与川古典庵館(与川城・丸山)

与川古典庵館(与川城・丸山)([妻籠城  周辺城郭])

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与川古典庵館(与川城・丸山)の口コミ情報

2023年10月20日 内記かずりヾ(・ε・。)


与川古典庵館(与川城・丸山)は妻籠城の北東約7.0km、与川北岸(右岸)、坂本平の台地上、標高約645mの丘陵頂部に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「古典庵跡」を目標に設定して下さい。この古典庵の旧跡が「丸山」とも呼ばれる該地であり、木曽八景と称する其一でもある。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは与川俊範とされる。「長野県町村誌」には「古天庵」として以下の記述がある。即ち、「字与川にあり。昔は木曽家方の四子、右馬之助家益野路里に住す。其支裔与川に住し小川野某と云、老後此庵を建て、僧をして此に居らしむ。中世廃絶し、方今柴野にして、僧の墓碑竝に銀杏木一本あるのみ。」とある。又、碑文によると、「戦国時代の半ばに小川野氏によって開基された。小川野氏の祖、次郎左衛門は木曽氏の支流三留野家範に仕え、その縁から三留野氏の系累の俊範を迎えて住僧とした。…」とある。

但し、ただの僧侶ではない。アプリの登録城、妻籠城の城郭基本情報には天正十二年(西暦1584年)九月に繰り広げられた「妻籠城の戦い」の記述(原本は「木曽考」である。)があるが、あえて一部を抜粋してみる。

「…そこで竹中小左衛門という者が妻籠城を夜に紛れて抜け出し、搦手である木曽川に降りて、牛ヶ渕を渡って対岸の島田へ渡り、河原を歩いて味方が居る三留野へ辿り着き、そこに居た30人ばかりの髪に玉薬を結び付けさせて木曽川を渡らせて妻籠城へ帰還した。

この時に与川村にあった古典庵の僧が、与川の郷民に紙旗を数十本持たせ、三留野の原久左衛門(神官園原氏の祖)と共に柴山の峰に登り、紙旗を上げて狼煙を上げ、夜は篝火を焚いた。

徳川方は、孤立していた妻籠城は、そろそろ兵糧も武器も尽きたものと思っていたが、三留野から運ばれた弾丸で撃たれたので、秀吉方の美濃金山城主の森忠政が大軍を率いて救援に来たため、渡島や山口の者達が寝返ったと勘違いをした。

また夜の篝火を見て木曽福島からも援軍が来て四方を囲まれたと思い、妻籠城の囲みを解いて逃げ出した。…」

…つまりは戦も出来るバトル坊主だったんす。大軍を前に臆する事無く僅かな郷民を率いて籠城方に合力する…木曽の地侍の意地を見たような気がする。三留野の衆や与川の郷民は籠城を支えた影の立役者だった訳だ。

居館の現況は丘陵頂部の削平地を活用した油揚げみたいな形の公園?となっている。展望は与川の秋月、木曽八景の一つでもあり絶佳である。古典庵の旧跡として石碑が建ち案内板も立っているが、元々庵の旧地はグラウンドを挟んだ北側の山際にあったんだそう。従ってこの「丸山」は要害地を占地した館城の類いだったんだろうか。又、グラウンドの位置には幅の広い堀形が残っていたそうだが、大きく掘り下げられて今は旧態を見ない。

江戸時代の与川村は享保九年(西暦1724年)の検地によると、田畑二十八町二畝六歩、年貢高は僅かに四十石一斗六升一合でしかない。耕作面積の少ない木曽の各村に石高を基準とした経済基盤を求める事はそもそもが誤りではあるが、少なくとも村落としての規模が信濃の他地域と比べても遥かに劣る。「古典庵の僧」が率いた与川の郷民の人数も推して量れるだろう。

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