木曽氏大やしろ館(木曽家教館)
木曽氏大やしろ館(木曽家教館)([妻籠城 周辺城郭])
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木曽氏大やしろ館(木曽家教館)の口コミ情報
2023年11月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
木曽氏大やしろ館(木曽家教館)は妻籠城の北東約13.3km、木曽川東岸(左岸)、標高約580mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。後背、中山の2つの山頂ピークには同じ妻籠城のリア攻めマップにある大屋城が立地する。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「大桑村立大桑中学校」を目標に設定して下さい。車は手前の大桑村役場に捨てるのがよいでしょう。館域がはっきりしないが居館跡と伝わるのはこの中学校南側上段、一般住宅地とその周辺である。又、中学校の位置は「馬場平」、場所の特定は出来なかったが、他にも、「馬下し」、「鍛冶屋場」、「倉屋敷」、「馬場」、「的場」等の小字が残っていたんだそう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは木曽氏です。木曽家教館とも呼ばれる訳だが、再考が必要な物件でもある。「西筑摩郡誌」には「木曽家教館址」として、「長野字大社(おおやしろ)に在り 家教は沼田兵庫介と称す 三留野(古名沼田)より移りて此地に館し 正和五年(西暦1316年)弓矢八幡宮を建つ 長子家村対岸の須原(今の殿)に移り 第二子家定以来原氏世々襲ふて茲に居る」とある。
小木曾荘は「永野、水野、吉野」の三保を荘域としているが、該地の長野はこの内の「永野」に比定される。同荘の地頭職は鎌倉幕府の滅亡前後には真壁氏が補任されており、貞和二年(西暦1346年)三月七日付、左兵衞督源朝臣(足利直義)下知状によれば、地頭職、真壁小太郎政幹が建武四年(西暦1337年)以降の年貢を納めていない(押領である。)と領主である高山寺から幕府に訴えられている。
木曽氏は藤原姓を名乗る木曽谷における有力者であった事は間違い無いが、室町時代後期以前の確かな事跡が不明であり、体系的に歴史を語る事が困難である。藤原姓木曽氏がはっきりした形で世に現れるのは、至徳二年(西暦1385年)、黒沢の御嶽神社若宮の棟札で、「大檀那伊与守藤原家信」とあるのが初見、同名は同年、伊谷の水無神社の再建にも関わり、棟札には、「大願主藤原伊与守家信」とある。しかし不思議な事に「家信」の名は各種木曽氏系図には見られない。
一般的に藤原姓木曽氏が南下した事によって同氏が木曽谷の一円支配を完成させたと考えられているが、この間において郡誌や各町村誌の記述は疑問を呈しながらも多くの史実との矛盾を抱えたまま推移していると言わざるを得ない。史料が極端に少なく、宝永三年(西暦1706年)の成立である「木曽考」等に頼らざるを得ないからだ。更に言えば、「木曽考」には小木曾荘地頭職、真壁氏との争いに関する記述が一つも無い。都合が悪いのだろうか。
藤原姓木曽氏が当地への南下に確かな足跡を残すのは、木曽川対岸に鎮座する白山神社に残された正長元年(西暦1428年)四月八日付の棟札が最初であり、「奉中興白山権現御社…当地頭藤原家友」とある(「家友」の名も各種木曽氏系図には見られない。)。少なくとも家教(六代当主)や家村(七代当主)の代において小木曾荘には地頭職真壁氏が健在であり、「西筑摩郡誌」の「木曽家教館(木曽氏大やしろ館)址」の記述は信ずるには当たらない。
居館の現況は…集落の一角と中学校等となっている。前述のとおり館域が不明なので現況から判断するしかないが、改変著しく旧態は見ない。単なる屋敷ではなくある程度の館城であった事は残された小字からも想像出来る。広めに考えれば現在の大桑村役場の周辺一帯も館域に含まれそうだ。推定館跡の西側には鞍部を挟んで八幡神社が鎮座、大桑村に残る地名、「弓矢」の由来でもある。その西方、「振田(旧田)」の地は、常陸真壁氏と美濃真壁氏が常陸国真壁郡山田郷内の在家二宇と相博(交換)した忍阿弥陀仏給分在家一宇であり、美濃国小木曾庄の下保であった。
調べれば調べるだけ沼に嵌る…笑われるかもしれないが、おいらは藤原姓木曽氏の発祥から興隆までの経緯にかなりの大胆な推測(裏付け出来ない定説を無視している。)を考えるまでに至っている。それは…恥ずかしいんで秘密にしとく。
※木曽川対岸に鎮座する白山神社の麓には今も、「殿」、「殿中」、「殿下」の地名が残る。「西筑摩郡誌」の記述を信ずるならば、家村が居館地を移したとされる「対岸の須原(今の殿)」とは現在の木曽郡大桑村須原ではなく、白山神社南方、河岸段丘台地上の「殿」の事を言っているのではないだろうか。又、「須原」を今の「殿」とするのは誤りであるとも思うのだが…
※写真⑧が八幡神社、地元の方は弓矢八幡様と呼ぶ。
※この口コミ書くのに添削含めて4日を要した。阿保なんでしょか。