武田勝頼首検分の処
武田勝頼首検分の処([駒場城 碑・説明板])
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武田勝頼首検分の処の口コミ情報
2023年07月07日 ほりーないと
天正10年(1582年)3月13日、織田信長は岩村城から根羽に進み、14日には浪合に陣取り、そこで武田勝頼父子の首を実検したといいます。そして、15日、信長は飯田に進軍し、勝頼父子の首をさらしたのです。(飯田市歴史研究所編集「飯田・上飯田の歴史」より)
"武田勝頼首検分の処"は、信濃と三河を結ぶ伊那街道(中馬街道)、極楽峠を越え下条村への道、和知野川に沿って和合を経由して天竜川筋へ出る道が集まる交通の要衝にあります。すぐ近くには江戸時代に"波合関所"を守った浪合村名主の左源太の屋敷があります。左源太と代々名乗り、中馬(江戸時代の物流業)の利権争いでは信濃の代表と記されています。左源太は武田信玄に仕えた波合胤成(原胤成)の子孫になります。胤成は川中島の戦いで軍功を立てました。長篠の戦いで討死にしました。屋敷には現在もご子孫がお住まいになっています。
浪合村は2006年に阿智村へ編入合併されました。阿智村には武田信玄の終焉の地とされる"駒場"があります。長篠の戦いでは、春日虎綱(高坂弾正)は敗報を聞くと駒場において武田勝頼を出迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮し、五箇条の献策を行ったとする逸話があります。阿智村にはこの続きの伝承があります。虎綱は密かに自分の子を阿智村五和に住まわせて信玄の御霊をお守りしたそうです。そのご子孫の現在のお名前は"高坂"さんです。他にも「甲斐から移り住んだ」「川中島で戦った」と伝え聞いてる方々がいるそうです。
石碑があるという事は、そこには色んな歴史があります。伝承も含めて大切にしたいと思いました。