560年)十二月十二日、赤須孫三郎昌為、上穂右京亮貞親宛、飯島為頼、大島為定連署契状案には、「南山境之儀、先年片桐、飯島如御扱、聊相違有間敷、為其只今一筆進之者也」とある。本書状は争論を裁定した前書状に続くもので、両名は重ねて両者にその確認を促している。武田氏時代において、赤須、飯島、大島、上穂の各氏は同列に並べられる事が一般的だが、少なくとも裁定の判断を求められる仲介者以上の役割を飯島、大島の両氏が担っている。伊那郡代の単なる取次役ではなく郡代から一定の権限(代官等)を認められていたて事なんだろうか。

お城の現況は…耕作地、一般住宅地、寺院等となっている。城域が不明だが、北辺を流れる小河川は「陣川」、残された小字、「城」、「城の東」、「城ノ西」、「大手」、「馬場」、「松葉(的場が転じたもの。)」からすればそれなりに広範囲ではある。更に周辺には城下の町割りを想起させる多数の小字、「大手畑」、「城畑」、「前田」、「門田」、「仁蔵屋敷」、「古屋敷」、「屋敷添」、「古市場」、「北古市場」、「垣外」、「半垣外」、「上式部垣外」、「北式部垣外」、「八代垣外」が残っていた(「駒ヶ根市誌」)りもする。又、縄張自体は三重の堀で囲われていたそうだが今となっては…果たして現在の水路にそれを求めてよいものなんだろうか。何れにせよ改変著しく旧態を想像する事は難しい。遺構としては土塁の残欠が残るのみである。

個人的未開の地、周辺の城館廻りが楽し過ぎて2日間で17件を廻りまくる。写真は暗いものも多くなってしまったので後日に再訪しよかなとも思っている。新たな地域の歴史を学ぶのも凄く新鮮、城廻りの目標を定めたおいらの楽しみは尽きないぜ〜

※新しい市道が南北に城域を貫通してしまい縄張図との相違に混乱する。

※写真①は「城」の小字が残る蕎麦畑っす。

※写真⑤は「城の東」の小字が残る場所っす。

2022年12月18日 信濃守おかてつ
赤須城

地元、赤穂公民館主催のお城探訪に参加。藪の中、各曲輪を探索し土塁の位置などから城域の西方への拡大を学びました。赤須氏、すごいです。

2022年06月08日 ほりーないと
赤須城



同じ写真?! 違う場所(堀)で撮影した筈なのに同じ写真に見えてしまう赤須城。
伊那谷の河岸段丘上の城です。城域は東西500m、南北300mと広大で、曲輪の真ん中に道路が通っています。道路のすぐ横には遺構がしっかり残っています。
駐車場から少し歩くと、河岸段丘上台地を分ける4本の堀を見る事ができます。もう少し歩くか、藪の中へ突入すれば、もう何本かあるようです。これだけの堀が良好に残る城は伊那谷にはあまりないので、貴重だと思います。

同じような堀がいくつもあるのが伊那谷の城の特徴ですので、撮影した堀の写真も同じように見えてしまいます。その特徴を写真で伝えるには…と考え、撮影場所がすべて違う堀の写真を投稿させていただきます。(同じ堀の北側と南側の写真を含む)

曲輪の真ん中に道路が通っているから何もないと思わないで、遺構をぜひ見て下さい♪

2022年05月08日 かげちゃん参號
赤須城



【宝積山光前寺】
駒ヶ根市にある天台宗のお寺です。以前口コミ投稿したマルス信州蒸留所と大田切川を挟んで反対側にあります。武田氏等の保護を受けていました。境内には、真田信繁さんと大坂夏の陣で一緒に戦って戦死した伊那谷出身の兵士達のお墓や磐田で命を賭して狒々退治した霊犬【早太郎】のお墓があります。

2022年05月04日 かげちゃん参號
赤須城

【マルス信州蒸留所】
木曽駒ヶ岳の麓にあるウイスキー蒸留所で鹿児島県の本坊酒造が運営している蒸留所です。蒸留所内の見学やBARみたいな所での試飲が出来るみたいです。直営店も併設されており、蒸留所で作られたウイスキーやオリジナルのグラスとかのグッズ等が売っていました。ウイスキーは呑まないって言うメグラーさん、クラフトビールも売っていましたよ。あ、未成年のメグラーさん達は、20歳になるまで我慢して下さいw当たり前だけど、車やバイクを運転するメグラーさん達は、試飲しないでね。自転車もそうだけど。

2021年07月03日 くっしー民部大輔尚人
赤須城



アスファルトの道に分断されていますが、舌状の台地に曲輪と堀切を確認できました。

駐車場、トイレもあるのでリア攻めしやすいですね。

かなり簡易な図ですが、縄張図が看板に描かれているのが嬉しいですね。

2021年07月03日 弾正尹 山城守pi_pua
赤須城

2021年7月2日攻略。自動車でアクセス出来ます。駐車場有り。台上城郭だが、飯田線方面からだと高低差はほぼ無し。城跡から天竜川方面へはいっきに落ち込んでいます。台地と遺構との境には空掘りが確認出来ます。巨大な毛虫が多数いました。苦手な人は季節を考えて攻略して下さい。

2021年04月12日 しげしげ主税頭信繁
赤須城

思ってた以上に広そうです、5.6台程の駐車スペースがありました。

2012年02月23日 赤いRVR甲斐守@松本
赤須城

城跡の広い範囲がマレットゴルフ場になっているが、土塁などの残りは良い。西側にちょっとした駐車場がある。

赤須城の周辺スポット情報

 虎口(遺構・復元物)

 上穂城(周辺城郭)

 塩田城(城ノ山)(周辺城郭)

 青木城(周辺城郭)

 大久保の物見ヤ城(周辺城郭)

 箱畳の秋葉様砦(周辺城郭)

 大久保城(周辺城郭)

 善福寺館(周辺城郭)

 城村城(周辺城郭)

 城村古城(周辺城郭)

 高田城(周辺城郭)

 稲村古城(周辺城郭)

 稲村城(周辺城郭)

 高見古城(古ル城)(周辺城郭)

 菅沼城(周辺城郭)

 高見城D(周辺城郭)

 高見城B(周辺城郭)

 高見城A(周辺城郭)

 高見城C(周辺城郭)

 中村城(周辺城郭)

 中曽倉の城山(高畑山)(周辺城郭)

 吉瀬の城山(ノロシ台)(周辺城郭)

 大田切城(周辺城郭)

 塩木城(古城)(周辺城郭)

 大城(周辺城郭)

 南割の古城(周辺城郭)

 南割の城屋敷(周辺城郭)

 射殿城(周辺城郭)

 北割の古城(周辺城郭)

 原城(原の元城)(周辺城郭)

 曽倉城(周辺城郭)

 大北城(周辺城郭)

 荒城(新城)(周辺城郭)

 京宗寺跡(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 火山峠芭蕉の松(その他)

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