ヤダカ
ヤダカ([妻籠城 周辺城郭])
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ヤダカの口コミ情報
2023年10月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、北条武州相州連合とチバラキ北関東連合の合戦中でもあるので金箔よりも薄〜くこれに関連するよな物件を紹介したいと思う。但し、合戦とは直接何の関係も無いし佐竹の真壁しか登場しない木曽谷の話っす。…ジモティの大掾さんが結成した名門チームの血を受け継ぐ「鬼真壁」は何処よりも気合い入ってる喧嘩上等、走りは二の次の集団なんで夜露死苦、地元はチームだらけで人数少ないけど「鬼義重」の傘下に入ってからは水を得たように暴れまくってる。だけどなぁ、譲れないもんもしっかり持ってるのさ。筋違いがあれば佐竹総長にも臆せず楯突くぜ。とりま茨城・栃木県道41号、つくば益子線でかち合ったら道は譲っとけ。
…ヤダカは妻籠城の北東約2.9km、木曽川東岸(左岸)、標高約447mの河岸台地斜面上平場を中心に立地したとの伝承が残る居館です。該地は後の中山道の宿駅、三留野宿の本陣至近でもある。名称の「ヤダカ」は小字だが、「長野県町村誌」では「ヤカタ」が誤り伝えられたものとしている。館域は特定されておらず信濃のお城の神はごく狭い範囲に4箇所の比定地を挙げている。
三留野宿の「三留野」は「みどの」と読ませる。東京でも白金台、成城、田園調布に比肩するハイパーセレブリティしか住む事を許されない超高級住宅地、あきる野(秋留野、阿伎留野)市出身のおいらは躊躇せず「みるの」と読んだけど全然ちゃうわ…地名て難しいですね。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。スポット登録は縄張図における比定地①を選んでます。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。木曽氏の一族、三留野左京亮家範の居館地と推測されているが、比定地③に残る鹿島社(今は見付からない。)の存在から、それ以前の小木曾荘地頭職、真壁氏の居館地とする説がある。三留野には鹿島社が3社、香取社が1社鎮座していたようで、長野県でこれ等、チバラ…いや、茨城色に塗れた社に出会う場所は他ではまず無い。ちなみに視界を妨げるだけのロケットカウルに日章旗タンク、2人しか座れないのに三段シート、6連ホーンに直管、竹槍マフラーのイカれた二輪、もしくは車の寿命を縮めるだけのベタベタのサスカット、空気抵抗完全無視したパテ埋め失敗自作エアロパーツ完備、直管、竹槍サイドマフラーでキメた四輪等は此処では走っていないので安心してつかぁさい。乗ってる方も樫木棒とか持って凶器準備、ハコ乗りしていないです。
…小木曾荘は荘域がはっきりしないが、「永野、水野、吉野」の三保で構成されていたと考えられており、この内の「水野」が現在の三留野に比定されている。一説には「御殿」が「三留野」に転じたともされており、荘域の中心地であったとされる根拠の一つともなっている。
詳細は省くが、小木曾真壁氏は遠山荘の地頭職であった加藤景廉の娘が常陸国真壁荘の地頭職、真壁友幹の継室となり、その所生の子、薬王丸が小木曾荘に入ったのがその始まりとされる。更に詳細を省くが、最新の研究では庶流である小木曾真壁氏の政幹とその孫広幹が足利尊氏に従って東国に下向し、宗家である常陸真壁氏の地位を簒奪したと考えられている。観応三年(西暦1352年)、小木曾荘に真壁光幹があった事は間違い無いが、この光幹こそが本来の常陸真壁氏宗家の者であり、常陸国真壁荘の一部と美濃国小木曾荘の一部とを相博(交換っす。)する形で木曽谷に幽閉されていたとも推測されている。つまりはアプリ登録武将の真壁氏幹は本来が小木曾真壁氏を出自とする庶流の者であり、南北朝時代において同氏の系図に混乱が見受けられるのもこれが理由だと考えられている。
…佐竹総長は全国制覇の野望を持っていなかったんだけど、仲良しの石田先輩と組んじまったから所帯もすっかり小さくなっちまった。結局総長、秋田で会社立ち上げる事になって引っ越すんだけど、当然俺も付いて行ったよ…美人はみんな連れてっちまったなんて噂もあるな。でも総長律儀なんで秋田で大成功、その証拠に400年後の今でも秋田の頭張ってる。そういえばCMなんかにも出てたな…セリフは雑だったけど。俺も山深い木曽谷を出て真っ平らな茨城で青春を送り雪深い秋田で落ち着いた。感慨深いもんがあるぜ。後悔?後悔なんかしていない。みんな県道で死んじまったけど俺はちゃんと生き延びる事が出来たからな。今は霞流棒術て言う小さな道場を開いてる。鹿島、香取の御加護てやつさ。
しかし怒られるでほんまに…
※写真①の石垣は往時のものではない。この上に建っていた公民館(今は更地っす。)のもの。
※写真③の民家の庭先に鹿島社が鎮座していたとされる。段上からは見付ける事が出来なかった。