上穂城
上穂城([赤須城 周辺城郭])
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上穂城の口コミ情報
2023年12月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、おいらの口コミには伊那谷のものが殆ど無い。理由は行ってないからw信濃の城館を廻る人に共通している事だけど、どうしても東信、中信、北信が主戦場と化してしまい今まで訪ねる機会が殆ど無かったんす。
松本平の城館を90%位片付けた(残りは登城困難城が2件、面倒なのが3件…各地区誌掲載の所在不明物件が12件程…)今夏、新たなターゲットに選んだのが伊奈平、全然知らない土地柄なんで凄く新鮮に感じた。地域、地方によって気候、地形、風土も大きく異なるのが広大な長野県の魅力の一つ。城館の成立もそれに準じていて面白い。佐久平の城館との類似性を強く感じるのは地形の成り立ちが影響しているんだろうか。
上穂城(大手城・西城)は赤須城の西北西約3.1km、鼠川北岸(左岸)、標高約704mの段丘台地緩斜面上平場に立地する居館城です。一応段丘崖縁に築かれてはいるが比高自体は無いに等しい。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地に建つ日蓮宗の寺院、大法寺の駐車場に捨てられる。大法寺とその西側の一帯が概ねの城域の中心地である。ちなみに信濃の城館廻りで日蓮宗の寺院にぶつかる事は今までで殆ど経験が無い。
築城年代は不明、築城者は上穂氏です。上穂氏の出自は既に近世の頃には不明となっていたんだそう。甲斐源氏に滅ぼされた菅冠者の後裔。菅姓だったとする説と片桐氏支流説があるが答えを見出せない。後者であるならば源姓である。
アプリの登録城である赤須城で名の知れた?赤須氏は史料も比較的に探し出せるんだけど、上穂氏の史料は殆ど皆無に近い。事跡を探ってみると、応永七年(西暦1400年)、信濃守護に補任された小笠原長秀とこれに抗する信濃国人衆、大文字一揆衆が争った「大塔合戦」の際には守護方として参陣した上穂伊豆守がある。伊那郡には幕府から守護家に還付された春近領(「春近」は郷名ではなく、概ねで国衙領、公領の総称とされる。優良田が選ばれたとされ、伊那郡のみならず信濃国、信濃国以外の各地に点在する。春近領の実態を荘園なのか国衙領なのかを判断する事は信濃国の荘園史上における難問題とされる。ちなみに現在は伊那市に東春近、西春近が地名として残っている。)が存在し、地縁的繋がりもあって伊那衆はその中核の一つを成していた。
武田氏時代には伊那郡赤須、上穂両郷は南山の境界について争論、上穂郷の地下人がこれを訴え、飯島大和守為頼、大島(片桐)兵庫頭為定が仲介して両郷を和せしめている。即ち、永禄三年(西暦1560年)十二月十二日、赤須孫三郎昌為、上穂右京亮貞親宛、飯島為頼、大島為定連署契状案には、「南山境之儀、先年片桐、飯島如御扱、聊相違有間敷、為其只今一筆進之者也」とある。本書状は争論を裁定した前書状に続くもので、両名は重ねて両者にその確認を促している。武田氏時代において、赤須、飯島、大島、上穂の各氏は同列に並べられる事が一般的だが、少なくとも裁定の判断を求められる仲介者以上の役割を飯島、大島の両氏が担っている。伊那郡代の単なる取次役ではなく郡代から一定の権限(代官等)を認められていたて事なんだろうか。
お城の現況は…耕作地、一般住宅地、寺院等となっている。城域が不明だが、北辺を流れる小河川は「陣川」、残された小字、「城」、「城の東」、「城ノ西」、「大手」、「馬場」、「松葉(的場が転じたもの。)」からすればそれなりに広範囲ではある。更に周辺には城下の町割りを想起させる多数の小字、「大手畑」、「城畑」、「前田」、「門田」、「仁蔵屋敷」、「古屋敷」、「屋敷添」、「古市場」、「北古市場」、「垣外」、「半垣外」、「上式部垣外」、「北式部垣外」、「八代垣外」が残っていた(「駒ヶ根市誌」)りもする。又、縄張自体は三重の堀で囲われていたそうだが今となっては…果たして現在の水路にそれを求めてよいものなんだろうか。何れにせよ改変著しく旧態を想像する事は難しい。遺構としては土塁の残欠が残るのみである。
個人的未開の地、周辺の城館廻りが楽し過ぎて2日間で17件を廻りまくる。写真は暗いものも多くなってしまったので後日に再訪しよかなとも思っている。新たな地域の歴史を学ぶのも凄く新鮮、城廻りの目標を定めたおいらの楽しみは尽きないぜ〜
※新しい市道が南北に城域を貫通してしまい縄張図との相違に混乱する。
※写真①は「城」の小字が残る蕎麦畑っす。
※写真⑤は「城の東」の小字が残る場所っす。