高田城

高田城([赤須城  周辺城郭])

赤須城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「高田城」の地図・口コミがご覧頂けます。

「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。

高田城の口コミ情報

2025年10月29日 内記かすりヾ(・ε・。)


高田城は赤須城の北北東約2.9km、塩田川南岸(左岸)、天竜川東岸(左岸)、標高約603mの河岸段丘台地西縁上平場を中心に立地する居館城です。西麓の天竜川からの比高は30m位でしょか。但し、謂わゆる崖端城でもあるため連続する台地上からの比高はむしろマイナスである。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車も城域内に捨てられる。

該地の駒ヶ根市東伊那栗林高田は、時代的な変遷も考慮する必要があるが、中世の伊那郡中澤郷を構成する一村であり、栗林と高田は同一村との認識があったようだ。直接の史料は無いが、「守矢満實書留」、文明七年(西暦1475年)の条には、「十一月廿二日、祝達御精進始例式、有賀精進始、宮付、中澤高田信景…後略、」とあり、中澤郷の高田信景が、諏訪社上社の神使御頭等の精進始に宮付として勤仕している。又、「神使御頭之日記」、天文十一年(西暦1540年)壬寅の条には、「宮付 中澤高田 寄子ハ栗林殿、高明寺殿、佐越殿、御符礼何も同前、御か々み一膳、寄子は一貫つ々、」とあり、高田は中澤郷の内であるとの認識がある。

築城年代は不明、築城者は高田氏と伝わっている。同氏の出自は不明だが、やはり中沢郷に拠った中沢氏の一族と見るべきではないだろうか。該地に建つ城跡碑の由緒には、「アイヌノ住セシ此地ニ出雲ヨリ来リ祖先代々居城ス…後略、」とあるが、神話の世界の様な話であり、無視して差し支えないと思う。

高田氏は、「守矢満實書留」、長享二年(西暦1488年)戌申神使御頭足の条から、「甲斐⬜︎⬜︎尉」があったとされるが文自体にも欠損が多くはっきりしない。その後は武田氏の伊那郡経略によって滅亡したと伝わるが、天正十年(西暦1582年)七月六日、徳川家康に差し出された飯島傑叟等連署起請文には、中脇(澤)衆として、高田甚蔵、高田興一郎の名が、中澤衆大草休斎同家中として、高田興六郎の名が見える事から、残された一族等は武田氏時代には春近衆等として存続していたとも考えられる。ちなみに中澤衆の内には、栗林四左右門、栗林善左右門の名が見られるが高田氏と同族の者であろうか。

縄張は三方を崖地とした不定形の単郭方形、連続する台地上を堀切で断ち切っている。堀切は舗装道路に変貌しているが、城郭遺構として明瞭な土塁が部分で確認出来る。土塁の延長線上に見られる二段の土壇は櫓台等の名残りであろうか。現況は、畑地、果樹園、空地等となっているが、土壇(社跡かもしれない。)の上には前述したとおり立派な城跡碑が建っている。

永享四年(西暦1432年)十一月、香坂宗たね宛、中澤右衛門尉證状には、「小笠原殿(政康)國もちをおうりやう(押領)被成候、今度郷(中澤郷)の者、七つ八つ一揆の組をたて申候、下条殿もくみに被成候、如件、」とあり、中澤右衛門尉は、香坂宗たねに、中澤郷内において、小笠原政康の押領に抗し七つ、八つの一揆の組が立った事を報せ、併せて下条殿も組を立てたと言い、宗たねに一揆への同心を暗に求めている。右衛門尉の目論見は、室町幕府から伊那郡等春近領を還付された事を背景に、同郡の在地根本勢力の所領への押領を働く守護家への、より大規模な一揆の形成を図ろうとするものだが、本書状には、近世以降には殆ど見られなくなる、相伝された一所懸命の下地を守り抜こうとする武士本来の持つ意地と逞しさが垣間見れる。高田氏もそうした「七つ八つ一揆の組」を立てた一氏なのであろうか。

※香坂宗たね〜後醍醐天皇の皇子、宗良親王を約三十年間に亘って庇護し続けた南朝の忠臣、香坂高宗の子、もしくは孫であろうか。香坂氏は、アプリの登録城、大河原城の城主でもあった。

※写真①は西麓の段丘崖下から撮影した近景っす。

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore