北割の古城
北割の古城([赤須城 周辺城郭])
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北割の古城の口コミ情報
2023年12月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
北割の古城は赤須城の西方約6.9km、鼠川北岸(左岸)、標高約1106mの山稜山頂部に立地する要害です。南麓の鼠川からの比高は70m位でしょか。該地の山稜は西南西、標高2864.0mの空木岳、その前衛山塊を構成する一つでもある。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、そのままでは行けないので、手前の「古城公園 あかつきの塔」で車を捨てよう。後は空木岳登山口へ通じる池山林道を進むだけなのだが、林道はゲートによって一般車両の通行が出来なくなっている。リア攻めマップで位置を確認し、城域直下に辿り着いたら適当直登すればOK♪登る比高は30m位になる筈だ。ちなみに「あかつきの塔」は未来を約束する恋人同士が愛を語らう場所でもあるので野暮な事は控えるように。この世の無情を呪ってフェンスに掛けられた愛の南京錠を鉄線鋏とか使って破壊しないで下さいまし。
築城年代は不明、築城者は上穂氏です。上穂氏については同じ赤須城のリア攻めマップにある上穂城を参照して下さい。寛文年間(西暦1661年〜1673年)に上穂村で作成された「上穂方口聞書(中割小林文書)」には、「上穂殿先年は此方の勘兵衛地内の古城(大北城)と申す所に御座なられ候て、其の御時代に今度問答の山口に取手(砦)を御普請なられ、古城(北割の古城)と申し候、其の後又今梛澤の南に取手(砦)を御普請なられ新城(荒城)と申し候、その後大手の城(上穂城)へ御移りなられ候と申し傳へ候…」とあり、口碑ながらも上穂氏の築いた最初の要害である事が判る。
お城は急峻な山稜山頂部を活用した縄張、信濃のお城の神は立地から逃げ込み城と推測しているが、同じ赤須城のリア攻めマップにある荒城とは大きく違い謂わゆる山城然とした造りである。主郭のぽこりんに萌える他、竪堀、更には虎口なのかは知らんけど桝形なんかが辛うじて原型を留めている。又、城域北東端部には堀形も確認出来るが、この堀形はどうやら堀切ではなく単なる郭間を隔てる窪地形のようだ。城域直下西縁を取り巻く道形がこの堀形に端を発してもいる。時代不明なるも古い道筋の乗り越しなのかもしれない。
西南西、空木岳とその西北、東川岳山頂部が形成する鞍部上、標高約2495m地点には山小屋、「木曽殿山荘」が建つ。この鞍部は「木曽殿越」と呼ばれる乗り越しで、名称のとおり木曽義仲が伊那攻めの際に通ったて伝承が残る場所だ。伝承てよりは伝説に近い話だが、常識的に軍勢の通過は不可能であっても古来から木曽山脈を東西に無理矢理越える山道が存在したて事は十分に考えられる。もし中世にも同様の道筋が存在したと仮定するならば、木曽谷と伊那平中部を最短距離で結んだ該地周辺がその伊那口に当たる筈だ。俄かに信じ難い推測だが荒唐無稽とも言い切れまい。当時既に人の往来があったからこそ伝承が生まれたのであろう。
※本人は知ったかぶりして「空木岳」を語るが当然登った事は無い。大体にして「からきだけ」と読むもんだと思ってた。正解は「うつぎだけ」、木曽山脈の名峰にして日本百名山の一つでもある。弁解するけど、同山脈の木曽前岳と木曽駒ヶ岳には昔、先輩に付き合わされて登った経験がある。おいらの登山嫌いは素人にも容赦しない(高山におけるパワーハラスメント、やったらあかん。)今は亡きこの方が原因…ちなみに飲み会で前後不覚になりながらも常に次の酒場を求め続けるこの先輩を何度生垣や水路等に突き飛ばして逃げた事か…
※該地北東側下段、Googleマップに位置登録されている「古城公園」は城域に含まれないので注意っす。
※写真⑦が「古城公園 あかつきの塔」、夜景は微妙らしいが展望に優れる映えスポットである。
※写真⑧はその展望、城域からは山深過ぎて何も見えねぃ…