大北城

大北城([赤須城  周辺城郭])

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大北城の口コミ情報

2023年12月24日 内記かずりヾ(・ε・。)


大北城は赤須城の西方約3.1km、鼠川南岸(右岸)、標高約700mの段丘台地上平場に立地する居館城です。鼠川に南面する微高地の一角が該地、城域南側からの比高は無いに等しい。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…近くまで来たら鼠川沿いの目立つ雑木林を探すのがよいと思う。車はそこら辺の農道に捨てられる。

築城年代は不明、築城者は上穂氏です。上穂氏については同じ赤須城のリア攻めマップにある上穂城を参照して下さい。

寛文年間(西暦1661年〜1673年)に上穂村で作成された「上穂方口聞書(中割小林文書)」には、「上穂殿先年は此方の勘兵衛地内の古城と申す所に御座なられ候て、…」とあり、ここで言う「勘兵衛地内の古城」が地名から大北城に比定され、時代的な推移は不明なるも上穂氏が上穂城に移る以前の居館城だったと推測されている。

大北城の位置は赤穂扇状地の扇央部を南北に横断する現在の駒ヶ根市道上穂本線が鼠川を渡る場所であり、上穂本線は律令制下で設けられた東山道の駅路に推定される道でもある。近世に入ると上穂には中山道の脇往還である伊那往還が通るが、中世においても同様の経路が主要な道筋であった事は疑いが無い。又、自然流水に頼る往時の農業用水は河川から引水するのが一般的だが、交通、水利の双方を押さえる占地は開発領主としての上穂氏の存在を裏付けている。

お城の現況は…実は何の期待もしていなかったが往時の居館城の雰囲気を実によく伝えている。後世の改変や鼠川による侵食もあるとはいえ、微高地、単郭の縄張には見事な土塁が北辺を除いて残っている。連続する微高地上は西辺で掘り割られ城域の西端部を形成、この堀形はかつて城域周囲を取り巻いていたのかもしれない。又、居館城としては少し手狭に感じるのも事実、東側に建つ長福寺(無住)にかけての一帯も城域に含んだ方が自然だと思う。

該地は私有地なので所有者に断りを入れた方が無難、おいらは民家を避けてだだっ広い水田中の畦道を辿ったが、作業中の家人に特に咎め立てもされなかったのでそのまま城域へ…むしろ訪問目的を告げるために咎め立てされたかったのに。逆に帰り際にはこの方から「御苦労様です。」と声を掛けられる始末…道楽なのに何だかちょっぴり恥ずかしいや…

慶長十九年(西暦1614年)、「大坂冬の陣」、慶長二十年(西暦1615年)、「大坂夏の陣」に参陣し真田信繁に付けられた牢人衆の中に次の上穂の人がある。荒井圓書之助、春日昌義、木下大隅、北原春之助、北村政明、小林義国、駒ヶ岳大弐坊、塩木九四郎、田中員近、湯原三四郎、横山五郎の十一人がそれで、後には「上穂十一騎」と呼ばれる事になる。上記名は悉く討死、駒ヶ根市赤穂の天台宗の寺院、光前寺(大変素晴らしいお寺さん、大寺でもある。)には十一人を祀る祠が建つ。上穂十一騎は千村氏家臣だったと伝わるが、各家の二男、三男以下で構成される一団だったらしく、特に豊臣家に何の恩義も無い事から冒険と立身出世を求めての参陣(殆どの牢人衆も同様だ。豊臣家への忠義なんてある訳が無い。)だったろう。

…実は現在の大北城の所有者と同姓の者が上穂十一騎の中にある。確証は得られないが所有者はそういう家系の人なのかもしれない。こうした繋がりを現地で確認出来たりするのが地方史の醍醐味、フィールドワークは必須、足で稼ごう。

※これ書くまで「上穂」は「かみほ」と読むもんだと思ってたけど、正解は「うわぶ」だった…

※結構感動する城跡だったけど写真は文中の理由により少なめ。

※写真①は要るのか知らんけど南西、農道から撮影した近景っす。

※写真⑥は城域北辺を洗う鼠川っす。上穂氏は同川流域を中心に発展した氏族である。

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